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2022年2月25日金曜日

マドモアゼル愛: 日月神示「ロシアの三日天下」預言




 



マドモアゼル愛: 日月神事「ロシアの三日天下」預言
22.2.23    
■2022年春分図で観るロシア情勢の行方
今年の具体的な事を挙げます。
・ロシア
近々のロシアウクライナ情勢。今年の運勢ではなくて,去年の運勢の範疇になりますが,去年の運勢を見れば戦争の星の配置があって,その予測を去年言いましたが,しかし起きてもあっという間に終わるというのが私の去年の戦争の危機の考えでした。そしてその運勢は今年2022 年3月まで続きますので,現在のロシア・ウクライナ情勢の緊迫している状況は,今年というよりも去年から来る流れです。戦争の危機はあるけれども,あってもあっという間に瓦解して終わるという予測。プーチンの勝利で終わると考えています。そう言うと「愛さんは共産主義側ですか?」という人がいるけど,そういうことじゃないんです。
つまりこういうことなんですね,ウクライナにはアメリカを巣食っていた軍需産業の施設がある。彼らは戦争を欲する。そしてそれがトランプなどの働きによって,情報開示によって追い込まれて行っている。アメリカ,北朝鮮,イスラエル,中東,今のロシアウクライナ問題という戦争の種,火種。それが軍需産業のメシの種ですが,そして逆に言うとその構図が段々とバレてきた。一方で今も北朝鮮はミサイルを飛ばしているし,イスラエル情勢も未だ不透明な部分もある。ウクライナも緊迫した状況にある。その戦争屋さん=DSの最後の争いの様相が見えてきた。DS最後の砦にメスを入れようというのがウクライナ情勢のもう一つの意味です。それが上の人には皆わかってるし,そして彼らDSは欧州勢力/NATOを使って軍事的に支配はしているものの,この最後の砦であるウクライナに立てこもってDS がこの争いを起こそうとしている構図がだんだん見えてきてるわけです。なのでこれは単に資本主義圏と共産圏の争いじゃないっていうことがバレバレにこれから急速になってきます。なので,もちろんウクライナ人は一生懸命やるでしょうが,そうなるとウクライナの戦火を交える正当性というものが揺らいでくるので,なぜその火種を起こそうとしてたのかの動機がみんなわかってきてしまうということになるので,僕は戦火があっても直ぐに消えると予測しています。のでDSの第3次世界対戦まで起こそうとする目論見は失敗に終わると思っています。なのでこれはプーチンの勝ち。ウクライナにNATO軍の基地が置かれてミサイルが設置されるというようなことは起こらないと思います。
この間,プーチンはメキシコのキューバの首相と長電話したっていう記事がメディアで一斉に流れました。どういうことかっていうと,1960年代のケネディ政権時代にキューバ危機があった。ソ連首相のフルシチョフがキューバにミサイルを配置しようとしたんですね。キューバにミサイルを運んだ軍艦があったけども,ケネディは海上封鎖して,戦争を辞さない形で阻止しようとしたわけですよね。そして今回は,NATOがウクライナにミサイルを置こうとしている状況をプーチンが「絶対許さないぞ」って言ってるわけですよ。その時にプーチンがキューバ首相に電話するとは,つまり「ウクライナにあなた方がミサイルを配置するなら,ロシアはキューバにミサイル配置してもいいよね?」という論理 です。アメリカのバイデンはビビったと思いますよ。まァ,バイデンも裏にどういう力が働いたか分からないので,でももうこの勝負はこれで僕はあったなという風に思っていました。
そして2022 年はそうした戦争の星の配置はないんです。なのでウクライナ情勢,イスラエル,北朝鮮情勢が大きく発展していくことはないという風に思います。戦火は多少あるかもしれませんが大きなことにはならない。ロシアのウクライナ侵攻>>第3次世界対戦というようなシナリオを本気で命がけでやろうなんてしている人はNATOにもいない。DSの残党だけがやろうとしているだけです。
■ロシアの三日天下
....さて,世界に目を向けると,ウクライナ情勢。ロシアが2国を承認して駐留するような形,そしてさらにウクライナの中の親ロシア派がロシアに「軍事的な援助をして欲しい」というような要請がこれから出てくるような絵があって。またバタバタとウクライナがロシアの方になびいていく絵がどうやら見えてきた。僕が当初から言っていた「これはロシアの勝ち,プーチンの勝ち」という絵がいよいよ観えてきている。
アメリカのバイデンさんは本来ウクライナ利権の人種です。ウクライナ利権サイドのDSは本当に「ロシア憎し=プーチン憎し」だった。改革により「ロシア堕ちたぞ」とばかりにロシアに群がったDSをロシアから追い出したのがプーチンでした。なのでDSからみるとプーチンは本当に憎い。なので「プーチンに隙さえあれば」という事で,DSはウクライナの拠点で色々なことを画策して,だんだんとNATOを浸透させるような政策がずっと打たれていた。それをずっと我慢してたのがプーチンだった。逆にここまでやらせといたっていう風にも観える。ヨーロッパの識者はそれ知ってますので,口では対ロシアを言うものの,本当にNATOと一緒にロシア軍と対峙するか?というと,それはありえない。そしてプーチンのこれからの武器っていうのはどういうことかっていうと,これは誰が指示したのかわからないけれども,原油価格は去年に-34ドル/Lという値をつけちゃったように,本来石油はお荷物になってしかるべきものであるにも関わらず,コロナ禍による不景気と物流障害による物価上昇を背景に,資源インフレを起こすロシアは,中東産油国以上に資源によって懐を豊かにしてゆく流れが観えてくる。
この流れで出口王仁三郎の預言がまたひとつ成就する形になると思うんです。第二次世界大戦中の王仁三郎の預言のひとつに,「これからどうなるのか?」いう問いに対して,王仁三郎は
「これから日本vsアメリカの経済戦争が起こるだろう。そしてその経済戦争は日本の勝ちに終わるだろう」
と答える。敗色強い戦時下で,訊く側はそれを理解できない。でも今になれば分かりますが。
「次に時代は米中経済戦争に移るだろう。そしてこれは共倒れに終わるだろう」
と言った。一時は覇権がアメリカから中国にうつって「中国の時代が 来る」と今も信じる人は多いけど,私は中国最絶頂の時から「それはない」という風に思っていました。というのは,やっぱり,拝金趣味があそこまで行ってしまった国に,世界を動かすリーダーシップは持てないという単純なその理由から思っていました。中国が覇権を世界的に握ることはあり得ないという風に思った。Pax-Chinaはありえない。だから,王仁三郎の預言はまたも成就する事になるのでしょう。共倒れに終わった米中経済戦争の結果が,即ち今の世界の大混乱なのでしょう。そしてその中に,
「次はロシアの三日天下になる」
まず驚くのが,まだ第二次世界大戦中の時期(国名:ソビエト連邦)に何故「ロシア」という言葉を使ったのか?なんですよね。今回のウクライナ危機はまさにそれが起きつつある。ウクライナ戦争によって最終的にはロシアが豊かになり,ロシアが世界をリードする時代に移行する。覇権までは行かないけども,まぁ「ロシアの時代」というものが到来したかのように見える未来がこれから出てくるだろう。しかし王仁三郎は「それは3日天下で終わる」と言った。この「3日」とは3年を指すのか,時期指すのか分かりませんけども,こうした単位でいえば,米中経済戦争だって10年という時代がかかってますし,日米経済戦争だって5〜10年というサイクルを考えてみれば,「3日天下」って言うんだからそれよりは短いだろう。ということだとこれから2〜3年,「ロシアが中心の時代」「ロシアだけが元気な時代」というような時代がはじまる。ロシアは軍備が凄いからね。人工衛星を撃ち落とせるような設備があって,特に攻撃以上に防衛設備が圧倒的に強い。そう考えれば「ロシアの時代」っていうのはあながち嘘じゃない。そして今回の事件で,エネルギー面でもヨーロッパ各国が払うエネルギーの報酬が上がれば,ロシアの財力は一気に上がる。しかし
「ロシアの三日天下の次の時代,日本の時代はそれから始まる」
僕の占星術では,それが今年の海王星・水星・木星が魚座で第三室という所のコンジャンクション/合に示される「新しい海洋資源に関連する技術」なんですよね。日本では今年からその種が育っていく。それが2年,3年,ロシアと交代するように大航海世界に向かう情報化時代が始まる。
今回のウクライナ危機でロシアが勝つということは,つまりDS はもう終わっている。その世界で,日本が初めて,この種をやっと大きくできる環境が起きてくるということですので,喜ばしい事だなという風に思っています。
そういう時代に向かって私たちはどうしたらいいんだろうか?という視点で常々私はお話しているつもりでおります。これまではジャパンハンドラーズっていうDSが日本社会の上層を支配する世界でしたが,これからはやっぱり個々が変えていく世界。個々が目を覚ましていく。個人だけが未来を創る力も持っているという時代。新しい未来が観える下地がようやく整ったということであります。無論ロシアが正しいって言ってんじゃありません。やっぱり問題あると思いますし,信用するわけにはいかないと思います。しかしひとつのDSを終わらせる力としては,ロシアは次の時代に必要な役者だったなという風に思っています。

yghhhhh pc

2020年10月22日木曜日

大摩邇: ひふみ神示第17巻 地震の巻













大摩邇: ひふみ神示第17巻 地震の巻 
再掲載 ひふみ神示 第17巻 地震の巻 / (二曰んのキ) 全十九帖 
2020/10/18 10:27
■第一帖 (三七八)
われわれの一切は生れつつある。神も、宇宙も、森羅万象の悉くが、常に生れつつある。太陽は太陽として、太陰は太陰として、絶えず生れつづけている。一定不変の神もなければ、宇宙もない。常に弥栄えつつ、限りなく生れに生れゆく。過去もなければ、現在もなく、未来もない。只存在するものが生れに生れつつあ る。生もなければ死もない。善も思わず真も考えず美も思わない。只自分自身のみの行為はない。只生れゆき栄えゆくのみである。
善を思い悪を思うのは、死をつくり生をつくり出すことである。故に地上人が自分自身でなすことには、総て永遠の生命なく、弥栄はあ り得ない。何故ならば、地上人は、地上人的善を思い、悪を思い、真を思い、偽を思うからであ る。思うことは行為することである。生前、生後、死後は一連の存在であ って、そこには存在以外の何ものもないのである。存在は生命であり、生れつつあ るもの、そのものである。何ものも、それ自らは存在しない。弥栄しない。必ず、その前なるものによって呼吸し、脈うち、生命し、存在し、弥栄する。また、総てのものの本体は、無なるが故に永遠に存在する。地上人は、生前に生き、生前に向って進みゆく。また、地上人は、地上に生き、地上に向って進みゆく。また、地上人は、死後に生き、死後に向って進みゆく。しかし、その総ては神の中での存在であ るから、それ自体のものはない。善でもなく、悪でもなく、只生れつつあ るのみ。霊人に空間はない。それは、その内にある情動によって定まるが故であ る。また、その理によって一定せる方位もない。また時間もなく只情動の変化があ るのみである。地上人は、肉体を衣とするが故に、宇宙の総てを創られたものの如く考えるが、創造されたものではない。創造されたものならば、永遠性はあ り得ない。宇宙は、神の中に生み出され、神と共に生長し、更に常に神と共に永遠に生れつつあ る。その用は愛と現われ、真と見ゆるも、愛と云うものはなく、また、真なるものも存在しない。只大歓喜のみが脈うち、呼吸し、生長し、存在に存在しつつ弥栄するのであ る。存在は千変万化する形に於て、絶えず弥栄する。それは  であり、  なるが故である。  は大歓喜の本体であり、  はその用である。それは、善でもなく悪でもない。真でもなく偽でもない。美でもなく醜でもない。また愛でもなく憎でもない。プラスでもなければマイナスでもない。しかし、善の因と真の因とが結合し、悪の因と偽の因とが結合し、美の因と愛の因とが結合し、醜の因と憎の因とが結合して、二義的には現われ、働き、存在として、またはたらく。善因は偽因と結合せず、悪因は真因と結合しない。これらの総ては、これ生みに生み、成りに成りて、とどまるところを知らない。それは、神そのものが絶えず、鳴り成り、成り鳴りてやまず、止まる所なく生長し、歓喜しつつあ るがためである。神が意志するということは、神が行為することである。そして、さらに神の行為は、弥栄であ り、大歓喜である。神の歓喜をそのまま受け入れる霊人とは、常に対応し、地上人として地上に生命し、また霊人として霊界に生命する。神の歓喜を内的にうけ入れる霊人の群は無数にあ り、これを日の霊人と云う。神の歓喜を外的にうけ入れる霊人の群も無数にあ り、これを月の霊人と云う。月の霊人の喜びが、地上人として地上に生れてくる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜をその生命に吸い取るが故に、そのままにして神に抱かれ、神にとけ入り、直接、地上人として生れ出ることは、極めてまれであ る。月の霊人は、神の歓喜をその智の中にうけ入れる。故に、神に接し得るのであ るが、全面的には解け入らない。地上人は、この月の霊人の性をそのままうけついでいる場合が多い。日の霊人は、神の歓喜を、そのまま自分の歓喜とするが故に、何等それについて疑いをもたない。月の霊人は、神の歓喜を歓喜として感じ、歓喜としてうけ入れるが故に、これを味わわんとし、批判的となる。ために二義的の歓喜となる。故に、日の霊人と月の霊人とは、同一線上には住み得ない。おのずから、別の世界を創り出すが故に、原則としては、互に交通し得ないのであ る。この二つの世界の中間に、その融和、円通をはかる霊人と、その世界が存在する。これによって、二つの世界、二つの生命集団が円通し、常に弥栄するのであ る。地上人と霊人との間も同様、直接、全面的な交流はあり得ない。それは、別の世界に住んでいるためであ って、その中間の半物、半霊の世界と、霊人がいて、常にその円通をはかっている。以上の如くであ るから、日と月、愛と信、善と美も、本質的なものではなく、二義的なものである。
■第二帖 (三七九)
天界も無限段階、地界も無限段階があり、その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。分類しては、生命の統一はなくなる。其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。一なるものは、平面的には分離し得ない。二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。 *については一なるも、*に於ては二となり三となり得るところに、永遠の生命が歓喜する。一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。しかし、大歓喜にまします太神の  は、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。即ち、死後は生前の形式による。形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。これら二つが相関連せるを外の真と云う。外の愛も外の真も共に生命する。人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。更に善を善とし、悪を悪として、それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。歓喜は神であり、神は歓喜である。一から一を生み、二を生み、三を生み、無限を生みなすことも、みなこれ歓喜する歓喜の現われの一つである。生み出したものなればこそ、生んだものと同じ性をもって弥栄える。故に本質的には善悪のないことが知られるであろう。死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない。先に霊人となっている親近者や知人と会し、共に生活することもできる。夫婦の場合は、生存時と同様な夫婦愛を再びくりかえすことができるのである。霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くはつづかない。何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。而して、最初の状態は、生存時の想念、情動がそのままにつづいているから、外部的のもののみが強く打ち出される。故に、外部の自分に、ふさわしい環境におかれるが、次の段階に入っていくと、外部的のものは漸次うすれて、内分の状態に入っていくのである。内分と外分とは、互に相反するが、霊人の本態は内分にあるのであるから、この段階に入って始めて本来の自分にかえるのである。生存時に於ては、地上的な時、所、位に応じて語り、行為するが為に、限られたる範囲外には出られないが、内分の自分となれば、自由自在の状態におかれる。生存時に偽りのなかった霊人は、この状態に入って始めて真の自分を発見し、天国的光明の扉をひらくのである。偽りの生活にあった霊人は、この状態に入った時は、地獄的暗黒に自分自身で向かうのである。かくすることによって、生存時に於ける、あらゆる行為が清算されるのである。この状態に入ったならば、悪的なものは益々悪的なものを発揮し、善的なものは善的な力を益々発揮する。故に、同一の環境には住み得ないのである。かくして、諸霊人は最後の状態に入り、善霊は善霊のみ、悪霊は悪霊のみ、中間霊は中間霊のみの世界に住み、善霊は善霊のみの、悪霊は悪霊のみのことを考え、且つ行為することになる。そして、それは、その時の各々にとっては、その時の真実であり、歓喜である。
■第三帖 (三八〇)
愛の影には真があり、真の影には愛がはたらく。地上人の内的背後には霊人があり、霊人の外的足場として、地上人が存在する。地上人のみの地上人は存在せず、霊人のみの霊人は呼吸しない。地上人は常に霊界により弥栄する。
弥栄は順序、法則、形式によりて成る。故に、順序を追わず、法則なく、形式なき所に弥栄なく、生れ出て呼吸するものはあり得ない。個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する。個と全体、愛と真との差が益々明らかになれば、その結合は益々強固となるのが神律である。霊界と物質界は、かくの如き関係におかれている。其処にこそ、大生命があり、大歓喜が生れ、栄えゆくのである。更に、極内世界と極外世界とが映像され、その間に中間世界がまた映像される。極内世界は生前、極外世界は死後、中間世界は地上世界である。極内は極外に通じて*を為す。すべて一にして二、二にして三であることを理解せねばならない。かくして、大神の大歓喜は、大いなる太陽と現われる。これによりて、新しく総てが生れ出る。太陽は、神の生み給えるものであるが、逆に、太陽から神が、更に新しく生れ給うのである。 *は絶えずくりかえされ、更に新しき総ては、神の中に歓喜として孕(はら)み、生れ出て、更に大完成に向って進みゆく。親によって子が生れ、子が生れることによって親が新しく生れ出ずるのであることを知らねばならない。されば、その用に於ては千変万化である。千変万化なるが故に、一である。一なるが故に、永遠である。愛は愛に属する総てを愛とし、善となさんとするが故に悪を生じ、憎を生じ、真は真に属する総てを真とし美となさんとする故に偽を生じ、醜を生ずるのである。悪あればこそ、善は善として使命し、醜あればこそ、美は美として生命するのである。悪は悪として悪を思い、御用の悪をなし、醜は醜として醜を思い、御用の醜を果たす。共に神の御旨の中に真実として生きるのである。真実が益々単にして益々充実し、円通する。されば、 *の中の*の中なる*の*の中なる一切万象、万物中の最も空にして無なるものの実態である。これが、大歓喜そのものであって、神は、この*に弥栄し給えるが故に、最外部の外にも弥栄し給うことを知覚し得るのである。始めなき始めの*の真中の真空にいますが故に、終りなき終りの*の外の無にいまし、中間に位する力の  の中に生命し給うのである。一物の中の  なるが故に一物であり、万象万物であることを知覚しなければならない。生前の様相であり、呼吸するが故に死後の呼吸とつづき、様相として弥栄ゆるのである。神が生み、神より出て、神の中に抱かれているが故に神と同一の歓喜を内蔵して歓喜となる。歓喜に向かうとは親に向かうことであり、根元に通ずることである。世をすて、外分的、肉体的諸欲をすてた生活でなければ、天国に通じ得ぬと考えるのは誤りである。何故ならば、地上人に於ける肉体は、逆に霊の守護をなす重大な役目をもっているからである。地上人が、その時の社会的、物質的生活をはなれて、霊的生活にのみ入ると云うのは大いなる誤りであって、社会生活の中に行ずることが、天国への歩みであることを知らねばならない。天国をうごかす力は地獄であり、光明を輝かす力は暗黒である。地獄は天国あるが故であり、暗黒は光明あるが故である。因が果にうつり、呼が吸となりゆく道程に於て、歓喜は更に歓喜を生ず。その一方が反抗すればするだけ他方が活動し、また、強力に制しようとする。呼が強くなれば吸も強くなり吸が長くなれば呼もまた長くなる。故に地獄的なものも天国的なものも同様に、神の呼吸に属し、神の脈うつ一面の現われであることを知らねばならない。天国に限りなき段階と無数の集団があると同様に、地獄にも無限の段階と無数の集団がある。何故ならば、天国の如何なる状態にも対し得る同様のものが自らにして生み出されねばならぬからであって、それにより、大いなる平衡が保たれ、呼吸の整調が行なわれるからである。この平衡の上に立つ悪は悪ではなく、偽は偽でなく、醜は醜でなく、憎は憎でなく、また地獄は地獄でない。地獄は本来ないのである。また、この平衡の上におかれた場合は、善も善でなく、美も美でなく、愛も愛でなく、そこでは、天国も天国ではない。只ひたすらなる大歓喜が弥栄ゆるのみである。
■第四帖 (三八一)
同気同類の霊人は、同一の情態で、同じ所に和し、弥栄え、然らざるものは、その内蔵するものの度合に正比例して遠ざかる。同類は相寄り、相集まり、睦び栄ゆ。生前の世界は、地上人の世界の原因であり、主体であるが、また死後の世界に通ずる。同気同一線上にいる霊人たちは、且って一度も会せず語らざるも、百年の友であり、兄弟姉妹である如くに、お互いに、その総てを知ることができる。生前の世界に於ける、かかる霊人が肉体人として生れ出でた場合の多くは、同一の思想系をもつ。但し、地上人としては、時間と空間に制限されるが故に相会し、相語られざる場合も生じてくる。また、生前の生活と同様のことを繰り返すこともある。霊人の同一線上にある場合は、その根本的容貌は非常に似ているが、部分的には相違し、同一のものは一つとしてない。そこに、存在の意義があり、真実の道が弥栄え、愛を生じ、真が湧き出てくるのである。生前の霊人の場合は、自分自身のもつ内の情動はそのままに、その霊体の中心をなす顔面に集約され、単的に現われていて、いささかも反する顔面をもつことは許されない。一時的に満たすことはできても、長くは続かない。この情態の原理は、地上人にも、反影している。生前の世界は、以上の如くであるから、同一状態にある霊人が多ければ、その団体の大きく、少なければ、その集団は小さい。数百万霊人の集団もあれば、数百、数十名で一つの社会をつくる団体もある。各々の団体の中には、また特に相似た情動の霊人の数人によって、一つの家族的小集団が自らにしてでき上がっている。そしてまた、各々の集団の中心には、その集団の中にて最も神に近い霊人が座を占め、その周囲に幾重にも、内分の神に近い霊人の順に座をとりかこみ運営されている。若しそこに、一人の場所、位置、順序の間違いがあっても、その集団は呼吸しない。而して、それは一定の戒律によって定められたものではなく、惟神の流れ、則ち歓喜によって自ら定まっているのである。またこれら集団と集団との交流は、地上人の如く自由ではない。総ては  の  を中心として  の姿を形成しているのである。  と  とを、生前の世界に於て分離することは極めて至難ではあるが、或る段階に進むときは一時的に分離が生ずる。しかし、この場合も  は  であり  は  である。これが地上世界の行為に移りたる場合は、不自由不透明な物質の約束があるため、その分離、乱用の度が更に加わって、真偽混乱に及ぶものである。悪人が善を語り、善をなし、真を説くことが可能となるが如く写し出されるのである。生前界では、悪を意志して悪を行なうことは、御用の悪として自ら許されている。許されているから存在し行為し現われているのである。この場合の悪は、悪にあらずして  の  であることを知らねばならない。即ち、道を乱すが故である。地上人の悪人にも善人にも、それは強く移写される。愛は真により、真は愛により向上し、弥栄する。その根底力をなすは歓喜である。故に、歓喜なき所に真実の愛はない。歓喜の愛は、これを愛の善と云う、歓喜なき愛を、愛の悪と云うのである。その歓喜の中に、また歓喜があり、真があり、真の真と顕われ、  となり、  と集約され、その集約の  の中に  を生じ、更に尚  と弥栄ゆる。生前の世界、死後の世界を通じて、一貫せる大神の大歓喜の流れ行く姿がそれである。大神は常に流れ行きて、一定不変ではない。千変万化、常に弥栄する姿であり、大歓喜である。完成より大完成へ向い進む大歓喜の呼吸である。されど、地上人に於ては、地上的物質に制限され、物質の約束に従わねばならぬ。其処に時間を生じ、距離を生じ、これを破ることはできない。故に同時に、善と悪との両面に通じ、両面に生活することとなるのである。其処に、地上人としての尊きかなしさが生じてくる。霊人に於ては、善悪の両面に住することは、原則として許されない。一時的には仮面をかむり得るが、それは長くつづかず、自分自身 耐え得ぬこととなる。地上人と雖(いえど)も、本質的には善悪両面に呼吸することは許されていない。しかし、悪を抱き参らせて、悪を御用の悪として育て給わんがために課せられたる地上人の光栄ある大使命なることを自覚しなければならない。悪と偽に、同時にはいることは、一応の必要悪、必要偽として許される。何故ならば、それがあるために弥栄し、進展するからである。悪を殺すことは、善をも殺し、神を殺し、歓喜を殺し、総てを殺す結果となるからである。霊物のみにて神は歓喜せず、物質あり、物質と霊物との調和ありて、始めて力し、歓喜し、弥栄するからである。霊は絶えず物を求め、物は絶えず霊を求めて止まぬ。生長、呼吸、弥栄は、そこに歓喜となり、神と現われ給うのである。霊人も子を生むが、その子は歓喜である。歓喜を生むのである。
■第五帖 (三八二)
全大宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現われの一部である。過去も、現在も、未来も一切が呼吸する現在の中に存在し、生前も死後の世界もまた神の中にあり、地上人としては地上人の中に、霊界人にありては霊界人の中に存在し、呼吸し、生長している。故に、その全体は常に雑多なるものの集合によって成っている。部分部分が雑多なるが故に、全体は存在し、力し、弥栄し、変化する。故に、歓喜が生ずる。本質的には、善と真は有であり、悪と偽は影である。故に、悪は悪に、偽は偽に働き得るのみ。影なるが故に悪は善に、偽は真に働き得ない。悪の働きかけ得る真は、真実の真ではない。悪は総てを自らつくり得、生み得るものと信じている。善は総てが神から流れ来たり、自らは何ものをも、つくり得ぬものと信じている。故に、悪には本来の力はなく、影にすぎない。善は無限の力をうけるが故に、益々弥栄する。生前の世界は有なるが故に善であり、死後の世界も同様である。生前の自分の行為が地上人たる自分に結果して来ている。生前の行為が生後審判され、酬いられているのではあるが、それは、悪因縁的には現われない。そこに、神の大いなる愛の現われがあり、喜びがある。悪因縁が悪として、また善因縁は善として、生後の地上人に現われるのではない。何故ならば、大神は大歓喜であり、三千世界は、大歓喜の現われなるが故にである。地上人的に制限されたる感覚の範囲に於ては、悪と感覚し、偽と感覚し得る結果を来す場合もあるが、それは何れもが弥栄である。これを死後の生活にうつされた場合もまた同様であって、そこには地獄的なものはあり得ない。川上で濁しても川下では澄んでいるのと同様である。要するに、生前には、地獄がなく、生後にも、死後にもまた地獄はないのである。この一貫して弥栄し、大歓喜より大々歓喜に、更に超大歓喜に向って弥栄しつつ永遠に生命する真相を知らねばならぬ。しかし、天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである。善を思念するが故に、悪を生み出すのである。一あり二と分け、はなれてまた、三と栄ゆるが故に歓喜が生れる。即ち、一は二にして、二は三である。生前であり、生後であり、死後であり、尚それらの総ては  である。  は  であり  であり、  と集約される。故に、これらの総ては無にして有である。人の生後、即ち地上人の生活は、生前の生活の延長であり、また死後の生活に、そのままにして進み行く、立体となり、立々体と進み、弥栄する処につきざる歓喜があり、善悪美醜の呼吸が入り乱れつつ調和して、一の段階より二の段階へ、更に三の段階へと弥栄浄化する。浄化、弥栄することにより、善悪美醜のことごとくは歓喜となる。故に、神の中に神として総てが弥栄するのである。悉くの行為が批判され、賞罰されねばならぬと考える地上人的思念は、以上述べた神の意志、行為、弥栄と離れたものである。歓喜に審判なく、神に戒律はない。戒律は弥栄進展を停止断絶し、審判は歓喜浄化を裁く。このことは神自らを切断することである。裁きはあり得ず戒律はつくり得ず、すべては これ湧き出づる歓喜のみの世界なることを知らねばならない。行為は結果である。思念は原因である。原因は結果となり、結果は只、結果のみとして終らず、新しい原因を生む。生前の霊人は、生後の地上人を生む。地上人は死後の霊人を生み、死後人たる結果は、更に原因となりて生前の霊人を生む。  は  となりて廻り、極まるところなくして弥栄える。以上述べた処によって、これら霊人、地上人、地上人の本体が歓喜と知られるであろう。されば、常に歓喜に向ってのみ進むのである。これは只、霊人や地上人のみではない。あらゆる動物、植物、鉱物的表現による森羅万象の悉くが同様の律より一歩も出でず、その極内より極外に至るのみ。故に地上世界の悉くは生前世界にあり、且つ死後の世界に存在し、これらの三は極めて密接なる関係にあり、その根本の大呼吸は一つである。生前の呼吸はそのまま生後、死後に通ずる。地上に於ける総ては、そのままにして生前なるが故に、生前の世界にも、家あり、土地あり、山あり、川あり、親あり、子あり、夫婦あり、兄弟姉妹あり、友人あり、また衣類あり、食物あり、地上そのままの生活がある。地上人、地上生活を中心とすれば、生前、死後は映像の如く感覚されるものである。しかし、生前よりすれば、地上生活、物質生活は、その映像に過ぎないことを知らねばならぬ。時、所、位による美醜、善悪、また過去、現在、未来、時間、空間の悉くを知らんとすれば、以上述べたる三界の真実を知らねばならぬ。
■第六帖 (三八三)
霊界人は、その向いている方向が北である。しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。中心は、歓喜の中の歓喜である。それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。各々が独立していて、他からの障害をうけない。しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。映像として真実であるが、第一義的真理ではない。故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。交叉混交はしても、同一方向には向っていない。そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。
■第七帖 (三八四)
地上には、地上の順序があり、法則がある。霊界には、霊界の順序があり、法則がある。霊界が、原因の世界であるからと云って、その秩序、法則を、そのまま地上にはうつし得ず、結果し得ないのである。また地上の約束を、そのまま霊界では行ない得ない。しかし、これらの総ては大神の歓喜の中に存在するが故に、歓喜によって秩序され、法則され、統一されているのである。その秩序、法則、統一は、一応 完成しているのであるが、その完成から次の完成へと弥栄する。故にこそ弥栄の波調をもって全体が呼吸し、脈拍し、歓喜するのである。これが、生命の本体であって、限られたる智によって、この動きを見るときは、悪を許し、善の生長弥栄を殺すが如くに感ずる場合もある。しかし、これこそ善を生かして、更に活力を与え、悪を浄化して必要の悪とし、必然悪として生かすのである。生きたる真理の大道であり、神の御旨なることを知り得るのである。本来 悪はなく闇はなく、地獄なきことを徹底的に知らねばならない。これは生前、生後、死後の区別なく、総てに通ずる歓喜である。一の天界に住む天人が、二の天界に上昇した時、一の天界は、極めて低い囚われの水の世界であったことを体得する。更に一段上昇、昇華して三の段階に達した時も同様である。地上人的感覚によれば、二の天界に進んだ時、一の天界は悪に感じられ、三の天界に進んだ時、一の天界は最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。悪的感覚と悪的実態は自ら別であるが、この実状を感覚し分け得た上、体得する霊人は極めて少ない如く、地上人に到りては極めて稀であることを知らなくてはならない。悪を悪なりと定めてしまって、悪は総て祖先より、或いは原因の世界より伝えられたる一つの因果であると云う平面的、地上的考え方の誤っていることは、以上述べた処で明白となり、己を愛するは、先ず悪の第一歩なりと考える、その考えが悪的であることを知らねばならぬ。来るべき新天地には、悪を殺さんとし悪を悪として憎む思念はなくなる。しかし、それが最高の理想郷ではない。更に弥栄して高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れることを知り、努力しなければならぬ。
■第八帖 (三八五)
生前の世界に、霊人が生活している。山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。しかし、それは最初からのものではない。それらの元をなす*が歓喜していた、その*が生後、地上世界にうつされて、地上的約束の下に生長し、秩序されたがため、その結果が、死後の世界につづき、死後の世界の様相は*の原理によって、生前世界に移行して、生前的に進展し、弥栄し、その*を幾度となく繰り返すうちに、漸次、内的*に向って弥栄する面と、外的、地上的に進む*と、その交叉融和することによって更に生み出され弥栄する  と、その各々が各々の立場に於て、すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、遠ざかりつつ生長する。また、生命の大歓喜として湧き出ている。故に、地獄にあらざる地獄的霊界、天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、霊人により育てられると同時に、人々により生み、人々により育てられ、歓喜されるのである。かく弥栄進展するが故に、人類も霊人類も、各々その最後の審判的段階に入る迄は、真の三千世界の実相を十分に知り得ない。故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、何れも  の形に於けるが如く同一形式のものではあるが、同一のものではない。より小なるものより、より大なるものが生れ、より大なるものより、より小なるものが生れ、より新しきものより、より古きものが生れ、より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、一つの太陽が二つとなり、三つとなり、更には一つとなることを理解しない。月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。これは外部的なる智によらず、内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、その以前の自分の総ては失わない。只その位置を転換されるのみである。地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、それは大いなる喜びである。何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。総てのものは歓喜に向かい、歓喜によって行為する。歓喜がその目的であるが故に、歓喜以外の何ものも意識し得ない。故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、真理はなく、生命はない。生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。歓喜は行為となる。行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。只考えたり意志するのみでは萌え出でない。生命しない。只意志するだけで行為しないことは、まことに意志することではない。霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。地上人にありては物質によりて物質の中に、その意志を行為することによって始めて歓喜となり、形体を為し弥栄えるのである。生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、美の歓喜の四段階と、その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、自ら一つの社会を形成する。自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。否、苦しくて住み得ないのである。若しその苦に耐え得んとすれば、その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。例えば、愛の歓喜に住む霊人は、その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、幾万人かの集団の中に住み、同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。故に、生前の世界では、自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、自分と調和する。山も川も家も田畑も、そこに住む霊人たちも、動物も植物も鉱物も、総て自分自身と同一線上にあり、同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。自分は他であり、他は自分と感覚する。故に、その性質は生後にも続き、地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。死後の世界もまた生前と同様であるが、一度 物質世界を通過したものと、しないものとの相違が生じてくるのである。だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。物質は物質的には永遠性をもたず、霊は永遠性をもつが、霊的角度から見れば永遠性はもたない。しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、永遠から永遠に弥栄してゆくものである。而して、永遠性をもつ事物は、地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、その融合の上に生命が歓喜するのである。無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。
■第九帖 (三八六)
霊、力、体の三つがよりよく調和する処に真実が生れ、生命する。これは根元からの存在であり用であるが、動き弥栄する道程に於て、復霊、復力、復体の*(うごき)をなす。霊の立場よりすれば、霊は善であって、体は悪、体の立場よりすれば、体は善であって、霊は悪である。悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。悪は悪善として神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。力がそこに現れ、呼吸し、脈打ちて生命する。故に生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、地上人との交流によって始めて善悪として力を生じ、生命してゆく。地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。而して、尚地上人は死後の世界に通じなければならぬ。死後の世界との関連により複数的悪善におかれる。善悪善の立場におかれる場合が多いために、地上に於ける司宰神としての力を自ら与えられるのである。善悪の生かされ、御用の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにても また同様である。故に神は悪を除かんとは為し給わず、悪を悪として正しく生かさんと為し給うのである。何故ならば、悪もまた神の御力の現われの一面なるが故である。悪を除いて善ばかりの世となさんとするは、地上的物質的の方向、法則下に、総てをはめんとなす限られたる科学的平面的行為であって、その行為こそ、悪そのものである。この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。悪を消化し、悪を抱き、これを善の悪として、善の悪善となすことによって、三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。地上人のもつ想念の本は霊人そのものであり、霊人のもつ想念の本は神であり、神のもつ想念の本は大歓喜である。故に、地上人は霊人によって総ての行為の本をなし、霊人は神により、神は大歓喜によりて総ての行為の本とする。故に、地上人そのもののみの行為なるものはない。何れも、神よりの内流による歓喜の現われであることを知らねばならぬ。歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。霊に属するものは常に上位に位し、体に属するものは、常に下位に属するのであるが、体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。しかし、差のない立場に於て差をつくり出さねば、力を生み出すことは出来ず、弥栄はあり得ない。すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。動きがあるが故に、反動があり、そこに力が生れてくる。霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。悪があってもならぬが、悪が働かねばならない。常に、動き栄えゆく、大和の  を中心とする上下、左右、前後に円を描き、中心を  とする立体的うごきの中に呼吸しなければならない。それが正しき惟神の歓喜である。惟神の歓喜は総てのものと交流し、お互いに歓喜を増加、弥栄する。故に、永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。
■第十帖 (三八七)
地上人は、内的に生前の霊人と通じ、また死後の霊人と通ずる。地上人が、生前を知得するのは、この霊人を通ずるが故であり、死後を知得するのも、また同様に通ずるからである。生前と死後は同一線上におかれているが同一ではない。地上には、物質的形式があり、霊界には霊的形式がある。その形式は歓喜の交叉し、発する処によって自ら成るものである。形式なくしては合一なく、力なく、形式あるが故にものが総てに合一し、弥栄し、力し、大弥栄するのである。形式の中に和することは、その個々が、差別されているからである。差別し、区分せられることは、その各々に、各々が共通する内質をもつからである。共通性なきものは、差別し、区分することができない。霊界と現実界との関係はかかるものであるが故に、常に相応し、力し、力を生じ、また常に、相通じて力を生みゆく。これは、平面的頭脳では、中々に理解しがたいのであるが、この根本原理を体得、理解し得たならば、神、幽、現、三界に通じ、永遠に弥栄する大歓喜に住するのである。されば差別は、平等と合一することによって立体の差別となり、平等は差別と合一することによって立体平等となり得る。霊人が地上人と和合し、また地上人が霊人と和合し、弥栄するのは、この立体平等と立体差別との弥栄ゆるが為であることを知らねばならぬ。この二つの相反するものを統一し、常に差別しつつ平等に導き、立体していく力こそ、神そのものの力であり、歓喜である。この二つの力と神の歓喜なくしては、地上人なく、また霊人もあり得ないのである。生成発展もなく神も歓喜し得ない。この力なくしては、地上人は霊人と和し、神に和し奉ることはできない。故に、生命しないのである。
■第十一帖 (三八八)
霊人は、遠くにいても近くにいても、常にお互いに語り得る。同一線上にいる霊人の言葉は、何れも同一であって共通する。霊人の言葉は、霊人の想念のままに流れ出るのであるから、そのままにして通ずるのである。しかし、相手がきくことを欲しない時には聞こえない。それは丁度テレビやラジオの如きものであると考えたらよい。またその語ること、その語音によって、その相手の如何なるものなるかを知り得るのである。即ち、その発音から、また言葉の構成から、その霊人の如何なるものなるかは、直ちに判明する。霊人の言葉と地上人の言葉とは本質的には同様であるが、その表現は相違している。故に、霊人と地上人と会話する時は、霊人が地上人の想念の中に入るか、地上人が霊人の想念に和するか、その何れかでなくてはならない。しかし、霊人の言葉は、地上人の言葉に比して、その内蔵するものが極めて深く広いが故に、霊人の一語は地上人の数十語、数百語に価する場合が多く、その霊人が高度の霊人であればあるだけに、その度を増してくるのである。原因と結果とを一つにし、更に結果より生ずる新しい原因も、新しい結果をも同時に表現し、なお言葉そのものが一つの独立せる行為となり、且つ一つの独立せる生きものとなって現われ、行為し、生命するからである。言葉そのものが弥栄であり、生命である。また総てであるということは、地上人には理解できぬであろう。それは、過去が現在であり、未来もまた現在であり、更に生前も、生後の立場においては生後であり、死後の立場においては死後である。また一里先も、百里先もまた千万里はなれていても、同一の場所であるのと同様であって理解するに極めて困難である。だが、地上人に於ても それを知り得る内的な生命をもっているのであるから、理解することは困難であるが不可能ではない。霊人の言葉は歓喜より発するが故に歓喜そのものであり、神の言葉でもあるが、その霊人のおかれている位置によって二つのものに大別し得る。歓喜の現われとしての愛に位置している霊人の言葉は、善的内容を多分に蔵している。故に、柔らかくして連続的であり、太陽の  (ひかり)と  (熱)とに譬えることができる。また、歓喜の現われとして真に位置する霊人の言葉は、智的内容を多分に蔵している。故に、清く流れ出でて連続的ではなく、或る種の固さを感じさせる。そしてそれは月の光と、水の如き清さとを感じさせる。また前者は曲線的であって消極面を表に出し、後者は直線的であって積極面を表に出している。また前者は愛に住するが故に、主としてOとUの音が多く発せられ、後者は智に住するが故に主としてEとIの音が多く発せられている。そして、その何れもがA音によって統一要約する神密極まる表現をなし、またそれを感得し得る能力をもっている。しかし、これらOU、EI及びAの母音は想念のをなすものであって、地上人よりすれば、言葉そのものとしては、感得し得ないことを知らねばならないのである。霊界に於ける音楽もまた同様であって、愛を主とした音楽はO及びUを多分に含み、曲線的であり、真を伝える音楽はI及びEの音が多く、直線的である。それは、言葉そのものが かかる内質をもっており、各々が霊界に於ける生命の歓喜の表現なるが為である。またこれら霊人の言葉は、天的の韻律をもっている。即ち愛を主とするものは、五七七律を、真を主とするものは、三五七律を主としているが、その補助律としては、千変万化である。言葉の韻律は、地上人が肉体の立体をもっている如く、その完全、弥栄を示すものであって、律の不安定、不完全なものは、正しき力を発揮し得ず、生命力がないのである。
■第十二帖 (三八九)
霊人が地上人に語る時は、その想念が同一線上に融和するが為である。霊人が地上人に来る時は、その人の知る総てを知ることとなるのであるが、その語るのは霊人自身でなくて、霊人と和合して体的の自分に語るので、自分と自分が談話しているのである。霊人は現実界と直接には接し得ない。また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。しかし、それぞれの仲介を通じていっても、直接行なうのと同様の結果となるのである。為に地上人は直接なし得るものと考えるのである。地上人の想念の中には霊界が映像されており、霊人の想念の中には現実界が内蔵されている。故に、この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。しかし、映像と実相のへだたりは かなり遠いものである。霊人と地上人との交流において、この間の真相を知らねばならぬし、その互に交わされる談話に於ても前記の如くであることを知らねばならない。霊人も地上人も、自分自身と語り、自分自身の中に見、且つ聞いているのである。霊人が地上人に憑依したり、動物霊が人間に憑依したりすることは、前記の如き原則によってあり得ないのである。しかし、外部からの感応であり、仲介された二次的交流であっても、その度の強くなった場合、地上人から見れば憑依せると同様の結果を現わすものである。故に、神が直接、人間を通じて人語を発し、または書記するのではなくして、それぞれの順序を経て地上人に感応し、その地上人のもつそれぞれの人語を使用して語り、その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。しかし、神の言葉は、如何に地上人を通じて人語としても、その神に通ずる想念を内蔵せぬ地上人には、伝え得ないのである。語れども聞き得ず、読むとも その真意は通じ得ないのである。霊人の中には、自分達の住む霊界の他に、別の世界が限りなく存在することを知らず、また、その世界に住む霊人を知らず、また物質世界と地上人を知らない場合もある。それは丁度、地上人の多くが、生前及び死後の世界を信じないのと同様である。
■第十三帖 (三九〇)
地上人が、限りなき程の想念的段階をもち、各々の世界をつくり出している如く、霊界にも無限の段階があり、その各々に、同一想念をもつ霊人が住んでおり、常に弥栄しつつある。下級段階で正なりとし、善を思い、美を感じ、真なりと信じ、愛なりと思う、その想念も上級霊界に於ては必ずしもそうではない。美も醜となり、愛も憎となり、善も真も そのままにして善となり、真と現われ得ない場合がある。其処に偉大にして、はかり知られざる弥栄の御神意がある。と同時に、 *(真善) *(真善美愛) *(歓喜)  (大歓喜)と現われる神秘なる弥栄があり、悪の存在、偽の必然性などが判明するのである。故に、下級霊人との交流は、地上人にとっても、霊人にとっても、極めて危険極まりないものではあるが、半面に於ては、極めて尊いものとなるのである。下級霊人自身が *(善)なりと信じて行為することが、地上人には * (悪)と現われることが多いのである。何故ならば、かかる下級霊と相通じ、感応し合う内的波調をもつ地上人は、それと同一線上にある空想家であり、極めて狭い世界のカラの中にしか住み得ぬ性をもち、他の世界を知らないからである。それがため、感応してくる下級霊の感応を、全面的に信じ、唯一絶対の大神の御旨なるが如くに独断し、遂には、自身自らが神の代行者なり、と信ずるようになるからである。所謂(いわゆる)、無き地獄をつくり出すからである。地獄的下級霊の現われには、多くの奇跡的なものをふくむ。奇跡とは大いなる動きに逆行する動きの現われであることを知らねばならない。かかる奇跡によりては、霊人も地上人も向上し得ない。浄化し、改心し得ないものである。また、霊人と地上人との交流によるのみでは向上し得ない。脅迫や、賞罰のみによっても向上し得ない。総て戒律的の何ものによっても、霊人も地上人も何等の向上も弥栄も歓喜もあり得ない。半面、向上の如くに見ゆる面があるとも、半面に於て同様の退歩が必然的に起ってくる。それは強(シ)いるが為である。神の歓喜には、強いることなく、戒律する何ものもあり得ない。戒律あるところ必ず影生じ、闇を生み出し、カスが残るものである。それは、大神の内流によって弥栄する世界ではなく、影の世界である。中心に座す太神のお言葉は、順を経て霊人に至り、地上人に伝えられるのであるが、それはまた霊界の文字となって伝えられる。霊界の文字は、主として直線的文字と曲線的文字の二つから成る。直線的なものは、月の霊人が用い、曲線的な文字は、太陽の霊人が使用している。但し、高度の霊人となれば文字はない。ただ文字の元をなす  と  と  があるのみ。また高度の霊界人の文字として、殆ど数字のみが使用されている場合もある。数字は、他の文字に比して多くの密意を蔵しているからである。しかし これは不変のものではなく、地上人に近づくに従って漸次変化し、地上人の文字に似てくるのである。
■第十四帖 (三九一)
霊界には、時間がない。故に、霊人は時間ということを知らない。其処には、霊的事物の連続とその弥栄があり、歓喜によって生命している。即ち、時間はないが状態の変化はある。故に、霊人たちは時間の考えはなく、永遠の概念をもっている。この永遠とは、時間的なものは意味せず、永遠なる状態を意味するのである。永遠と云うことは、時間より考えるものではなく、状態より考えるべきである。故に、霊人が地上人に接し、地上人に語る時は、地上的固有的な一切をはなれて、状態とその変化による霊的なものによって語るのである。しかし、この霊人の語る所を地上人がうけ入れる時は、対応の理により、それが固有的地上的なものと映像されてくるのである。また、地上人に感応して語る時は、その霊媒の思念を霊人の思念として語るが故に、固有的表現となり、地上人にも十分に理解しうるのである。多くの地上人は、霊人を知らない。霊人には、地上世界に顕現する総てのものの霊体が存在すると云うことを中々理解しないし、霊人は反対に、霊界を物質的に表現した物質地上世界のあることを中々に理解しない。但し、死後の霊人は、相当に長い間 地上世界のことを記憶しているものである。地上人が、何故 霊界のことを理解し難いかと言うと、それは、地上的物質的感覚と、地上的光明の世界のみが、常にその対象となっているからである。例えば霊人とは、地上人の心に通じ、或いは、心そのものであると考えるためである。つまり、霊人は、心であるから、目も、鼻も、口もなく、また、手足などもない、と考えるからである。所が実際は、霊人そのものが手をもつが故に地上人に手があり、指をもっているが故に、地上人に指が生ずることを知らなければならない。しかも、霊人は、地上人より遥かに精巧にできていることは、それを構成するものが精巧であることによって立証されるであろう。霊人は、地上人にまして一段と光明の世界にあり、一段とすぐれた霊体を有している。霊界に於ける事物は総て霊界における太陽と、太陰とによりて生れてくる。それは、地上に於ける場合と同じである。太陽と、太陰との交叉により生ずる歓喜によって、その生れたるものは更に一層の光輝を放ち、弥栄となる。また、霊界には物質世界の如く空間はない。このことを地上人は中々に理解しないのである。霊界に於ける場所の変化は、その内分の変化に他ならない。霊界に距離はない。空間もない。只、あるものはその状態の変化のみである。故に、離れるとか、分れるとか云うことは、内分が遠くはなれていて、同一線上にないことを物語る。物質的約束に於ける同一場所にあっても、その内分が違っている場合は、その相違の度に、正比較、正比例して、遠ざかっているのである。故に、地上的には、同一場所に、同一時間内に存在する幾つかの、幾十、幾百、幾千万かの世界、及びあらゆる集団も、内分の相違によって、感覚の対象とならないから、無いのと同様であることを知り得るのである。
■第十五帖 (三九二)
霊界には、山もあり、川もあり、海もあり、また、もろもろの社会があり、霊界の生活がある。故に、其処には霊人の住宅があり、霊人はまた衣類をもつ。住宅は、その住む霊人の生命の高下によって変化する。霊人の家には、主人の部屋もあれば、客室もあり、寝室もあり、また、食堂もあり、風呂場もあり、物置もあり、玄関もあり、庭園もある、と云ったふうに、現実世界と殆ど変りがない。と云うことは、霊人の生活様式なり、思想なりが、ことごとく同様であると云うことを意味する。
また、内分を同じくする霊人たちは、相集まり、住宅は互に並び建てられており、地上に於ける都会や村落とよく似ている。その中心点には多くの場合、神殿や役所や学校等あらゆる公共の建物が、ほどよく並んでいる。そして、これらの総てが霊界に存在するが故に、地上世界に、それの写しがあるのである。霊界を主とし、霊界に従って、地上にうつし出されたのが、地上人の世界である。地上人は、物質を中心として感覚し、且つ考えるから、真相が中々につかめない。これら総ての建物は、神の歓喜を生命として建てられたものであって、霊人の心の内奥にふさわしい状態に変形され得る。また天人の衣類も、その各々がもつ内分に正比例している。高い内分にいる霊人は高い衣を、低いものは低い衣を自らにして着することとなる。彼等の衣類は、彼らの理智に対応しているのである。理智に対応すると云うことは、真理に対応すると云うことになる。但し、最も中心に近く、太神の歓喜に直面する霊人たちは衣類を着していないのである。この境地に到れば、総てが歓喜であり、他は自己であり、自己は他であるが故である。しかし、他よりこれを見る時は、見る霊人の心の高低によって、千変万化の衣類を着せる如く見ゆるのである。また、衣類は総て霊人の状態の変化によって変化して行くものである。霊人はまた、いろいろな食物を食している。云う迄もなく霊人の食物であるが、これまたその霊人の状態によって千変万化するが、要するに歓喜を食べているのである。食べられる霊食そのものも、食べる霊人も何れも、食べると云うことによって歓喜しているのである。地上人の場合は、物質を口より食べるのであるが、霊人は口のみでなく、目からも、鼻からも、耳からも、皮膚からも、手からも、足からも、食物を身体全体から食べるものである。そして、食べると云うことは、霊人と霊食とが調和し、融け合い、一つの歓喜となることである。霊人から見れば、食物を自分自身たる霊人の一部とするのであるが、食物から見れば霊人を食物としての歓喜の中に引き入れることとなるのである。これらの行為は、本質的には、地上人と相通ずる食物であり、食べ方ではあるが、その歓喜の度合および表現には大きな差がある。食物は歓喜であり、歓喜は神であるから、神から神を与えられるのである。以上の如くであるから、他から霊人の食べるのを見ていると、食べているのか、食べられているのか判らない程である。また霊人の食物は、その質において、その霊体のもつ質より遠くはなれたものを好む。現実社会に於ける、山菜、果物、海草等に相当する植物性のものを好み、同類である動物性のものは好まない。何故ならば、性の遠くはなれた食物ほど歓喜の度が強くなってくるからである。霊人自身に近い動物霊的なものを食べると歓喜しないのみならず、返って不快となるからである。そして霊人は、これらの食物を歓喜によって調理している。そしてまた与えられた総ての食物は、悉く食べて一物をも残さないのである。すべての善は  より起り、  にかえるのと同様、総ての悪もまた  より起り  にかえる。故に、神をはなれた善はなく、また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。殊に地上人はこの善悪の平衡の中にあるが故に、地上人たり得るのであって、悪をとり去るならば、地上人としての生命はなく、また善は無くなるのである。この悪を因縁により、また囚われたる感情が生み出す悪だ、と思ってはならない。この悪があればこそ、自由が存在し、生長し、弥栄するのである。悪のみの世界はなく、また善のみの世界はあり得ない。所謂、悪のみの世界と伝えられるような地獄は存在しないのである。地上人は、霊人との和合によって神と通ずる。地上人の肉体は悪的な事物に属し、その心は善的霊物に属する。その平衡するところに力を生じ、生命する。しかし、地上人と、霊人と一体化したる場合は、神より直接に地上人にすべてが通じ、すべてのものの  が与えられると見えるものである。これを、直接内流と称し、この神よりの流入するものが、意志からするときは理解力となり、真理となる。また、愛より入るときは善となり、信仰力となって現われる。そして、神と通ずる一大歓喜として永遠に生命する。故に、永遠する生命は愛と離れ、真と離れ、また信仰とはなれてはあり得ないのである。神そのものも神の法則、秩序に逆らうことは出来ない。法則とは歓喜の法則である。神は歓喜によって地上人を弥栄せんとしている。これは、地上人として生れ出ずる生前から、また、死後に至るも止まざるものである。神は、左手にて  の動きをなし、右手にて  の動きを為す。そこに、地上人としては割り切れない程の、神の大愛が秘められていることを知らねばならぬ。地上人は、絶えず、善、真に導かれると共に、また、悪、偽に導かれる。この場合、その平衡を破るようなことになってはならない。その平衡が、神の御旨である。平衡より大平衡に、大平衡より超平衡に、超平衡より超大平衡にと進み行くことを弥栄と云うのである。左手は右手によりて生き動き、栄える。左手なき右手はなく、右手なき左手はない。善、真なき悪、偽はなく、悪、偽なき善、真はあり得ない。神は善、真、悪、偽であるが、その新しき平衡が新しき神を生む。新しき神は、常に神の中に孕み、神の中に生れ、神の中に育てられつつある。始めなき始めより、終りなき終りに到る大歓喜の栄ゆる姿がそれである。
■第十六帖 (三九三)
考えること、意志すること、行為することの根本は、肉体からではない。霊的な内奥の自分からである。この内奥の自分は、神につながっている。故に、自分自身が考え、意志し、行為するのではなく、自分と云うものを通じ、肉体を使って、現実界への営みを神がなし給うているのである。其処に、人が地上に於ける司宰者たる、また、たり得る本質がある。地上人が死の関門をくぐった最初の世界は、地上にあった時と同様に意識があり、同様の感覚がある。これによって、人の本体たる霊は、生前同様に、霊界でも見、聞き、味わい、嗅ぎ、感じ、生活することが出来るのである。しかし肉体をすてて、霊体のみとなり、霊界で活動するのであるから、物質は衣にすぎないことが判明する。肉体をもっている地上人の場合は、その肺臓が想念の現われとなって呼吸する。霊界に入った時は、霊体の肺臓が同様の役目を果たすようになっている。また、心臓は、その情動の現われとなって脈打つ。霊体となってもまた同様であることを知らねばならぬ。この二つのうごきが、一貫せる生命の現われであって、生前も、生存中も、死後も、また同様である。肉体の呼吸と脈拍とは、新しき霊体の呼吸と脈拍に相通じ、死の直後に霊体が完全するまでは、肉体のそれは停止されないのである。かくて、霊界に入った霊人たちは、総て生存時と同じ想念をもっている。為に死後の最初の生活は生存時と殆ど同一であることが判明するであろう。故に、其処には地上と同様、あらゆる集団と、限りなき段階とが生じている。而して、霊界に於ては、先に述べた如き状態であるが故に、各人の歓喜は、死後の世界に於ても、生前の世界に於ても、これに対応する霊的の事物と変じて現われるものである。この霊的事物は、地上の物質的事物に対応する。人間が、物質界にいる時は、それに対応した物質の衣、即ち肉体をもち、霊界に入った時はそれに相応した霊体をもつ。そして、それはまた完全なる人間の形であり、人間の形は、霊人の形であり、神の形であり、更に大宇宙そのものの形である。大宇宙にも、頭があり、胴があり、手足があり、目も、鼻も、口も、耳もあり、又内臓諸器官に対応するそれぞれの器官があって、常に大歓喜し、呼吸し、脈打っていることを知らねばならない。大歓喜は無限であり、且つ永遠に進展して行くのである。変化、進展、弥栄せぬものは歓喜ではない。歓喜は心臓として脈打ち、肺臓として呼吸し発展する。故に、歓喜は肺臓と心臓とを有する。この二つは、あらゆるものに共通であって、植物にもあり、鉱物にすら存在するものである。人間の場合は、その最も高度にして精妙なる根本の心臓と肺臓に通ずる最奥の組織を有する。これはもはや心臓と表現するには あまりにも精妙にして、且つ深い広い愛であり、肺臓として呼吸するにはあまりにも高く精巧なる真理である。而して、この二者は一体にして同時に、同位のものとなっていることを知らねばならない。それは心臓としての脈拍でもなく、肺臓としての呼吸でもない。表現極めて困難なる神秘的二つのものが一体であり、二つであり、三つの現われである。其処に人間としての、他の動物に比して異なるもの、即ち、大神より直流し来るものを感得し、それを行為し得る独特のものを有しているのである。人間が、一度 死の関門をくぐり、肉体をすてた場合は、霊そのものの本来の姿に帰るのであるが、それは直ちに変化するものではなくして、漸次その状態に入るのである。第一は極外の状態、第二は外の状態、第三は内的状態、第四は極内的状態、第五は新しき霊的生活への準備的状態である。七段階と見る時は、内と外との状態を各々三段階に分け、三つと見る時は内、外、準備の三つに区分するのである。
■第十七帖 (三九四)
地獄はないのであるが、地獄的現われは、生前にも、生後にも、また死後にもあり得る。しかし、それは第三者からそのように見えるのであって、真実の地獄ではない。大神は大歓喜であり、人群万類の生み主であり、大神の中に、すべてのものが生長しているためである。死後、一先ずおかれる所は、霊、現の中間の世界であり、其処では中間物としての中間体をもっている。意志のみでは力を生まない。理解のみでも進展しない。意志と、理解との結合によって弥栄する。このことは、中間の状態、即ち、死後の最初の世界に於て、何人もはっきりと知り得る。しかし、生存時に於て、既に過去を精算している霊人は、この中間世界にとどまる必要はなく、その結果に対応した状態の霊界に、直ちに入るのである。精算されていないものは、精算が終るまで、この中間世界にとどまって努力し、精進、教育される。その期間は五十日前後と見てよいが、最も長いものは十五、六年から二十年位を要する。この中間世界から天国的世界をのぞむ時は、光明にみたされている。故に、何人も、この世界へ進み易いのである。また、地獄的な世界は暗黒に満たされている故に、この世界に行く扉は閉ざされているのと同様であって、極めて進みにくいのである。天国には昇り易く、地獄にはおち難いのが実状であり、神の御意志である。しかし、この暗黒世界を暗黒と感ぜずして進みゆくものもあるのであって、そのものたちには、それがふさわしい世界なのである。其所(そこ)に、はかり知れない程の大きく広い、神の世界が展かれている。この地獄的暗黒世界は、暗黒ではあるが、それは比較から来る感じ方であって、本質的に暗黒の世界はなく、神の歓喜は限りないのである。以上の如く、中間世界からは、無数の道が無数の世界に通じており、生前から生後を通じて、思想し、行為したことの総決算の結果に現われた状態によって、それぞれの世界に通ずる道が自らにして目前にひらかれてくるのである。否、その各々によって自分自身が進むべき道をひらき、他の道、他の扉は一切感覚し得ないのである。故に、迷うことなく、自分の道を自分で進み、その与えられた最もふさわしい世界に落ち付くのである。他から見て、それが苦の世界、不純な世界に見えようとも、当の本人には楽天地なのである。何故ならば、一の世界に住むものには、二の世界は苦の世界となり、二の世界に住むものには、一の世界は また苦の世界と感覚するからであって、何れも自ら求むる歓喜にふさわしい世界に住するようになっているのである。また一の世界における善は、二の世界では善でなく、二の世界の真が一の世界に於ては真でない場合も生じてくる。しかし、その総ての世界を通じ、更に高き  に向って進むことが、彼等の善となるのである。  は中心であり、大歓喜であり、神である。死後の世界に入る時に、人々は先ず自分の中の物質をぬぎすてる。生存時に於ては物質的な自分、即ち肉体、衣類、食物、住宅等が主として感覚の対象となるから、そのものが生命し、且つ自分自身であるかの如くに感ずるのであるが、それは自分自身の本体ではなく、外皮に過ぎない。生長し、考慮し、行為するものの本体は、自分自身の奥深くに秘められた自分、即ち霊の自分である。霊の自分は、物質世界にあっては物質の衣をつける。故に、物質的感覚は、その衣たる物質的肉体のものなりと錯覚する場合が多いのである。しかし、肉体をすてて霊界に入ったからと云って、物質が不要となり、物質世界との因縁がなくなってしまうのではない。死後といえども、物質界とは極めて密接なる関係におかれる。何故ならば、物質界と関連なき霊界のみの霊界はなく、霊界と関連なき物質のみの物質界は、呼吸し得ないからである。生前の霊界、生後の物質界、死後の霊界の何れもが不離の関係におかれて、互に呼吸しあっている。例えば、地上人は生前世界の気をうけ、また死後の世界に通じている。現実世界で活動しているのが、半面に於ては生前の世界とも、また死後の世界とも深い関連をもっており、それらの世界に於ても、同時に活動しているのである。
■第十八帖 (三九五)
神から出る真、善、美、愛の用に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、段階によって自ら定まる。為にその用は無数であり、且つ千変万化する。歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。そして、その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。故に、何れの面の用をなすとも、自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。なお注意すべきことは、霊界において、権利なるものは一切感ぜず、義務のみを感じているということである。即ち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。為に、命令的なものはない。只、ひたすら奉仕があるのみである。その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。何故ならば、霊と物とは対応しているからである。生前は生後であり、死後はまた生前であって、春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている。従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。陽人と、陰人とである。陽人は、陰人のために存在し、陰人は、陽人の為に存在する。太陽は、太陰によりて弥栄え、太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである。この二者は、絶えず結ばれ、また絶えず反している。故に、二は一となり、三を生み出すのである。これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。三を生むとは、新しき生命を生み、且つ歓喜することである。新しき生命とは新しき歓喜である。歓喜は物質的形体はないが、地上世界では物質の中心をなし、物質として現われるものである。霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。また、悪があればこそ生長し、弥栄し、且つ救われるのである。故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。
■第十九帖 (三九六)
天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、  によって現わされ、他の二人は、  によって現わされる。  は、左右上下 二つの動きの  を為すところの立体*からなっている。統治者の心奥の*は、更に高度にして、更に内奥に位する*の中の*によって統一され、統治され、立体*をなしている。天国では、この*を、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではない。礼拝生活である。総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球の如き現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜の  が感じられるのみである。この歓喜の  が、真、善、美、愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。
参考文献
岡本天明・筆 『ひふみ神示』

大摩邇(おおまに)
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2157284.html

Hifumi
http://hifumi.uresi.org/jisinnnomakiimg/page_thumb1.html

2018年12月23日日曜日

出揃った韓国「破滅」の条件。米韓同盟終了と日本の資金援助拒否

出揃った韓国「破滅」の条件。米韓同盟終了と日本の資金援助拒否
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2018.11.06 
513 by 津田慶治『国際戦略コラム有料版』
tsuda20181105
「政治思想の欠落」を疑われても仕方のないようなトランプ外交に翻弄され、世界の米国離れが進行しています。
「もっとも顕著なのが韓国」とするのは、メルマガ『国際戦略コラム有料版』の著者・津田慶治さん。
津田さんは今回の記事で、南北統一にひた走る文在寅大統領の思惑と、北朝鮮との統一が韓国にもたらす負の側面を記しています。
米中貿易戦争の緩和か
11月第1週は、株が下落していたがトランプと習近平の電話首脳会談で貿易摩擦緩和で一致したという。どうなるか?
株価上昇の原因
NY株は、10月3日に2万6,651ドルと過去最高値を付けて、10月26日に
2万4,688ドル
まで下がったが、11月1日2万5,380ドルに戻したが、11月2日は
2万5,270ドル
と前日より109ドル下げた。中国と米国の電話首脳会談が実現して、11月の首脳会談で合意草案策定をトランプ大統領は指示したと報道、その後、ホワイトハウス高官やクドロー米国家経済会議(NEC)委員長が早期の米中の貿易合意に否定的な見方を示したことで、下げている。
しかし、日経平均は、合意草案の報道を受けて空売りの買戻しで11月1日に550円以上も上げて2万2,243円まで上昇した。日本も10月2日に2万4,448円と6年ぶりの高値を付けたが、10月26日に2万0,971円と下げていたが、戻した。
前回「アメリカ、終わりの始まり。それでも中国とは距離を置くべき理由」で、米中貿易戦争の一時休戦などの政治的な取り組みがないと、下落が続くとしたが、トランプ大統領も暴落の原因が米中貿易戦争であると見て、日本の安倍首相に中国 と米国との仲介を依頼したと見ている。
そして、安倍首相により中国に、日本が経験した米国との貿易摩擦の対処方法を説得し、中国が対応を変えたようであるが、そのことを中国国民に隠すために、中国が日本より上を演出したのであろう。
安倍首相訪中に米国は、非難しなかった理由でもある。
安倍首相は、帰国後米国のトランプ大統領に中国の妥協した事項を伝えて、米国から電話して米中電話首脳会談が実現し、妥協が成り立った可能性もある。
中国の対応が大きく変化し柔軟になっている。
しかし、まだ、妥協事項についてはわからないし、トランプ大統領の得意な交渉の駆け引きかもしれないし、中間選挙のために株価を上げるためだけに、わざと仕組んだ可能性も否定できない。
株価の今後の動向
IMFは、2019年の経済見通しを下方修正し、アップルの決算報告は良かったが、今後の見通しを述べなかったことで期待値に達しないと、アップルまでもが株価を下げてしまった。
これでFANG株すべてが値下がりになった。NY小型株はほとんど下げているし、J&JやPGなどのデフェンシブ株だけが良い。
しかし、ハイイールド債の暴落はまだないので、景気の後退期には入っていない。
一進一退の景気状況のようである。
日本企業も減額修正が多くなり、すべての企業が増収増益の感じから少し変化して、景気の変わり目を予兆している。
これは、相場の大きな転換点になっている。そして、2019年3月以降景気減速が明確化する可能性が高い。
3月以降は、米減税の効果が剥がれてくるこ とになり、景気を支えるものがない。
よって、空売りの戻り買いしかないので、自立反発も長続きはしない。
だから、10月2日に付けた2万4,448円を上抜けはしない。
株価は、将来を織り込むので、景気後退が見えてきた現時点では、それを織り込み始める。
悪い材料が出ると空売りが50%を超えて株価が暴落し、良い材料が出ると暴騰の繰り返しになる。
上下動に激しい相場になる。しかし、企業業績が徐々に下向きになるので、株価は徐々に下がることになる。
ということで、下げのエリオット波動が始まり、第1波が来たようでもある。
上下しながら、下がっていくことになる。景気後退期になり、金融政策も変化させる必要になる。
金融政策
次回のFRBの利上げは難しい。株価の暴落になる と利上げはできない。
というより、金融緩和に戻る可能性も高い。量的緩和で資金が市中にダブつき賃金上昇によるインフレ圧力は高く、米国債金利上昇で景気後退になるとスタグフレーションとなり、最悪になるので、その前に処置をしないといけなくなる。
インフレが大きくなる前に米国が景気回復の金融緩和すると、日本はどうするかということになる。
現時点でも1ドル=113円であり、金利差が縮小すると円高の可能性も出てくる。
景気後退期に入り、日本の金融政策の方が難しい。
円高で不景気になるが、より強い量的緩和を行うと、株式市場も市場機能が失われる。
現時点ではPERが13倍程度と株が安い状態であり、市場機能は健全であるが、企業利益が少なくなり、PERが16倍以上になると 、株が高い状態になり、日銀のETF買いは市場機能を損なう可能性が出てくる。
金融政策でもマイナス金利で現時点でも金融機関の利益がなくなり、地方銀行が大変なのに、不景気になったら貸出先もなくなることで一層存続が見通せなくなる。
非常にアクロバット的な金融政策にするしかなくなる。
PERの数値に基づく日銀ETF買いと短期金利をゼロ%にして10年国債の金利を引き上げて1%にした国債買いを行うことにするしかない。
この処置を景気後退前にすることである。景気後退が明確化した後では、この処置もできなくなる。
しかし、不景気で輸出がなくなると経常収支が大幅な赤字になり、円安に振れるので、その時は不景気化のインフレ(スタグフレーション)になり、打つ手なしになる。
インフレが加速しないように金利を上げるしかない。
この状態にならないような財政金融政策を取っていくことが重要でしょうね。
ということで、今まで私が提言した金融財政政策を無視したことで、非常に難しい状況になってきている。
米国のトランプ大統領と共和党幹部との違い
米国中間選挙が日本時間11月7日(水)の昼に分かるが、この選挙の途中結果が発表されるごとに株価が上下することになりそうである。
トランプ大統領は、共和党のペンス副大統領などの国際派とは違い、政治思想なく自分の評判しか関心がない。
今の時点、景気を維持して株価維持の方が、対中国貿易戦争で強硬な手段を取ることより優先レベルが高いようである。
為替条項を日本とのFTA交渉でも入れると いうように、中国に対抗するための日米同盟重視でもない。
その時々の自己評価優先である。このため、右と左に大きく振れるので、トランプ政策の予測が難しい。
世界は予測できないトランプ外交を信用できなくなり、米国を頼りにできないために、米国抜きの外交にシフトしている。
その最も進んでいるのが韓国である。
韓国の変化
韓国は、核付き南北統一に突き進んでいる。そして、韓国の有事指揮権も米国から韓国に移管するという。
これで、在韓米軍は、韓国指揮下では戦えないので、在韓米軍は撤退になるだろう。米韓同盟も終了になる。
韓国は対北朝鮮国境線を無防備にするというし、人的往来を自由化するというし、北朝鮮と合併するしかない。
北朝鮮での鉱山ビジネスや安 価な労働力などを手に入れるが、膨大なインフラ建設などの負担がかかってくる。経済的な観点がない。
勿論、日本は、慰安婦問題や徴用工問題で、韓国との対立があり、韓国からの資金支援要請を受けないだろうし、北朝鮮の拉致問題が解決しないことから、北朝鮮への資金援助もしないはず。
文在寅大統領は、核付きの強大国になる夢を追いかけ始めた。日本に対しても核兵器で脅せる。
このような政策の理由は、賃金の引き上げ政策で、韓国経済を弱めてしまい、経済の起爆剤が欲しいからのようだ。
韓国経済は、今サムソンとLG以外は不景気であり、就職先がないので韓国の学生の多くが日本企業に就職する道を志向している。
文在寅大統領は、韓国経済の起爆剤として、韓国の鉄道をロシア鉄 道に繋げて、釜山をユーラシア横断鉄道の起点としたり、北朝鮮の鉱山開発をするようである。
世界分割ゲーム
トランプ外交が信用できないので、世界を再分割するゲームが起きている。
イスラエルが一番心配である。米国を頼りにしてきたが、中東撤退の方向であり、サウジとの友好関係でイラン対抗をしようとしたが、サウジと米国の関係がおかしくなり、近傍に味方がいなくなる状況になっている。
このため、イスラエルのネタニエフ首相は、サウジとの友好関係を維持すると表明した。
サウジもロシアとの関係を強固にするということで、ロシアが中東を取り、中国がアフリカと東南アジアを取り、日本とインド、ベトナムなどは共同して中国の進出を緩和しようとしている。
米国 は孤立化し、カナダは欧州に寄り、中南米は迷っている。中国は中南米にも手を出し始めている。
欧州は、中をまとめるのに忙しく他地域への関心はない。これは、中露による世界分割劇になっている。
ここでも日月神示の予言が実現している。
さあ、どうなりますか?

MV
https://www.mag2.com/p/news/375394?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000125_sat&utm_campaign=mag_9999_1222&l=unq0156e88


2016年6月19日日曜日

一二三(ひふみ)神示


一二三(ひふみ)神示(日月神示) エドはどうしても火の海ぞ
出口王仁三郎・ひふみ(一二三・日月)神示 > 出口王仁三郎・ひふみ神示(一二三・日月神示) - 2011年05月26日 (木)
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キの巻  第9帖
昭和20年01月29日(1945年) - 昭和20年03月20日(1945年)
悪(ワル)いこと待(マ)つは悪魔(アクマ)ぞ、
何時(イツ)建替(タテカエ)、大峠(ダイトウゲ)が来(ク)るかと
待(マ)つ心(ココロ)は悪魔(アクマ)に使(ツカ)はれてゐるのざぞ。
この神示(フデ)世界中(セカイジュウ)に知(シ)らすのざ、
今迄(イママデ)は大目(オオメ)に見(ミ)てゐたが、
もう待(マ)たれんから見直(ミナオ)し聞(ヒラ)き直(ナオ)しないぞ、
神(カミ)の規則通(キソクドオ)りにビシビシと出(デ)て来(ク)るぞ、
世界(セカイ)一平(ヒトヒラ)に泥(ドロ)の海(ウミ)であったのを、
つくりかためたのは国(クニ) (ノ)常立(トコタチ) (ノ)尊(ミコト)であるぞ、
親様(オヤサマ)を泥(ドロ)の海(ウミ)に
お住(ス)まひ申(モウ)さすはもったいないぞ、
それで天(テン)におのぼりなされたのぞ。
岩(イワ)の神(カミ)、荒(アレ)の神(カミ)、
雨(アメ)の神(カミ)、風(カゼ)の神(カミ)、
地震(ジシン)の神殿(カミドノ)、
この神々様(カミガミサマ)、御手(ミテ)伝(ツタ)ひで
この世(ヨ)のかため致(イタ)したのであるぞ、
元(モト)からの竜体(リュウタイ)持(モ)たれた
荒神様(コウジンサマ)でないと
今度(コンド)の御用(ゴヨウ)は出来(デキ)んのざぞ、
世界(セカイ)つくり固(カタ)めてから臣民(シンミン)つくりたのであるぞ、
何(ナニ)も知(シ)らずに上(カミ)に登(ノボ)りて、
神(カミ)を見(ミ)おろしてゐる様(ヨウ)で、
何(ナン)でこの世(ヨ)が治(オサ)まるものぞ。
天(テン)と地(チ)の御恩(ゴオン)といふことが
神(カミ)の国(クニ)の守護神(シュゴシン)に
判(ワカ)りて居(オ)らんから難儀(ナンギ)なことが、
愈々(イヨイヨ)どうにもならん事(コト)になるのぞ、
バタバタとなるのぞ。
臣民(シンミン)生(ウマ)れおちたら
ウブの御水(オミズ)を火(ヒ)で暖(アタタ)めて
ウブ湯(ユ)をあびせてもらふであろが、
其(ソ)の御水(オミズ)はお土(ツチ)から頂(イタダ)くのざぞ、
たき火(ビ)ともしは皆(ミナ)
日(ヒ)の大神様(オオカミサマ)から頂(イタダ)くのざぞ、
御水(オミズ)と御火(オヒ)と御土(オツチ)で
この世(ヨ)の生(イ)きあるもの生(イ)きてゐるのざぞ、
そんなこと位(クライ)誰(ダレ)でも知(シ)ってゐると申(モウ)すであろが、
其(ソ)の御恩(ゴオン)と云(イ)ふ事(コト)知(シ)るまいがな、
一厘(イチリン)の所(トコロ)分(ワカ)かるまいがな。
守護神(シュゴシン)も曇(クモ)りてゐるから
神々様(カミガミサマ)にも
早(ハヨ)うこの神示読(フデヨ)んで聞(キ)かせてやれよ、
世間話(セケンバナシ)に花咲(ハナサ)かす様(ヨウ)では
誠(マコト)の役員(ヤクイン)とは云(イ)はれんぞ、
桜(サクラ)に花咲(ハナサ)かせよ。
せわしくさしてゐるのざぞ、
せわしいのは神(カミ)の恵(メグ)みざぞ、
今(イマ)の世(ヨ)にせわしくなかったら
臣民(シンミン)くさって了(シマ)ふぞ、せわしく働(ハタラ)けよ。
 三月(サンガツ)十一日(ジュウイチニチ)、
 ひつぐの神(カミ)。
◇◆◇
σ(・・*)ひと言
 不安な事は良く理解しますが、
「いつ・どこで・どのくらいの規模の」
という事を考える事は、
悪魔=悪神=日本を狙っているものたちの思うつぼという事です。
いつ、何処で起きてもいいように心身共に覚悟を決めて
「み霊磨き」をしておきなさいという事ですね。
ひふみ神示で言われている神の御名は
「根本(コンポン)の、太(オオ)(ヒ)(ツ)(キ)大神(オオカミ)さま」というそうです。
この神様が救う人は何処にいても救うと言われています。
落ち着いて日々をおくる事が大事だという事です。
illust3786_thumb ぽ用下
松の巻  第2帖
昭和20年06月17日(1945年) - 昭和20年07月19日(1945年)
神(カミ)の国(クニ)を、足(アシ)の踏(フ)むところない迄(マデ)にけがして仕舞(シマ)ふてゐるが、それで神力(シンリキ)は出(デ)ぬぞ。
臣民(シンミン)無(ナ)くなるぞ。
残(ノコ)る臣民(シンミン)三分(サンブ)むつかしいぞ。
三分(サンブ)と思(オモ)へども、二分(ニブ)であるぞ。
邪魔(ジャマ)せん様(ヨウ)に、
分(ワカ)らん臣民(シンミン)見物(ケンブツ)して御座(ゴザ)れ。
ここまで知(シ)らして眼(メ)覚(サ)めん臣民(シンミン)なら
手(テ)引(ヒ)いて見(ミ)てゐて御座(ゴザ)れ。
見事(ミゴト)仕上(シア)げて見(ミ)せるぞ。
雀(スズメ)ちうちう烏(トリ)かうかう。
 六月(ロクガツ)十八日(ジュウハチニチ)、
 あめのひつ九(ク)か三(ミ)。
第7帖
エラ)い人(ヒト)皆(ミナ)俘虜(トリコ)となるぞ。
夜明(ヨア)け近(チカ)くなったぞ。
夜明(ヨア)けたら何(ナニ)もかもはっきりするぞ。
夜明(ヨア)け前(マエ)は闇(ヤミ)より暗(クラ)いぞ、慌(アワ)てるでないぞ。
神(カミ)の国(クニ)一度(イチド)負(マ)けた様(ヨウ)になって、終(シマ)ひには勝(カ)ち、また負(マ)けた様(ヨウ)になって勝(カ)つのざぞ。
腹(ハラ)の中(ナカ)のゴモク
一度(イチド)に引張(ヒッパ)り出(ダ)してもならぬし、
出(ダ)さねば間(マ)に合(ア)わんし、
いよいよ荒事(アラゴト)にかかるからそのつもりで覚悟(カクゴ)よいか。
わからん人民(ジンミン)
退(ノ)いて邪魔(ジャマ)せずに見物(ケンブツ)してござれよ。
 六月(ロクガツ)二十三日(ニジュウサンニチ)、
 アメのひつ九(ク)の(カミ)
第8帖
神(カミ)の国(クニ)には
昔(ムカシ)から神(カミ)の民(タミ)より住(ス)めんのであるぞ、
幽界(ガイコク)身魂(ミタマ)は幽界(ガイコク)行(ユ)き。
一寸(チョット)の住(ス)むお土(ツチ)も神国(シンコク)にはないのざぞ。
渡(ワタ)れん者(モノ)が渡(ワタ)りて穢(ケガ)して仕舞(シマ)ふてゐるぞ。
日本(ニホン)の人民(ジンミン)、
大和(ヤマト)魂(ダマシイ)何処(ドコ)にあるのざ、
大和(ヤマト)魂(ダマシイ)とは
神(カミ)と人(ヒト)と解(ト)け合(ア)った姿(スガタ)ぞ。
◇◆◇
σ(・・*)ひと言
 現在の日本人を叱咤激励されていますね。
日本民族の根本である「大和魂」を神様が示しておられます。
己が日本という神の国にふさわしい身魂であるのか内省せよと言うことですね。
上つ巻  第11帖
昭和19年06月10日(1944年) ー昭和19年07月09日(1944年)
いづくも土(ツチ)にかへると申(モウ)してあろうが、
東京(トウキョウ)も元(モト)の土(ツチ)に
一(ヒト)ときはかえるから、その積(ツモ)りでゐて呉(ク)れよ。
神(カミ)の申(モウ)したこと違(チガ)はんぞ。
東京(トウキョウ)は元(モト)の土(ツチ)に
一時(ヒトトキ)はかへるぞ、
その積(ツモ)りで用意(ヨウイ)して呉(ク)れよ。
 六月(ロクガツ)の十九日(ジュウクニチ)、
 一二(ヒツク)のか三(ミ)。

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25帖
一日イチニチ)に十万(ジュウマン)、人(ヒト)死(シ)にだしたら神(カミ)の世(ヨ)がいよいよ近(チカ)づいたのざから、よく世界(セカイ)のことを見(ミ)て皆(ミナ)に知(シ)らして呉(ク)れよ。
この神(カミ)は世界中(セカイジュウ)のみか天地(アメツチ)のことを
委(マカ)されてゐる神(カミ)の一柱(ヒトハシラ)ざから、
小(チイ)さいこと言(イ)ふのではないぞ、
小(チイ)さいことも何(ナン)でもせなならんが、
小(チイ)さい事(コト)と臣民(シンミン)思(オモ)うてゐると
間違(マチガ)ひが起(オコ)るから、
臣民(シンミン)はそれぞれ小(チイ)さい事(コト)も
せなならんお役(ヤク)もあるが、よく気(キ)をつけて呉(ク)れよ。
北(キタ)から来(ク)るぞ。
神(カミ)は気(キ)もない時(トキ)から知(シ)らして置(オ)くから、
よくこの神示(フデ)、心(ココロ)にしめて居(ク)れよ。
一日(イチニチ)一握(ヒトニギ)りの米(コメ)に泣(ナ)く時(トキ)あるぞ、着(キ)る物(モノ)も泣(ナ)くことあるぞ、いくら買溜(カイダ)めしても神(カミ)のゆるさんもの一(ヒト)つも身(ミ)には附(ツ)かんぞ、着(キ)ても着(キ)ても、食(ク)うても食(ク)うても何(ドウ)もならん餓鬼(ガキ)の世(ヨ)ざ。
早(ハヨ)う神心(カミココロ)にかへりて呉(ク)れよ。
この岩戸(イワト)開(ヒラ)くのは
難儀(ナンギ)の分(ワカ)らん人(ヒト)には越(コ)せんぞ、
踏(フ)みつけられ踏(フ)みつけられている臣民(シンミン)の
ちからはお手柄(オテガラ)さして、
とことはに名(ナ)の残(ノコ)る様(ヨウ)になるぞ。
元(モト)の世(ヨ)に一度(イチド)戻(モド)さなならんから、何(ナニ)もかも元(モト)の世(ヨ)に一度(イチド)は戻(モド)すのざから、その積(ツモ)りで居(オ)れよ。
欲張(ヨクバ)っていろいろ買溜(カイダ)めしてゐる人(ヒト)、
気(キ)の毒(ドク)が出来(デキ)るぞ、
神(カミ)よく気(キ)をつけて置(オ)くぞ。
この道(ミチ)に縁(エン)ある人(ヒト)には、
神(カミ)からそれぞれの神(カミ)を守(マモ)りにつけるから、
天地(アメツチ)の元(モト)の・(てん)の大神(オオカミ)、
くにの大神(オオカミ)と共(トモ)に、よく祀(マツ)りて呉(ク)れよ。
 六月(ロクガツ)の三十日(サンジュウニチ)、
 ひつくのか三(ミ)。
富士の巻 第27帖
 神の堪忍袋 切れるぞよ、
臣民の思ふやうにやれるなら、やりて見よれ、
九分九厘でグレンと引繰り返ると申してあるが、
これからはその場で引繰り返る様になるぞ。
誰れもよう行かん、臣民の知れんところで何してゐるのぞ、
神には何も彼も分りてゐるのざと申してあろがな、
早く兜脱いで神にまつはりて来いよ、
改心すれば助けてやるぞ、鬼の目にも涙ぞ、
まして神の目にはどんな涙もあるのざぞ、
どんな悪人も助けてやるぞ、どんな善人も助けてやるぞ。
江戸と申すのは東京ばかりではないぞ、今の様な都会みなエドであるぞ、江戸は何うしても火の海ぞ。それより他 やり方ないと神々様申して居られるぞよ。秋ふけて草木枯れても根は残るなれど、臣民かれて根の残らぬやうなことになりても知らんぞよ、
神のこのふみ早う知らしてやって呉れよ。
八と十八と五月と九月と十月に気つけて呉れよ、
これでこの方の神示の終わりぞ。
この神示は富士(二二)の巻として一つに纒(まと)めておいて下されよ、
今に宝となるのざぞ。八月の三十日、のひつ九 。
◇◆◇
σ(・・*)より、ひと言
 神様は、現在の都会は元の穢土にするおつもりのようですね。
どのような形で起きるのかは不明ですが(神様の計画なので)、
現在大地震の前触れも起きていますし、
今後も注意をしながら身魂(みたま)磨きをしていく他ないようですね^^;
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地つ巻   17帖  ◆大事◆
まことの善(ゼン)は悪(アク)に似(ニ)てゐるぞ、まことの悪(アク)は善(ゼン)に似(ニ)てゐるぞ、よく見分(ミワ)けなならんぞ、
悪(アク)の大将(タイショウ)は光(ヒカ)り輝(カガヤ)いてゐるのざぞ、
悪人(アクニン)はおとなしく見(ミ)えるものぞ。
日本(ニホン)の国(クニ)は世界(セカイ)の雛形(ヒナガタ)であるぞ、
雛形(ヒナガタ)でないところは真(シン)の神(カミ)の国(クニ)でないから、
よほど気(キ)つけて居(オ)りて呉(ク)れよ、
一時(ヒトトキ)は敵(テキ)となるのざから、
ちっとも気(キ)許(ユル)せんことぞ、
神(カミ)が特(トク)に気(キ)つけておくぞ。
今(イマ)は日本(ニホン)の国(クニ)となりて居(オ)りても、神(カミ)の元(モト)の国(クニ)でないところもあるのざから、雛型(ヒナガタ)見(ミ)てよく腹(ハラ)に入(イ)れておいて下(クダ)されよ、
後悔(コウカイ)間(マ)に合(ア)はんぞ。
九月(クガツ)二十三日(ニジュウサンニチ)、
ひつ九(ク)のか三(ミ)。
◇◆◇
σ(・・*)より、ひと言
 神様は、
「日本(ニホン)の国(クニ)は世界(セカイ)の雛形(ヒナガタ)であるぞ」と
はっきり言われていますね。
この一二三(ひふみ・日月)神示を
それぞれがじっくりと読んで、
また声を出して読んで(大声じゃなくても真心を込めた声で)
また読んでを繰り返して実行されてみてください。
それぞれが何かを感じたら、それで良いのだと思われます。
じっくりと!
ゆっくりと!
しんけんに!
まったりと!
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2016年3月14日月曜日

星がやって来ている??

大摩邇(おおまに) : 星がやって来ている?? ニビル? ホピ族の? 10支族の?
2016年03月14日23:52
カテゴリより一層の知識と光を求めて・・・
星がやって来ている?? ニビル? ホピ族の? 10支族の? 
たまWEBさんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/af575da7692967f9ff70bb4b208bb14a
<転載開始>
・ホピ族の青い星か?? / イスラエルの失われた十支族の星??
・大本教の『霊界物語』という教典にある王星なのか??       
『・・・天に王星の顕はれ、地上の学者知者の驚嘆する時こそ、天国の政治の地上に移され、
 仁愛神政の世(みろくの世、ミロクの世)に近づいた時なので、これがいはゆる三千世界 の立替立直しの開始である。 』
以下のユーチューブ、今月9日の日蝕で、太平洋上の機内からの写真に注目です。
英語のですが、まぁ、なんとなく・・・・金環食を除いて空は暗闇のはずなんでは・・・・
6:38 -- 7:25
https://www.youtube.com/watch?v=zq5DHjav2RI     
 (Mar 10, 2016 WSO Update - IN FACT WE DID GET AN ECLIPSE PHOTO!  Steve Olson )
天に王星  
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/s/%C5%B7%A4%CB%B2%A6%C0%B1
”天に王星の顕はれ”
http://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E2%80%9D%E5%A4%A9%E3%81%AB%E7%8E%8B%E6%98%9F%E3%81%AE%E9%A1%95%E3%81%AF%E3%82%8C%E2%80%9D
<リンク先より>
Mar 10, 2016 WSO Update - IN FACT WE DID GET AN ECLIPSE PHOTO!
Steve Olson
2016/03/10 に公開
Because Skywatch Media is awesome, we were able to show a picture of the incoming system during the eclipse.
Well, that halo is being seen literally everywhere...they just cannot hide it anymore.
The planets seem to be poking their heads out of the clouds and lots of photos and interesting stuff.
LINKS
https://www.youtube.com/watch?v=Qeuv_... 
Julie Griffing ISS Shots Live Steam Analysis
https://www.youtube.com/watch?v=TirJ0...
The Fatima Revelation
Questghost
https://www.youtube.com/watch?v=njkb8...
http://www.worldufowatch.com/ Story on Orb
http://skyview.gsfc.nasa.gov/current/...
JPL admits that comets cause magnetic disruption
http://www.jpl.nasa.gov/news/news.php...
https://www.youtube.com/watch?v=gHOSB...
Julie Griffin ALLSKYCAM Study of Wormwood
Airplane Shot of Nibiru
 https://www.facebook.com/skymednews/
http://www.allskycam.com/u.php?u=509
The Savannah Skys Australia Sky Cam
<転載終了>

たまWEB
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/af575da7692967f9ff70bb4b208bb14a

大摩邇(おおまに)
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1983831.html

2015年2月16日月曜日

予知情報

イベント情報 《個人セッション(長典男氏)》 なお、八ヶ岳では個人セッションも開催しております。メルマガで先行告知をしましたが、 あっという間に2月は予約一杯となり、現在は3月と4月の日程で募集をしていますが、 こちらも多くの日程が埋まりつつあります。 ご興味のある方は、どうぞお早めに予約されてみて下さいませ。 「“龍”宮城」とも云われる宮城県は、ここにこそ大龍神である“艮(うしとら)の金神(こんじん)”が封印されている場所であるという説が根強く残っています。 長典男さんに聞くと、その有力な場所は古くから東北鎮護・陸奥国一之宮として君臨する塩竈市の「鹽竈(しおがま)神社」であるそうです。 また、仙台市には大麻の神紋を持つ「青麻(あおそ)神社」もあります。 この神社のある地域一帯は、古代より大麻栽培が非常に盛んな地域であったようで、 この神社を中心に里人に大麻栽培や活用方法を古代から戦前まで教えていたそうです。 さらに、この神社は「日月星」の三光神、天照大御神・天之御中主神・月読神の三神を祀る「妙見信仰」の流れがあり、また江戸時代より、天皇祭祀の白川家(伯家神道)より神主許状と對馬の称号を賜っている「十種神宝」とも縁がある神社です。 今年のキーワードがすべて詰まっているような宮城県と仙台市。自分自身の原点でもあり、 新しい時代が始まった今、この大事なタイミングに訪れることができるのをとても有り難く思っています。 仙台にお住まいの方はもちろん、宮城県、東北地方にお住まいの方は、是非とも3月8日は仙台へとお集りくださいませ。皆さんとお逢い出来ることを楽しみにしております。 お申込は以下までご連絡を TEL/FAX :022-796-7430 E-mail :obasangundan@yahoo.co.jp 天下泰平 http://tenkataihei.xxxblog.jp/

2014年12月23日火曜日

予知情報 「2015年までが立て替えの正念場か」 中矢伸一氏 2010-05-23 06:55:15 | 日月神示の実践 「2015年までが立て替えの正念場か」 中矢伸一 最近、複数の異なる情報で共通しているのは、世の大変革は今年(2010年)の夏頃から本格的に始まり、だいたい2014年か15年まで続くだろうというものです。 2011年、12年、13年あたりの三年間が、とくに激しくなるそうです。 日月神示にも、 「最も苦しいのは一年と半年、半年と一年であるぞ」 と示されており、単純にこれらの期間を合計すると三年になります。 ただ、どうしてこういう表現になるのかはわかりません。 人類が滅亡するような事態にはなるわけではありませんが、今まで常識だった社会システムや世界の秩序、価値観などが根本から引っくり返るようなことが起きると予測されています。 長期的に見れば大変素晴らしい変化の時代なのですが、今までの常識にとらわれてしまって旧い考えを改められない大多数の人にとっては、非常に厳しい時代になりそうです。変化の速さに適応できず、淘汰されてしまう人もたくさん出そうです。 その意味では、滅亡はしないまでも、人口が何割か減る事態はあり得ます。すでに異常気象は世界規模で起きており、食糧危機がこれから各地を襲う可能性が高まっていますし、ギリシャの財政危機に始まった金融問題も、一歩間違えばEU諸国からアメリカ、 日本へと破綻の連鎖につながる可能性もあります。 人類社会は今まさに、薄氷を踏む思いで激変する時代を進みつつあるのです。 ところで、「ヤスの備忘録」の高島康司さんから先日、ある方をご紹介頂きました。この方は、30年もの間、諸神霊(地球外の意識体?)から通信を受けているそうです。それも毎日というのですから大変です。 この方がおっしゃるには、「高島氏のブログにアクセスし、ウェブボットをすべて読め」と神霊から告げられたそうです。 さらには、「ウェブボットにあることはいずれ現実化する。だから先手を打って準備せよ」 とも言われたそうです。 この方から私が直接伺ったお話でも、今年から2015年までが激変期で、2015年になると少しずつ希望が見えてくる、とのことでした。 その他にもいろいろと興味深いお話を伺いました。世の中には面白い人がいるものです。 いずれその内容は、(ご許可を頂ければ)『たまゆら』でご紹介したいと思っています。 日本弥栄の会 http://www.nihoniyasaka.com/ ヤスの備忘録 http://ytaka2011.blog105.fc2.com/ 日月神示の研究と実践 http://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/5c04ef76336dbf0b053f54af5e7f5b97 世の大変革は今年から始まって、2014年か2015年まで続くようですが、確かに最近は大変革に入ってきたと思わざるを得ないことが多くなってきました。 4月の後半に雪が降ったかと思えば、一昨日は東京は30度の真夏日でした。群馬の館林では33度を記録したそうですので、まさに異常です。毎年なんらかの異常気象がありますが、どんどん異常さが増してきています。 国際情勢も大変革の序章を思わせる事件が立て続けに起きています。北朝鮮の発射した魚雷が韓国の哨戒艦を撃沈させたり、タイでは2ヶ月も暴動が止まず、ギリシャでは200万人という大規模なデモが何度も起こったり、メキシコ湾では大量の原油が流出し、今でも流れ続けています。一説によると、この原油を完全に除去するには、300年もかかるといわれています。更に地震が多く発生していることも記憶に新しいところです。この他にも多くの事件が起こってきており、まさに世の大変革に突入したなと感じさせます。 中矢氏が言われているように、WebBotの予測は時期はほとんど当たりませんが、発生する内容はほとんど当たっているようです。私もヤスの備忘録はいつもチェックしていますが、WebBotの予測は面白いことに、コルマン・インデックスや西洋占星術などとほとんど同じことを言っています。WebBotは単にネット上の単語をスパイウェアで収集して、解析を行っているというIT技術なのですが、それとマヤカレンダーのコルマン・インデックスが同じような予測を出していることが、不思議です。 WebBotの予測では、今後下記のことが起こると予測しています。  ・ドルの死  ドルの暴落  ・ハイパーインフレ  ・欧米の金融システムの崩壊  ・電子上の貨幣の崩壊(預金データが消える)  ・食料危機  ・戦争(北朝鮮、イスラエル)  ・土地の隆起  ・大暴動によるアメリカ革命 これらはいつ起きてもおかしくない状況のように思います。WebBotは7月8日以降に大きな事件が起こるといってます。コルマン・インデックスは7月17日から大事件が勃発するといってます。7月まであと1ヶ月半ですが、前倒しで発生する事件もあると思います。焦らず冷静になることも大事だそうです。 日本弥栄の会 http://www.nihoniyasaka.com/ ヤスの備忘録 http://ytaka2011.blog105.fc2.com/ 日月神示の研究と実践 http://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/5c04ef76336dbf0b053f54af5e7f5b97

2012年2月15日水曜日

2012/02/25(土) 10:51:00|
再開:大峠の越え方 放射能は恐くない その1
さて、このブログ。いろいろと誤解があるようなので、右欄をご覧ください。
2012年からのワタスという欄を作っておきますた。
最近、訪れた読者の皆様、ワタスについて誤解しないようにお願いします。
さて、最近原発情報を立て続けに書いたのは訳があるのですた。
本当はこっちを書きたいのですが、こういう放射能は恐くないなどという記事を書くと
今まで何書いてたんだこの野郎!今まで安全を煽るなと言ってたのはどこのドイツ将校だ。矛盾したこと書くんじゃない!とキリでもみ込むような突っ込みをされるからです。
もちろん放射能が恐くない訳がないのですた。
普通に考えればこれから4~5年後。子ども達の多くは癌や白血病を発症するのです。あまり書きたくはないですが女性はデビルリバースさんのような化け物のような赤ん坊を産む羽目になったりするのです。
だから、これから書くことは完全にワタスの妄想。話半分でお読み下さい。鵜呑みにしないで下さい。
今の状況を安心してもらっては困るので原発ニュースを立て続けに書いたのですた。
これから書くことはワタスだって半分ぐらいしか信じてません。
まさかなぁ。。でもひょっとするとなぁ。。
そんな感じです。
大峠の超え方シリーズ。
これは、時空を超える人へのシリーズの前段です。
さて、日月神示には以下のような記述があります。
『五葉の巻 第16帖』
マコトでもって洗濯すれば霊化される、
半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、
今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、
灰になる肉体であってはならん、
原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、
今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。
岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。
新しい生命が生まれつつある。半霊半物質の世界。そして原爆も水爆もビクともしない肉体。
ぇえ?
原爆でも水爆でもやられない肉体?
何を馬鹿な。
それってまさにデビルリバースさんではないですか。

黄金の金玉を知らないか?
http://www.golden-kintama.com/blog-entry-1002.html

2009年6月19日金曜日

天体情報



六月二十一日日曜日「夏至」 遂に冥界の扉が開く時が來た
投稿者 石工の都仙臺市
日時 2009 年 6 月 20 日 23:18:21: Gsx84HOp6wiqQ
六月二十一日日曜日。
此の日は二十四節氣の夏至に充たる。
そして太陽と地球と冥王星がほぼ一直線に成る。
遂に冥界の扉、
地獄の竈の蓋が開き、
閻魔大王樣御一行が、
此の地球に降臨されるやうです。
いよいよ大祓いが訪れるやうです。
神國日本に仇なす方々。
日々腐敗堕落して過ごしてゐる方々。
御愁傷樣で御坐います。
九分九厘迄ほぼ同じ動きをするやうですから、
大いなる艱難の時が始まるやうです。
 北 = 來た
 北 = 喜多
 喜多 = 來た
大いなる喜びが來た。
「666」は彌勒の世。
心ある方々、
此れからも據り一層、
御靈磨きに精進しませう。
夏至
出典: フリー百科事典『ウイキペデイア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%A4%8F%E8%87%B3&oldid=24151836
春分から秋分までの間、北半球では太陽は眞東からやや北寄りの方角から上り、
眞西からやや北寄りの方角に沈む。夏至の日にはこの日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も北寄りになる。
また北囘歸線上の觀測者から見ると、夏至の日の太陽は正午に天頂を通過する。
夏至の日には北緯66.6度以北の北極圏全域で白夜となり、南緯66.6度以南の南極圏全域で極夜となる
「冥」で始まる國語辭典一覽 - goo辭書
http://dictionary.goo.ne.jp/srch/jn/冥/m0u/
 
★阿修羅♪
http://www.asyura2.com/09/bd56/msg/472.html



 
 
■世界が待ち望む夢のプロジエクト進行中! 神新二
“北から來るぞ!”未來からのメツセージ!
http://sjin.blog69.fc2.com/blog-entry-163.html
日月神示 上つ卷・第二十五帖
「北から來るぞ。神は氣もない時から知らしておくから、よく此の神示、心にしめてをれよ」
【火水傳文】全文 200611
【火水傳文】二十八
http://moonpillar.blog73.fc2.com/blog-date-200611.html
今今に惡に見ゆるは、惡を使うて惡拂うこ度に使う道具なれば、
まだまだ惡の世が續く思ひて居ると、怪我をする傳へあろうがな。
これからは惡と惡の共喰ひになりて參りて、
惡神も苦しくあるから暴れる程に益々危うき世となりて參るから、
汝等は卷き込まれん樣に氣を附けて下されよ。 
コンスタンテイン:惡魔に此の世を呉れて遣る氣か?
ガブリエル:私を裁くと?
コンスタンテイン:裏切り 大量殺害・・・ とんだ惡黨だな
ガブリエル:人間の思ひ通りにさせてるだけです
コンスタンテイン:マモンに讓り渡す事がか?
コンスタンテイン:どうかしてるぞ
ガブリエル:人間は此の上ない恩惠を受けてます
ガブリエル:一人一人が神から赦しを得たのです
ガブリエル:殺人者も暴行犯も悔い改めさへすれば神の御胸に抱かれる
ガブリエル:宇宙中を探してもそんな惠まれたものは居ない
ガブリエル:公平ではない
ガブリエル:神が其れ程人間を愛するなら其の愛に見合はなければ
ガブリエル:づつと見て來ましたが恐怖に直面しないと人間の氣高さは現れない
ガブリエル:御前達は氣高い筈
ガブリエル:だから試煉を與へます 恐怖をね
ガブリエル:乘り越えられる筈
ガブリエル:惡魔の支配に耐へ拔いた人間だけが神に愛される資格がある
コンスタンテイン:ガブリエル 御前はイカれてる
ガブリエル:救濟の道が始まります たつた今から
出羽の國のなぞ
http://www.asyura2.com/08/bd54/msg/648.html
投稿者 石工の都仙臺市 日時 2008 年 12 月 29 日 16:33:38: Gsx84HOp6wiqQ
日本の神國には九分九厘行つた所で、一厘の祕密が有る。
手の平を覆すと云ふ事が書いてあろがな。
表の神事ばかりで、此の仕組みが完成するに非ず。
大化物の眞相が判れば、此の肝心な一厘が判明する。
一厘の祕密で、三千世界を水晶に立替、立直すのであるぞよ。
足元から鳥が立つぞよ。
時節近寄りたぞよ。
 
★阿修羅♪
http://www.asyura2.com/09/bd56/msg/472.html



2006年11月21日火曜日

アセンション

地(くに)つちの軸、動くぞ。フニャフニャ腰がコンニャク腰となりて、どうにもこうにもならんことになるぞ。
私も、終末の土壇場(2012年)にはそのような地軸の移動が起こるだろうと思っています。もちろん、その段階でアセンションを済ませている人は“のたうち回る”必要はないわけですが‥‥。
●――ある人種が、現在の人類よりもかなり先だって進化をとげることでしょう。
こうした変化と共に、地球そのものの物質的状態も浄められ、地球を取り巻くさまざまな異次元の局面も浄化されることになるでしょう。
ここで注目したいのは、「ある人種」とは日本人ではないだろうか、ということです。
インディアンのホピの予言にもそのことをうかがわせるような表現があります。
正確には「一部の日本人」ということで、すべての日本人が進化をとげているとは考えられません。
特に、西欧の思想の悪い影響を受けている現在の日本人は、来るべき「ミロクの世」に移れる人の数は非常に少ないのではないかと見ています。
『大本神諭』や『日月神示』にそのことを警告する表現がたびたび出てきます。

なわのつぶや記(保存版)