1975年2月28日金曜日

レヴィ・ストロース 



身の丈にあった世界と、身の程を知った生活を作れるか?・・「熱い社会」と「冷たい社会」(3)
2011-07-11
ホピの予言と文明の危機
“原発後”“脱原発”の世界は、どのようにしたら作れるのだろうか、と思い、「レヴィ・ストロースとの対話」を読んでみました。
1970年に日本語訳が出版された古い本です。続きです。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
引用文の中で、二人の対話は、近代社会に生きる人間の無力感について言及しています。
今のわたしたちの社会は、生きるにはあまりにも大きすぎる、という感覚が、人々に無力を感じさせている。
共同体としての作用は一方通行で、わたしたちは自分たちが何を感じているのかすら分からなくされている。
ちょうど原子エネルギーについて言及していますが、
原子エネルギーなどという巨大すぎるものを、巨大すぎる社会が扱っていることに、わたしたちは感性的についていくことができない。
認識したり、判断することができなくなっている、と語られています。
1960年代、世界中で反体制運動の潮流が始動し始めた頃、“反原発”は反体制側の常識であったと言えると思います。
質問者の「人類愛的なものではなく、経済原理が作用しているのだ」という見解はレヴィ・ストロースの思考に配慮し、左翼的思想が席巻していた当時の常識的な考えを述べたものであると言えると思います。
それでも、なぜ環境破壊がおきるのか、なぜ戦争はなくならないのか、という問いに対して、社会が大きすぎるからだ、という答えは、当時としても斬新だったのではないかと思います。
「未開社会」と「近代社会」の違いとして、その構成の大きさの違いをまず挙げるのは、今でもなるほど、という感じがします。
       *****
           (引用ここから)
問  
すると、「進歩」とはまったく認識の発達の係数なのではありませんか?
したがって、認識によって全面的に決定されているのではありませんか?
知識と認識方法のうちに内的決定論があって、そのために我々はなにもできなくなっているのではありませんか?
レヴィ・ストロース  
まさにそうであるようです。
もし私たちがある“進歩”に対して、賛成か反対かをおおっぴらに表明することを求められたなら、、
そして現在では原子エネルギーの開発とともにこの問題が提起されるのですが、、
多数の人間が、「いやそんなものは持たぬほうがよい、今のままの状態でいるほうがよい。」
と答えることが、少なくとも考えられるからです。
自動車をもつという事実は、私には本質的な利益とは思えません。
他の多くの人々が自動車を持つような社会では、それは欠かすことのできぬ自己防衛ですが、
しかしもし私が選ぶことができるなら、そしてわたしの同時代人も同様にことごとくそれを放棄してくれるなら、
どんなにかほっとして、私は自分の車をお払い箱にすることでしょう。
問   
わたしは人々が習慣的に人類愛的立場と考えているすべての立場のことを考えます。
そんな立場は常に空しく、つねに全く無用なのです。
人間愛が前もって要求していたところの一つの立場を勝ち取ることを可能ならしめるものは、
つねに経済的進歩または技術的進歩なのであって、人類愛的立場はけっしてそれ自身ではそれを勝ち取ることはできないでしょう。
人々が必要とするこれこれの財物を自由に入手することを可能ならしめるものは、
これこれの場所に設けられる“市場”なのです。
しかし“市場”を設置するという条件が実現されぬかぎり、
人々は人権の名においてその財物を要求することは出来ますが、けっしてそれの恩沢に浴することはありますまい。
レヴィ・ストロース  
自分自身を前にした人間のこの種の無力は、きわめて大きな度合いで、現代社会の膨大な人口の多さに起因しているとはお考えになりませんか?
小さな社会、小さな集団が自分たちの条件を熟考し、それを修正するため、
意識的な、考え抜かれた決断をすることは想像がつきます。
わたしたちをとらえているこの無力さは、わたしたちがその中で生き抜いている、とほうもなく巨大な人間の集塊のせいだと思えるのです。
なぜかといえば、私たちはもはや一つの国民的な文明の体制下にさえ留まることなく、次第次第に一つの世界的文明、または亜世界的文明を実現する傾向にありますからね。
そしてこの、文明を制御しがたいものにするものは、この新しい大きさの秩序であり、人間社会の諸次元のなかでの階層の変動なのです。
(芸術の話題になり、芸術の個性といったことをめぐって)
問  
「集団的」と「個人的」という二つの語は、社会学的文脈の中では何を表すのでしょうか?
二つの間には、どんな関係が存在するのでしょうか?
レヴィ・ストロース  
我々にはきわめて明瞭なものと見える「個人的」と「集団的」との区別が、
未開社会の美的生産の条件の中ではわずかしか有効な範囲をもたないのです。
ひとりの個人が肉体的あるいは精神的ななんらかの危機的状況に立ったとき、そしてその状況から脱したいとき、
彼は絵師でもあるところの呪術師に頼み込んで、かならずしも直接に表現的な性格をもつわけではない大きなモティーフによって、自分の家の壁面を飾ってもらいます。
だから呪術師はただ単に癒し手としての神聖な能力の持ち主として知られているだけでなく、絵師として名の通った才能の人なのです。
彼は依頼人の家に、仕事をすべき日の前夜に行きます。
そしてたいへん気前のよい報酬をもらい、依頼人の家の客となって、夢を見るべく一夜を過ごします。
その夜の夢の挿話や詳細をこまごまと、その家の壁面に再現してみせるのです。
一方、そうは言うものの、彼が製作する作品は彼の最も深い個人的な無意識の結果ではなく、きわめて厳格な規範に忠実なのです。
外側からそれを眺めるよそ者のアマチュアにとっては、それらはみな同一作者の手になったもののように見えるでしょう。
しかし、その画が50年古かろうと新しかろうと、あるいはもっと年代に差があろうとも、いずれも大同小異なのです。
そういうわけで、ここでは、一方には芸術的生産の最も個人的な条件と、他方にはもっとも社会学的な、集団的な条件とが、ほとんど解きほぐせないような具合に交じり合っています。
この二つの相は解きほぐせないほど結びついていて、
あたかも、自発的な定型的なやり方で、芸術作品を生み出すために精神の無意識の活動にたよるとき・・
というのはそもそも夢なんですからね・・
その画家たちは実際、「個人的」と「集団的」との区別がなくなってしまうような境地に達するかのようです。
いわゆる未開社会は、美的創造の中の無意識的活動の役割を、より多くの客観性をもって認識しており、
精神のこの暗い生命を驚くべき洞察をもって取り扱っています。
というわけで、これがわれわれの社会と未開社会との第一の相違点なのですよ。
        (引用ここまで)
            *****
上の写真はホピ族の岩絵「ロードプラン」(「ホピ・神との契約」より)です。
上の道を行く、白人的な生活をする者たちは破滅し、
下の道を行く、ホピ族本来の生活態度を貫く者たちは生き残るという、説明的な図です。
この図についてはもう幾度となく取り上げていますが、
このような図は未開社会本来の思考形態から産まれたものとは言えないと、わたしは常々思ってきました。
時間を直線的に表わすことも近代西洋的だし、その時間が左から右に進むのもまるで定規のようで、おかしい。
「未開社会」の歴史観について、同書が述べているところを引用しておきます。
             *****
           (引用ここから)
レヴィ・ストロース   「歴史なき」社会と「歴史的 」社会とを区別してはなりますまい。
実際にはあらゆる人間社会は歴史を持ち、その歴史はそれぞれの種の起源にまでさかのぼるのですから、同じだけ長いわけです。
しかしいわゆる「未開社会」が、歴史の液体に浸っていて、
その水を自分の中に浸透させないようにしているのに反し、
我々の社会は、歴史を自分の発展の原動力とするために、いわば歴史を内部に取り込んでいるのです。
           (引用ここまで)
            *****
レヴィ・ストロースの述べている歴史観の分類から言えば、
ホピ族のこの有名な岩絵「ロードプラン」は“歴史を内部に取り込んでいる”近代社会の思考方法そのものであると言えるでしょう。
すなわち、この説明的な図の解釈は、説明的であるがゆえに、彼ら本来のものではないでしょう。
反文明思想のひとつの目印として、分かりやすい図ではあるけれど、彼ら本来のメッセージではないでしょう。
彼らが本当に言いたかったことは、何なのでしょう。。
それはさておき、私たちは私たちの問いを解かなければならないのだと思います。
現代文明は、持続しないようにできている。。
それならば、持続可能な社会、を創らなければ、世界は持続しないと思われます。
文明の構成員に、持続しよう、生きようという意思があれば、良い選択をし、良い修正をし、
より良い社会をつくることはできるに違いないのだと思います。。
大きすぎない社会、機能するコミュニティ、持続可能なエネルギー、搾取ではなく、与え合うことが原理となる社会。。
社会の構成員の一人ひとりに、社会をいかに築いていくか考える責任があるのだろうと思います。

始まりに向かって
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/c/66252bc943a43a01f1dd8b16c8aed366


青木やよひ著「ホピ族と徴兵拒否の思想」

再掲・・青木やよひ著「ホピ族と徴兵拒否の思想」を読む
2015-08-10 | ホピの予言と文明の危機
長崎の被爆者・永井隆氏の遺言を、たくさんの方に読んでいただいております。
この記事は、その一つ前に投稿したもので、当ブログの骨子をなすものです。
2008年、ブログを書き始めたばかりで、写真もリンクもないものですが、写真とリンクをつけて再掲してみたいと思います。
              ・・・・・
広島に原子力爆弾が投下された日が、めぐってきた。。
若き日のあこがれの、青木やよひさんの「ホピの国」(1975年刊)という本を読み返した。
            *****  
              (引用ここから)
第二次大戦の時期のアメリカで、人口数千人のインディアン・ホピ部族から6人の徴兵拒否者が出て、裁判にかけられた。
ホピ(平和)の掟を守りつづけてきた部族の一員として、たとえどんな状況下にあろうと武器をとって人を殺すことはできないと、6人は主張したのだ。
ここに一通の文書がある。
第二次世界大戦後の1949年、ホピ族が発した公式文書である。
それは「ホピインディアン帝国」から、合衆国大統領あてになっている。
つまり、彼らは戦後になっても、自分たちを合衆国国民とは思っていないらしい。
そしてそこには、戦時下に彼らがなにをもって、徴兵拒否の思想としていたかを、うかがい知ることができる。
「我々は、我々自身のやり方で、みずからの運命を決定しようと欲している。
我々は、我らの弓と矢を、だれにも向けようとは思わない。
我らの伝統と宗教的訓練は、いかなるものをも、傷つけ、殺し、苦しめることを禁じている。
我々は、我らの子弟が、戦争のための殺人者となり、破壊者となる訓練を強制されることに抗議する。
この国土における生命の聖なるプランは、偉大なるマサウウによって、我らのために整えられたものである。
この計画を変更することはできない。
いまは人類史のなかで、もっとも危機的な時代である。
いたるところで民衆は混乱している。
いま我々が決定し、今後なすべきことが、各自の民族の運命なのである。
いま我々は、審判の日について語っているのである。
我らホピの予言の光のなかで、審判の日は近づきつつある・・。」
予言といえば、「ホピの書」という本のなかに、ホピの30人のスポークスマンがこもごも語った
言葉の聞き書きがのっていて、その「ホピの予言」と題する章は私たちを考えこまさずにはおかない。
これは、1961年に第三次世界大戦が起こる可能性を予測しながら、語られたものである。
(もし第三次世界大戦がおこったら)
「合衆国は、土地も人民も、原爆と放射能によって滅びるであろう。
ホピ族とその故国だけが、難をのがれる人々のオアシスとして残るであろう。
原爆シェルター(避難所)など作ろうと考えるのは、唯物的な人々だけである。
その心にすでに平和を抱く者は、生命の偉大なシェルターの中にいるのだ。
邪心ある者には、シェルターなどありはしない。
たとえ黒色、白色、赤色、あるいは黄色人種であろうと、イデオロギーによる世界分割に
役割を持たない人は、他の世界において生命を取り戻す用意がある。
彼らはみな等しく兄弟である。」
さて、砂漠の賢者たちの高貴なよびかけに対して、私たちはどう答えられるだろうか?
はたして私たち日本人は、彼らの兄弟の列に加わることができるのだろうか?           
       (引用ここまで・4章「未開から見た文明」より)
                  *****
若い日に、ホピ(の魅力)に捉えられて、うめいた時のことを思い出した。
「平和」という思いは、わたしにとっては、いさかいの元凶そのものであるわが身を裁く「掟」との対峙であり、
わが身の在り方について、おそろしいばかりの強烈さを持って省察を迫ってくるものなのだ。
                  ・・・・・

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