In Deep (旧): イスラエル・ガリラヤ湖の水面下で年代不明の謎の古代構造物が発見される
Mysterious Stone Structure Discovered Beneath Sea of Galilee
Live Science 2013.04.09
ガリラヤ湖の湖底で発見された神秘的な石造建築物
イスラエルのガリラヤ湖の水面下に発見された巨大な「記念碑的な」石で作られた建造物は、
どのくらい前の年代のものなのかということについて、専門家たちは頭を悩ましている。
この謎の建造物は、円錐形の形状をしており、
切り出しされていない玄武岩で作られたと見られ、
科学者たちによると、重さは6万トンあると推定される。
6万トンというと現代の軍艦よりも重い。
建造物の高さは約 10メートルで、幅は最大の部分で約 70メートルの直径を持つ。
これは見た目には、巨大な石塚やストーンヘンジのような形状に見え、
岩が互いに積み重ねられている。
このような構造は世界各地の古代の建造物で見られ、
埋葬の印とされていることが多い。
しかし、今回のこの建造物の使用目的はまだわかっていない。
この建造物が最初に検知されたのは 2003年のことで、
ガリラヤ湖の南西部分のソナー調査によって検出された。
その後、ダイバーが実物を調査していた。
現在のところ研究者たちの見解は、この建造物は、
ここが湖ではなく大地だった時に立てられたもので、
その後、湖の水位が上昇したことにより、湖底に位置するような形となったと考えている。
自然にできる形状の特徴を持たないことから、これは人間によって作られた人工的な建造物と結論付けられた。
4,000年以上前のものなのか?
科学者たちは、この構造体が作られた年月と、
作られた目的を決定するための調査が必要だと述べている。
イスラエル考古学庁とイスラエル・ベングリオン大学の研究者たちは、
この構造物の年代が 4,000年以上前に遡る可能性があると言っている。
ガリラヤ湖の周辺には、紀元前3千年前頃のものとされる巨石の構造体がいくつか見つかっている。
そのうちのひとつは、今回、ガリラヤ湖の湖底で建造物が発見された場所から北東 30キロの位置にある。
それは56メートルにわたり、巨石が3列で円状に並べられているものだ。
今後、水中での実地調査を含めて、この建造物の年代を正確に決定するつもりだと、
研究者たちは言う。イスラエル考古学庁は、
この水面下の建造物の発掘を可能とする技術を持っているという。
In Deep (旧)
http://oka-jp.seesaa.net/article/355083575.html
ここから、ガリラヤ湖という単語が出てくる、埴輪雄高さんの
小説『死霊』 第七章 最後の審判(1984年)より抜粋します。
この章では、ガリラヤ湖の魚を食べたイエス・キリストがその魚から弾劾され、
その後に、チーナカ豆を食べた釈迦が、そのチーナカ豆から弾劾される様子が描かれるというクライマックスの章のひとつです。
埴輪雄高『死霊』 第七章「最後の審判」より
埴輪雄高「死霊」 第七章
いいかな、イエス、これほどお前に食われた魚の悲哀についてばかりこだわりつづけた
俺についていっておくと、
さて、お前はテベリアの海ともキンネテレの海ともまたゲネサレ湖とも呼ばれたあのガリラヤ湖のきらめき光った眩しい水面を憶えているかな。
お前が復活後、三度目にガリラヤ湖に現れたとき、
なおまだ飢えているお前は「食べものはあるか」とまず訊き、
「いいえ」と答えられて、こう指示したのだ。
いいかな、お前は、シモン・ペテロ達に、船の右がわに網を打て、と指示して、
おお、憶えているかな、百五十三匹もの大漁の魚をとらせたのだ。
俺たちがはいった大きな網が引き上げられて、
跳ねあがっている俺達の重さと多さを眺めて満足な喜悦を現しているお前の残忍な顔を、
水上の宙に跳ねあがった数瞬の俺は、永遠に忘れることはできないのだ。
いいかな。俺が跳ねあがった水上は数知れぬものが写っていながら、
それらが忽ちに消え去ってしまうところの虚無の鏡だったのだ。
おお、ここまでいえば、お前もやっと憶いだせるかな。
つまり、その大漁の魚を朝食として炭火の上にのせて焼き、
パンとともにお前達が食べつくしたとき、
お前が最後に食べたその最も大きな一匹こそがほかならぬこの俺だったのだ。
おお、イエス、その顔をあげてみよ、
お前の「ガリラヤ湖の魚の魂」にまで思い及ばぬその魂が偉大なる憂愁につつまれて震撼すれば、
俺達の生と死と存在の謎の歴史はなおまだまだ救われるのだ。
おお、イエス、イエスよ。自覚してくれ。過誤の人類史を正してくれ。
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私はこの中の
「お前の「ガラリヤ湖の魚の魂」にまで思い及ばぬその魂が偉大なる憂愁につつまれて震撼すれば、
俺達の生と死と存在の謎の歴史はなおまだまだ救われるのだ」
は日本語としての意味さえ全然わからないのですが、
なんだかとてもかっこよくて、シビれたものでした。
ついでに、このあと、自分で食べた「豆」に断崖されるお釈迦様が描かれた
最後の部分は下のような感じです。埴谷さんの小説では、釈迦をサッカと呼んでいます。
サッカよ、すべての草木が、お前に食べられるのを喜んでいるなどと思ってはならない。
お前は憶えていまいが、苦行によって鍛えられたお前の鋼鉄ほどにも堅い歯と歯のあいだで
俺自身ついに数えきれぬほど幾度も繰り返して強く噛まれた生の俺、
すなわち、チーナカ豆こそは、お前を決して許しはしないのだ。
魚を殺しながら伝えられたキリスト教、豆や草木の生命を消滅させながら伝えられた仏教。
これらの「殺生に関しての永遠の地団駄」というのは、
宗教だけの問題ではなく、人間が生きていく上で常にのしかかる問題だとは思います。
すべては生きている。
でも、何かを殺して食べなければならない。
それは「生物学的な輪廻」でもあることもまた現在の生物学や環境学では説明できることですけれど、学問の話ではなく、「意志」として、このあたりをどうして生きていけばいいのか。
ガリラヤ湖の報道を見て、久しぶりに「食べるということ」を考えるのでした。
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