2018年10月16日火曜日

クシュ王国: 紅海沿岸の歴史 

クシュ王国: 紅海沿岸の歴史 
2012/10/31(水)午後7:09
紅海沿岸の古代史歴史
■古代のクシュと獅子の顔をした女神 
今日からから数回、アフリカ東岸やアラビア半島南西部の古代史について調べてみる。
その最初としてクシュ(クシ、エチオピア)についてもう一度言及して起きたい。・・・
実は「検証: 聖書アラビア起源説 その1」の続きだが、別シリーズとして再度取り上げようと思う。
これまでの『検証: 聖書アラビア起源説』シリーズでクシュ(聖書ではクシ、以下ではクシュ呼ぶ)については、旧約聖書の記述と「聖書アラビア起源説」の著者であるサリービーの説ついて述べた。
検証: 聖書アラビア起源説 その30 遠いクシ(エチオピア)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30954034.html
検証: 聖書アラビア起源説 その31 かなり近いクシ(クシュ)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30962689.html
クシュはエジプトの南にあり、歴史上存在した王国としては必ずしも紅海沿岸に位置していないのだが、紅海沿岸における古代史の鍵を握るのは、この「クシュ」の地理的概念のようにも思える。
古代ギリシア人(少なくとも紀元前8~5世紀頃)にとってなぜ東西2種類のエチオピア人が存在したのか?
旧約聖書にはなぜあれほど頻繁にクシびと(エチオピアびと)が登場するのか?
アンドロメダはなぜエチオピアの王女なのか?
そんなことをぼんやりと考えると、これまでのエジプトの南とされていた地理的概念としての「クシュ」が、実際にはもっと広範囲で、複雑であったのではないかと思う。
議論の最初として、まず一般的に「クシュ」について調べてみよう。
クシュの古代史
スーダンを流れるナイル川流域のクシュと呼ばれた地域は、もともと古代エジプト時代には『ヌビア』と呼ばれ、金と奴隷の重要な供給源となっていた。この名前が果たして古代エジプトの言葉で「金」を意味する「nebu」、転写すると『nab.w』、あるいはコプト語『nub』に由来するかは定かではない。
古エジプト王国時代には、ヌビア地域は『Ta-seti』、つまり「砂漠の弓の大地」と呼ばれており、中王国時代になってから『Ta-seti』に対して、『Kasch』とも呼ばれるようになる。『クシュ』はこの古代エジプトの言葉である『Kasch』に由来すると考えられている。
僕達の頭の中では古代エジプトのピラミッドのイメージがあまりにも強く、「エジプトは高度な文明」、「ヌビアは未開の地」という偏見をどうしてももってしまう。
確かに、考古学的証拠によるとヌビア地方における王国の形成はエジプトに比べて遅く、金属の加工技術やさまざまな技術面において後発であったのは否めない。しかし、古代オリエント世界において、ヌビア地域に興った諸王国は、古代エジプトに対抗する南の勢力として毅然として存在していたと考えられる。
それに、もし・・・
「歴史上で最もピラミッドを多く作った国は?」
というクイズがあったら、正解は
「クシュ王国」 だ
・・・まぁ ピラミッドの建造された“年代”や“大きさ”にはかなりギャップがあるのだが・・・。
いずれにせよ、古代史におけるこの国の役割を考えると、決してこの国の歴史を軽視することはできず、考古学的調査ももっと集中的に行うべきであろう。
Aグループと先史ケルマ文化
ヌビアはエジプトの初期王朝が誕生する以前から文化圏が存在したことが確認されている。初期のヌビアの文化は、その特徴によっていくつかのグループに分けられている。紀元前3600年から3000年頃までの間、地理的にはアスワン北部辺りからナイル川第二瀑布までの範囲に興った文化はAグループと呼ばれる。
Aグループの人々は、ヤギや羊などを飼育する一方で、大麦や小麦、果物などの栽培をおこなう半遊牧民的な生活をしていたと考えられる。気候的な条件で牧牛場として適した土地が少なかったようで、牛の飼育をした形跡はごくまれにしかみられていない。赤と黒の土器や籠の製造、皮の加工も行っていたようだが、金属加工は行われておらず、墓地の副葬品として発掘される斧などはエジプト製であったと考えられている。
エジプト南部との貿易は活発に行われていたようで、西村氏のサイトによれば、エジプト人たちはヌビアから象牙や黒檀を輸入し、ワイン壷やビール壷などを輸出してようだ。その他、亜麻布、チーズ、油、蜂蜜なども取り引きされていたという。ナルメルの化粧パレットやヒエロコンポリスから出土したパレットは、ひょっとしたらこのヌビアのAグループの影響を強く受けていたのかもしれない。
参照下さい→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25101860.html
参考→ http://www.geocities.jp/kmt_yoko/NaqadaI-II.html 
社会的な階層はまだ無かったと考えられるが、後期には部族の長に相当する人物がいたことが、墓などの装飾から推定される。そうした勢力関係もあったのか、古代エジプト第1王朝のアハ(紀元前3000年頃)はヌビアに軍事遠征を行っている。アビドスから発見された象牙板には、彼がヌビアに対して軍事遠征を行った記録が書かれている。(ちなみに彼の時代にはシリアやパレスチナ地方にも軍事遠征を挙行している)
紀元前2600年頃になるとAグループの考古学的痕跡は発見できないようになる。以前は、エジプトによって奴隷や兵隊として強制移住させられたとか、エジプトに同化されたとの説が有力であった。しかしながら、最近の研究では、その後も度々エジプトがヌビアに対して軍事遠征がおこない、家畜などを奪ったというエジプト側の資料があることから、引き続きその地域には居住しているヌビア人達がいたと考えられるようになった。また、彼らの文化を伝える出土品が少ないのは、おそらく半遊牧民的な生活様式によるものだと考えられている。
さて、Aグループと同じ時期に、ナイル川をもう少し上流に遡ったあたりには先史ケルマ文化(勝手にそう呼んでます)がおこる。北部はAグループの南の境界線であるナイル川第二瀑布であり、南に方の境界については不明である。時代的には、Aグループとほぼ並行して存在しており、同一の文化であったとの見方もある。Aグループに比べ人口が密集していたことが分かっているが、やはり半遊牧民的な生活を送っていたようだ。
Cグループと初期ケルマ文化
紀元前2500年ほどになると、Aグループ文化の後継としてCグループと呼ばれる文化グループが登場する。(以前はA,B、Cグループとあったのだが、BグループはAグループと関係のあった先史ケルマ文化としてみられ、時系列的(A→B→C)にBグループとして分類できる文化は存在していなかったことが判明している)。地理的にはAグループ同様でアスワン北部からナイル川第二瀑布までだ。エジプトの第6王朝時代から新王朝時代まで続くCグループと並行して、ナイル川第二瀑布からケルマにかけて初期ケルマ文化も確認される。
Cグループの特徴は小形の円形墳丘墓で、下層が石、上部が砂で覆われている(実施はコンクリートで形を成していたかもしれない)。定住した痕跡はほとんど発見されておらず、おそらくCグループの人々はテント住まいの半遊牧的生活をおくっていたとされている。生活様式は、ほぼAグループと似たようなものであり、手で作られた陶器は、黒色に焼かれ、左右対称の模様が白の塗料で描かれていた。
しかし、後期では粘土づくりの方形の住居が登場し始め、この頃に半遊牧民的生活は終焉を迎え、定住生活に変わったとみられ、その後紀元前1600年頃には城壁に囲まれた要塞都市なども建設されており、第二中間期にはエジプトへの移住も増加したと考えられる。
Cグループ文化圏の南に発展した初期のケルマ文化も、同様のものであったと考えられるが、エジプトからの輸入品などは限られていて、独自の文化を発展させていたと考えられる。今日のエリトリアに、Cグループのものと思われるサイトが発掘されたが、おそらく初期ケルマ文化のものであったかもしれない。いずれにせよ、その後のダモト王国の基礎となった文化とであろう。
ヌビアの宗教
古エジプト王国時代から判明しているヌビアの神はデドウェンという名前で、この神は「富と乳香をもたらすもの」として崇められていた。ピラミッド・テキストにも記述があり、神と同等とみなされているヌビアを支配する王デドゥン(Dedun)が、ヌビアからエジプトの王に対して「宝や人をもってくる」とされている。
新王朝時代になると人間の姿として描かれるようになり、ライオンの頭をもった姿で表されるようなる。エジプト第25王朝を築き、ナイル・デルタまでを支配したヌビア人達は、自らをデドウェンの息子と名乗ったと言われている。その後、メロエ王国の時代になると頭が獅子の神は戦争と豊嬢を司る神アペデマク(Apedemak)として、ヌビア人全体に信仰されるようになる。
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獅子の神のようなオリジナな神に加え、ヌビアでは、ラー、ホルス、アメン、ハトホル、オシリス、アヌビス、セト、マート、トト、プタハ、アトムなどをはじめ、様々なエジプトの神々がもたらされた。一方、鳥の姿をしたヌビアの太陽神マンドリスのように、ヌビア出身でエジプト化した神々もいくつかる。
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雌ライオンの顔をした女神セクメトは、おそらくヌビア出身であったと考えられる。
戦争と狩猟の神オヌリスには、雌獅子の姿をしたメヒト女神が妻で、ヌビアに逃げた彼女をエジプトに連れ戻したという神話が残っている。この逃亡する女神の話はいくつかのバージョンがある。
破壊の女神セクメトがヌビアへ逃げる・・・が、夫で知恵の神トート神が連れ戻す
湿気の女神テフヌトがヌビアへ逃げる・・・が、夫で大気の神シュウが連れ戻す
(参考 → http://www.moonover.jp/bekkan/god/mehit.htm)
これらの話に共通するのは、
妻が獅子の顔をした女神である
両者は夫婦である
妻の出身はおそらくヌビア?(テフヌトについては自信なし)
そして・・・
逃亡先も共通する。
ヌビアだ。
繰り返しになるが・・・
夫婦の神々・・・
妻はヌビア出身のライオンの顔をした女神
ある日、何かが原因で ヌビアへ逃亡
しかし、夫は妻をめでたく連れ戻す
神々を置き換えただけの他愛のない話のようだが・・・
何か歴史的な大イベントが背景にあるような気がする・・・
なんだろうか・・・?
■黒い王妃イアフメス・ネフェルタリの秘密
ヌビア地方の歴史について前回の続きだ。
前回 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31049201.html
ケルマ王国(紀元前1700年~紀元前1500年)
さて、紀元前1700年頃になると初期ケルマ文化圏はケルマ王国と呼ばれる国家体系をとるようになってきた。文化的にも政治的にも首都ケルマが当時のヌビア地域の中心となり、エジプトに比べると著しく中央集権的な政治体制をとっていたと考えられる。エジプト側の資料からは、この頃のヌビア地域は人口が多く、豊かな農耕地域があったことが分かっており、そこでは、寺院や集団墓地、そして丘陵古墳などが盛んにつくられ、古墳などからは金属製の武器などの副葬品が発見されている。
また、ケルマ王国は第二中間期(紀元前1782年頃~紀元前1570年頃)において、エジプトに拮抗する勢力となり、何度もエジプトへ軍事遠征を図り、略奪行為をはたらいていた。ヌビア地域で発見される大量の古代エジプトの工芸品は、この時代のものであると推定されている。エル・カブの市長の墓からは、紀元前1575年頃から1550年にかけて、ヌビア人がエジプト深くまで侵入した記録が発見されている。また、当時ナイル下流域を支配していたヒクソス王朝がケルマ王国に宛てに送った書簡に使用した印章がケルマで発見されたことから、ケルマ王国がヒクソスと同盟を結んでいたと考えられている(カーメス王の碑文からもそれが確認されている)。
エジプトの第17王朝と第18王朝は同じ家系に属しているが、中間期から新王国時代へ移行する便宜上分けられて呼ばれている。家系図を表すと下図のようになる
ここで注意を引くのが・・・
イアフメス・ネフェルタリ (紀元前1562年~紀元前1495年)だ。
黒くて美しいイアフメス・ネフェルタリ
第18王朝はヒクソスを倒したイアフメス1世が始めたことになっているが、血統的には第17王朝(テーベ王朝)と連続している。問題のイアフメス・ネフェルタリは、このイアフメス1世の妹にして王妃であると考えられているが、まだ確定的であるとも言えない。彼女が「イアフメス朝」の家系図のラインにあるのは、彼女が「偉大な王妃の娘」という称号をもっているからで、セケエンラー・タア2世とイアフヘテプ王妃の娘(つまりイアフメス1世と兄弟)、もしくはイアフメス1世の兄カーメスとイアフヘテプ王妃2世(あるいはイアフヘテプ王妃)」の娘であると考えられている。
混乱の原因は、彼女の所有する数多くの称号で、上記の「偉大な王妃の娘」の他にも、「王の娘」、「王の妹(姉?)」、「王の母」、「2つの国の支配者」などがある。イアフメス1世の妻となってからは神の妻となることで、夫イアフメス1世が王権の正統性を主張すべく「アメンの神妻」というタイトルが加わる。第26王朝の王妃ニトクリス2世(紀元前570年~紀元前526年のファラオ・アマシスの王妃)まで28人もの王妃が「アメンの神妻」という称号を名乗るが、イアフメス・ネフェルタリはその初代である。
テーベの第17朝であるイアフメス朝は伝統的に月の神を冠する王が続いたが、エジプト再統一をきっかけにアメン神が登場するのは興味深い。このアメン神が最初に全国区で崇拝され始めたのは、エジプト混乱期である第1中間期をおさめ上下エジプト再統一を行った第11王朝のメントゥホテプ1世からである。この時以来、アメン神は太陽神ラーと融合しアメン=ラーとして崇拝されるようになったのだが、同じように第2中間期と言われる混乱期を収拾したイアフメスの妻が「アメンの神妻」を名乗るのは、このメントゥホテプ1世を意識したのだろうか・・・。
問題は、王妃イアフメス・ネフェルタリを描いたと思われる肖像画だが、奇妙なことにそのほとんどが彼女の肌の色を「黒」で描いている。
王家の人間に対してこのような描き方は他には例を見ることができない。TT359に描かれている数多くのイアフメス朝の人々の中でも、イアフメス・ネフェルタリの肌の色だけが黒で描かれている。
彼女の夫の名でもあるイアフメスの意味は『月の神ラー(lah)が生まれた』であり、この月の神ラーというのは、新王国時代になると他の月を司る神トートやコンスなどの存在の陰に隠れ、ほとんど姿をみせなくなる。月の神Lahが古王国時代から崇拝されてきた創造神Aaであるとも言われていたり、北シリアの月の神に結び付ける見方もあるが、まだ明確なことは分かっていない。ひょっとしたらヌビアの神ではないだろうか?
また、ネフェルタリの意味は、ラムセス2世の妻ネフェルタリもそうだが、『美しきもの(美しさ)』である。
私は黒いけれども美しい・・・(雅歌)・・・
シバ女王の大先輩だったのかも・・・。
彼女は死んだ後、アメンヘテプ3世の治世(紀元前1388年~紀元前1351年)に彼女の息子のアメンヘテプ1世とともに神格化されたとされている。一般的に、彼女の肌が黒く描かれるのは、この神格化にあるとされている。多産と豊穣を司る女神としてエジプト全土で崇拝されていたようで、21王朝時代になってからもそれが確認できる。彼女の肌を描く時に黒が使用されるのは、このナイル川の運ぶ肥沃な大地を「黒い大地(ケメト)」として表現されていたと解釈されている。
まぁ、偉大な王妃であったことにはかわりはない。夫のイアフメス1世の死後、まだアメンヘテプ1世が幼かったために摂政を務め、混迷の時代に終止符を打つとともに、第18王朝繁栄時代の基礎を築いたのだ。
しかし、大地の神ゲブを描く時に、たまに「緑」をつかって描かれているが、「黒」ではない。
したがって・・・
『なぜ、彼女の肌は黒いのか?』という問いを説明するのに彼女の神格化を挙げるのは果たして適当なのだろうか?
イアフメス・ネフェルタリ は ヌビア人 でないか?
彼女がヌビア人であるとする見方は、エジプト学者の間でもかなり以前から存在していた。
その議論に関しては、彼女と見られるミイラの解剖結果からも推測されている。
リンク先参照→ http://clegg.tv/tutsblackroots2.htm
イギリスの解剖学者ElliottSmithが調査した結果、彼女の頭の髪の毛は非常に少なく、頭蓋骨の天辺には髪がなかった。20の束ねられた人の髪とみられる紐状のものが彼女の頭に巻きつけてあり、それは現代でも見られるヌビア女性の典型的な髪形と似ていなくもない。また、歴史家WilliamL.Hansberryは「王妃の歯は大きく、健康だった(ラムセス2世は虫歯に悩まされていた)。彼女の鼻は短く平らで、膨らんだ唇に大きな口をしていた。」と彼女のミイラについて報告している。
・・・いずれにしても解剖の結果は、
彼女が明確に「ネグロ」、つまりヌビア出身であったことを示している。
RevealingQueenAhmose-Nefertari(PhotoshopReconstruction)
それに・・・ちょっと気になったのだが、彼女の母親であるイアフヘテプ皇后の墓には、王妃としては珍しく斧などの武器が副葬品として埋葬されている。夫と長男がヒクソスとの戦いで死んだ後も、まだ幼少のイフアメスの摂政としてテーベ王朝を統率し、ついにはヒクソス打倒を達成した武人王妃であったとも言われている。
これは後述するが、ヌビアの土地は著名な「武人王妃」を何人か輩出しているのも確かで、彼女達のためのピラミッドも建設されている。
前回の記事に書いたが、ヌビア出身の雌ライオン顔をした女神セクメトやメヒトが勇猛であるのも、ひょっとしたヌビアの女性に対する伝統的な先入観、「勇猛さ」と「美しさ」をエジプト人がもっていたからにほかならないだろう。
しかし、その後テーベのエジプト王朝が、ヒクソス王朝を解体することに成功し新王国時代を切り開くと、今度は踵を返すようにヌビア方面に拡張政策をとりはじめる。トトメス1世(紀元前1524年~紀元前1518年)がヌビア地方に対して軍事遠征を行い、北部ヌビア地域を支配下におさめる。
これはどうしたことだろうか・・・。
その後、紀元前1450年前後にトトメス3世が、スーダン北部にある高さ98mの小山ゲベル・バルカルをエジプトの南の国境とし、そこに都市ナパタを建設する。これにより、ヌビア地方にエジプト文化が再び流入すると、ケルマ文化はしだいに姿を消すことになる。
ところで、ヌビアの王女を描いたミュージカル『アイーダ』は、エジプト側の将軍にして恋人であるラダメスの名前からも察する通り、ラムセス2世の時代(紀元前1279年~1213年)を想定している。
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当時ラムセス2世はナイル川第一爆を超えて、ヌビア遠征を行った。ラムセス2世にはエジプト史上で最高の美女とされるネフェルタリ王妃がいる。ネフェルタリはラムセス2世が24歳にしてセティ1世から王位を継ぐ以前に結婚している。即位してからは、ヒッタイトの王女を含め30人以上の側室をもったとされているが、ネフェルタリに対する彼の愛情は格別のものであったと考えられる。
ソロモンのハーレム
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30522659.html
どこから来たのか? ラムセス2世の愛した美女ネフェルタリ
彼女を一躍有名にしたのは王妃の谷で発掘されたテーベ西にある王妃の谷より発見された彼女壁画だ。
壁画における彼女はたいてい、カツラをかぶり、太陽の円盤がついたアメン冠にエジプトハゲワシの頭巾をかぶっている。ハゲワシといっても、女神ネクベトで上エジプトの守護女神である。このハゲワシ頭巾の被る位置は時代を反映していて、第17王朝末期と第18王朝のはじめは頭の天辺、18王朝中期からは頭の後方だというのだが・・・僕にはあまり違いが分からなかった・・・orz。
古代エジプト第4王朝あたりからハゲワシ頭巾は登場するらしいのだが、やはり前述のイアフメス・ネフェルタリと重なってしまう。
ラムセス2世はネフェルタリとの結婚25周年を記念して、ヌビア地方のアブ・シンベルに建設したアブ・シンベル大神殿と、ネフェルタリに捧げるべきして建てたハトホルの神殿(アブ・シンベル小神殿)を築いた。
素情が知られていない絶世の美女ネフェルタリ王妃だが、ラムセスのヌビア遠征と、それにまつわるアブ・シンベル小神殿の建設などから、出身地はヌビアでなかったのではないかとも言われている。
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(彼女の出自に関しては、彼女の墓の位置関係からツタンカーメンを暗殺したとされるファラオ・アイではなかったかと言われ、出身地はテーベから北へ行ったところのアクミームでなかったかとされている。アクミームは知名度こそないが、現代の街の下にはひょっとすると古代エジプト最大の遺跡が眠っているとも言われている)
参考→ http://55096962.at.webry.info/200812/article_19.html
ふむ。
しかし、イアフメス・ネフェルタリがヌビア人だとすると、
第18王朝の血筋は、すくなくともヌビアとの混血からはじまっていることになるのだろうか?
■ブラック・ファラオ
前回は第18王朝時代の話だったが、ここで時代をくだろう。
ナパタ王国(クシュ王国)誕生
紀元前11世紀頃にエジプトが第三中間期といわれる混迷期にさしかかると、ヌビア人達はトトメス3世(BC1486-BC1425)が築いた都市ナパタを本拠地として独立を果たす。第3瀑布と第4瀑布の中間にあるこのナパタには、ゲベル・バルカルと呼ばれる高さ98メートルの岩山があり、トトメス3世はエジプトの南の国境として定めた。
この時エジプトの支配領域は史上最大のものとなったわけで、ラムセス2世(BC1303-BC1213)の治世においても、ナパタまでエジプトが支配力を誇っていたことが知られている。
よく見るとすごい遠いね・・・。
エジプトの第三中間期は紀元前1069年頃から始まったと言われるが、その頃からナパタに対するエジプトの実効支配力が無くなったと考えられ、ヌビア人達の活動拠点となったわけだ。
それから・・・300年の月日が流れる。
この間の出来事はあまり記録されておらず、すでにヌビア地域に「王国」と呼べるような社会形態ができていたのか、あるいはゆるやかな部族連合のようなものが存在していたのかはっきりと分かっていない。ただ、紀元前850年頃にはヌビアで最初のピラミッドがナパタ近くのアルクル(El-Kurru)で建設されているように、王権の存在はあったようにも思える。
エジプトでは新王朝時代からはファラオは王家の谷に葬られるようになったが、ピラミッドは規模こそ小さいが一部の裕福な民間人が墓として建設されていた。つまり、民間レベルで建てられる墓のフォームの一つであって、王権とは結び付かなくなっていた。
さて、
紀元前750年頃、有力なヌビアの族長とみられるアララという人物が、このナパタを中心としたナパタ王国を建国する。この王国は、エジプトのヌビア地域に対する呼び名である『クシュ』をとって「クシュ王国」とも呼ばれるようになった。文化的には、宗教などもふくめて大部分がエジプト化していて、本家のエジプトでは忘れられていたピラミッドなども建設されるようになった。
アララの後継者であるカシュタ(紀元前750年~746年)は、勢力をアスワンまで拡大し、ヌビア人としてはじめて「上下エジプトの王」の称号を名乗った。エジプトの伝統の継承者はリビア人王朝などではなく、ヌビアのクシュ王朝であると・・・。紀元前750年頃にテーベを占拠したことによって、彼の宗主権がエジプト全体に公式的に認められた。この時期、エジプトではいくつかの王朝が乱立する中、カシュタの時代にヌビア王朝の勢力は中部エジプトにまでおよんだと考えられる。ひょっとしたら「クシュ」と言う呼び名はこのカシュタ王に由来しているのかもしれない。
混乱のエジプト
一方エジプトはどうだったかというと、第21王朝の時代(紀元前1069年~紀元前945年)になると軍隊の将軍や政府の高官、そしてファラオまでもリビア系の名前が目立つようになる。以前は第22王朝よりリビア系王朝が開始されたと考えられていたが、最近の研究ではどうもこの頃から古代エジプトからの文化断絶が確認されている。リビア系のファラオや高官は、彼ら独自の文化と風習をエジプトに持ち込み、古来連綿と続いていたエジプト文化を受容しない傾向があった。
第20王朝最後のファラオであるラムセス11世の頃にはエジプトは上下に分裂し、上エジプトをアメン大司祭国家、下エジプトでは首都をペル・ラムセスからタニスに遷都したスメンデス1世が支配していた。この政治的な混乱期に便乗する形で、紀元前945年にシェションク1世(旧約聖書ではシシャク)が王位を獲得する。彼は、第21王朝時代のファラオ、プスセンネス2世に仕えていたリビア人将軍であり、イスラエルの首都エルサレムに攻撃を仕掛けようとしたことでも有名である。
シェションク1世によって第22王朝からはじまる9人の下エジプト・ブバスティス出身ファラオの記録があるためブバスティス朝とも呼ばれている。この王朝は上エジプトのアメン大司祭国家を支配下におき、一時は上下エジプトを統一するが、デルタ地域以外の支配基盤は相変わらず脆弱であった。
ブバティス王朝は200年間存続するが、シェションク2世の治世に分裂が起こり、前王と側室の間に生まれたペドゥバストがナイル川中流に独立した王朝、第23王朝を設立する。エジプトにおける当時の分裂状態はいろいろと研究されているが、非常に分かりにくい。図に表すとおそらく次のようになるだろうか・・・。
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当時、第22王朝の支配力は弱体化し、少なくてもレオントポリスに拠点を置く第23王朝、及びヘラクレオポリス(ネンネス)、ヘルモポリス(ウヌー)にそれぞれ地方の支配者がいた。
クシュ王カシュタが上下エジプトの支配者としてファラオを名乗り第25王朝が開始されるが、下エジプトまでは支配力が及ばず混沌として状態が続いていた。
リビア系の諸侯であったテフナクト1世は、サイスを拠点として自らの王朝(第24王朝)を建てた。(24王朝と呼ばれるが時系列的には25王朝の後だ)。その後、テフナクト1世は下エジプト地域の実効支配を強めながら、第22王朝(タニス)のオソルコン4世や第23王朝のイウプト2世、そしてヘラクレオポリスのペフチャウアバステト、そしてヘルモポリスのナムルトらと同盟を結んで、ヌビア人が北へ(下エジプトへ)勢力を拡大するのを防ごうとした。
一方、テーベをはじめとする上エジプト一帯はヌビア王朝(クシュ王国)が支配しており、エジプト中部は北のテフナクトをはじめとする勢力と南のヌビアに対して流動的だった。カシュタの後継者となったピイは、即位してからヌビアを出ることはなく、20年以上ヌビアの奥地で沈黙を保ったままだった。おそらくこうした状況が下エジプトの不穏な動きを助長させていたのかもしれない。このピイは古い資料だと「ピアンキ」と書かれている場合があるが、どうも誤りだったようで、最近では「ピイ」に訂正されている。
さて、北のリビア系王朝が力をつけてくると、中部エジプトの支配者達は南のヌビアか、北のリビア系王朝のどちらにつくか選択しなければなかった。クシュ王朝が北部に遠征することを決意したのは、ヌビアに忠実であった支配者達がテフナクトの攻撃を受けてピイに救援をもとめてきたからだ。
ピイの信仰
ピイが王権を受け継いだ時代、クシュ王国ではエジプトから移入したアメン信仰が盛んであったと考えられている。ゲベル・バルカルには、もともとトトメス3世が基礎を建設し、セト1世、ラムセス2世の時代を経て少しずつ拡張されてきた。ピイはこれを三段階に分けて拡張するが、「ビフォー・アフター」の匠も喜ぶような方法で行う。つまり、トトメス3世時代からの部分を壁と柱で補強する。第二のステップとして50の柱を使って大広間を完成させる。そして、第三ステップとして、大きな中庭をつくり、全長150メートルにもなる神殿コンプレックスを完成させた。このヌビアのアメン大神殿では、神官団がテーベの神官団と同様に強い政治的影響力をもっていたと考えられる。
また、ピイはテーベにおいて女王ハトシェプスト(トトメス2世)以来伝統と成っていたオペト祭を復活させた。オペト祭というのは、アメン神が妻ムトと結ばれるためにナイル川の増水1か月前にカルナック神殿からこのルクソール神殿を訪問するという祭りで、言ってみれば聖婚儀礼だ。日本のお神輿とも似ていて、アメン神とムト神、そして子供のコンス神の像をカルナック神殿から舟で運び、その像を2、3週間ルクソール神殿に安置し、奧の聖堂では王権付与などの儀式が行われるのだ。
ムトが(「9つの弓(すべての外国の敵)」の女主人)であり、セクメトとバステトの融合した女神であることを考えると、この儀式にも「獅子の顔をした女神がヌビア逃亡する」という一連の話にも関係があるようにも思える。
参考→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31049201.html
それはさておき・・・
そんな信仰神の深いピイであるからこそ、エジプトへの軍事遠征の大義名分が
旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す
・・・であったというのは、本心からであったと考えられる。
ピイのエジプト遠征
当時の記録(ピイの勝利の碑文)は、ヘルモポリスのナムルトが同盟を裏切ったことへの言及からはじまる。しかし、実際にこのナムルトがヌビアとの同盟関係にあったのか、それとも最初から北部諸王朝と同盟関係にあったのかは議論が分かれるところらしい。それよりもナムルト(Nimlot、Namart: 紀元前754年~紀元前725年)は、Nemrod(ニモロデ)とも表記されるのだが・・・、これは聖書に登場するニムロデと同じだ。
ニムロドは旧約聖書においてはクシュの息子であったことを考えると、関連性を探してみたくもなる。もちろん、この時代のヘルモポリスの支配者ナムルトがそうであったと言う気はない。世の中で最初の権力者となったニムロドの王権は、メソポタミアの諸都市におよんでいたということなのだが、さらに2000年以上もさかのぼった時代の話だ。
そうなると今度はエジプト王朝の創始者であるナルメルとニムロドの関係も興味深い。
ナルメルについてはこちら
→ ナルメルのパレット http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24830403.html 
名前の類似性だけでなく、旧約聖書の創世記10章8節に書かれてある。
「クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。」
まぁ、証明する資料は存在しないので、憶測で話すしかないのだが、
ただ・・・「ニムロド」が“エジプトに存在していた名前”ということは、とても興味深いように思える。
さて、先へ進もう。
ピイの治世20年目に、テフナクトはヘルモポリスのナムルトを寝返らせると、下エジプトの連合軍を率いてヘラクレオポリスを包囲した。
ヘラクレオポリスの支配者ペフチャウアバステトはテフナクトの連合軍から早い時期に離脱しヌビア側についていたのだが、テフナクト1世の軍隊に包囲されると苦境に立たされていた。ペフチャウアバステトと駐屯していたヌビア軍は対抗しながら、テーベに使者を送りピイに助けを求めた。
ピイはこの助けに素早く応じ、軍を編成すると将軍パウェレムと司令官ルメルセケニ指揮下にある上エジプト軍をヘラクレオポリスに派遣した。
テフナクトがいったん下エジプトに戻った後、ナムルトはヘラクレオポリス包囲軍の司令官として駐留した。
オペト祭が行われているテーベを訪れていたピイにとっては、まず祭り事を滞りなく行い、上エジプトの支配者たる地位を確固たるものすることが重要であった。「戦争は人まかせ・・・」ともでもいうようだが、送り込んだクシュ軍は精鋭ぞろいでナムルトの軍勢に十分に対抗するだけの戦力であると思っていたのかもしれない。
ピイが送り込んだクシュ軍はペル・ペガの戦いや2度の小競り合いで勝利を収め、重要な砦を奪取した。ナムルトはヘルモポリスに逃げ帰った。
ヘルモポリスを逃げ帰ったナムルトだが、南からやって来たピイが率いるクシュ軍本隊に包囲された。ナムルトは5ヶ月にわたって篭城したが、結局食料が尽き降伏した。
■クシュvsアッシリア
古代エジプトにおいて有数の宗教センターでもあったヘルモポリスの街は、クシュ軍との5カ月にわたる籠城戦によって惨憺たるものであったに違いない。ヌビアを支配するクシュ王にしてエジプト第25王朝のファラオであるピイは、今や中部エジプトを完全に掌握しつつあった。ヘルモポリスの鉄壁の守りを誇った門が開かれ、ピイとクシュ軍は街の中に入った。ピイは平伏すナムルト王や王族達には全く興味を示さず、馬小屋に入っていくと、長い包囲戦によって痩せこけた馬を見て、ナムルトを叱責したという。
「ラー神の恵みにより私の呼吸に生命が与え続けられる限り、誓って言うが、汝(ニムロト)が自らの欲望の追求のために行ったどんな悪事よりも、馬達が飢えに苦しんでいることの方がずっと嘆かわしい…私はこのことで汝を非難せざるを得ない。」(ウィキ参照)
さて、中部エジプトを手中に収めたピイは、今回の戦争の主犯であるサイス王朝のテフナクトを追いつめるべく、ナイル川をさらに下り、膠着状態にあったヘラクレオポリスに向かった。途中ヘルモポリスへ向かうはずだった第23王朝の軍勢と相対することになったが、これを打ち負かした。ヘラクレオポリスを包囲していたテフナクトの軍勢はメンフィスまで後退した。ヘラクレオポリスの支配者であったペフチャウアバステトは包囲からの解放者としてピイの来訪を大歓迎したと言う。
エジプト伝統の都市メンフィスではテフナクト側につく約8000人の兵士が強固な防衛線をはって抵抗したとされている。そこでピイは、メンフィスの港に会った敵の舟をことごとく奪取し、川から街へ攻め入った。メンフィスの街に入ったピイの軍勢は、“洪水のように攻め”、数多くの兵士を殺し、あるいは捕虜にした・・・とあるが、この“洪水のように”に対してはいろんな解釈がある。ひょっとしたら文字通り「水攻め」を行ったのかもしれない。
さて、メンフィスでの戦いに敗れた下エジプトの諸公達は、ピイに服従したが、テフナクトはサイスまで逃げ、その後ピイに使者を派遣し、命乞いをするともに忠誠を誓った。
テフナクとは言った。
「どうかご慈悲を!屈辱にまみれた私は、尊顔を拝めません」
(ナショナルジオグラフィック)
そして、下エジプトで勝利を収めたピイは黄金や馬などの戦利品を船に積みこむと、踵を返すように故郷ヌビアに戻っていった。その後、彼が再びエジプトに姿を見せたという記録はないと言われている。
紀元前725年頃の出来事であった。
一般にはトトメス3世の時に、エジプトは最大に拡張したと伝えられるが、良く考えると面積的にはヌビア王朝と呼ばれる第25王朝だ。
紀元前715年にピイが死去し、35年に及ぶ統治に幕を閉じると、臣下の者たちは遺志に従って、エジプト式のピラミッドに埋葬し、寵愛していた4頭の馬を遺体のそばに埋めた。エジプトで500年以上も前にすたれたピラミッド埋葬の慣行を、ピイは復活させたかったのだ。
・・・ピイの物語については、クリスチャン・ジャック著の『ブラックファラオ』がお薦めだ。
さて、この先は・・・ちょっと面倒くさいのでウィキから要約しながら抜粋しよう(ピアンキはピイに訂正)。舞台はピイがエジプトへの遠征に勝利をおさめたところから始まる。
勝利が確定するとピイは降伏した王、及び州侯達から莫大な献上品を受け取り、勝ち誇って本拠地ナパタへと帰還した。そしてナパタのゲベル・バルカルの聖域で新たな大規模な建築活動を執り行い、新王国時代にエジプトによって建てられた神殿を改修・拡張してその威光を示した。そして、弟であるシェバカに王位を継承すると、ピイは紀元前716年に没した。
一方、ピイがヌビアに戻ってからというもの、下エジプトではまた不穏な動きが出てきた。そして、第24王朝のテフナクトはヌビア軍が引き上げた後すぐに忠誠の誓いを破棄し反乱を起こした。再び起きたテフナクトの反乱に対して、ピイが何らかのアクションを起こしたという記録はない。おそらく、その必要もなかったのかもしれない。テフナクト1世は、まだピイが存命中の紀元前720年頃死去し、第24王朝の王位は息子のバクエンレネフ(ボッコリス)に受け継がれる。
ひるがえってヌビアでは、弟のシャバカがピイの後を継承した。シャバカは、テフナクトの後継者であるバクエンレネフが拡張的な政策をとりはじめたところ、治世2年目に早くも軍事遠征を行いバクエンレネフと対峙した。マネトによればシャバカ(サバコン)はバクエンレネフ(ボッコリス)を捕らえて生きたまま焼き殺したという。
シェバカは兄ピイのようにヌビア地方に戻らず、古都メンフィスを居城とし、エジプト全土を支配するための基盤を整備した。そして、エジプトの古い伝統の継承するために、第6王朝のペピ2世の名を襲名し、国内に王権の正統性をアピールした。また、散発的に起こった反乱に対しては、殺さず、労働力としてナイル川の氾濫から守るための堤防を築いたと言われる。
ウィキには次のように書いてある。
具体的な経緯を記した記録が無いが、シャバカ王の記念物がエジプト全域から発見されることから、彼は実際にバクエンレネフを殺し、第24王朝を滅ぼしてエジプトを再統一したらしい。彼の治世に関することはあまりわかっていないが、少なくともメンフィス、デンデラ、エスナ、エドフ、そして何よりもテーベで壮大な建築活動を行っており、高い指導力を発揮したと考えられる。シャバカの14年の治世の後、ピイの息子であるシャバタカが王位を継いだ。
まだ、古代オリエント史をよく知らなかった頃、アッシリアの有名な王達と戦ったエジプト王朝は、古代より連綿と続いてきたファラオだと思っていたが、良く考えるとアッシリアの王と戦ったのはクシュ王朝だった。
シャバタカ vsセンナケリブ
シャバタカの治世に入るとサルゴン2世率いるアッシリアの勢力が拡大してきた。サルゴン2世の後継者センナケリブは、バビロニアを再び支配下におき、今やシリア全土の反乱を平定すべく軍をすすめていた。この事態に対しユダ王ヒゼキヤはシャバタカの下へ支援を要請してきたのであった。シャバタカはこの要請に答え、パレスチナへの軍事遠征に踏み切った。遠征軍司令官には王弟タハルカが任命された。
シャバタカの治世第2年(紀元前701年)、エジプト軍はアルタクの救援に向かい、アルタク平野でアッシリア軍と激突した。しかしながら、エジプト軍はこの戦いに敗れてパレスチナから後退することになる。センナケリブは、、
「我が軍が敵を木っ端みじんに打ち砕いた」と言ったらしいが、タハルカは何とか生き残った。
紀元前690年にシャバタカ王が死去するとタハルカが王位を継承した。タハルカの即位当初はアッシリアの脅威が遠のいた。それはアッシリアで紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、王位を巡って内戦が勃発したためである。
この一時的な平和の間にタハルカは熱心に内政に取り組み、大規模な建築を数多く残している。対外的には、紀元前673年にパレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱を支援してこれを成功させた。
しかしタハルカの成功はアッシリアの内政安定とともに失われた。アッシリアの王位継承の内戦を、母ナキアの支援の下で勝利したエサルハドンは、紀元前671年に大軍を率いてエジプトへと向かってきた。
あの奇妙な占いをおこなっていたナキアだ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25560551.html 
タハルカ vsエサルハドン
タハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入した。タハルカは下エジプトで行われた戦いで敗れ、メンフィスはついに陥落した。その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷してテーベへと逃走した。
アッシリア王エサルハドンはこの勝利を高らかに謳った碑文を残している。
更に彼は「上下エジプト、及びエチオピアの王」を称しており、ヌビアに至る全エジプトを征服したと誇っている。しかしこれに関しては明白に誇張であり、テーベに逃走したタハルカはその地でなお支配を維持していたことが、彼が行った儀式などに関する碑文から確認できる。
タハルカはなおアッシリアに対する抗戦を続けており、エサルハドンはこれを鎮定するために紀元前669年に再度エジプトに遠征した。しかしその途中で急死し、アッシリア王位はアッシュールバニパルが継承した。アッシュールバニパルは一旦軍を引き上げさせたため、タハルカはこれに乗じてメンフィスを奪回し、下エジプトでもこれに連動して反アッシリアの反乱が発生した。
タハルカ vsアッシュールバニパル
タハルカの北進と下エジプトの反乱を受けて、アッシュールバニパルは再びエジプトへと侵攻した。紀元前667年、アッシリア軍の攻勢を受けてタハルカは再び敗北し、テーベからも逃走してナパタまで撤退した。当時のテーベの長官メンチュエムハトはアッシリアに降り、全エジプトがアッシリアの支配下に置かれた。
この時、アッシリアに従順であったサイスのネコ1世だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともにエジプトの管理をアッシリアから任された。これをきっかけにサイスの王家はエジプトにおける地位を確固たるものとしていき、やがて第26王朝を建てることになる。
一方ナパタまで逃れたタハルカは、従兄弟、もしくは甥であるタヌトアメンを共同統治者、及び後継者であると定め、その翌年(紀元前664年)に没した。
タハルカは、父のピイと同様、ピラミッド埋葬を望んだ。ただし、歴代のクシュの王たちが眠るエル=クッルの王家の墓地ではなく、ナイル川の対岸にあるヌリに埋葬するよう命じた。なぜこの場所を選んだのか。考古学者ティモシー・ケンドールは、死者の再生を信じるエジプトの太陽信仰にもとづき、タハルカは永遠の命を得ようとしたのだと推測する(ナショナルジジオ)。
後継者タヌトアメンは、タハルカの意思を継いでエジプトの支配権回復を目指して活発に活動した。かつてのピイの『勝利の碑文』とともに発見されたタヌトアメンの『夢の碑文』には、タヌトアメンが見たという夢についての記録が残っている。それによれば、彼は二匹の蛇が出てくる夢を見た。この夢は「南の国はあなたのものです。あなたは北の国をも取りなさい。」と言う意味に解され、彼はそれに従ってエジプトの再征服に向けて軍事行動を起こしたという。
彼は快調に進撃し、テーベとメンフィスを奪回したが、アッシュールバニパルが再度自ら軍を率いてエジプトへと進軍するとこれに敗れてメンフィスを失い、テーベへと逃れた。更にアッシリア軍の追撃を受けて、彼はキプキピを経てナパタへと逃げ帰った。アッシュールバニパルはテーベを略奪したが、ヌビアへまでは進軍しなかったため、タヌトアメンはナパタの地で引き続き王位を維持することができた。
タヌトアメンは紀元前656年に死去し、ヌビアの地に葬られた。
タヌトアメンはエジプトを支配した最後のヌビア王であり、彼の死をもって第25王朝の終焉と見なすのが一般的である。ナパタを中心としたヌビア人の王国は存続し、やがてその中心をより南方のメロエへと移し、メロエ王国へと続いていく。
アッシリアも強いが・・・クシュ王国もすごい。
よくこんなアッシリアの勢力図を見るが・・・
■クシュ王国 ピラミッドから海上へ
アッシュールバニパルにテーベを奪取されて、エジプトへの支配力を失ったクシュ王国だが、アッシリア軍がヌビアまで進軍することはなく、タヌトアメンはナパタの地でクシュ王国の支配者として統治を続けた。そして彼の死をもって第25王朝が終焉となるわけだが、それはあくまでエジプト側の視点であって、クシュ王国はその後も連綿と続く。
クシュ王国とアッシリア帝国の戦いもまだ続いた。タハルカがヌビア地方に戻った後、下エジプトではリビア系と見られるサイス朝のネコ1世がアッシリアの傀儡政権となった。しかし、間もなくネコ1世は下エジプトの諸侯と同盟を組み、アッシリアへ反旗をひるがえした。しかし結局敗れ、ネコ1世はニネベに連行され、再度アッシリアへの忠誠を誓わされた。
その後、タハルカの後継者タヌトアメンが下エジプトに攻め込んだ時、サイス朝のネコ1世は、紀元前664年にクシュ軍との戦いの際に殺害されたと伝えられている。ネコ1世の子であるプサメティコス1世はシリアに亡命し再起をはかることにしたが、その後、アッシュールバニパルによってクシュ軍がまたしても追い払われると、プサメティコス1世はエジプトの支配者としての地位を手に入れることになる。
その後、『アフリカ周航』や『ナイル川から紅海までの運河建設』、そして旧約聖書の『メキドの戦い』など、何かと有名なネコ2世が後を継ぎ、その後プサメティク2世と続く。このプサメティク2世は6年という短命政権にもかかわらず、ヘリオポリスには21、79見事な一対のオベリスクが作られたエジプト中にその足跡を残している。
紀元前592年プサメティク2世は、クシュ王国に対して軍事遠征を行う。
遠征の動機は、クシュ王のアスペルタがエジプトに進軍する準備をしていたためであったと考えられるが、定かではない。当時のヌビアへの軍事遠征は第三瀑布まで達したと言われ、その軍隊の大部分は将軍ポタシムト(Potasimto)が指揮するギリシア傭兵であったとされている。エジプト軍は後のファラオになるアマシス(Amasis)が率いた。
このヌビアへの攻撃は第一次攻撃で、ヌビアが二度とエジプトまで攻め入ることがないように国力を弱めることが目的であり、実際その目的はクシュ王国の諸都市を破壊することで成し遂げられた。
ナパタには当時エジプト軍が破壊したと思われるクシュ王の像が保管されている場所があり、そこにある最も新しいクシュ王がアスペルタであったことから、アスペルタの時代にプサメティク2世との戦争があったとされているが、近年では疑問も投げかけられている。プサメティク2世は、破壊行為の際に第25王朝(ヌビア王朝)のファラオの名を碑文から消し、歴史から抹殺しようとした。
その時に破壊されたクシュ王達の銅像は現在復元され、ケルマ美術館に保管されている。
奇妙なのは、プサメティク2世が自分の父親であるネコ2世の名前も消し去ったと言うのだ。したがって、考古学的に確認される当時の破壊行為が、プサメティク2世によるものではなく、クシュ王国内で起きた王朝の争いによって生じたのではとの疑問も投げかけられている。それに、彼がその後エジプトの南の国境として定めた場所が、新王朝時代のようにナパタ(ゲベル・バルカル)ではなく、アスワン近くの第一瀑布であったというのも、彼の軍事遠征が力を誇示するものであるが、ヌビア地域を実効支配するものではなかったということが分かる。
ヌビアのピラミッド
ピイの下ナイルへ向けた軍事遠征で目のあたりにしたエジプトのピラミッドの文化的衝撃は創造を絶するものであったに違いない。上エジプトにおけるピラミッドの存在は、すでに王権とは分離され、貴族の墓としても建てられるようになっていた。ヌビア地方にも紀元前9世紀頃に建設されたピラミッドが確認されているが、ヌビアにおいて再び王権と強く結びつくようになる。
エル=クル遺跡には、カシュタとピイ、シャバカ、シャバタカ、タンウェタマニの陵墓が残されている(タハルカはヌリ遺跡に埋葬された)。ウィキによればエル=クル遺跡にある14基のピラミッドは王妃のもので、そのいくつかは著名な"warriorqueens"(武人王妃)のものである。
武人王妃何て聞くとヒクソスを追い払い第18王朝の基礎を築いたイアフヘテプ皇后を思い出す。彼女の墓にも王妃のものとしては珍しく斧などの武具が一緒に副葬品として埋葬されていた。その斧にはグリフォンのリリーフがついている斧があり、その様式がミノアのグリフォンと酷似していることから、ミノア文明との関係が議論されてきた。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/26175605.html
少しファンタジー的なシナリオを考えると・・・、彼女はもともとヌビアの王族であったかもしれない。娘のイアフメス・ネフェルタリの肌の色が黒で描かれているもそのためだ。メロエ王朝の時代になると、ヌビア地方の人々がギリシア植民地と交易を行っていたものを示唆する遺物が見つかるのだが、何か関係があるのだろうか?
→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31072685.html
以前のブログ記事でも紹介したが、紀元前5世紀頃から「ヌビアのピラミッド」が数多く建設されるようになる。ナパタ王国からメロエ王国まで数百年の間に建てられた「ヌビアのピラミッド」は220基。120基を有する本家エジプトの倍近い。もちろん、エジプトのピラミッドと比べると”ミニ”であり、傾斜角度約70゜で高さは最大のもので30メートルほど、底辺の幅も8メートルをほとんど越えることがない。(エジプトのピラミッドの場合、基礎の大きさは少なくとも5倍以上、傾斜角は40~50゜)ウィキ。
クシュ王国の王に関して、第25王朝後のアトラネルザからアスペルタまでの4人の王(アトラネルザ、センカマニスケン、アンラマニ、アスペルタ)の存在については、時系列も含めて確実なものをみなされている。
彼らの名前が確認できる記念物も比較的多く見つかっており、彼らが近い親類関係にあったことも判明している。紀元前593年から568年にクシュ王国を統治したアスペルタからの時代に関しては、長い碑文なども見つかっており歴史的な出来事なども確認できる。彼の時代にはおそらくエジプトとの戦争も起こっていたと考えられる。
クシュ王国の王宮ではまだエジプト文化が主流であり、クシュ王もすでに支配力を失っているにもかかわらずエジプトの王であるかのように振る舞った。
ナパタからメロエへの遷都の日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中には、中心地は徐々にメロエに移転し、ナパタは宗教的な意味合いが強かったと考えられる。
他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。
メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。
クシュは鉄の仲介者だったのか?
クシュ王国の活動がメロエに移ったのは、鉄の鉱山の存在を挙げる学者が多くいる。これまでクシュ王国は、交易で象牙、金、そして奴隷などを輸出していたことが知られており、メロエ朝時代からの墳墓からは金が豊富に発見されている。しかしながら、それらの金がいったいどこに由来するものなのかはこれまで分かっていない。
タハルカの治世より「鉄」を使用していた痕跡が発見されている。彼の墓から発見された先が黄金で装飾された槍は、棒の部分が鉄から出来ていた。メロエ朝時代の遺跡からはスラグの山がいくつも発見され、一時期はメロエが古代アフリカの一大鉄産業地帯であったと解釈され、ヌビアがアフリカに鉄器を広めた仲介者であったとも言われた。
しかしながら、大量にスラグが発見される一方で、鉄を使用したオブジェの数はそれほど多く発見されていない。また、1976年ヘルマン・アンボーン(HermannAmborn)のスタディでは、ヌビア地域に精錬所があった形跡が全くないということが結論づけられている。スラグの山は決して精錬プロセスから生じたものではなく、非鉄金属、金、あるいはマジョリカ焼きのような陶器造りの生産プロセスで形成されたものだと言うのだ。メロエ朝時代には、キリンやダチョウなどの野生動物、人や家畜などを描いた陶器が造られていたことが分かっている。
ふむ・・・
さて・・・
プサメティク2世の侵略から70年ほど後、今度は新たな脅威がアジアからやってくる。
アケメネス朝ペルシア だ。
紀元前525年頃、アケメネス朝ペルシアのカンピュセス王の侵攻を受けた。
ここでよくベルリン博物館にあるナパタ碑文が引き合いに出され、「ヌビアの王ナスタセンがケンバスデン(すなわちカンビュセス2世)の軍を打ち破り、その軍船すべてを奪取した」とされているが、ナスタセン王は在位紀元前335年~315年のヌビアの王であるので、カンピュセス2世の時代とは異なる。
結局、ヌビア北部地域が侵略されるも、激しく抵抗した結果、ペルシア軍を追い返すことに成功する。
それにしても、ペルシアはなぜヌビアを攻めたのだろうか?
わざわざ・・・
■クシュ王国 紅海へ
35年間クシュ王国を統治したHarsijotef(およそBC404年~BC369年と推定)が残した碑文には、彼がそれまでの王と同様に王国への侵入を図ろうとする遊牧民族と戦わなければならなかったこと、そして戴冠式からはヌビア中の重要な神殿をまわり、地方の神々に合意を取り付けなければならなかったと記されている。当時の碑文の文字にエジプトのヒエログリフが使用されていたが、時代とともに文字としての仕様が失われていったことが見てとれるという。
紀元前3世紀初頭のものと推定されるアリヤマニ(Aryamani)の碑文はほとんど判読不可能だそうだ。おそらく、ヒエログリフを使っていたヌビア人達は、メロエに遷都してからは独自の文字を発展させたという。
ただし、アリヤマニの碑文の年代特定は困難を極めている。それにこの碑文が見つかったのはケルマ地方に近いカーバ(Kawa)である、ナパタやメロエ地方ではなく、クシュ帝国の原点とも言うべきで発見された。アリヤマニのファラオとしてつけられる称号が、ラムセスを名乗ったファラオ達の時代(BC1292年~BC1070年)を模倣していることから、新王朝時代の末期頃であったとも言われ、更にはアララ(ピイの父)であった可能性も示唆されている。
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いずれにせよ、メロエに活動の拠点が移るにつれ、
ヒエログリフの記憶も薄れていった。
それに代わって登場したのがメロエ文字だが・・・
これがどうも・・・
紅海を超えてアラビア半島南部
更には同じ時期にインドで発達したアブギダ(abugida)・アルファベットと似ているそうだ。
クシュ王国の交易相手はもはやエジプトではなかった。
紅海からインド洋にむかっていった
・・・かもしれない。
クシュ王国メロエ王朝について書く前に、前回あっさりとスルーしてしまったアケメネス朝ペルシアのカンピュセス王のクシュ王国侵攻(BC525年頃)について述べておこう。この時代の出来事を伝承する文献としては、その真贋はさておきヘロドトスの『歴史』が重要だ。
カンビュセス、クシュへスパイを送る
エジプト攻略後、カンビュセスは3つの遠征を計画した。目指す相手はカルタゴ人、アンモン人およびリビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの「長命族(マクロピオイ)である。計画をめぐらしてやがて決定した方針は、カルタゴには海軍を、アンモンには陸上部隊から選抜した部隊を派遣すること、エチオピアへは先ずスパイをおくり、その王に贈物をするという口実の下に、エチオピアにあると伝えられる「太陽の食膳」なるものが真実あるかどうかを見届けさせ、そのほかにもいろいろと探らせることでああった。
                 エジプトを攻略したカンビュセス
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『太陽の食膳』とは次のようなものであるという。町はずれに草原があって、ここにあらゆる種類の四足獣の肉を煮たのが一面に置いてある。実は町のその時々の係りの者が、夜の内にこの肉を草原に丹念に並べておくのであるが、昼間は誰でも勝手に行ってそれを平らげる。土地の住民は、大地がいつも自然にこの食物を産み出してくれるのだといっているそうである。いわゆる『太陽の食膳』とはこのようなものだといわれている
カンビュセスはスパイを派遣する決意を固めるとすぐに、エチオピア語を解するイクテュオパゴイ人をエレパンティネの町から呼び寄せることにした。(中略)
このイクテュオパゴイ人は「魚を食う人」という意味で、ヘロドトス、パウサニアス、アッリアノス、プリニウス、ストラボン、そしてプトレマイオス(ローマ天文学者)など古代の歴史家や地理学者などの著書に登場する。彼らが住んでいる地域は、ペルシア湾や紅海沿岸地域など報告する者によって様々であるが、プリニウスによれば端から端まで船で30日やアッリアノスによれば1万スタディオン(1800キロ)であったとされている。おそらく海上交易を生業とした民族であり、基本的にはアラビア語を話したとされている。
イクテュオパゴイ人がエレパンティネに到着すると、カンビュセスはエチオピアで述べるべき口上を彼らにいい含め、紫の衣裳、黄金の頸飾りや腕輪、雪花石膏の香油壺、椰子酒一甕などの贈物をもたせて、エチオピアへ遣わした。
カンヴュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである。
さてイクテュパゴイ人の一行はこの国へ着くとその国の王に贈物を献上し次のように述べた。
「ペルシア王カンビュセスは、貴王と親交を結ぶことを念願され、貴王に拝謁いたすようにと我らを遣わされました。これなる王からの献上品は、王自身も殊に愛用しておる品々でございます。」
しかしエチオピア王は彼らがスパイとして来訪したものであることを看抜いて、次のようにいった。
「ペルシア王は何も予と親交を結ぶことを大切と考えて、そなたらに進物を届けさせたのではない。またそなたらは真実を申しておらぬし-そなたらが来た目的はわが国の実情を探るためであるからな-、あの男も正義の人物とはいえぬ。ペルシア王が正義の士であるならば、自国の領土以外に他国領土を望むことはなかったであろうし、何の害も加えてこぬ民族を隷属させるようなことはしなかったであろうからな。
そこでこの弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。エチオピア王はペルシア王に忠告する。ペルシア人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。しかしそれまではエチオピアの子らの心に自国領以外の国土を獲得する願望を起さしめ給わぬ神々に感謝するがよい、とな。」
エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。王はそれから紫の衣裳を手にとって、それは何か、またどうして作るのかと訊ねた。イクテュオパゴイ人が紫や染色についてありのままを答えると王は、ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだといった。
確かにヌビア人は弓の名手として古来より知られているが、弓を引かせるというストーリーは同じくヘロドトスが紹介してリウスキタイ起源説ヘラクレス編にも登場する。・・・なんか創作臭いな・・・。
紫の染め物については以下を参照ください↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30494692.html
王は次に頸輪と腕輪などの金製品について問うたので、イクテュオパゴイ人がそれらの装飾品について説明すると、王は笑い、それを枷と思っていたので、自分の国にはこんなものより頑丈な枷があるといった。
金より頑丈なものとは何か?金はもともと柔らかい金属なので、それよりも頑丈なものとして青銅や鉄の可能も考えられる。前回の記事ではメロエが、鉄の一大生産地であったことについて否定的な見解を紹介したのだが、やはり鉄の生産地であった可能性も捨てきれない。例えばこんな記述もある
ナパタ時代の後期,紀元前1千年紀中頃には鉄器生産が始まっていた可能性があるが,王宮においてさえ鍛も日常の道具もほとんどは石器であった(Kendall1996)。それに対して,メロエにおける鉄器生産は出土したスラグの量からみて,鉄原料ならば5000トン,鉄製品ならば2500トンにのぼると推定されているのである。これが約500年間の集積であるとしても,年間5トン以上の鉄製品が作られていたことになる(Rehren2001)。これだけの鉄を生産するには,燃料となる木炭が大量に必要となる。
http://www.janestudies.org/drupal-jp/sites/default/files/JANES_NL_J_no17(2008)_7.tsujimura.pdf 
3番目に王は香油について質問したが、使者がその製法やそれを体に塗りつけることなどを話すと、王は衣裳についていったのと同じ言葉を繰り返した。
さて、話が酒のことに及びその製法を聞いた王は、大層気に入り、王は何を常食としているのか、またペルシア人は最大限どれほど生き延びるのかと訊ねた。使者は王がパンを常食としている旨を答えて、小麦がどのようなものかを説明し、ペルシアでは80年が最高寿命であるといった。
するとエチオピア王がいうには、糞便を常食していては寿命の短いのも驚くに当たらない。実際ペルシア人はこの飲物で元気をつけることがなかったら、それだけの寿命も保てまい、イクテュオパゴイ人にその酒を指し示しながらいった。さすがのエチオピア人も、酒の点でだけはペルシア人に兜を脱ぐというのである。
今度はイクテュオパゴイ人が王に向かって、エチオピア人の寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が120歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲物は乳であると王は答えた。スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。
この泉は菫のような芳香を発していたという。スパイたちが語った話によれば、この泉の水は実に軽いので、水面にうけ部ことができるものは何一つなく、木も木より軽いものも浮かぶことができず、みな水底に沈むという。実際その話にあるような水がエチオピアに実在するとすれば、この水を常用しているエチオピア人が長命なのは、そこに起因しているかもしれない。
・・・“油の泉につかったように”って、水より軽いんだからやっぱり油か?スーダン地方は石油の産地でもある。いずれにせよ、メロエ王朝はローマから大衆浴場の文化を取り入れたようなことが書かれたあるが、水浴的な習慣はヌビアにすでにあったということなのだろう。
泉を離れると今度は牢獄へ案内されたが、ここでは囚人がみな黄金の枷を掛けられていた。このエチオピア人の国では、青銅が最も珍しく貴重なものなのである。牢獄見学の後、スパイたちはいわゆる「太陽の食膳」も見物した。
「太陽の食膳」を見学した後、最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これはヒュアロスという透明な石材を用いて、次のようにして製造されるという。エジプト式あるいはその他の方法で死骸を乾燥させた上、全身に石膏を塗り、その上からできるだけ本人の面影に似せて、その姿を描くのである。それから中をえぐったヒュアロス製の柱の中へ遺体をおさめる(ヒュアロスは細工し易い石材でこの国では多量に採掘される)。
遺体は石柱の中に収まっていても透きとおって見え、何らの悪臭も放たず、その他不快の種となるようなことを示すことも決してない。そしてその遺骸は、五体こごとく加工を施す前のままの姿で現わしている。この石柱は、使者に最も近い縁者が一年間自分の屋敷に置き、さまざまな動物を供え生贄をささげる。一年たつと家から運び出して、町の周囲に立てるのである。
カンビュセス 進撃と「カンビュセスの籤」
以上の視察を終えて、スパイたちは引き返していった。彼らから以上の報告をきいたカンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることを考えてもみなかった。カンビュセスはもともと気違いじみた性格で、冷静さを欠く人物であったので、イクテュオパゴイ人の報告をきくや否や、麾下のギリシア人部隊にはその場所で待機させ、全陸上部隊を率いて遠征の途に上ったのであった。
軍を進めてテバイに着くと、カンビュセスは遠征軍の中から5万を選抜し、アンモン人を征服してゼウスの託宣所を焼き払うことをこの部隊に指令し、自分は残りの部隊を率いてエチオピアへ向った。
しかし彼の軍隊が行程の5分の1も踏破せぬうちに、携帯の食糧はことごとく尽き、糧食についでは軍需品輸送用の動物も食い尽してしまった。この情況を知ったカンビュセスが、もしこの時自分の誤算に気付き、軍を返していたならば、最初の過失はともかくとして、彼は賢明であったといえるであろうが、彼はこの惨状を全く意に介さず、ひたすら先へ先へと進んだのであった。
兵士たちは地上に草の生えている限りは、これを食って生き延びたが、いよいよ砂漠地帯に入ると、彼らの内で戦慄すべき行為に出るものが現われた。すなわち十人一組で籤をひき、籤に当った者を一人ずつ食ったのである。カンビュセスもこのことを知ると、全軍が同胞相食む惨状に陥ることを恐れ、エチオピア遠征を中止して退却したが、テバイに着いたときには麾下の兵士多数を失っていた。
このヘロドトスが語るカンビュセスのクシュ遠征の顛末は、「ドラえもん」の藤子・F・不二夫が書いた異色の短編漫画「カンビュセスの籤(くじ)」にも登場する。藤子・F・不二夫の短編漫画を見ると、あらためて昔のマンガ家は凄いと思う。Wikiにはストーリーが掲載されているが、「食のタブー」もどこ吹く風、絶対読みたくなることうけあいだ。
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ただ、前回の記事でも触れたが、実際の歴史ではペルシア軍とクシュ軍の戦闘はあったようだ。これほど悲惨の結末という訳ではないのだが、ペルシア軍は撤退を余儀なくされた。
■王殺しとメロエの女王
クシュ王国メロエ王朝
メロエ王朝の誕生時期については、いろいろと議論が分かれている。政治的機能はすでにアスペルタの治世(紀元前6世紀初頭)からメロエに遷都されたようだが、宗教的機能は引き続きナイル川下流のナパタに残り、王もナパタに埋葬された。
一般的にメロエ王朝の初代王として知られているのはエルガメネス(Ergamenes:紀元前280年頃)だ。彼については、ギリシア人歴史家ディオドロス(紀元前100年頃)によって言及があるなど、当時他の古典文献に登場する数少ない王の一人である。ディオドロスによればメロエ王朝のエルガメネスはギリシア哲学者によって教育を受け、ヌビアの司祭を拒んだという。更に彼によれば、かつては慣習によって司祭が“王がいつ死ぬべきか”が決定していたが、王はこの命令を拒み、神殿に軍隊を送りこんで司祭を殺したという。
司祭が王の死ぬべき時を決定していたと言う話は興味深い。ジェームズ・フレイザー著の『金枝篇』を想起させ、再生を繰り返すアドニスのような植物信仰が根底にあるような気もする。ウィキの「王殺し」の記事を拝借すると
ヨーロッパでは、古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える。
この逸話の信憑性については定かではないが、彼によって新しいヌビアの時代が幕を開けたのは確かである。メロエはそれ以前にもクシュ王国の首都であったことはあるが、エルガメネスはメロエにピラミッドを築き、そこに自身を埋葬させた最初の支配者であった。それまでは、前回の記事にも書いたが、それまで宗教的な中心地はナパタであり王の戴冠式や埋葬はすべてナパタでされていたのだった。
その後の王については、ほとんど知られておらず、ピラミッドからの碑文から名前を読み解くのが精一杯だ。おそらく紀元前220年頃の王であっただろうアルネハマニ(Arnekhamani)は、大きな神殿をハルツームから北東190kmほどいったal-Musawwaratas-sufraに築いている。それを見る限りは、エジプトの文化の影響は大きく後退したことが見てとれるようで、他方ギリシア文化の影響も受けながら独自のメロエ文化や芸術が花咲いていたことが分かる。そして、ここは新たな宗教センターになっていたことが、巡礼者が残したと思われる碑文などによって考えられる。
カンビュセス率いるペルシア軍の侵攻を防いだヌビアだが、考古学的証拠から、メロエ朝時代のクシュ王国がプトレマイオス朝エジプトに対して軍事侵攻を企て、下ヌビア地域あたりを占領したとも考えられている。アディハラマニ王(BC207–186)とアルカマニ王(BC200頃)にはアスワンの近くに神殿も建設しており、少なくともその周辺は当時ヌビアの占領下にあったことが伺える。また、そこにはアディハラマニ王の碑文も残っているのだが、それがヌビアの王についてヒエログリフで記された最後の文書である。
世界史における時代の中心はギリシアやローマに移行しつつあり、歴史の教科書ではほとんど言及されることはないのだが、エジプト南部においては、エジプトとヌビア勢力の攻防がいたるところで展開していたと考えられる。
記録されているメロエ朝王の記録の中でも、シャナダヘト(Shanakdakheto:BC170-BC125)は最初の女王である。メロエのピラミッド群の中でもひときわ大きなピラミッドが彼女のために建設され、チェペルにある2つの小部屋は芸術性の高いリリーフで装飾されていたと考えられ、南部への軍事遠征によって数多くの牛と奴隷を得たことが描かれている。自らを「ラーの息子」、「2つの国の支配者」という称号を持ち、ナショナル・ジオグラフィックスによれば、史上最も重要な女王50の中に入る要チェックの人物だ。ナカで発見された彼女の名前が書かれた碑文は、現存するものではメロエ文字で書かれた最古のものである。
彼女の治世の後、アマニレナス(Amanirenas:BC40-BC10)やアマニスハヘト(Amanishakheto:BC10-BC1)などメロエ王朝では度々女王が支配者となった(7人ぐらいだろうか?)。聖書の使徒行伝や地理学者ストラボが述べているエチオピアの女王カンダケは、どうもアマニトレ(Amanitore:BC1–AC20)であると考えられている。
メロエの都市と神々
メロエの都市は3つの構成要素があった。王宮や行政などの重要な建物を城壁で囲むようにつくられたロイヤルシティ、アメン神の複合神殿、そして一般市民が住む居住区だ。ロイヤルシティの王宮には所謂“ローマ風呂(公衆浴場)”があり、装飾などから古典ローマの影響がみられるとされる(温泉自体はもっと古くから普及していたと考えられる)。メロエのピラミッドと居住区の中間には太陽神殿がある。
メロエではナパタ時代、あるいはもっと以前から信仰されてきたアメン神がそのまま最高神として信仰されていた。角がある羊の姿で描かれたアメン神はケルマ時代の太陽神として機能をもっていたことが確認できている。野生羊姿のアメン神は、エジプトの軍事遠征によってヌビアを征服した時にエジプトにもたらされたと考えられている。いわばヌビア・オリジナルだ。メロエ語では「アマニ」と呼ばれ、アマニを名前に冠する王も多数出た(Tanwetamani、Senkamanisken、Anlamani、Arkamani、Amanitore、Amanishakheto、そしてNatakamanなど)。
さらに、アメン神は時代と場所によってその姿や添え名は変化したらしい、カワでは「南の獅子」という添え名がつき、かつてライオンの姿の神であったことも示していおり、メロエ朝時代には羊の他にもライオンの姿でも描かれている。またメロエ朝時代にはアメン神が太陽を司るのではなく、稀にだが「月の神」であったことを示す碑文も発見されている。また、第25王朝のピイを見ても分かるようにテーベのアメン神が彼の妻ムートや息子コンスなどと一緒に崇められていたこともある。
メロエ朝時代にはアメン神の他にも次のような神が信仰されていた。
アペデマク(Apedemak) 獅子神
この神も頭がライオンで身体が人間という姿で、弓と矢筒と一緒に描かれている。戦争と豊嬢の神であり破壊と創造の力をもつとされている。ナカにあるライオン神殿の裏の壁には、3つの頭と4つの人間の手をもつアペデマクが描かれており、インドの影響もみられというが・・・どうだろうか。
また彼は頭がライオン、上半身が人間、下半身が大蛇という姿でも描かれているとなると、ゾロアスター教やミトラス教のズルワーン、グノーシス主義のアイオーンと重なる。
アメセミ(Amesemi)女神
獅子神アペデマクの妻だが、人間の姿で描かれている。ライオン神殿の側面にイシス、ムト、ハトホル、サティスとともに描かれている。この4人の女神たちに思いつきで並んでいる訳でも、美人コンテストをしているわけでもない。この女神達にすべて共通して『ラーの目』と関係がある。これらエジプトの4女神に比べてヌビアの女性らしくぽっちゃりと描かれているアメセミも、おそらく太陽神ラーと関係があったに違いない。タブンね・・・。
アレンスヌフィス(Arensnuphis) プトレマイオス朝
彼の名アレンスヌフィスはギリシア語に由来するが、古エジプト語では「良き伴侶」を意味する「Iri-hemes-nefer」である。これは特にプトレマイオス時代の下ヌビアの神殿などでエジプトの神シューの添え名としても見受けられ、雌ライオンの顔をもつテフヌトの兄弟、もしくは夫として、伝説によればヌビアからエジプトに来たと考えられている。アレンスヌフィス自身は人間の姿で描かれているのだが、ごく稀に吠えるライオンとして描かれていることがある。
アスワン近郊にあるフィラエ神殿では、彼には「美しい狩人、プントの主人」という添え名がつけられている。さらに「大風」、「北風とした来た者」、「ヌビアから来た者」、「天の創造者」、「ラーの後継」などがある。ギリシア神話にてこのアレンスヌフィスに対応するのはアルテミスと言われている。
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ふむ。。。
エジプトの伝説にある「ヌビアに逃亡する雌ライオンの顔をした女神」の由来の手掛かりを得ようとしたのだが、今回は残念ながらえられなかった。少し気になるのは、メロエ朝の時代でも上下統一を象徴する王冠があちらこちらで登場する。ひょっとしたら僕たちはこの王冠をとんでもなく間違えて解釈してしまっているのではないだろうか・・・。
ところで、メロエ王朝の時代で注目されるのが彼らの交易についてだ。
海上交易への道
メロエ王国の時代には、発掘される遺物などからもギリシア商人との盛んな交易がされていたと考えられており、それがナイル川を経由するルートではなく、アフリカ東岸の紅海から輸出し、そしてギリシア人植民都市と交易していたと考えられている。更にはアラビア半島南部を経由して、インドとも接触しおり、ヒンドゥー文化もこの時期流入してきている。
前回、前々回とメロエの鉄産業について少し紹介したが、実際メロエが「アフリカのバーミンガム」と呼ばれるほど鉄鋼産業が盛んであったかは今後の調査を待たなければならないだろう。しかし、鉄以外にも金や宝石をはじめ、メロエ産のコットン繊維なども海上交易の商品として広範囲に取引されていたと考えられている。
交易をする際に重要なのは相手側とのコミュニケーションだが、所謂メロエ文字と言われる文字は、フェニキア文字の発展と同様に商業的展開の必要性から生まれたものだろう。
そして・・・、この文字だが、
その交易の特性を示すようにインドからの影響もあるようだ。
■メロエ文字とその他の古代文字
クシュ王国の中心が時代とともにケルマから南方のナガタに移り、そしてナガタからさらに南方のメロエに移るにつれ、文化的にエジプトから独立したクシュ王国は、独自の文化を開花させていった。その変化は、クシュ王国独自のメロエ文字誕生にもみることができるが、それは独立した発展をたどったのではなく、おそらく交易を通じてこれまで関係の薄かった他の文化圏との接触も大きな要因だったのではないだろうか。
前回、マーラーさんから「聖書アラビア起源説」との関連を聞かれたが、僕がヌビア地域にこだわるのは、まさに今日の記事で取り上げる「言語」と「文字」の問題やY染色体の分布図をみるとアラビア半島南西部とアフリカ東岸(ヌビアはもっと奥地だが)にはどうしても何らかの関係あるよう思えるからだ。
そして、インドとも・・・
ヌビア人が話したメロエ語
メロエ語とは、およそ紀元前1000年から紀元前750年の間にヌビア(現在のスーダン)で成立したクシュ人の王国で話されていた言語である。この「メロエ語」という名前はクシュ王国の中心地がメロエに遷都されはじめた紀元前6世紀頃を考えると、誤解を招きやすいのだが、すでに紀元前1000年頃にはヌビアでは日常会話として話されていた言語とされている。つまり、ヌビア語と呼んだ方が適切なのかもしれない。
記録としてはエジプトの文字ヒエログリフで編集され、紀元前800年頃の古代ヌビアの碑文はほぼ全てヒエログリフを用いて書かれているそうだ。しかしながら、ヌビアの人名研究などが進み、メロエ的な特徴をもつ名前や地名、そしてフレーズなどはエジプト新王朝時代から存在していたとも考えられている。
その一方で、「メロエ文字」の発展は遅れて興った。もともとクシュ人の王国の中心地はナパタであったが、紀元前300年頃に、現在のハルツームの北のメロエに中心地が公式に移された。当時エジプトに対する文化的な依存度が低下したが、同じ頃に独自の文字、メロエ文字による表記法が発展し、メロエ語が公的な記録に使用されだしたことからも、そのことが伺える。
奇妙なメロエ文字
メロエ文字は、クシュ王国メロエ王朝において少なくとも紀元前200年頃までメロエ語を書き記すのに使用されていた。またおそらく、後継者である諸ヌビア王国で古ヌビア語を記すのに使用された。メロエ文字は所謂「アブギダ」、「アブジャド」、「アルファベット」という文字体系の中で、セム系の文字である「アブジャド」とインド系(ブラーフミー)文字である「アブギダ」の性質を併せ持つような不思議な文字だ。
ちょっと訳が分からなくなると困るので整理しておこう。
音素文字は原則として1字が1音素(発音の最小単位)を表す文字で、最初に僕らが知っているアルファベットの体系を想像してもらってかまわないだろう。ただし、「a」や「e」のような母音や「h」や「s」のように子音をどのように体系に取り組んでいるかで3つのグループに分けることができる。
「アブジャド」はセム文字系であり、ヒエログリフを簡略化することによってつくりだされた原シナイ文字(紀元前1500年頃)の一派であったと言われている。しかし、原シナイ文字がアルファベット体系の中で最も古い文字かと言えばそうでもない。上エジプトで比較的ヌビアの影響も濃いテーベ周辺で原シナイ文字と近似のワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年頃)も発見されている。
楔形文字(シュメール文字)は紀元前2500年頃には1000文字あったとされるが、その後500年間の内に400文字に簡略された。その後も簡略化の努力は続けられた。こうしたプロセスの中で母音を捨てられ、フェニキア文字の誕生で覚えるべき字形が22までに減った。フェニキア文字は、まさに広く使用されるようになった最初のアブジャドであり、広範囲に海洋貿易を営む民によって生み出された言語といっていいだろう。
このプロセスはギリシア語のアルファベットを誕生させ、また広域で利用されたアブジャドのアラム語は、中東を経てインドまで到達し、そこで今度はブラーフミー文字を発展させた。ブラーフミー文字はアブギダである。このブラーフミー文字は子音の音価と暗黙に続く母音の音価を保持することで音節を表現する。この辺の分け方は正直良く分からないが、アブギダが紀元前6世紀頃インドで誕生したことはチェックしておきたい。
ひるがえって、ヌビア地域ではアブジェドでありながら、アブギダとしての性格をもつメロエ文字が誕生したわけだが、おそらくインドで生まれたアブギダが、インド洋の海洋交易路を経てアフリカ東岸に達し、エジプトとの国交がほぼ断絶していたヌビア地域の文字形成に影響を与えたのかもしれない。
また、同じようにアラビア半島南西部のサバ王国や、後のヒムヤル王国からアブジャドである南アラビア文字がエチオピアの紅海沿岸にもたらされ、ゲエズ文字となった。このゲエズ文字も当初はアブジャドであったにもかかわらず、西暦300年頃になるとインドのブラーフミー文字や隣のメロエ文字などの影響を受けてアブギダに変化し、これまで右から左に書かれた文章も、左から右へと書式を変更している。
ウィキペディアには次のように書いてある。
アブギダとそれ以外の音素文字体系との間の明瞭な線引きは難しい。歴史上中間的な文字はいくつも生まれている。たとえば古代ヌビアのメロエ文字は、随伴するaを示さない(ひとつの記号がmとmaの両方を表すなど)ため、ブラーフミー系文字のアブギダに似ている。しかし、他の母音は完全な字で示し、ダイアクリティカルマークや変形では示さない。したがってこの文字体系は、本質的にはアルファベットに近いがある母音を表記しないものであったと言えよう。
文字の分類はそもそも正しいのか?
世界最古の音素文字をめぐってはヒエログリフから派生したと考えられる「原シナイ文字(紀元前1500年)」であるとか、「ワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年)」であると言われている。それがフェニキア語の祖である原カナン語に発展したとあるのだが、若干の違和感を覚えずにいられない。
カナン人がフェニキア人の祖であったことは、おそらく間違いないと思われるのだが、この原カナン文字は、フェニキア文字と似ているようにはとても思えない。どうだろうか。ヒエログリフが原カナン文字の由来というのはその類似性から容易に想像できるのだが、そこからフェニキア文字への発展段階には、もう何段階かの発展過程がないと説明しにくいような気もする。
フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(母音を表す記号がない)である。つまり、子音を表現する文字のみから構成される文字体系で、実際にどう読んだかは分からない。このフェニキア文字からは最初に分岐したと考えられるのが、古ヘブライ文字で、おそらく「紀元前10世紀頃に話されていたと考えられるヘブライ語」を表現するのに使用されたと言われている。
一般的・・・といっても聖書を史実と受け止める場合、古ヘブライ語はイスラエルの滅亡やバビロンの捕囚などでフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字に取って代わられ、その後、再びアラム文字をベースとして現在のヘブライ語が出来たというのが・・・どうも怪しい。
疑惑の一つ目は; フェニキア文字と古ヘブライ語ってそっくり!
驚くほどに・・・と言うか、ほとんど違いがない・・・
・・・って言うか同じでしょ? これは・・・。
つまり、紀元前10世紀以前、モーセも苦手であったヘブライ語はすでに存在していなければならないわけで、当然十戒の石板もヘブライ文字ではなく、フェニキア文字と同じ「古ヘブライ語」でなければならない。これは聖書に都合の良い箇所は「古ヘブライ文字」であり、それ以外は「フェニキア文字」と呼んでいるような気がしてならない。
疑惑の2つ目は; アラム文字とヘブライ文字ってそっくり!
・・まぁ、イエスもアラム語を話したと言われているが無理もないが、バビロンの捕囚後、密かにヘブライ語を伝承してきたユダヤ人たちが再び「ヘブライ語」を復活させたというストーリーはどうも怪しい。
ウィキペディアには次のように書いてある。
帝国アラム文字の影響
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語・アラム文字(帝国アラム文字)は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残しているが、ヘブライ文字にもその直接の影響を与えている。アッシリアの北イスラエル王国の征服と新バビロニアによるユダ王国の征服、バビロニア捕囚、キュロス王による帰還政策とそれに続くペルシア帝国時代に、帝国治世下のセム系諸民族は軒並み帝国アラム文字の使用に移行したようである。バビロニア捕囚の後もイスラエル王国系の北南の地域では、一部それまでの古ヘブライ文字が使用されていたようだが、この時期からアラム文字によってヘブライ語を筆記するようになり、ヘブライ語自体も徐々に文語化し日常の口語はアラム語へと移行したのではないかと考えられている。
このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字(SquareHebrewscript)または単に「方形文字」と称する。
方形ヘブライ文字の展開
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書では、単語末に形状を変化させるkの(ך)カフ・ソフィート、mの(ם)メム・ソフィート、nの(ן)ヌン・ソフィート、pの(ף)ペー・ソフィート、ṣの(ץ)ツァディ・ソフィートが出現している。しかし、これは同じ時期のパルミラ文字などの他のアラム語資料でもまったく同様の形態変化を起こしているので、方形ヘブライ文字だけではなくこの時期の西部のアラム文字系全体の変化と連動した、同一の現象と考えるべきだろう。
死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が随所で見られる。また後代のラビたちもこれらの文字を「ヘブライ字(ketāb'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。
蛇足ではあるが、北イスラエル王国領であったサマリア地域でも同様に古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。
・・・
古ヘブライ語と近似している・・・と言うのは要するにフェニキア文字と近似している・・・と同義だ。サマリアは聖書にも登場する北イスラエルの首都であったので、無理やり古ヘブライ語としているようだが、フェニキア文字と呼んではいけないのだろうか?
ふむ。。。
だいぶ話がそれてしまったが、言語を中心としてぼんやりとしたエチオピアとインドの関係についてスポットをあてようと試みたのだが・・・・結局ぼんやりとしたままだ。
■再論:サバ王国 
2012/11/9(金)午後8:54紅海沿岸の古代史歴史
さて、クシュの歴史を紀元前2世紀ぐらいまで概観してきたが、一旦時間の流れを紀元前8世紀あたりまで逆戻ししよう。まだ、クシュ王国がメロエに遷都する以前、王国の勢力圏からは外になるのか、それとも衛星都市的に発展していたのかは定かではないが、ダモト王国がエチオピア北部、現在のエリトリアに興隆した。
後のアクスム王国の基礎となるべき国なのだが、その歴史についてはあまりにも闇に包まれている。この王国の発展には紅海の対岸にあるサバ王国も少なからず絡んでいるといわれている。
まずは、ここで紅海を越え、アラビア半島の歴史について調べてみることにしよう。
東アフリカとアラビア半島の間に横たわる紅海は長さ2250km、幅最大355km 平均的な水深は538メートルある。一番狭い海峡であるバブ・エル・マンデブ海峡では、2つの陸地の間はわずか27キロであり、琵琶湖の最大幅が23キロであることを考えると、筏で渡ろうと思えば渡れる距離であろう。人類の移動ルートとしては、ナイル渓谷からシナイ半島を通ったという北東ルート説よりも、このバブ・エル・マンデブ海峡を渡ったという南東ルート説の方が有力である。
こちらのサイトより拝借 ↓
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/012_2Ysennsyokutai_no_bunnpu_to_keiro.html
これはアラブ主著国連邦などで発掘された石器なども、この説を裏付けている。
人類の出アフリカは定説より早かった?
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110128001 
(January28,2011)
初期現生人類の出アフリカ時期が定説より2万年早まるかもしれない。アラビア半島の太古の石器を発掘した研究者が発表した。
約13万年前、氷期の地球で温暖化が進行し、海水面が下がった。アラビア半島には航行可能な湖や河川も出現して、人類の水上移動が容易になったという。かつては乾いた砂漠だったアフリカ北部地域に中東への新たな移動ルートが生まれ、約20万年前に出現した初期人類に出アフリカのチャンスが訪れたと見られる。
アラブ首長国連邦の砂漠遺跡で発見された約12万年前の石器類も、新説の有力な証拠となる。
初期人類は約6万年前、ナイル渓谷や現在のエチオピア経由でアフリカを出たと考えられてきた。しかし太古の石器の発見により、現在のソマリアあたり、いわゆる“アフリカの角”から直接半島へ渡った可能性が出てきた。しかも、道具はアフリカ独特のデザインが施されているという。(中略)
気候データについては、洞窟の石筍(せきじゅん)から太古の湖や河川の気候記録を調査し、紅海の水位変動も調べたという。比較的温暖だった約13万年前は、アラビア半島で降水量が増加。人類は、出現した河川を船や筏(いかだ)で下っていた可能性がある。
イギリス、オックスフォード・ブルックス大学の自然地理学者エイドリアン・パーカー氏によると、この時期は紅海南部の水位が落ち込んでいたという。約4キロの航程でアラビア半島にたどり着けるため、人類にとっては海を渡る絶好の機会だったようだ。
ふむ。
かなり早い時期に人類はアラビア半島に定住していたと考えられる。
人類で最初の宗教は多神教だったのだろうか?
それとも・・一神教であたったのだろうか?
古代エジプトやメソポタミアでの信仰においても、なぜ、アフリカ東岸やアラビア半島南部にしか生息しない没薬や乳香が聖なるものとして見られ、オリエント世界の宗教で重宝されたのか
『聖書アラビア起源説』では、はっきりとアラビア半島のアッシール地方が『旧約聖書の舞台である』としているが、それが政治的なプロパガンタにせよ、方法論的な欠陥があるにせよ、このアラビア半島には『一神教の故郷』、あるいは『一神教の伝統』が育まれてきた何かがあると思われる。世界宗教たるイスラム教が辺境の地メッカで起こったのはそれなりの歴史的背景があるに違いないし、聖典であるクルアーン(コーラン)を単なる聖書の焼き直しとするのは明らかに間違えであろう。単純に考えると、現在ヘブライ語にもっとも近い言語はアラビア語であるから、ヘブライ語からアラビア語に翻訳する方が、より忠実に翻訳できると素人には考えられるのだが・・・。
アラビア半島南西部の歴史
アラブ系の伝統ではセム族出身のカターン(Qahtan、旧約聖書ではヨクタン)と、その息子達がアラビア半島南部の人々の祖になったと伝えられている。その内、1つのグループはヒムヤル、他のグループはカーラン(Kahlan)と呼ばれイエメン北部で遊牧を行っていた。
カーランの遊牧グループは、紀元前2500年頃にNajraと呼ばれるイエメンとサウジアラビアの境にある砂漠地帯に土手ダムをつくり、マアリブ地域に灌漑が整備したとされている。このカーラン族が後にサバ王国を建国したと考えられている。
このサバ王国が、旧約聖書に置いてソロモンを訪ねた伝説の王国シバであるとも言われている。
紅海沿岸の古代史を見る時に、おそらくアラビア半島に最初に登場するのはこのサバ王国で、おそらくその2~3百年早く紅海の対岸で興隆していたとされるダモト王国と何らかの関係はあったに違いない。また、サバ王国は、“王国”というよりは当初緩やかな部族連合に近い形で存在していて、旧約聖書で言われるところの「士師」達によって統制されていた社会であったかもしれない。
その後、まさに没薬や乳香の産地にカタバーン王国、アウサーン王国、ハドラマウト王国、そしてマーイン王国が誕生した。これらが紀元前8世紀頃に興隆したと言われている。ギリシアの天文・地理学者エラトステネス(紀元前276年~194年)は、セム族系の古代イエメン4部族としてマーイン人、シバ人、ハドラマウト人、カタバーン人を挙げている。
サバ王国の興隆については、実は以前述べている ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30381907.html
サバ王国についての最古の記録は、ユーフラテス沿岸の町ハディーサで発見されたメモ書きのような碑文で、紀元前8世紀頃にシュフとマリの行政官がアブ・ケルマール付近でサバとタイマーから来たキャラバン隊を襲ったというものだ。
調べている内に以下のページにも同じ記録についてもっと詳細な事を紹介していたので以下に引用する。
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Najran-2.html
「ユーフラテス川(駐留のスフ(Suhu)およびマリ(Mari)の知事によって駱駝の隊商が捕らえられた」と記述されている。
タイマーと古代シバから来た100名の人達を従えたこの隊商は200頭の駱駝から成り、羊毛、鉄、雪花石膏および青ムラサキ色に染めた羊毛を運んでいた。ところがこの隊商は通行料を支払わなかったので捕らえられた。雪花石膏を除けば、これらはアラビア半島南部の典型的な産物では無かった。
ホネガイの殻で染めた紫の羊毛はフェニキア人が扱う産物である。鉄はアラビア半島南部の輸出品としては知られていない。しかしながら、アナトリアおよびレヴァントに鉄の産地がある事は知られている。
「乳香の道の重要な中継地である古代シバ国およびタイマーの交易業者は彼等の香料をレヴァントでフェニキアの織物、鉄等と交換し、それからアッシリアで産するこれらの品の幾つかと交換する為に、東へ向かって旅をした」と言われている。
ルート的にはこんな感じだろうか?
イメージ4
また、以前の記事では遠隔交易を営む商人達に加え、国家間どうしの取引として、新アッシリアとサバ王国の間に朝貢関係が存在していたと書いた。
古代の記録として2人のシバ王国の王がアッシリア帝国(新アッシリア時代)に貢物をしていたとされるが、サバ王国側の王名表と照合すると、おそらく次の2人の王になる。
紀元前715年頃:
イタマール・ワタール1世(サバ王国側資料)=イタムラ王(アッシリア側資料)
紀元前685年頃:
カリビル・ワタール1世(サバ王国側資料)=カリビル王(アッシリア側)
どんな人物だったのか?
イタマール・ワタール1世
イタマール・ワタール1世については、イエメンのシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqahから発掘された碑文に言及がある。これは彼の後継者であるカリビル・ワタール1世の碑文なのだが、イタマール・ワタール1世の治世に戦争によって様々な土地を獲得したことが書かれている。
彼は、まずカタバーン王国の王ヴァラド・アム(Walad'Amm「月の神アムの息子」)を倒し、その勢いでカタバーン王国南西部地帯から、都市Timna、Radman,Ru'ayn、そしてYahiriなどの地方、そしてアウサーン王国の中心地であったWusrを征服したとある。、更にサバ王国の北方にある都市国家カミナフ(Kaminahu)の支配下にあったナシャン(Naschan)とマンヒヤト(Manhiyat)を開放(?)し、カミナフそのものも支配下においたと記録している。
カリビル・ワタール1世
カリビル・ワタール1世は、古代南アラビア半島史におけるサバ王国で、最も重要な王になる。彼の活動は特に前述のシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqah神殿の碑文から読み取ることが出来る。比較的長いこの碑文は2つあり、考古学上の資料としては一方をRES3945、そして他方をRES3946と呼んでいる。RES3945では灌漑施設などの建設と軍事遠征についての報告であり、RES394もやはり建設事業と征服した土地などについての報告で、当時の南アラビア半島における政治情勢について分かる数少ない資料の内の一つである。
一方で、アッシリア側の資料がある。
ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年~紀元前727年)
タイマーからの朝貢を受け取ったとの記録がある。
サルゴン2世(紀元前721年から705年)
サルゴン2世が行った軍遠征のうち、紀元前716年にエジプト東部のシナイ半島にある都市アリシュに行軍し、軍事要塞を築いた時に、様々な貢物をシバ王国が贈ったという。つまりは『粉塵の様な形の黄金、宝石、象牙、黒檀の種、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタマール・ワタール1世から受け取った』というものだ。
センナケリブ(在位:紀元前705年~紀元前681年)
このセンナケリブと言う呼び名は旧約聖書のヘブライ語記述をさらにギリシア語訳したものに由来する慣用表記で、実際はアッカド語における表記シン・アヘ・エリバ(Sinahheeriba)で、意味は「月の神シンが兄弟の代わりに我を与えた」というものである。
アッシュールに神殿を建てたのを記念した基礎の碑文にセンナケリブは『シバの王カリビルから贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた』と書き記している。
紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによると、エジプトに対して軍事遠征を行ったセンナケリブに対して「アラビアとアッシリアの王」と述べている。
また、バーレーンで発掘された最古の入植跡から、センナケリブがアラビア北東部を攻略し、バーレーンの島々を手中に収めたことを示唆しているそうだ(ウィキ)
アッシリアへの朝貢は円滑な交易を保証する為の交易税又は賄賂であったと考えられるが・・・
当時、アラビア半島西南部の地域は戦国時代・・・。
おそらく軍事同盟を背景としたものであったに違いない。
何があったのか?

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