2019年2月8日金曜日

sayufm_musiclabo解析: 出エジプト

sayufm_musiclabo解析: 出エジプト
出エジプトからのイスラエルの旅路は、<民数記>での後半終りがけ第33章で、その旅の宿駅名を順に記す事で一つに纏められたふうに記されている。
しかしこれは、1-2節での説明書きのごとく、モーセがその宿駅(地名?)を書きとめた<古い文書もの>の宿順を参照してそのまま記入したものとみられる。
それゆえ、その大半の宿駅名(地名?)は、古くて今では特定判明することが出来ないし、また、モーセが覚えのため、何ら地名のないところでの宿営地をして、その地理的特徴に当てた宿名を名付けたとの推定もされれうる。
特にシナイ山を後にした、その旅路の初期の2年目、3年目のうちに<雲の柱の確かな先導>により宿営地が定められた折りに名付けたりして、
そして、その後、それから38年の期間、それはほとんど記事記録のない長い空白の時で、その後半終りにモーセ、アロンらに大々的に叛訴する大きな背反事件の起こりとその裁きの顛末処置(民数記16-17章)の詳述がなされた以外、他に目ぼしい記録もなかったが、その貴重な宿駅名録を基に準拠、照らしたかたちで、その長い年数を久しく行き巡る宿営生活が続けられていったという具合であった。
ともかく、ここでの<旅路順遍歴図>の説明としては、その第33章の前、後半の記事を参考に
民数記、出エジプト記、申命記
での他の言及記事、及び関連記事を検証し、それらの記事関係からの矛盾的な点、不明瞭な処を正しく解読し想定したところの<新旅程遍歴図>のものとして、ここにまづ呈示しておきたい。
先ずその旅程順は、出エジプトからシナイ山の荒野までと、シナイ山を離れた後での旅路に分けて見ておこう。
そのあと40年目のその最終旅程をその記事関連から明示しておこう。

Unknown Future
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● 【出エジプト(ラメセス)からシナイの荒野(シナイ山)までの宿順旅程】
*(注)エジプトを出立したその月を年の初めの第一月、いわゆる正月として定めたうえでの旅立ちとなり、その15日早朝からあわただしく動き、ゴセンの地を離れ発った。
この定めの新年月日に依り、宿営の<経過日のり>が記述に順序良く留められている。
その主要な日のり大略は、先ず<エジプトの地を出て、ふた月目の15日にシンの荒野に来た>との記述があり、丁度、まる30日直後の日程を示す。(出エ第16章1節)
そして同じく、エジプト出後の三月目のその日(第一日)にレピデムからシナイ山の荒野に入り、宿営をそこに移したとの記事(出エ19章1-2節)がある。
まる45日を経過した日のりだった事が知られうる。
(シンの荒野からシナイの荒野には丸々15日を要している。)
・《宿駅その1》出立地、ゴセン地域のラメセスを発ち、スコテに宿営:(民数記33章3節)
その宿営の翌朝、午前中の内にそこを発ったかどうか、もう一夜そのまま留まり、旅の準備の不十分さを補ったり、旅の体勢を少しでもより良くする手立て、処遇を計ったりして、日を費やしたかも知れない。
・《宿駅その2》スコテからエタムに宿営:(民数記33章6節)
スコテから大海(地中海)寄りのペリシテびとの国の道が近くて便利であったが、そこへの道に向かわずエタムへ、そこから荒野への道が選択されたかに見えたが、そうではなかった。
イスラエルの民の男子は、国々の兵士のように訓練武装した集団ではなく、皆それぞれが自分なりに防備武装しただけの大群集の分団に過ぎず、戦いには全く不慣れで、戦いを知らない者が大多数であったから、、、。(出エ第13章17節以降、)
(エタムは荒野の端の地で、シュルの荒野の道の入り口。エタムの先、荒野の手前にはエジプトの主要な要塞、防壁が設けられていたようだ。)
・《宿駅その3》エタムから引き返して、ピハヒロテの地へ、その海寄りの傍らに宿営:(同33章7節)
エタムからの出立は、そこから進む方角を変えて、ピハヒロテの地へ引き返すという事態のものとなった。(民数記33章7節)
エタムからの荒野の道は、<シュルの荒野>を縦走してカナン方面へと通じた主なる裏道であったが、このルートも<主なる神の目論み>により、進み行くことはなかった。
*ピハヒロテの地を特定することは、古来、バビロン捕囚後の旧約聖書時代以降、現代に至るまでも、困難な事柄となっている。
だがこの地の海の近くに宿営するや、そこへエジプトの王パロ(ファラオ)率いる全主要な軍団の大軍勢が押し寄せ、追い詰められて行き場の無い事態に直面する状況を
伝える記述が見られ、そして、その面前の海(後の世に“紅海”とギリシャ語70人訳が翻訳されており、それでラテン語、英語などのヨーロッパ諸語はそれに準じているが、)を、神の大いなる奇跡の御業に拠り海面が分かたれることで、水の無い海底を渡リ行くといった状況が、追って渡り入ったパロの大軍勢の顛末が、そこでの大きなやま場の事蹟となって記されている。(出エ第14章~15章で)
この<紅海の奇跡渡行>の場所に関わる記事、ピハヒロテの地とその海近辺への言及記述は14章2節で “ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前、”とあり、<その前とは>即ち<海のかたわら>であり、そこに宿営したという状況を伝えるものだ。
邦訳では、<バアルツェボン>という地名らしき名が連記され、そのピハヒロテの地を位置付ける風に付されているが、その訳文には不明瞭さが残る。民数記33章での宿駅記載では、<バアル・ツェボンの向かい側、前方向>にピハヒロテの地があるといった感じの表記である。
(これは、記載巡歴地図の如くと見なせられる。ただし図示はイメージ配置です。
当時は、現在以上に、ナイルデルタから離れた南東方面の丘陵荒野から標高400、500m以上の岩山、そのピークは今も800m代だが、その山並みがスエズ湾の方向に弧を描くように伸びて、湾ののど元下手の海岸側に達していた。
したがって、ピハヒロテは、それほど広い低地を占めた地域にある居住場所ではなかったようだ。
バアルツェボンは、その向かいの西の方向、山手側の丘陵地にか、或いは山並みをなす岩山の谷あいの高台に設けられた神々の聖所拝殿、礼拝所だったとも見られる。
ある資料によれば、バアルツェボンは、フェニキアの海の交易船乗りたちの守護神との事で、それに比定できるかのようだが、ずっと後の習合によるものかも知れない。)
つまり、原典へブル語の文節で“ミグドルと海との間”の地域は、上記括弧書きのように、それ程広くはなく、海に向かってはだんだん狭くなってくる、その間に位置するピハヒロテに併行した、
西方、前向こうの方角に、バアルツェボンがあるという表現であり、そしてその文章の文頭では、ヘブル原典は、まず初めに“ピハヒロテの前に宿営せよ”と言命している訳で、それに加えてさらに注意深い明白指定
<その手前、その前方、あるいは、それに向かって>
という意味のイコール指定が、<海の傍らに~>の言葉に付随したものとなっている。
さらにここで注目、題とすべきは“ミグドル”という言葉である。  
この言葉のルーツは、アブラハムが70才代後半以降にエジプトに寄留した頃から、その地で一般
的に使用されていた用語とみられる。海との係わり、特にエジプトのスエズ湾の海でも、その湾の最北奥の海域での、ある地理的状況の土地に密接に関係した意味ある言葉のようである。
つまり、そのエジプト古語(或いはヘブル古語かの)の原意は<湿地帯の土地>を意味、表わすものであったと推せられるものだ。
その湿地した地域の中央部にはアシの生い茂る、深みのある泥土、泥沼〔デイショウ〕が広がっているという地勢状況といったところであった。
その一般的な言葉が、時代が下って、かの預言者エレミヤの時代にはメンフィス、タパネス、パテロス、ヘリオポリスといった地名と並んで、エジプトの名ただたる地名の一つともなっている。
(エレミヤ書44章1節、46章14節)それまでにもそういった湿地帯に隣接した地域に築かれた要塞、或いは人の住む地が、要塞名、町名に転用されてきたケースがあったが、、。
<モーセの出エジプト時の時代>及び、それ以降も未だ地名などに転用されよう形跡は、まったく無く、原意のままのエジプト用語で、外来のヘブル語ともなっていった。
“ミグドルと海との間にあるピハヒロテの前に”という記事での土地地域には、その東のシナイ側、シュルの荒野方面に対面して、その頃、推察するに、国境を兼ねたエジプトの防壁、防塁が、未だ
そこまで伸び築かれてはいなかった。
それゆえ、それの防備代用として、ピハヒロテの近く、ミグドルの前方に隣接した見通しの利く野地に、レンガや石、木で構築された<見張り台=watch tower>が設けられていた。
(これはエジプト軍の正規ものではなく、民営用のものであった)
その見張りの塔台をモーセらは、<ミグドル>という言葉を模して“ミグダール”と名付けて覚えの宿駅標の用語とし、また、その後の40年の宿営時代には、“塔”を意味するヘブル用語として
定着、用いられる。(それでまた、ミグドル自体も後に塔を表わすようになる。文字語の発展と共に、その子音字スペル は同じだが、発声母音がo オ から a ア の発音系に変わるだけだ。)
言葉上にあっては、<海との対比関係につりあうミグドル>、そして、村か町ふうの居住地らしき地名の<ピハヒロテ>に対比しての、神々の拝殿聖所なる<バアルツェボン>という対組二様の両者対関係の言葉であり、まさに言葉パズルを解くような感じである。
以上が<ミグドル>という言葉についての考察であるが、これに海が係わっている訳だが、この海をいわゆる、ずっと後の旧約聖書の翻訳時代に、ギリシャ語訳のほか、それに続いてヨーロッパ諸語が、その当該の海を<ヤム=海>という語だけで表わした場合と、同義の異名ともなる<アシの海>という表現のヘブル語“ヤム・スーフ=ים-סוף”を<紅海>と訳すに至っている。
ギリシャ語70人訳セプチュア・ギンタが、何ゆえに<紅海>と訳さざるを得なかったか。
ユダヤのラビら、70人余りがアレクサンドリヤにやって来て、その翻訳事業を聖なる仕事として請け負い始めた頃(それはBC3世紀後半~中葉頃以降、プトレマイオス2世代)その頃の地理知識の常識では、スエズ湾を含めたその海は、<紅海>の名で広く世界に知られること、すでに過去、数百年来に亘っていたという実際的現状があった。したがって、当時のこの常識趨勢の、ギリシャ語ゆえの事情を無視し難いものと受けとめ、むしろ、あえて活用すべきが妥当との判断にて、学者らの意見が一致、
<アシの海を>を、
<ερυθρα θαλασσα=紅海>
と訳したわけであった。これは決して、誤訳の類と見なすべきものではない。
現代のスエズ湾及び、グレート・ビター(大苦湖)湖にはモーセ時代の自然地理地勢の面影は無いに等しいと言える。
地中海に通ずるスエズ運河の起点となり、カイロからは最主要な自動車幹線道路が設けられて、湾岸地域は産業資源の基地化や、都市化された発展状況を呈している。
ギリシャ語の
<ερυθρα θαλασσα=赤い海、紅海>
という名称言葉が定着するようになったのは、ペルシャ、ギリシャの時代に及んでからであったが、太古からの何らかの自然地勢条件及び、気象条件などで、スエズ湾の北端域や、大苦湖、ティムサ湖の周辺にはアシの生い茂る地理年代が、モーセの時代頃までだけでなく、ソロモン時代以降の後々までも少なからず、ずっと継続していたようだ。
現代のシナイ半島東側のアカバ湾では、今日でもアシの茂るところが見い出されるとのことである。
(スエズ湾の最北岸は、近現代の運河が造設される頃と、出エジプト時代の状況を比べるならば、数十キロもその北岸位置が北に寄って、違っていたであろう。
紀元前5千年期なる頃まではスエズ側と地中海側とが自然のままの水運でつながりをなし、スエズ側からの流れが、堆積される土石物を押し流す自然の営みがあったと見られる。
4千年期から3千年紀後半の頃には、北アフリカのナイル・デルタとなる東地域と、シナイ半島側とに一つ、二つの地峡、陸続きが出来てきたと見られる。
とにかくナイル川も5千年期後半頃から急速に大河への発展をなし、下中流域から上流域の動きやすい表層土石類を莫大な水流運搬力で以て、下流へ下流へと押し流していったと見られる。)
モーセらイスラエルの民が渡った場所は、アシの茂みから離れた、いわゆる茂みの終わった端の岩場となる境界の海岸からであった。
そこは、宿営地から南に少し下った所にあったと見なして良い。
かってモーセ時代のスエズ湾最北端地域は、塩分濃度もきわめて低く、半淡水化していたと見られ得る。
大苦湖も大いなる淡水湖であって、その頃は、スエズ湾のほうにその水が浸潤する傾向を見せていたと推定されうる。
それが逆転したのが、おそらく、モーセが率いた出エジプト時での、その<奇跡の海渡り>による出来事以降の事象だと推断される。
また、その泥沼〔デイショウ〕、および湿地帯の土地地域=ミグドルも、近くの丘陵砂状荒野や、岩肌の山地から、その風化により運び寄せられる堆積物事象でもって、長い間のうちにしだいに乾いた荒れ野土壌(中世、近代に至って見られる)ふうに変わっていったようである。
・《宿駅その4》ピハヒロテの海の中、露見した海底を渡渉後、三日路にてメラに宿営:(同33章8節)興奮冷めやらずの<海なか渡渉の奇跡>で心が高鳴るふうであったが、まだまだ旅慣れするほどには日も浅く、その流浪旅は色々な面で十分な余裕がないまま、海沿いの、道なき道、道も途切れ、ほとんど人の通った跡も無い、
<エタムの荒野>
と名付けたその荒野に導かれ行く。その日、昼頃から順次、出立の整えをして、海から上がったその地を後にしたと見られる。
(出エ15章22-25節。エタムの荒野はシュルの荒野域内の一部だが、民数記33章の宿駅では、名付けの覚えとして<エタムの荒野>と表記している。)
<三日路にてメラ(マラ)に>、大群衆団の長だの列、三日路ほど進む間、その三夜を荒野で休寝したようである。
水を求めて三日の間、荒野を進んだが得られず、その三日目の夕、ようやく水のある処に辿り着いた。
が、しかし、そこの水は苦くて飲めなかったと、、、(それでメラと名付けられている。)
飲めばお腹を痛める、病をなすと、、、それで主なる神は、モーセにその水を<中和して甘くする木>を示され、泉に投げ入れ飲めるようにされた。
(これは、その木自体の質に中和力、甘味力が備わっていたかどうかは判明しないが、もし、何でもない普通の木ならば、神がその木を介して、質的な奇跡をなされたということになる。
だが、実際には<なつめやしの木>であったかも知れない。
この名を記すと、書文に重みがなくなる。
次ぎのエリムというオアシスに同名の木があると見れば、、、。いずれにせよ、神様の知恵、みわざの奇跡と見るべきであろう。
あいにくにも、その処置後、そこの水を飲んでも誰一人、病人になるような事はなかった。そこで
<民のため>に、この折に初めて、その最初の<定めや、おきて>を立て与えられた。それは聖別
された神の民となる為の前準備、心備えの事前訓練ともなるものであった。)
*シュルの荒野にはシナイ半島をミデアン、アラビヤ方面に向かう隊商路が、その中央部分を横切るふうにあったが、その大集団のイスラエルの民らは、以上のように、その道に進む事はなかった。
(先ずは、大変な大群衆ゆえ、各方面地域の居住諸族民を騒がせ、刺激しない為に、、、。)
・《宿駅その5》
メラを出立して、エリムに宿営:(民数記33章9節)
先のメラでは、そこに到着した日の翌日にも留まり、その夜も宿泊し、その翌朝エリムの方に旅立ったようである。
エリムは、まさに小規模ながら荒野のオアシスのような所で、そこで十分な休息と、さらに続く旅への、より十分なる備え、色々な繕いの整えをなしたようである。
(ここでの宿営滞在は1週間~10日以内ほどのものと推定されうる。)
その場所には<水の泉が12と、ナツメヤシの木が70本>
があった〔15章27節〕と記されているが、その泉に関しては、自然の湧き水の場所を見つけ、また他にもあろうかと探し出し、人々が十分に飲めるよう、利用しやすいよう緊急に整備、或いは拡張してのものであったろう。
ともかく、なんとか<12の泉>を確保する事ができたというものであったに違いない。
これは大群団の民が一応12部族余の分団に分けられていたからであろう。
*当時そのオアシス(エリム)に依拠して、土着の人が住み、集落をなしていたか、どうかは定かでない。
この泉のオアシスも生気あふれるものではなく、干からびかけ、やがては自然事象のままに埋まったり、地勢の変化で涸れたりして消え去るものとなったであろう。
・《宿駅その6》エリムを離れて、紅海のほとりに宿営:(民数記33章10節)
このエリムの後の紅海、そのほとりでの宿営は、出エジプト記では省かれ、言及記事は見られない。
15章27節のエリム記事のあとに記される筈の順であるが、そのまま第16章の章区内容の文となり、エリムを出たあとの記述を別の表示内容に関連付けている。
*先のエリムのオアシスで、充分一息つき、元気づいての旅立ちとなったが、紅海のほとりに出て、さらなる英気を養うものとなった。
そこでは海の幸を手に入れ、肉なべを囲む事も出来たとも、、
ここでは、再び旅の再出発、元気旅になるようにとの思惑で、豊かさのある海辺に導かれたものと見られる。
旅にも慣れ、旅生活の知恵も付いてはきたが、次なる道程がさらにきびしく、困難なものとして、控えていたからである。
(モーセは、この海のほとりでの生活模様事、何一つ記してはいないが、ちょっぴり悪い結果面がそこから映じたふうに記述していると見られなくもない事態が後に見られる。
つまりその後の旅の<シンの荒野>で、たちどころに、エジプトでの肉なべの事を思い出させる一因の働きが、この海のほとりでの一抹の宿営生活に潜んでいたからであった。)
ともかく、民らにとっては、紅海のほとりでの宿営は、過酷な荒野での旅路からの一時の解放となり、少なからずの満足と慰めを得て、引率指導者モーセへの訴え、不満を言うような事も暇も無く、その生活時間を費やしたようだ。
それ故、ことさら此処での宿営記事は、何一つ記すべき必要がなかった。
むしろ記すべきでない事が、その判断としてベストな真意ともなっていたと見られる。
・《宿駅その7》紅海のほとりを出立し、シンの荒野に宿営:(同33章11節) 
この紅海のほとり(現スエズ湾のはるか南方)での記事は、出エジプト記には、何一つ記録に残されていない。
モーセが一言も、何一つ書き記さなかったことには、彼なりの聖なる思惑基準があったからであろう。
前記のメラの記事とエリム記事は、それなりの彼の記憶に留まるところのものとなったとも解釈されうるが、当該の出エジプト記第15章22節以降、16章初め(1節)までの間、エリムの次ぎに来るはずの、この<紅海のほとり宿営>は、その土地の名さえなく、記されず、出エジプト記事には見られないものとなる。
(表示記事は、エリムを出発し、そこから<シンの荒野にきた>記すことで、その日までの全道程日数を明確に示す。
その表記が重要だったと見られ、そしてその荒野の位置を示す事を強く意図した文言としている。
もちろん、エジプトを出立しての<二ヶ月目の15日>ということであるが、。
<紅海のほとり>が、エリムとシンの荒野の間の中継点にありながら、外されてはいるが、その日
数の丁度、まる30日間のうちに含まれたことは、間違いなき宿駅順として確かな事実だ。)
*その紅海のほとり宿営での、推定人数140万から、上限170万とされる民らの生活事情、生存状況は何一つ伝えられていない。
が、そこでは恐らく前代未聞の事が起ったと思われる。
エジプトにいた頃、先祖代々ナイル川では行なった事のなかった漁獲の労をなす機会を得たと推定される。
その漁獲とは、海牛とも言われる<ジュゴン>であり、その漁は、かなり大量な数のものであったと見られる。
(ジュゴンの肉は、牛の上質肉より美味しいと言われている。)
(出エジプト出立時の民の数、ラメセス、スコテへの段階で、
<女、子供を除いて徒歩の男子は、約60万人であった>
と、そのおおよそを見て記している。〔出エジプ:12章37節〕、
民数記ではその1年1ヶ月後だが12部族系からの各氏族の下に数えられた20才以上の男子は、その調べの総計として、
60万3千5百50人と挙げている。〔民数記:1章46&2章32節〕
この数はほぼ正確であろうが、しかし、各氏族のそれぞれの父祖の家ごとに挙げた人数であるから、下僕らもその数に入れていたと見られる。
女、子供の数は記されていないが、丁度同じ時、レビ部族を除く、12部族での初子ウイゴの数が上げられている。
これは、生まれて一ヶ月以上からの初子を数えるもので、20才代までの初子〔としての長男〕を含めたものとなるが、その数は、レビ系族を除く全部族で、
2万2千2百73人
であった。〔民数記:3章43節〕
そういった数値から予測すると、女、子供は、それぞれ凡そ30-40万で、x2倍ほどと見られよう。
すると、総計では約60万にこの80万を足して、
140万、
これが妥当な下限の数となる。
因みにレビ族の男子の数が、他の12部族と比べてすこぶる少ない。
生まれて一ヶ月以上の男子の全総数は2万2千人であったと記している。〔民数:3章39節〕
すると20才以上の男子は、その半分を割っていたかも知れない。
12部族のうち最小数は、
ヨセフ系のマナセの諸氏族3万2千2百人、
最多数はユダ系族の諸氏族7万4千6百人、
その数値の間に、
6万代が1部族、
5万代が4部族、
4万代が4部族、
3万代が1部族〔ベニヤミン系・ヤコブの末っ子〕、
という男子20才以上の各々の数であり、レビ族系との大差が明らかに見られる。〔民数:1章20-43&2章、3章39節〕)
モーセの書き記す書は、民らの生活記録を中心テーマにしているわけではなく、神と神の言われる言葉、及び、それに係わる関係状況を記すことが中心主旨としているから、モーセの内にある心意では、神の言葉に直に関わらない、結びつかない生活事情、状況などは、質的に止揚変換されない余分なもの、むしろ妨げとなる事柄類として対処されるというものであった。
だが、モーセは、後にシナイ山での神の言葉啓示の折り、民らのうちに数多く所有されるようになっていた<ジュゴのなめし皮>に関する生活状況で、聖なる還元止揚のものとして、幕屋の天幕及び、聖器具運搬時等でのおおいの保護カバーとして活用される旨の啓示内容を示すに至る。
〔出エジ:25章5、26章14、35章23節、36章19節等、民数:4章6、8、10-12、14節〕
(幕屋聖所に関わる造営資材に関して、その入手ルートなど、エジプトからの持参の物だけでは足りなかったと言えよう。
かの紅海渡渉後、海岸端に打ち寄せたエジプト軍の残骸からも少なからず利用可能な物、戦車の輪や武器武具等々を含め、色々な回収物を得た事であろうが、、、、
<ジュゴンの皮>については、当時の交易市場品としては扱われていなかったと見るべきで、その入手は不可能、それ故、民ら自らのオリジナルなものだったという他ない。
(羊のモジャモジャ毛を紡ぐ技術がすでにあったかどうか、青糸、紫糸、緋糸は、羊毛のものだったかどうか、その当時、自明だったから記事には記されなかったかとも。ヤギの長く垂れ下がった毛を紡ぐ技術があり、その毛糸で機織し、幕屋をおおう天幕のための幕を仕立てた。
〔出エジ:26章7-9節〕)
また、<羊、ヤギ、牛などのなめし皮>の製作技術、染め技術(あかね染め)など、エジプトにいた頃からお手の物であったであろうゆえ、自前で造ることができたと見られる。
かなり多量に必要となった金や銀、及び青銅の金属物に関しては、たまたま立ち寄る交易商人などのルートからも賄えたと見られるが、青銅造りでの銅資源に関しては、当時シナイ半島のシンの荒野近辺地域にあった、エジプト王家所有の銅山所からの入手、或いは、一時的に占拠利用しての確保かも、、。これも民らの自前活動のもの、記録に書き記す必要なき事であった。)
*シンの荒野の宿営では、主なる神との係わり上における、特記すべき事象事蹟の記事が記されている。
これは、その出エジプト記第16章全体を直接読んで頂いたほうが最善であろう。これも後世後々までも有名になるところの記事の一つと言える。
ここでは、主なる神のご主権と、民への御思いが、民らの日常生活、その基本の食と労役面から、神のみわざ奇跡の下に実践的に教育されるごとくである。
先の宿駅メラで、民全体が一つにまとまり、生活の規律パターンとして、共同体的な社会秩序をなすため、主の定めとおきてが立てられている。7日目に民が休むようにと、その安息日を公けに定め与えられたものとなる。
それを守るべく直接的訓練のごとく、神が大いなる御業をもって朝夕の食の供給にたずさわり、その神自らの気遣い労の下にて、なされ試されるものとなる。
(何ゆえ荒野、シナイ山その聖域への民の旅であったろうか、、、。
ただ単に、<民の聖別>の為だとの一言で尽きるものではない。その真理をひも解くに深いものがある。
ともかく、出エジプトを果たしたその民らにとって、これから先に近づかんとするシナイ山、
当時、その地域を特別な聖域として前々から既に定め対処せられ、お待ちなされていたようなものであったが、、
ともかく、その場所を目前に控えての、民らに対する事前予備的カルティベイトであったと見て良いものだ。)
さて、次ぎに下の二つの宿営地・その名、ドフカとアルシについては、出エジプト記ほか、それらに関わる記事は、どこにも記されていない。(民数記に宿営名が挙げられているのみである。)
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・《宿駅その8》シンの荒野を出て、ドフカに宿営:(民数記33章12節)
出エジプト記の第17章1節で、“シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、云々”との表現言葉があり、この<旅路を重ねて、>の旅程のうちにドフカと次ぎのアルシが含まれ、その語句のうちに含まれ、準ずるものとなる。
*シンの荒野からレピデムを経て、シナイの荒野に着くまでの所要日数が15日間であるから、ドフカ、および、アルシは、その旅路で、一晩か、二晩、夜休むだけの宿営だったと見られる。
シンの荒野では10日近く宿営したであろうと想定される事から、、、、。
・《宿駅その9》ドフカを出て、アルシに宿営:(同33章13節)  
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
・《宿駅その10》アルシを出て、レピデムに宿営:(同33章14節)
・《宿駅その11》レピデムを出立して、シナイの荒野に宿営:(同33章15節)
ここで、エジプトの地ラメセスから目指したシナイ山、その荒野、麓地域までの一時的な目的地・道程までの旅が終了するものとなった。

Unknown Future
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(Google Earth からのコピー転載)
[写真画像の説明]:
写真中央の峰々を中心に、斜め写りになっているが、三つのブロックに大きく分かたれた山岳地形になっている。
中央ブロック山系の前面、斜め上の角あたりが大きな十字路のように広いスペース沿いになっている。
現在は、観光エリアになっており、シナイ山や、聖カタリナ修道院などの観光案内センターの建物、宿泊施設等のホテルなどがあり、リゾートタウン化の様相をなしています。
中央の山系ブロック斜め上、角の十字路から、その中央と上隣ブロック山系との、谷あいの道を斜め下方に下ると、AD4世紀の創始、のちに創設された<聖カタリナ修道院>の建物が小さく写し出されています。
*中央ブロック山系の山並みの下部、後方に<エベル・ムーサー>の峰・山頂名が示されていますが、はたしてその山頂に現在設けられている記念聖堂が位置している場所なのかは判りかねますが、
エベルは、アラビア語のヤベルまたはジェベルからの発音転化のもので、<山>を意味しており、ムーサは、モーセを指しますから、<モーセの山>ということになります。
*しかし、この画像に示された<エベル・ムーサー>位置まで、実際に出エジプト時のモーセが登りわけ入っている訳ではありません。
つまり、3ブロックに分かたれた山々全体が、出エジプト当時に言われたシナイ山感覚の全域観なのです。
したがって、三つの山系ブロックの前、先に述べた十字路の地域を中心に、左右、斜め上手に延びた全地域が、イスラエルの民の宿営地となった<シナイの荒野>ということです。
当時のモーセは、中央のブロック山系、上部角の十字路あたりから、たぶんそのブロック系の上部奥あたりの峰々の一つ(画面下方のエベル・ムーサーまでも行っていない)に留まったと思われます。
このあたりの峰々から下山すると、その途中から民の宿営地全体が見渡せます。又人々の動きも目に入るようになってきます。さらに山頂に近い中腹辺りに、当時には適当な広さの自然のテラスがあったようで、そこからずっと奥の高い峰々(エベル・ムーサーの方角)が望み仰がれるものともなります。
●【シナイ山麓、シナイの荒野での長期宿営】
●【シナイの荒野からの新たな出立、約束の地カナンへの巡り行く旅路の過程】

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sayufm_musiclabo解析: 黙示録

sayufm_musiclabo解析: 黙示録
黙示録、それは単なる文学的所産なのか?
黙示録にはグローバルに世界、あるいは人類史を捉えるところの独特な世界観(歴史観)がその文面内容の底流にあることが抽出的に読み取られうる。
過去、現在、未来、永遠
とグローバルに 表示できる世界観を一個人の人間(ヨハネ)が、はたして持ちうるであろうか。
それはまた、古代ユダヤ民族における旧約聖書のヘブライ思想から、まさにそれに根ざして発展、結実された世界観に過ぎないものと言い切ることができるであろうか。神(世界の創造者)と世界、人類(被造物) との関係的構図という現実から、神の目(神の立場にある視点)理解(その把握と予見)から表現されえた預言の言葉だとも云えないであろうか。  
そこには象徴と比喩表現を用いて世界史的な状況を“<天景の時代>、<海景の時代>、<地景の時代>、そして前三者を踏まえた<全体総景的な時代>”といった具合に仕分けられえたものとして、ある種の具象的“ 場 ”様式の適応展開を見るものであり、キリストの千年王国の後、  永遠の神の国が顕示預言されているかの如くである。  
これらの所見を解き明かす前に、同じ<黙示文学的啓示の書>と目されている、旧約聖書の預言書である<ダニエル書>における預言の言葉を参考に見てみよう。
それによって大いなる見識が  得られるはずだ。(但しこのダニエル書は、その歴史的時代背景を前提、立脚しつつも、その預  言内容は、種々の<ドラマ的エピソード事蹟>が記述された、その流れの過程にある事に注意す  べきだ。)   
まずダニエル書の構成内容を預言の流れから捉えてみよう。確かにダニエル書本来の預言の記述を成立せしめているのは、その背景的な礎定として物語的な出来事(事件)を巧みに織り込んでいるからである。そういった観点を踏まえつつ、あえて預言内容の方向性、あるいは集中性を個々の預言の相互関連的な流れの中で浮き彫りに出来るのではなかろうか。  
来るべき未来事象の預言として、その同一方向性の過程での各々の遠近的な呈示様式にあって、それぞれ時代的に関連して重複、あるいは接点的に関係したものを取り上げると、以下の章区  分のものとなる。   
・ネブカデネザル王の夢:第2章31~45節(バビロン王ネブカデネザル治世第二年、ダニエルによる夢の解き証し、2章1節~のその経緯)
*ネブカデネザル治世元年は、BC605年である(その治世:605-562年、約44年の在位期間)
*ダニエルらがバビロンに連れ移されたのはBC607年で、二十歳前後の若者の頃であった。
*ダニエルの夢の解き明かし対して、ネブカデネザル王はダニエルの信奉する神を讃えながらも、その夢の真意に対抗的意識でもって、リアクションの政策行動に走る。
史実的エピソードは全体が金づくめの 金の像を建立、それでもって史的ドラマの記述展開は、第3章へと関連的に続いてゆく。   
・ダニエルの夢&脳中の幻:第7章1~28節(バビロン王ベルシャザルの元年のもの)
*この時は、まだダニエルはバビロン州に留まっていた。
*ベルシャザルの治世元年は、BC562年である。   
・ダニエルの霊感幻示:第8章1~27節(バビロンの王ベルシャザルの第3年のもの)*その第3年に王は暗殺されたが、バビロンでは政情不安が生じており、それを避けてダニエルらはエラム州の首都スサに移った。    
その時に見た預言のもので、その時の王権を簒奪した者の元号を採示するに、何一つ有益な啓示叙述の道理を見い出しえなかったとは見られる。
*ベルシャザルの第3年は、BC560年 ⇒ その5年後当たりにメデアびとダリヨス王(=アハシュエロス)の時世が来る。
この王は、エステル記のスサ王と同一人物である。 (新改訳の聖書ではない聖書文言に依る。)    
----------------------------------------   
・ダニエルへの<70週>に関わる御つげ:第9章24~27節(御使いガブリエルによる)
*エルサレムと宮の復興には<7週と62週>が定められているが、この週数字の間の区分けには、妨害による<工事の中断期間>が生じる事が予見、嘉されての、週区分をあえて意図したものである。
70週x7=490年
となるが、、
(<7週=49年>+<中断期間>+<62週=434年>+<1週=7年/2>)
*これを単純にまとめて単に70週のみと見なすと、その歴史的年代設定に間違いが生じ、それに関わる文面に矛盾した無理なあてがい解釈となる。
*この70週の御つげは、メディアびとアハシュエロスの子ダリヨス2世(父王との共同統治)元年、バビロンでその治世第1年の時であった。
これは、BC555(6)年にあたる。*ダニエルは、エラム・スサから、かって長い間住み慣れたバビロンに戻っていたとも思われる。   
・ダニエルへの<天の人の子>からの言葉預言:第11章2節~12章13の終節まで(第10章のペルシャ王キュロスの第3年1月24日の幻視、神の側からの目的指標の表明を暗示した経緯内容から続いている展開だが)
*キュロスの元年は、BC538年である。
このクロス王から数えて第4番目のクセルクセス王(ペルシャびとのダリヨス大王)の事も預言として記されている。(11章2節)クセルクセス在位:BC486~465年
*ダニエルはすでに90才前後の高齢になっていたので、ユダヤ・エルサレムに帰還することはしなかった。
だが、530年代BC末までにまとめ上げて自著(ダニエル書)を同族後継の者に託した。  
以上に挙げた5つの関連預言を踏まえて、 先ずはじめに個々の預言の全てを2つの流れに分類し、外観的に把握しておこう。
ちなみにこの分類方法は、古代イスラエル(ユダヤ)民族に関わる旧約聖書から自ずと派生してくる見方に拠るものである。
一つ目の流れは一般史的(世界史的)な範疇に入れられるべき預言で、この部類にはマクロ的(全体的)なものとミクロ的(部分的展開事象的)なものとがある。  
それらは以下の如くである。  
<マクロ的なもの> その1  
=============   
★ネブカデネザル王の見た夢とその解き明かしの預言:【ダニエル書第2章1~45】 これは彼の治世のはじめの第2年、今や世界に輝くバビロンの王を介して起こされた預言であり、彼の世からローマ時代以降にまで及ぶその世界史的な未来の範囲を全体的に捉えたものである。(王はその夢を見て、そうとう思い悩み、ノイローゼ気味となって、夜も眠れなかったと、、、、
しかし彼は、バビロン全州の諸々知者たち前で、その慎重さを失うほど馬鹿な王ではなかった。 
彼の見た夢の内容、どんな夢だったかという事とそれの解き明かし(夢が意味するメッセージ)の両方を求めたからである。
その時捕囚のユダヤの民の一人で、つい最近、王宮で王の前に仕えるようになったダニエル以外は誰一人として王の要求に応えうる者はいなかった。)
※光り輝いて恐ろしい外観をした巨大な像とその結末:← ← ← ←王の見た夢
※
1.その頭部は.....純金
・・・・・・彼ネブカデネザル王の時代、大バビロン帝国の世を現わす。
2. 胸と両腕は.....銀 
・・・・・・彼バビロンの世の後に起こる国を意味し、それはペルシャ帝国時代をさす。
3. 腹とももは.....青銅
・・・・・・第3番目に世界を治めるものとして起こるもので、ギリシャの国、つまりヘレニズム時代をもたらす国をさす。
4.すねと足..........・・・・・・これらの部分をなす材質は少々複雑なもので、種族民族多様化、文化的気質の多様性、また生活文化の格差、強弱を包摂した形での成り立ちを現わすものとなっている。 
すねは.......鉄足とその指......ともに一部は鉄で、一部は粘土から成っている。.........
これは第4番目に世界を治める国をさすもので、ローマ帝国時代とその時代の結末以降までをさす。
これら1~4から成る巨像は、ネブカデネザル王にとっては、極めて集約的(時代短縮的) なものとして、その解き明かしが受けとめられている。
(だから彼は、頭から足の指先まで ”金”づくめの、どデカイ金の像を建立して、自らの王国の繁栄を願い且つ維持せんとしたわけだ。
(<<第3章1節以降の記述参照>>)
この奇怪な恐ろしい巨像に対して、別個のある一つの物が夢に登場する:  5. 一つの石
...上の像のような世の権勢的なしがらみの関わりからは起こってはこないもので、単独的なものをさす。......
..............人の手によらずに切り出された石....この石は、石であるからこそ、極めて自然的で、その大地に属するものであることを示唆している。
すなわち、これによって起こる国もまた、地上に属するもので(霊的な意味合いにおいて)、ある質を異にした人の主権(巨像の権力とは質を事にしたもの)から成り立つ国を示している。そのようであるにもかかわらず、   その起源は.........人の手で切り出された石ではなく........神の手、すなわち神の特別な導きに起源して、やがて起こってくる大きな国であり、その様相は全地に満ちる大きな山のようなものと表現され、いつまでも滅びることなく、永遠の時に至るまで続くと預言されている。
この石でもって象徴された国の特質をまとめて列記してみよう。
① 勢力的な活動面からは、
”鉄と粘土から成る足”
を打ち砕いたという事、それでかっての金、銀、青銅から培われてきたその一切(政治的仕組み、社会的な風習、文化的なもの、その他諸々)のものまでもが 
”もみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなく”
一掃されるという結果をもたらしているという点大いに注目すべき特質を現わしているといえよう。
、、、、、、、
<<第2章34~35節>>
② 本来的(に保証された)な特質面:神によって起こされた国であり、その主権は剥脱されず、いつまでも滅びることがなく、ついには永遠に至るという点。、、 <<第2章44節>>  
③ 発展的な特質面からは、精神的なものと物質的なものとがひとつに調和融合した ような大きな文化を形成して、その当時の世界の”全地”と言われ得る地理的領域に満ちるようになるという点。
、、、、、、、
<<第2章35節>>
**ダニエルはここで“その像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちる ”
<<35節>>
という象徴的文言に関しては、何一つその解き明かしを記していないが、この
<大きな山となって>
の ”山 ”とはまさしく文明文化の発展、その繁栄を象徴していると云えよう。
ネブカデネザル王の見た別の夢が第4章でも記されているが、その”どでかい木”も、彼とその王国の繁栄を象徴したもので、同類的表現のものだと読み取れる。
がしかし“山となる” というような表現での繁栄の仕方は、やはり“ 木 ”でもって象徴されたそれとは、種々にその異なりを示す意味合いを意図するものであろう。
さて、問題はこの”石 ”でもって表された< 国 >とはどんな国を指すものなのかという点が大きな課題となってくる。
これに関しては、今日にいたるまで、キリスト教界ではカトリック、プロテスタントを問わず、疑う余地のない自明の定説がある。それは聖書全体からの他の個所 と照らし合わせることによって、さらに一層確信されうるという。
(古代ローマ帝国の終焉期以降、併存的にその初展をなし、アウグスチヌスの著書『神の国』でもって指標された方向付け等、キリスト教思想(神学)により、新たなるヨーロッパ・キリスト教文化圏での国、精神的には、ローマ教皇が核(キリストの代理権)となり、諸国がそれに習合した体制をとって起生発展してきた世界を指す。
<King of kings>という考えのon Word も彼アウグスチヌスの時代以降の思想的世界観から成立したと思われる。注:AD354-430年没)
=その定説とは、やがて来るべきメシア、すなわちローマ帝国時代のイエスキリストこそが、 人の手によらずに切り出された“石”だと主張するものである。
=これは確かにダニエル書の<<44節>>での
       “それらの(又はその)王たちの世(時代)に” という文節が指し示す古代ローマ帝国時代以降の時と、全く一致しており、さらに決定的 な点では、主イエスご自身が語っておられる言葉が、新約聖書のマタイ、マルコ、ルカの 3つの福音書に記されており、そこでは御自身を、ある ”石 ”に譬えてお示しなさっ ている。
<<マタイ21:42、マルコ12:10、ルカ20:17、そして使徒行伝4:11、 エペソ人への手紙2:20、さらにはペテロ第1の手紙2:6-7に引用されている。>>
 “家造りらの捨てた石が、隅のかしら石となった。これは主のなされた事で、わたしたちの目には不思議に見える 
”主イエスは、この言葉を旧約聖書(詩篇118:22-23)から引用して語っておられる。 また、べつの旧約の聖句では、イザヤ書28章16節で: 
”見よ、わたしはシオンに一つの石をすえて基とした。これは試みを経た石、堅く据えた尊い隅の石である。
信ずる者はあわてることはない、、、、”(この句のシオンとは、エルサレムにある神殿の丘周辺をさすイスラエル民族独自の象徴的な地名である。)
さらに主イエスは、ご自身を 
”躓きの石 ”
に譬えておられるが、とにかくこの<石> に逆らう者、敵対する者、無用、無価値なものとして捨てる者は、人であれ、国であれ、すべていつかは、必ず滅び去ると見られている。
以上のごとく、この伝統ある説は絶対的なものとして、キリスト教界において支持され続けてきている。
だがこの説は、本当に真実なる真理であり、事実たりえるのか、ネブカデネザル王の見た”夢の石 ”と 主イエスご自身に譬えられた“ 石 ”とは、その両者を完全に同一視することにおいて、本当に間違いを犯してはいないのか、大いなる誤謬に陥っているのではな    いか、どうか、    ここでもう一度、あらためて検証し直してみるべきではないか。、、、、 先ず第1に検証すべきは、主イエスを王に戴く”神の国 ”は、ダニエルが解き明かした、    かの“ 石 ”による国に、本当にそっくりそのまま該当するものなのかという点である。    [主イエスの”神の国 ”に関わる特徴]イ.) 主イエスが譬えでもって教示し、力(奇跡を起こす神の霊)でもってその一面をあらわされた神の国.....知性的、感覚的(視覚的)な提示となり、外的、身体的(命)な面に力点がある。ロ.) そして、ご自身の存在そのもの(十字架の死と甦り)による”救いの福音 ”でもって 始められることになった神の国......内的精神的に働くもので、精神的な命(魂)を甦らせ、外的、身体的なものすべてを、この自己のうちから包摂、理解するものとなるから、いわば人の内的な精神の根底を起生点として、外的なものが取り込まれるという精神面にその力点が置かれている。**上述した事をまとめて簡単に云うと、外面的なもののすべてがどんなに理想の状態に整っていても、人は精神的な存在だから<内面的な>ものが、未完、不良あるいは不完全で理想の域になければ、結局どちらもダメになるよと云う結果となり、さらにこれを有神論的に云えば、唯一、真の神様が外的にこの上なき理想のパラダイスをお創りなさり、備えておられても、人がその知、情、意の働きをなす魂のあらゆる面で、神と、その共有一致したる真理において、”成仏 ”(仏教用語を借用)していなければ、神の国に相応しくないということとなる。それ故、神の国は、人(人類)と共に常にその完成を目ざして発展途上にある。もし、キリスト教国家という国があって、神の愛と真理によって諸制度、組織、機関を動かし、愛と真理に基づいて政治を行うならば、それは理想的な国と云えよう。
しかし、 現今に至る過去の歴史すべてを概望探査しても、このような国が存在していたと言えるようなことは一度たりともない。
信仰と愛と真理による共同体とも云えるキリスト教社会、及び教会の過去の歴史においても、いつもその理想国家への発展途上にあるということでもって位置付けられている。  以上のことからその結論として、神がご自身のひとり子イエスキリストによって意図し 啓示し、始められた“ 神の国 ”は、この世の国々と同類の地上ベースに属するものと は、未だまったく云いがたいものであるからして、ダニエルの解き明かした”石 ”の 国には該当しえないし、またそれへの預言をなしたものではないと云わざるを得ない。    つぎに第2の検証としては、キリストイエスの時代に至る古代世界を、どう捉えるかという点    に関わる立場を考慮してなされるべきであろう。    [古代世界という地理的版図の終点とその範囲への限定性] イ.) 人類最古の文明は、ナイル河のエジプトとチグリス、ユフラテス両河に栄えたメソポタミアで、これらを総括してオリエント文明として世界史に位置づけられている。  この古代文明に関わる地理的版図は、アレキサンドロス大王の東征以来(BC336)ギリシャによるヘレニズム文明圏を形成するという注目すべき転換期を迎えるに至った。このヘレナイズされた旧来のオリエント文明圏は、あらたに登場するローマによる世界帝国とその領域内で発展し、次第にそのローマ古代文明を造り替えていくキリスト教による新来のヨーロッパ文明圏と対峙するような世界史の構図を現実化してゆくものとなる。このように新旧二つの文明の地理的版図において、古代ローマ帝国を撃ちそぎ、その東ローマ帝国を最終的に滅亡させ、さらに旧来のオリエント文明圏自体を刷新することが出来たと云える、かの”石 ”による国とは、はたしてキリスト教の国だと断定できるであろうか。それは目に見えて不適合な読みであり、まったく否と、云わざるを得ない。  **さらに別の視点から結論づけると、人手によらずに切り出されたかの“石”は、旧約聖書におけるその純聖書的、啓示的解釈から捉えると、それは“モーセによる十戒の石”の延長線上にあるものとして、それへの類比が象徴的に可能となるからである。
ロ.) 文明発祥の地、古オリエント世界の数千年ともいえる文明的繁栄の主導権は、まさにギリシャ・ヘレニズムの文化時代と共にローマ・ヨーロッパ文明へと移らんとした。
この旧オリエント文明圏の地は、旧約正典(旧約聖書)を出生せしめたという由緒ある歴史の足跡を残した地でもある。
”四海を鎮護する者”
を意味する言葉を自らの名するネブカデネザルは、まさしくこのオリエント文明圏にその名を轟かしたバビロンの大王であった。
彼は、ユダヤ人が信奉する唯一、真の神のレヴェレーショナルアットモスフィアー (Revelational Atmosphere)の領域からは、はみ出た例外的な人で、多神教を奉じる異邦人である。
この異邦の王を介して神による
“ 夢の啓示 ”
が与えられたということには、それなりの事情(起り始めたエルサレムの荒廃と民の離散捕囚の現状運命)があり、そのユダヤの歴史的転換期に合わせて、神から啓示されるべきその内容が、いまや妥当なものとして絞り込まれてきた。 つまり、世界史的な預言と、来るべきメシアの預言、そして捕囚後の民(ユダヤ人)と復興エルサレムに関わるその終末的預言、これらの三大内容が実現されるべきターゲ ットとして、【人類の時】を支配する神の、その“時の範疇”に置かれることとなる。
それ故、ネブカデネザル王を介してのその“ 夢 ”による預言は、その世界史的なレベルにあって、彼自らが、その展開的な頂点に立つ人物その人であるからして、彼においてなされ、そしてユダヤ人のダニエルが、それを解き明かすという最も妥当な仕方を執った訳である。
したがってその<夢>預言が、異邦の諸王に関わる世界史的次元を主眼点とする限り、いかなる形といえども“ メシア預言 ”は、その中には含み得ないものとなる。 
つまり、多神教を奉ずる異邦の王を介しては、いかなる方式であろうとも、
“ 聖なるメシア ”預言
がなされるということは決してあり得ないことで、これは旧約の民イスラエルに限定された、神の啓示活動における神自らの鉄則である。
ゆえにかの“ 石 ”は、メシアなるキリスト・イエスを指すものではありえない。
そして、その石は、旧約聖書時代以後の、キリストイエスの時代以降に出現する人物として時間的にも特定限定された象徴預言なのである。  
<マクロ的なもの> その2  
============
★ダニエル自身が見た夢の預言:聖書テキスト【第7章1節~28節参照】前述したネブカデネザル大王の夢の預言は、BC604年(彼の治世第2年)のことであったが、それから下ることおよそ42年後、ベルシャザル王の元年にダニエル自身が夢の預言を得たとある。
ベルシャザルという王の名は、バビロンに住むユダヤ人が好んで呼称した名であり、ダニエル自身が最初に名づけ、用いた名であった。
バビロン名ではエピルメロダクがその王に相当する。(列王紀下25章27&エレミヤ書52-31参照)この王はその治世の第3年に暗殺されているが、その時のいきさつについては、前後反目した記述としてダニエル書の第5章の全体にわたって記されている。
その約2年前にダニエルは夢による預言を得たわけである。
この預言の内容は、ヨハネ黙示録に記されている内容と重なり関連しているか、あるいは連続的にそれへとつながっているかに見られうるようであるが、黙示録よりはかなり平易で、その意味内容は、すんなりと理解できよう。
けだし、途方もなく超マクロ的に広汎な概略内容の為、人類史全体からの個々の歴史的な特定は容易ではないと云えよう。
言葉を換えていえば、全く信じがたいことであるが、それはとてつもない【神の超マクロ的な展望視】であり、神の子キリスト在世以後、現在に至る世界史全体において、中世から近世、近代に至る時点を念頭目捉したるかたちで、その展望を集約的に象徴化した預言として、ダニエルに与え、啓示したものといえる。
したがって、ヨハネ黙示録のヨハネ時点との相対関係にあっては、あくまでもダニエルが在世したその旧約時代に立った処からどこまでも展開一望されたるもの、という特質性を有した預言内容だとみるべきものである。
(あくまでもダニエルによる<旧約次元ベース>のものであるを意味し、そのように捉え預言しているものなんだと、、、
これに対して<ヨハネ黙示録>のあるべき立場は、、、
使徒ヨハネのAD1世紀末次元でのそれとして、
<キリストの予見眼識、及びその視点を源>    
とした別の見方、別の様式で、その全時代からの時の諸特徴が啓明化されるものとなるという具合に、新たな<新約次元ベース>でのもの、といった認知感覚を生じさせうるものとなる。)  
この第7章の預言内容の解釈について、キリスト教徒の教会などではきわめて正統的、且つ事実だと信じられ、支持されてきた定説がある。 
その意味解釈をかい摘んで要約すると、以    下の如くである。
彼は4つの大きな獣が海から上がってくる夢の異象をみたが、従来からの定説では、時代的な流れとして、
<ししのような第一の獣は、ダニエル当世にある “ 新バビロニア ”>、
<第二の獣、熊のような存在は、“ ペルシャ・メディア ”>、
<第三のひょうのような獣は、“ ギリシャ ”> <第四の、他の獣にさえ例えられないほど恐ろしい獣は、“ ローマ ”>
の帝国としている。
この解釈が、世々代々支持されてきた、まさに確定的な正統説である。
だが、この従来説は、はたして疑問の余地がないものだろうか、、、
本当に正しいもの、真に的を射たものだろうか。確かに時代的な流れの区切りとして、そのように捉え、解釈することが可能である。
しかし、もっと世界史的に視野をひろげて、世界史全体を見つめ直し、その四つ獣の真意を再考すべきであろうとも。
ここでその再考された真に新しき秘蔵の解釈を解き    
明して見よう。   
①:ネブカデネザル王の夢預言の項で、前述した[古代世界という地理的版図の終点と、、云々] で、
旧来のオリエント文明圏、
ローマ到来後に来る新来のヨーロッパ文明圏
等々について述べ たように、”第一のししのような獣は、
”その旧来のオリエント文明圏にあたる帝国であり、 それは
バビロニア+メディア
から
ペルシャ+メディア
への移行隆盛を示すものである。
4節の記事本文を見ると、
”わしの翼をもっていた、”がしかし ”その翼は抜き取られ、人のように、、、立たせられ、人の心が与えられた。”
と記している。この言葉の意味する状況は、一体どういうことを指しているのだろうか。 
しし、つまりライオンという獣は、地理的分布としては熱帯から亜熱帯のブッシュや草原(岩場)に生息する動物である。
エジプトからメソポタミアの領域は、まさにその範囲である。
<翼をもっていたしし>
とは、何を意味するのか、しかも<わし>の翼とは、どんな場合を云うのか、、、
翼は天空を天かけるものであり、わしは、その当時をして最強の強さを象徴した意味を表している。
この古代バビロニヤからの”飛翔の力の翼 ”は、単なる軍事的な力を表わすものではない。 
これは、古代の神殿宗教的な力を象徴した天的(神権的)な体制を併せ持った力を意味するものである。    
<その翼が抜きとられ、人のように立ち、人の心が与えられた、、、>
これは、ペルシャの時代へといたり、その終焉の段階までの過程で、その初期から半ばにかけては、ユダヤ人の学問、その聖典(旧約聖書)的思潮などによって教化され、ゾロアスター教なども興隆してくるわけであるが、その後、ギリシャからのヘレニズム文化の勢いによって、また、アレキサンドロス大王のペルシャ制覇によって教化され、
”人のように立たせられ、かつ人の心が与えられた”    
という歴史の時代状況となったことを言い表している。
②:それでは”熊のよう”だという第二の獣は、どのような国、情勢を言い表したものであろうか、、、
<熊>
は寒冷地などの森林、河川に生息する生き物であり、あまり暑い亜熱帯や熱帯地方には適さない動物であり、そのような所では、まったくその活発な活動が鈍り、ややもするとその体を半ば横たえてしまう。
5節の記事本文では、そのような熊の状況を前提にして象徴表示している。
”これに向かって『起き上がって、多くの肉を食らえ』という声があった”
と記されているが、この意味するところは、
<さらなる征服をなせ>
とうながし、進めている様を表わしている。 
<三本の肋骨をくわえた>半ば横たえた熊の状況の意味するところは、ギリシャ、マケドニヤの森林地帯から制覇の出現をなしたアレキサンドロス大王の趨勢は、今や<三本の肋骨>、すなわち、それは、当時の史観的(旧約聖書的)な意味合いで、まったく“セム、ハム、ヤペテ”の子孫系列からの全種族を言い表わした言葉であり、これをまさに口にくわえたままの状態情勢のままになっていることを意味している。
彼、アレキサンドロスは、<起き上がって>さらなる遠征、インダス河畔流域までもその勢力    をのばすが、その遠征からの帰還直後、首都バビロンで病死するに至る。(BC323) 
その後の後継者たち(サトラップ=総督たち)においても、新たな地域への<さらなる遠征>もなく、
『起き上がって、多くの肉を食らえ』
というその<声>だけがあるのみで、時代は過ぎ去ってゆく。
その時代の流れ行く時の経過の先には、ローマの台頭があり、ローマ帝国形成の趨勢が横たわっている。   
③: それでは第三のヒョウのような獣とはいったい何ものなのか、、、、
この獣も旧来のオリエント文明圏に主要位置を占めているわけであるが、世々代々にかけて支持された<従来定説> では、これをアレキサンドロス大王が制覇建設したギリシャ帝国としている。
連続的に
第一のものを ”バビロニヤ ”
第二を ”メドーペルシャ ”
とし、それらに後継する歴史は、もはや ”ギリシャ ”しかあり得ないからである。
この場合、6節の記事本文
<この獣には四つの頭があり、主権があたえられた。>
の文面に完全に捉われる向きになっている。
大王の死後、確かにその初め帝国は、4分された向きがある。
エジプト・アレキサンドリアのプトレマオス朝、
シリア・バビロン方面のセリュコス朝(セル   キア)、
アカヤ・マケドニア本国、
小アジアの王朝
をその四つだと断定する。
しかし、それらは、きわめて不安定で互いに争い、ほとんど3王朝に帰する時期の方が多かっ    たことを史実は現に物語っている。
これに関してダニエル書の別の章、第8章での別記事(8節)では、大王の死の直後、その数年の分轄継承時期を捉えて預言表示しているわけだが、、このように定説では、
<四つという数>
にひどくこだわり、次章(8)の文言(8節と22節)との数字の一致をなしていることによって、その定説が間違いないと思い込んだところに、何かもっと大きな視野による的確性を満たし得たものを見落とし、その誤謬に落ち入ったのではないかとの断言ができるのです。ここで、少し次章の8章に関して説明しなければならないが、その章の記事本体の性格は、    まったくの近未来の史的状況を物語るもので、マクロ的眺望ではなく、むしろミクロマイナー    的な傾向の預言である。    したがって比較同一視は妥当性を欠いたものとなり、解釈的には前7章での超マクロメジャー    的預言の構成の一部分要素としては組み込めないから、別個扱いにてのマイナー的な詳細とし    て、その近未来的史状預言を新たにダニエル自身が受けていると思われる。    彼はその7章で、超マクロ的メジャー預言を幻受したわけだが、それに関しその内容からして    非常に悩み、理解に苦しむばかりで、その不可解さと、謎解きがたき思いに満たされるばかり    の心境で、この預言内容に心に留め、(28節)先に見た幻視預言からはすでに2年半あまり    が過ぎていったと見られる。    第7章の記事は、バビロンの王ベルシャザルの治世第一年で、ダニエルがバビロンでの自分の    館にいた時の事であった。    ところが第8章は、その王の治世第3年に当たるとして、エラム州の首都スサにいた時、しか    も川の名もはっきりと明記している。この川は、大河チグリスの幾多もある支流のひとつで、    彼ダニエルが現地に滞在せずしては、その川の名(ウライ川)を知るよしもないものである。    彼は、先に視たかの預言の事で悩みぬいたすえ、スーシア(ペルシャ)の首都スサに出かけた    か、それとも、ベルシャザル王の暗殺後の事で、後にバビロン王国を領有したスサの王ダリヨ    ス(第5章31節)    
(この王は、エステル記でのアハシュエロス王と同一人物)方から、その身の安全指示により、 そちらバビロンからエラム州に招聘されたかの、いずれかに違いない。
いずれにせよ、彼はその川のほとりで、近未来的な幻の啓示を見たのである。この預言記事は、超マクロの7章での第一の”しし ”
バビロニア+メディア
に対して、そのポスト後の
メディア+ペルシャ
として、”雄羊 ”をあてがっており、猛獣ライオンに比べたら、家畜に等しい羊の類であり、
<人のように立ち、人の心が与えられる>
と、7章4節で言われた内容に俄然継承的に隣接するようなものである。
そして、ギリシャ=アレキサンドロス王にたいしては、なお荒々しい野性の”雄やぎ ”で表わしている。
この王の初期は、まさに大地を駆け回るほどに勇猛果敢であるが、彼の末期は幾分寒いところの育ちであった故に、まさに“ 横たえる熊 ”のようであったといえよう。
また、旧来のオリエント=メディア・ペルシャに依拠した8章の預言に対しては、
“雄羊”対“雄やぎ”
を用い、来るべきローマの新来のヨーロッパ文明圏に関わる7章、この章は、全くもって、その内容の重点を、ローマとその後に置いているからして、それに相当したバランスを考慮して、あえてギリシャ=アレキサンドロスをば ”熊 ”のような獣として表示していると云える。
このように7章と8章を関連づけて捉えると、7章での第3の獣 ”ヒョウ ”は、頭が四つあろうとも、それはギリシャ帝国ではない。
そもそも古代ギリシャ帝国なるものは、成立しな    かったに等しい史実を歴史に刻んでいるからだ。“ 古代ギリシャ帝国 ”なる名称は、キリスト教徒の学者らが、便宜上に用いた、いわゆる“ 単なる造語 ”に過ぎないと思われる。
このように定説は、きわめて単純に第8章のミクロ近未来の
ギリシャ=4つの国
の預言を第7章での第3の獣“ ヒョウ ”に結び付けて解釈するを正解と見なしている。
しかしながら第7章での本筋の重点、内容の重みは、第4の獣に置かれている。つまり、超マクロ的なこの7章の預言は、第1の獣から第2の獣へと続き、さらに第3ではなく、第4の獣へと続く歴史    を超マクロ的に展望したような意図が秘められており、その結果、来るべき新来のヨーロッパ    文明圏との間の大変な長き歴史的空隙を、旧来のオリエント文明圏をして、それをバランス良    く充てん穴埋めするために、第3の獣をローマ以後の新来の文明圏に対峙させたものとして、    その預言設定を行っている。
ちなみに古代世界史での旧来のオリエント文明圏の終息時期は、ギリシャのヘレナイズによるそれであるが、その地理史的版図上での国々、諸族の興亡は、とみに激しく複雑で捉えがたい。    アレキサンドロス大王後の四つに分かれた国々とは、本国マケドニア、エジプト、シリア(小    アジア、ユフラテ河西岸地域を含む)、そしてパルティア王国(メディア、ペルシャ地域)と    なって行くを示すことになろう。
したがって、新来のヨーロッパ文明圏に対峙する形で、世界史の史実に登場する第3の獣とは、旧来のオリエントの地理的版図にあっては、パルティア(BC247~AD226、この国は、ローマと対立する=トラヤヌス帝の遠征AD113~ 117)、ササン朝ペルシャ(AD226~651)と続いた後、出てくるもので、延々と十数世紀にわたってその王朝の変遷史を書き留めるものとなり、イスラム文化という固有な文明を形成発展させた、主要な4王朝のこととなろう。
その最初は、サラセン・ウマイヤ王朝、次はアッツバース朝、三番目はセルジューク王朝(ト    ルコ系)、最後はオスマントルコ王朝であり、この4王朝が、第7章6節での第3の獣 ”    ひょう ”に指摘される4つの頭なのである。もちろんそのような長き時代の流れの間には北    アフリカおよびエジプト、又イラン高原やホラーサン(現アフガン地方)等に地方的な小イス    ラム王朝が興っていたのは確かであるが、それらは<頭>とは云えないようなローカル規模の    もので、何はさておき、ユダヤ人の聖都エルサレムや新来のローマ=ヨーロッパ文明圏に対し    て、多大な影響力、抗争衝突の種を撒き散らすような関わり方もほとんどなく、ひとえにイス    ラム文明の維持発展の体毛色の意味あいを維持していたといったところとなろう。 元来、ヒョウという動物の最大の特徴は、その体色が美しい斑紋であることにあろう。その    体毛が毎年抜け替わるらしく、その度に斑紋にはつやがあってきれいに保たれるという。イス    ラム文化の王朝も、そのように交代する度に一新され続けたことであろうか。、、、、また、    本文6節には<背には鳥の翼が四つあった。>とも記しているが、これは何を意味するのか。    第1の獣での ”しし ”では、同じ鳥でも鳥の王者ともいえる<わしの翼>であった。    この場合は、古代オリエント世界での成熟最高の力を表わすシンボルとしての<わしの翼>を意味するものであった。
しかし、第3のこの”ヒョウ ”の時点では、同じ地理的領域ではあるが、もはや王者としての<わし>のそれではなく、かと云えば、ほかの特命の名をもって当てることも不適切のようで、したがって単に<鳥の翼>としている。
だが、その<翼が四つ> とは異なことである。
わしに匹敵するような強い鳥のいないこと、そのことへの補足強調とも云えようが、しかし、その<四つ>という数の意味する本来的な趣旨は、強力な宗教と文化とという二重両翼の翼(その建営的なノウハウ)をもってその軍事力を展開していく、その4つの頭の諸王朝の情勢を言い表すものであったと見られる。
このように第3の獣“ ひょう ”を正しく理解受容できると、近未来的なミクロ預言として与えられた第8章の内容は、第2の獣(熊)と、第4の獣(えたいの知れない生き物)との架け橋となるべき役割を秘めたものだという事をあらためて感じさせられるのではないか。
第7章のすぐあとに第8章の近未来的ミクロの概要が付随してきたその存拠理由が、かの第四の知られざる獣の預言への<架け橋的な役目>を果たしているという処にあるのではないか。    しかして、その8章の内容と云えば、ギリシャのアレキサンドロス大王以後、四つの王朝時代    の初期へと至る過程の背後から、著しい台頭をなしてきたポリス(都市国家)、ローマの帝政    最初期への隆盛時代、ポンペイウスのエルサレム占領から、かのカイザルなき後を引き継いだ    アウグスト帝(オクタヴィアヌス)、そのあとの皇帝らからネロ帝(8章23~25節)まで    を概略一見の預言表示をなしていると、表面的に結論づけることが可能となろう。    この8章の幻について、ダニエル本人は、<これもまた、悟ることができなかった>が、悩む    という心境よりも、むしろ驚いた、その内容に仰天したと告示している(8:27節)
彼はこの時期、ベルシャザル王の第3年に当たる頃だが、“自分らの民が解放され、ユダヤに帰還することになり、町や神殿が復興され、<常供の燔祭>も行われるようになる。”との、    そんな事態が訪れようとは夢想だに思ってもみなかった。
また、そのような知らせ、あるいは確実な預言や、み告げなりを得てはいなかった。
だからこそ、ひどく驚いた気持ちにもなったというのだ。
このこと(民が帰還出来る事)に関しては、それに関わる文書情報を広く探索、調べるべく、後になってようやく知るものとなる。
これにはエレミヤの預言による言葉文書の入手があり、 第9章1節~2節で、以下のように表明するかたちで記されている。
”メデアびとアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤびとの王となったその元年、即ち、 その治世の第一年に、われダニエルは、主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉 により、エルサレムの荒廃の終わるまでに経ねばならぬ年の数は、七十年であることを、 文書によって悟った。”   ④:次にこの第7章での最重心的なテーマとなる第四の獣に関わる詳述に着目してみよう。これ    は、先の3つの獣ように該当適用すべき現存の生き物が見当たらない様相を呈しているようで    ある。それだけ内容ファクトの版図ベースが超巨視化状況に置かれているということを意味し    ているものであろう。また、従来までの文化圏の主舞台が、エジプトからメソポタミアなど、    オリエント世界を版図としていたが、<第四の獣>で表示された世界の主舞台は、いまだ未知    なる、新たに起こらんとする文明圏をその地理的版図となしつつ、その新旧相互の関わりのな    かで、さらに地球全体規模へと文明の接触交流が広がってゆく、そんな方向性を暗示するもの    となる。ダニエルにこの幻黙示を与え視させた方、その方(主なる神)の目は、まさに2千年    3千年の先までも、人類史の全体を見通し、その過程の予見眺望ができている。また、その進    展過程での<摂理的な方向付けの御業>をなさる。あたかも<原内容のプラン>があって、そ    れに準じた現展開過程史への<予見と摂理>の確認介在作業があるかのようだ。    本題をダニエル書のテキスト第7章7節以降にスポットを当ててみよう。内容の構成は、ダニ    エルの幻視したそのものについての表示:十の角をもった獣の動的な様子、容貌と将来的な角に関する変遷様相、そして、表現できない不可視的な事柄事象に対する<象徴的な幻示>での    いわゆる何か<神の審判>を思わせるような状景と、<人の子・メシア>の来臨とその存在の    様想を表すもの、ここまでが7節以降14節までの前半部分となる。    後半はその真意の解説表示部分:    15節以降28節までが、解き明かしを受けるダニエルの様子と、内容の<解き明かし真意>    の開示、そして終節のダニエル自身の心的反応描写でもってその第7章の区切りとしている。    この部分の<審判>とか<人の子・メシア>に関わる表示ファクトは、後のユダヤ時代史での    ユダヤ教徒や心あるパレスチナの住民にとっての<メシア待望><終末論的な救い=ユダヤ王    国の復興>思潮の源泉となったことは歴史の知るところである。さて、この第四の獣の前半、後半の全体を踏まえて、主要な部分の詳細語句となるものを一    つひとつ取り上げてみよう。
先ずは十の角等以外の部分のものから見ると、頭の数についての言及規定は一切なされていないが、明らかに
<一つの頭としての進展的存在ベース>
を示しているものと見られる。
その特徴は、先の三つの獣などと比べて、比較にならぬほど<恐ろしい    
・ものすごい・非常に強い>との一点張りである。この<格差>は一体何を意味するものだろう。
端的に言えば、これらの表現は、その獣の全面総合的な<闘争力>を示しているようだ。    
しかも格段の差が見られる如くに、、当時の古代王権国家をその例にとれば、これは、その国    の国力の要のひとつともなる軍事力をそんなふうに表現できると云えようか。
この場合、古代人の目線(視点)に立って見れば、古代ペルシャ帝国が都市国家群のギリシャと戦争をした場合 (BC480年代)やアレキサンドロス大王が長い道程をかけバビロンまでの勝戦をやり抜いた時代(BC330年頃)など、その兵力武具の基本的な装備物といえば、槍、弓、剣類に盾    などの防具類、そして騎兵に欠かせない馬等であったわけで、あとは1日、あるいは長時間勝    負での会戦時の体力と精神力での戦闘能力、さらに戦いの兵法・戦術とかの作戦知力や将軍ら    の勇猛な指揮統率力の良し悪しで勝敗が決まる。そんな程度のもので、
<怖い、恐ろしい、ものすごい、非常に強い>
といった様相の感じは現れてこないわけだ。したがって、そういった軍事力の面での格差がかなり明瞭になった時代、その起点的ベースとなって発展して行ったの    が、古代ローマ帝国であり、これが<第四の獣>としての【出現母体】ベースということなの    だ。ちなみにかのローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを包囲して攻め入る際、(これは、    ユリウス・シーザーがガリヤへの征討を試みる10年ほど前の事:BC65年頃だが。)機械    的な応用力を生かした<石投げの装置>が頑丈な城壁などを破壊してしまうほどの威力を発揮    した状況、また見えない所では、戦争のための土木技術や大型機械のようなものを造る能力、    また優れた戦闘力となりうる大型の<軍船>を建造する能力や、優れた武器、武具をより多く    造る<兵器工廠>を営むようになった組織的な技術経営力など、、ローマの軍事力は、他をは    るかに凌いで<恐ろしい、すごい、強い>というパターンの始まりだったと云えよう。    さて、<大きな鉄の歯があり、云々、、>(7節)の表現を前提とする、<第四の獣としての    【出現母体】>を<古代ローマ帝国>となしているわけだが、これもまた、背景的に云えば、    主流青銅器文明との微弱併行期の長き過程を経て、その後ようやく顕著になってきた<鉄器文    明>を大いにローマが発展せしめ、いち早くその工、産業的な国力の基盤にまで成長させた様    子、またその国力の勢いが、当時の全ての他民族に向かって伸張していった、その<帝国拡張    の強大さ=鉄の歯>、製鉄技術でもって帝国を存続させうるという姿を捉え見たものである。    ローマ帝国の都、ローマのかっての前身は、ギリシャの都市国家の市を真似た<植民市>であ    ったが、これは、前7世紀以降エトルリア人の支配下にあった先住諸種族(古ラテン人)が先    進文化のギリシャ人を招来して築いていった都市であった。そのかなり平穏な<共和制社会の    形成期:前5世紀~4世紀>の頃に北イタリアのエトルリア・ケルト人の南下侵入、ローマ市    占領に遭遇し、その力を見せ付けられる。(BC387年頃)このような外来部族の侵入の経    験が契機となり、そのローマ市は新たなる発展をなしていったとみられる。    ケルト人といえば、中部ヨーロッパライン川上流とドナウ川の最上流域(イタリヤからアルプ    ス山脈越えした地域方面)間の広範囲を中心として、イタリア半島を南下したばかりでなく、    西部ヨーロッパ(ガリア、イベリア)、北部ヨーロッパ(ゲルマン族の故地方面)およびイン    グランド島にまで、またその一派は、小アジアでの古名ガラテア(ガラタイの地)にまで広が    った、かのゲルマン民族以前にヨーロッパの古文明を担った人種であり、その鉄器文化は、初    期ではハルシュタット、後期ではラ・テーヌ文化で、その名が知られている。したがって、古    ローマ市はそのすぐれた鉄器文化に大いに影響され、その初歩、基礎的な製鉄技術を身に付け    るものとなっていたと思われる。処でこのことは当然、異な事のように思われよう。なぜなら    ば鉄文化は先進のギリシャ諸都市(東方エーゲ海イオニア伝来)から伝えられて良いというも    のだが、農耕器具や生活用具としての鉄製品は、少なからずその貴重な商品としてギリシャか    らもたらされたであろうが、鋭利な品や製鉄全般にわたる製造技術等は、ギリシャはこれを外    交上、囲っていたであろう。東方オリエントには強大なペルシャ帝国の伸張があり、つねに相    対していたから、これ以上、北や西方からの外敵を作るような発展的施策を執るというような    愚をしなかったからであろう。   --------------------------------------------ところで、ちょっと余談になるが、現代の製鉄、製鋼技術は、大変な超大規模工場プラント    方式で、その諸設備の制御などがエレクトロニクス化されている。このように機械化されてき    たその発展過程には、18世紀中葉前後からのイギリスを始めとした産業革命時代への流れの    中で、近代化への工場生産体制の大いなる体系的基盤の構築がなされきたことがうかがえる。    用いられる動力源も工力的機械仕掛けから新しい蒸気機関へ、そしてやがては蒸気機関などか    らさらに電力系のものへと置き換えられてきたという過程が見られる。産業革命もいよいよそ    の盛況の最中、早くもその19世紀初頭には<蒸気船>が出現、しかも鉄材がかなり使用され、    大量の鉄生産が必要となった。このさき鉄材の需要は、益々伸びるばかりとなっていった。    さらに<鉄時代>を象徴するかのように1825年代になると<蒸気機関車>の鉄道の発展が    イギリスから始まった。やがて軍船もその船体は、大々的に鉄製となり、大型の蒸気機関エン    ジン推進力のものとなり、幾門もの砲台を備えた大型の<戦艦>ともなった。このようにいま    や現代においてもアイアン・エイジ=<鉄の時代>であることには変わりはなく、もっか存続    中といったところだ。種々の特殊鋼を含め、多様な鉄材なくしては、そのあらゆる面での現代    文明は存立し得ないということになろうか。    その意味でも製鉄工房・工廠が顕著になりだした古代ローマ時代から現代までの製鉄技術の流    れは、<鉄文明時代>の到来を物語るものだと云えよう。しかも現代に至っては、大量の<鉄    鉱石>や、<石炭(コークス)>などの資源採取の必要べからざる状況を想定することができ    る。このような状況への意味合いにおいて<鉄の歯>いう表現をあえてそれに転用解釈すると    すれば、まさに地球を喰い尽くす<鉄文化の歯>だとも言えるようなものともなろうか。    人類史からその製鉄技術を振り返れば、古代ローマ時代までに至るその発展には約1500年    前後まで遡る長い歴史が横たわっている。この頃の技術は<錬鉄>を木炭火炎で何度も熱し、    鍛造して、その表面組織を硬くする鋼の冶金技術、<浸炭法>まで進歩してきたということだ    が、それ以前の起源初歩の時代はと言えば、そのまた1000年(BC2500年頃)までも    遡り、その時代ではただ単に<鉄鉱石>を地面掘りの炉の中や、窯炉風の炉の中で、燃料と一    緒に焼くことで、<海綿状鉱鉄粒塊>を取り出し、それを打ちたたいて鉱くずの不純物を取り    除き、ごく少量の<錬鉄>を得ていた状況であった。そんな素朴な処置、鍛造処理であったこ    とが、考古学上、発掘出土された数少ない古代遺物から推測されている。    古代ローマ最初期時代に至って<溶鉄>を型に流し込む<鋳型>工法で<鋳鉄>にするという    技術が果たしてなされていたか、ごく小さな物で始まっていたか、定かでないが、<青銅器>    の生産においては、遥かな古代(BC2000年頃までには始まっている)から<鋳型>によ    る生産技術が主流となっていたから、その応用として幾度となく試験的に試みられ、僅少な試    作品程度のものに留まっていたのではないかと思われる。    とにかく帝政ローマ時代には<鉄鉱石>からの<錬鉄>製法→<浸炭法>処理→<焼き入れ>    →<焼きなまし>鍛造処理法としての<銑鉄、鋼鉄>の一貫製造法が、その基礎的生産体系の    一連の流れ・工程として確立されていたと見られる。分業の鍛冶工房と、別個に溶鉱炉が陶土    の物を焼く窯炉のような形式、或いはかなりの耐火性を考慮して炉内外の構造の造りが工夫さ    れたものとして、その溶鉱作業が営まれていたと思われる。    すぐれた溶鉱炉、特に地上常設の高炉の出現などに関しては、14世紀以降、ルネサンスから    近代に至ってのことで、さらに高熱と不純物処理、微炭素化に最適な燃料として、コークスが    最良だとして利用される<コークス高炉>が登場するのは実の18世紀後半以降の事だ。    このように<鉄製成の工法文化>は、人類における途方もなく長い断続・連続の繰り返し的発    展史として今に横たわっている。    さらに今一つ、<大きな炉>に関することで見逃せない<古代の資料記事>がある。それは、    何といま問題としている、この<ダニエル書>第3章の記述の内にあるもので、<ネブカデネ    ザル王に関わる叙事物語(全体が3幕的に区切られている)>の流れの中(第2幕目)に見出    されるから、案に面白いことだ。このバビロン王の設けた炉がどんな様式の炉であったのか、    何の用に利用されたものか定かでないが、高さが20メートル(60キュビト)以上もある、    <金の像>(1節)を造るためにも利用され、大量の<金鉱石・金塊>を溶かすのに用いたと    も云えるかもしれない。    とにかく耐火煉瓦によって作られたものだと推定されようか、、金以外の金属類、銅や青銅な    どの溶解や精錬に、あるいは自然資源の<銅鉱石>や<錫鉱石>を溶融して銅や青銅を産出す    るために用いたものだったかも知れない。    鉄の産出に関しては、その製造技術が、銅や青銅を生産するような容易さのレベルのものでは    なかったから、そのような常設の炉は、その頃(BC600年前後)では、未だ利用されうる    段階には達していなかったというわけだ。    (しかし鉄鉱石を950度℃前後で燃やして<海綿鉱塊>にして炉から取り出し、鍛造・錬鉄    処理を行うこと等が考えられるが、これだけでは実用物となる品を多く造り出す事はできない。)   -------------------------------------------- さて、問題のテキスト本論に戻って、7節の<鉄の歯>の表現に加えて、19節では、その両    手、両足のつめが<青銅>だと表示しているから、一層その怖さが倍加する様相だ。絵で以っ    てこの獣を具象画できるとすれば、まさに奇怪、怪奇の極まりないものとなろう。    <青銅のつめ>も<鉄の歯>との相乗効果で、尋常でない<強さ>、尋常でない<恐ろしさ>    のイメージをその獣に付していると言える。その<脅威の極み>を表す<青銅のつめ>の意味    する、さらなる真意は、その両手両足を思いのまま振り回すこと、自由にその腕力=武力を行    使できるということであろう。過去従来からの<青銅器文明>は、いまやそのピークを過ぎ、    やがてはすたれ行く中、その文明のあらゆる所産が今や最大限に活かされ、<大いなる国力>    としてフルに使いこなされているという意味合いも込められているのだ。    このような様相の<第四の獣>、その<母体>としての<ローマ帝国>の覇権遂行にあって、    それを被る側の諸族諸民族の<尋常でないその大いなる脅威>とは、ローマが有する<ある種    の大型機工兵器団、重装備歩兵団、すぐれた騎兵団>、そして地中海を掌握する<優れた軍船    団>であったということは言うまでもない。    ローマの軍制は世紀前後から2世紀(AD)中が最もしっかりと整っていた時期と思われる。    24軍団(24レギオン:1レギオン当たり1万から1万2千の軍勢か?)の正規軍と、さら    にいつでも予備兵から成るもの、その組織化された兵制は、他の諸部族諸民族のような農奴、    農民や、市民、傭兵らの寄せ集めから成る大集群団の軍勢とは、まさに比べものにならないほ    ど質的レベルですぐれたもの、強いものであったという他ない。(だがその強固さは2世紀中    のいわゆる<5賢帝時代>までのことで、そのハドリアヌス帝の時には、各属州諸市のローマ    市民らからの徴募による、<属州軍団制度>を制定することで、ローマ24軍団の正規レギオ    ンを維持するものとなり、以後その制度が慣行されてゆき、強い属州軍団から皇帝が擁立され    るという勢力的機会が訪れるものとなる。)    いよいよ次は核心の文節、この第四の獣の<頭にある10の角とあと出の1つの角>の真相に    その解き明かしのスポットを当てて見よう。だが、実の処この試みは容易なことではない。い    うなれば不可能に近いほど、難題となるようなものだ。はじめに言説した如く、超遠大なマク    ロ預言の幻示ということ、<神の超遠大な展望を超凝縮して、一つのまとまった表象>として    表現され、神の立場、深慮を考慮するという事になれば、その意図的な相は実に捉えがたいも    のとなるからである。    よって先ず、より正しい立場に立って理解すべく、その視点的前提として念頭にしなければな    らないとした<概呈・コンセプション>を、しかと有さなければならない。これは、獣及びそ    の頭と角(10と1つ)の関係の法理のようなもので: 以下のような<コンセプ概呈>を持    て、ということだ。(人知を超えた、超遠大な展望であるというコンセプトと共に)  ◇獣の体と頭・・・・・・→体はその大きな帝国(ローマの最大限の版図としてのもの)頭はどこまでもその帝国の王(皇帝)であり、その皇帝には歴史の流れの中で、色々な性格タイプの王として変遷して行くこと。(10の角などはその後の事。) ◇10の角と 1つの角・・・・・・・→角は<王>を表し(文言テキストどうり)、かつ<王>が、王である以上、その<国>を表すということ。(その民、国無くしては、王とは云えないから。)そして、、この10と1つの角の王は、広大なローマ帝国の領土版図の内外縁から出現してくる<王であり、国である>ということ。(一つだけ例外圏に見られるものもあるかも、、。)   *10の角は、その10の定数を表わすが、また同時に全体を表わす数の全体数の象標(象徴)をも意図するものである。 ◇予型と本型・・・・・・→あと出の<一つの角>には、予型をもって本型(本物)を示すような一見、二重的な可能性を秘めているかのように、かなり巧妙、不可知的にその事が知られ得ないようにベール被閉されているとも。(しかも予型も本型もこの<一つの角>でもって共用アプライされた預言であり、その成就とするものである。)[注]:ここでの獣預言の展開はあくまでも旧約次元(選民イスラレル史的)ベースから 延長進展した側面を一望、展望した象徴預言であり、視点的にそのベース枠から はずれることはない。 AD70年前後にユダヤの旧約の民は、離散の憂き身にさらされた。離散境遇に ついては、かって、失われた10部族民やバビロン捕囚などで、その民族的な経 験をなしているが、このユダヤ人の離散によるその後の長い彼らの生存活動は、 まさにその旧約次元ベースにて予見、予知されていた事象の事柄であり、その預 言内容、その動向での要の一つとして、将来的に大いにその役目、働きをすると いった向きのものとなる。 つまり、後に大いに発展したキリスト教世界、その教会や国社会、俗世的な国々 においても、国を有しない彼らの優れた生存活動の主要な係わりは浸透してゆく ものとなり、その旧約ベース的な預言に直接間接、大いに寄与するものとなる。 (日本の戦国時代でさえ、イエズス会の活動で、ルイス・フロイスやルイス・デ・ アルメイダといった2人の有能な会士は、キリスト教徒会士である事の以前に、 自分らがユダヤ系の者であるを意識して活動をしたという、その例証を見る。) ◇人民主権による民主 主義社会の成立・・・・→最終的には10の角及び、あと出の一つの角の主権は奪われ、その権力主権は、永遠に絶やされるものとなる。 <国と主権と全ての国々の権威>とが、いと高き存在者の聖徒である民に委ね与えられる事が成就するからである。(ここでの預言ももちろん旧約次元ベースからの一望概容の顕われとなっている。)*ここでの文言(7章27節)では、イギリスからの清教徒たちが   新大陸に向け(1620年9月)メイフラワー号で海を渡り、困難   極まりない入植生活確立の歩みを辿り、その後、アメリカ合衆   国独立建国の時(1776年7月)へと、、そういった時代以降の   <民主主義を出発点>とした、新生アメリカの国の姿を最も良   く指し示し、その典型としているかの如くである。   (先住民インディアンとの折り合いが険悪となり、血で血を洗   う紛争、報復が繰り返され、収拾できないまでになった一時代   を辿り抜けてはいるが、、、)    以上の<コンセプション=着眼>は、ある種の先入観だと評されること、明々白々だが、この    ダニエルの夢・幻示がこういったコンセプトを得ずしては、正しく理解できないという仕組み    を元々、本来的にそれ自体が秘め前提としているしろ物だから、あえて先に表明するわけだ。    彼、ダニエルは、若い時から王宮に入り、必要に応じて王の前にはべる者として務め、いわゆ    る宮廷人としてその国に係わる高官の任にあり、<公の国びと>だったわけだが、その反面、    王との人となりにあっては、かなりプライベートでラフな関係にあり、普段は王から打っ遣ら    れても良い、気遣い無用な存在でもあった。そんな王宮国びとのダニエルではあったが、自分    を含め、捕囚となりし<ユダの民>の行く末、そして<祖国の都エルサレム>の事を思い気遣    う日々が無かったなって事はあり得ないことだった。いやむしろ切実なる思いをもって、日々    神に祈り求めた何よりの事柄であったろうか、その将来について、。    バビロンに移され、はや3年目にしてネブカデネザル王の夢の啓示に係わり、それらの事を自    らをして語り記す事となったからには、そういった気持ち、意識の流れとして、自民族ユダの    行く末の事、都エルサレムの将来について、神からの何らかの夢・幻の啓示がきっとあるであ    ろうとの、ある種の願望のような期待感が最初期の内には無意識のうちに培われていたのでは    ないかとの推察もあわせて、、、    しかも王宮仕えの国びとカラーのステイタスが、今やダニエル自身のアイデンティティーとも    なったわけで、そんな身分階層にあったからこそ、<神の視えざる霊の働き>により捉えられ    た<彼の脳>における夢・幻示は、そのかくたる如きもの、すなわち、第7章における内容の    ものとなったであろうか。    ところが実の処、彼にとってそれは、自ら予想だにしなかった、思いもよらない内容の幻示を    受けたという向きのものだったのだ。最初にかようなものがドカーンと来てしまい、当惑、思    いあえぐのは当然だ。しかも、それには自分の民の事、祖国エルサレムについて、何かを告げ    知らせる言葉の一つも、その象表すらもない。    彼にとって、ただ理解に苦しむ、恐れ悩む、こころ憂うばかりのものだった。それに彼自身、    自分は何んで<自民族ユダやエルサレム>の事だけに捉われた、小さな<殻の中>でもがいて    いたんだろうかと、気づかされた向きもあったかと思われる。    とにかく彼にとって、超絶したる内容のものがその最初に来たのだった。その内容は余りにも    スケールが大きすぎる、いわば全世界的な状況におけるもののような、また天的な表象の幻も    含めて、非常にグローバルな一面を醸し出している内容のもののようだった。    こんなわけで、ダニエルにとって、まったく意外なものだったその第7章は、やがて世界に起    る<現世王たちの行く末>やその国々、そして<国とか主権とか>に関わるところ、帰すると    ころは如何に、といった事柄(いと高き者、聖徒)、そして<人の子のような者>と<日の老い    たる方>との係わりにおけるシンボリックな表象、それらすべてが極めて<政治色>の強い思    想の何かを感じさせてくれる、そんな<未来を見すえた預言>内容のものだったと云えよう。    第四の獣なる<古代ローマ帝国>の発展・変容の過程は、全体的に見れば、捉えがたいほど多    様で複雑さに富んだものであり、それ故ここではごく概略的に時代の流れのキーポイントを見    据え、その特質などやターニング時勢となる契機的特徴を考慮しつつ、その謎への解明にスポ    ットを当ててみたい。    《初期古代ローマ帝政期:その隆盛と繁栄、そしてその古典古代の終末》    この時代は、ユリウス・シーザーによって基礎付けられ、アウグスト帝で磐石なものとなり、    その隆盛はまさに上昇気流の盛んなりし時期といえる。その勢いの権勢は、<5賢帝>のマル    クス・アウレリウス帝の代までつづく。アウグストや6代皇帝となったウェスパシアヌスは、    大ゲルマニア(現ドイツのエルベ川沿いまで)やブリタニカ(イングランド)の属州化の経営    に赴踏尽力している。(BC20年頃~AD40年代~まで)    5代ネロ帝の後継者となったのがウェスパシアヌスで、彼は、他の僭称皇帝で名乗りあげた3    人の将軍らの帝位争奪の内紛と、そのイタリア・ローマの様子を一時の間、見守るような立場    にあった。    この内紛・内乱はネロ帝の死(68年6/9日)後、およそ1年余の間続き、翌年12月20、    22日に相次いでローマ入城したウェスパシアヌスを支持する2手の軍団によって市は征せら    れ、平穏を回復することができた。その間、イスパニアの総督将軍のガルバが帝位権をとって    いたが、69年1月15日ローマの公共広場で暗殺された。    次には彼に対抗反目していたオットーが帝位権を執ったが、ゲルマニアからその大勢軍団を引    き連れてきた総督ウィテルリウスとの、北イタリアのクレモナ方面での一戦で敗退し、その年    4月17日に自害の憂き身にて没する。    ローマはゲルマニア軍団とその同盟支援の大軍で溢れ、混乱の内にその年の12月を迎えた。    その月の19日に再び内争、ローマの神殿カペトゥリオンを占拠した反対派勢力との衝突、神    殿の丘は騒然とした戦火にさらされ、ゲルマニア兵に制圧されるが、翌20日には、ローマに    進軍してきたウェスパシアヌス支持の属州パンノニア(現セルビア、ブルガリア)とミュシア    (現オーストリアハンガリー地域)の合流軍団(第7軍団と第3軍団)によって、ウィテルリ    ウスの軍団は一掃鎮圧されることとなる。    すでにその年の7月以来、皇帝に擁立され、大いにその栄誉と威信を高めていたウェスパシア    ヌスは、配下の軍団(第5、10、15軍団)だけでなく、続々と諸州の軍団が支持と忠誠を    表明するものとなり、この時点でウェスパシアヌスの帝位は決まったも同然であった。    ところで、ネロ帝の死と、68年~69年の帝都ローマでの内乱が起らなければ、その年の内    にユダヤ・エルサレムは、このウェスパシアヌスを総指揮官としたローマの軍団によって壊滅    されるに至るはずだった。が、その内乱の間だけ一時延ばされることとなる。    エルサレム以外のパレスチナ(ガリラヤ、サマリア、イドマヤ、ペレアなど)のすべての町々、    村々のユダヤ人らは全て制圧され、68年にはエルサレムは、四方八方にローマ駐留軍、監視    兵が配備されて、まさに孤立状態の憂き身にさらされた。    東海岸の大きな港湾都市カイザリアの本営では、いよいよエルサレム総攻撃包囲作戦に出る準    備が整いつつあった。そんな矢先寸前にネロ帝の急変の知らせを受けたのだった。そんなロー    マの急変により、その作戦は延期され、その変更を余儀なくされた。    エルサレムのその時は70年の年に、今の暦で云えば、その8月末には遂に神殿聖所に火の手    があがり、さらに各所に火が放たれ、その一ヵ月後9月26日に陥落征圧されるものとなる。    この時、指揮を執ったのがウェスパシアヌスに同行し、ユダヤ制圧のため、終始その第15軍    団を指揮していた、彼の息子ティトスであった。    彼は、神殿の焼け落ちるのを望んではいなかった、むしろ彼には、この大神殿をローマ風にリ    フォームし、大ローマの栄光となさんとする思惑を抱き始めていたのだったが。、、、、 この頃の最大の悲劇は、ユダヤ人の反乱に対するローマ軍による惨憺たる撲滅征討とエルサレ    ムの滅亡であったが、その惨劇の起因するところは、ローマのユダヤ民族に対する支配のあり    方にあった。彼らユダヤ人はその宗教的選民意識をもって、どんなに被支配の立場にあっても    民族的主権意識を内に秘めた、他に類無き頑強な人種であったので、ローマの属州化政策は、    思いどうりにはいかなかった。そのあげく、ネロ帝の時代になって、その総督ら、特に60年    代の二人の総督アルピヌス(62-64年)とフロールス(64-66年)が悪辣非道の私欲    をもってユダヤを治めたので、その叛旗の思いはピークに達し、又ユダヤ側の質の悪い過激な    血気集団の先導も手伝って、その反乱へと走るものとなった。    この二人の総督らの悪道によりユダヤパレスチナ全土は、無法のやから、盗賊どもの暗躍する    ところともなり、犯罪が多発、あたかも無法地帯化したような風を呈するものとなった。反乱    分子や暴徒が各地で出没し、気勢を上げた。遂にシリヤの知事で上官だったケスティウスが、    ローマの正規軍団第12軍を率いて、ユダヤに乗り出し、一時エルサレムを包囲するが、士気    の上がらぬ自軍の雰囲気を見てとったのか、何故か分からぬまま、生半可な攻撃とその包囲を    解いて退却してしまう。その帰途に乗じてユダヤの反乱部隊に隙を衝かれ、打ち破られ敗走す    るという惨敗をする結果となった。これは66年11月ネロの治世の第12年の事であった。    ユダヤ全土に反乱分子の叛旗が揚がるのを予期したネロ帝は、最善の処慮をもって、数々の戦    歴軍功では今やこの人物を置いて他にないといえる、ウェスパシアヌスをかつぎ挙げ、ユダヤ    征討に使わすものとなるというのが、諸々のローマ史の伝える一般的な見方なのである。    しかし、実際の真相は、闇に隠されたものだったかも知れない。いやむしろ、それは当代の史    家らでさえ知りえない、書き記すに至り得なかったものがあったかも知れない。このネットページの著者はまた、本論からわきにそれてしまうが、このあたりのところを一説、    述べないではいられないようだ。 かの《夜の幻のうちに、わたしは見た》というが如くに、    なんてと、いうわけではないが、、。”ネロよ、お前の母は、お前の祖父にあたる父(ゲルマニクス)を、その幼少のときに 亡くし、一族姻戚の中でどんなに辛い思い、低落失意のうちにあったことだろうか。 その折、祖母からも、時の帝によって母は、その下を引き離されたからだ。お前の母 の父、祖父は、本当ならば、当初の取り決めにより、帝位を継ぐものとされていた。 母にそのような過去がなければ、ネロよ、今頃お前は帝位にはなかったであろうに、 それでも母の兄カリグラ(この名は愛称)が曲がりなりにも祖父(ゲルマニクス)の 代わりに継いだのだが、まがい物の捨てるように消されてしまった。丁度、お前が、 生まれる時の頃だったから、お前の母の失念の思いが再び燃え上がるごとくに、より 一層心に刻み留められたことであろう、、、、そして、母の思いはどんどん過去へと 引きずり込まれてゆき、燃え上がる女の執念となって、彼女の叔父、クラウディウス に向けられたのだ。ここからもう一度始めようとの思いをこめて、、、自分の思いと   夢を、ネロよ、お前に託し、お前を立てて叶えようとしたのだ。 お前は幼少より本当に良く学んだものだった。他の学び仲間よりも、、、、ギリシャ の色々な事から、また自国の知識、言語も、、15、16才頃には、はやすっかりギ リシャの演劇物語、悲劇などの虜になってしまっていた、そうだ、そんなお前であっ たからこそ、母の叔父殺しの惨劇も許せたとも、、同情の念さえ覚えて、、、それ故 また、母の思いと一つとなって、お前も続けて、<ギリシャ悲劇>の復讐劇をやって しまったのだ、義兄弟・いとこのブリタニクスを、、、、、、また、お前は、セネカ の下、そのご教導により帝王学を学びて、すっかり権力とこの帝国の偉容な富の力の 虜になってしまったのだが、ここに来て、なお母の癒されない異様な失念から来る、 おぞましい力の影を感じて、、、お前は、遂に母さえも殺ってしまったのだ。さらに は讒言がざん言をよび、それに乗せられ嫌疑し、あらぬ罪を着せて妻オクタウィアま でも、、、いっ時の乱心か、それとも久遠の狂気か、自らの権力に支障あるもの、害 あるもの全てを取り除き滅せんとするその心は、、、さらなる野望とその陰謀への狂 気の悦楽となって羽ばたくというものか、、『全世界に知れ渡っている、あのユダヤ の大神殿を潰さなければ、ローマの本当の偉大さは、これ以上進まないのだ、あの神 殿があるから、われわれローマの神殿は、栄えないのだ、、大いなる大ローマの繁栄 の為に、あのユダヤを!』、、、、 お前の側近、あの解放奴隷の下僕の高官らに言われた言葉が耳にひびく、、、、遂に 新たなる帝国の一大国策のゲームを始動させることとなる。その密謀を秘めて、、、 もはや、お前の師、助言者なるセネカのあずかり知らぬところの事、そして今や最も 頼もしくも、信頼できるウェスパシアヌス大将軍を切り札として留めおき、その詰め の最終を見事に演出し、後始末するのだとの目論見を秘めて、、ただ者ではないお前 の現実、、、、、 こうしてただならぬお前の狂気の策謀は始まったのだ。ユダヤへの総督は、代わる代 わるにあの<アルビヌス>と<フローロス>を遣わし、シリアへは知事として、<ケ スティウス>送り出して、、、そして、ローマの大火もその新しい大ローマの為に! ただ者ではなくなったお前の、その大それた仕業、その結末は如何に、、、それは、 このわたしが、この<日老いたる者>が決めるものとなったのだ。 天下の将軍ウェスパシアヌスを伴ってのアカヤ(ギリシャ)への巡幸も、その周辺、 東方地域、特にユダヤの状況、様子をいち早くつかむためのものであったろうに、、 ネロよ、お前の狂気と野望についてのわたしの秘言はこれで閉じようか。、、ことの 発端は、アウグストがティベリウスにタネ蒔いた非業の策が、、娘ユリア(Julia) 再婚のため、また血筋の後継者を得んとする執着心のために、無理やりティベリウス の最愛の妻を彼から引き離したことが、、、ネロよ、お前の祖父ゲルマニクスの身に ティベリウスの妬みとなって、降りかかったのだ。、、、、””    さてこの時期の時代の動向で注目すべきことは、皇帝帝位権が軍団の熱声推挙により、その擁    立実現が可能となるという体勢を公にしたことである。元々そのような皇帝権のパターンは、    ローマ帝政のさきがけとなった初元ユリウス・シーザーの権力執建に見られようが、これによ    り四氏族(オクタビアヌス、アグリッパ、アントニウス、ティベリウス・クラウディウス・ネ    ロの四家)系による帝室一族の皇帝権の世襲制というものは実親から実子という直系の形では    現実化しなかったし、また慣例的法制化もされることはなかった。今だ他の有力元老院貴族に    よる<共和制>の制度が遵守されていたからである。この四氏族系による姻戚血族間での<養    子世襲>の維持は対元老院など外に対しても、帝室内のうちわにおいても、帝位をめぐるその    継争護持の様には、し烈な厳しさ、修羅の場があったのは確かだ。    ネロ帝後のウェスパシアヌスの帝位継承は、その後のローマ帝国の発展に大いなる幸運の平和    と繁栄をもたらすものとなるわけだが、皇帝権継承に関わる元老院議員の主体的意思決定は、    ほぼ完全に喪失されるものとなる。ウェスパシアヌス自身はたまたまその時、最有力な、まさ    に元首的な元老院議員であったゆえ、元老院からの支持もその議事にかけられる事もなく、歓    迎黙認の内に表されるものとなった。このようなウェスパシアヌスの時以来、帝都ローマの議    場を離れて、<皇帝権>は、諸州有力軍隊からの推挙擁立を以って、そして、その帝位の<世    襲化>もきわめて一般的な慣例の諸事と見なされるものとなる。皇帝権存続のセキュリティー    は、何はともあれ、その善政の執行と、帝国のより良き繁栄に根ざしたものであったわけだか    ら、それが満たされれば、国乱れずして<皇帝権の世襲>は、すべての社会層から支持、了承    を得られたものとなった。元老院の政治的な力も、世代々々の流れにおいて、その議員層の出    身構成が異なり変化してゆくゆえ、その過程での皇帝権との間には、協調同和、反目対決、あ    るいは主導服属とかの力のバランスがあり、そういった状況で、時代を生き抜き対処するもの    であった。ローマの平和と繁栄を最大限に謳歌した<5賢帝>の時代をその例に挙げれば、賢    帝最後の皇帝マークス・アウレリウス(161-180)は、かなり哲学的素養の人であった    が、それゆえにその明晰さによって、ローマの内情と諸州の発展繁栄の時代的流れをよく読み    とり、帝都ローマに在住すること久しくすることなく、自ら属州での任務遂行に当たるのが常    であった。つまり再び元老院の議員勢力が衰退傾向にあり、皇帝権が諸属州から擁立されるよ    うな時代に向かっていたからである。この事はまた、ローマ中央の政治的求心力が、諸州の経    済的自立に根ざした主都的自治権の強化発揚により、無力化されかねない可能性をより一層懸    念させるものであった。とりわけこの場合、諸属州の総督が中央元老院系に属する人的組織で    ある限りは、中央からの体制力は、その広大な帝国をまとめうるものとして保持されるものと    なっていた。そんな危機的状況と隣り合わせの彼、アウレリウスには、自分のドラ息子・コモ    ドスへの皇帝権世襲の大事を全面的安堵の思いでもってなし得るとは思えない処があった。そ    の後継問題では憂慮すべきところ多く、悩みを抱えるものとなった。そんな心中状態の最中、    彼は属州パンノニア(現ウィーン東方辺、ドナウ河畔)の陣中で病没するものとなる。    結局、彼の息子コモドスが帝位を継ぐものとなる(180-192)が、国庫は乱用浪費、善    政はなおざりにされ、その後は、再び諸属州軍団による<皇帝帝位>の擁立や併立、あるいは    争奪の混乱期にいたる時代を迎えることとなる。    やがて古典古代のローマ帝政期は、ほんの2世紀足らずの時を経る変遷過程で、ゲルマン諸民    族の進出、同化、対抗的な動勢発展を見るうちに終末的な時代への変遷を向かえる。    新たな皇帝の登場、コンスタンチヌス大帝がその時代の流れを変えてゆく契機となる。やがて    ゲルマン諸民族を含め、旧来の諸衆族からのキリスト教的ヨーロッパの初期形成期が中世の時    代を形づくってゆく。超展望的マクロな<10の角と、あと出の一つの角の予言時代>が、こ    の世界史的状況の先に見据えられたものと見られる。  以上にて、詮方ないが第7章での<マクロ的なもの>、その2は、長くなるのでここまでに留めお  き、   --------------------------------------------  次は、最後にミクロ的で、しかも長展望性を有した、ダニエル預言終盤にいたる<第11章2節~  12章13の終節>における幻視預言の叙述から、その部分的符合個所の幾つかを垣間見る如くに  検証しておきたい。ところが、その照合符合の確かさを得心できるほどに進めることは容易な事で  はない。ここでの記述預言は、ダニエル自身が、ペルシャの王キュロスの第3年(536BC)時点にお  いて、ほぼキリスト・イエスの時代、AD70年エルサレムの滅亡にまで及ぶ、長期な範囲を対象  的に見据えたものだからである。  したがって、その言示内容は、凝縮ポイント的に特定時期を把捉アップしたものとして、その当該  性は、実際の歴史にあって容易ならざる複雑重複性を漂わせるごとくである。それに加えて、文章  を普通の理解の仕方、つまり、主語などに係わる文の前後関係を考慮して読み解くといったかたち  ではまったく理解不能とした文言個所があったりもする。これは文から文へと進むなかで、まった  く気づきえない普通ふう形式であるのに、そこでの文が、実に個々独個な事柄を言示するものであ  るとして、その凝縮ポイントを、まさに個々並列文言となっているというものである。  (それは言葉の預言が成就する時までは、如何なる人によっても容易に解き知られてはならないか  らである。つまり、ダニエル書の12章4節の結びの言葉にある如く、“秘して、封じておくよう  に”と、ダニエル自身に命じておられる事と同義であり、かの亜麻布を着て<人の形をした者>、  その方自身が、<わたし>と表現して語られる言葉、ここでは10章の20節から長々と語ってい  る言葉となるが、それらに向けて、深慮、入念なる予測ゆえに、非常に思慮深く対応されていると  いうものとなっているからである。)   ★ミクロ的で、長展望を前提としている重点的スポットなもの: 聖書テキスト【第11章1節以降45節参照】   ①、キュロス王の後にペルシャには3人の王が立つ。カンビュセス、ダリヨス、クセルクセスであり、その四番目クセルクセスが、ギリシャへの大規模な遠征をなす。(480年BC)そして、その後のペルシャの時代の150年ほどの時は過ぎ去り・・・・預言省略ギリシャの領域から新たに“ひとりの勇ましい王が起る”、これはスパルタ以外のギリシャのすべての都市国家に覇権を制していたマケドニア王国の王、アレクサンドロス3世であり、ペルシャを征服して、その大いなる権力をもって今や世を治めるものとなる。(ダニエル書の他の章、8章の<二本の角の雄羊に向かって行く、猛々しい一本の大きな角の雄やぎ>の記述内容も参照にて)だが、その彼が権勢はなばなしく強くなった時、彼の国体勢は破れ断たれるものとなる。これは大王アレクサンドロスが323年BC、バビロンで死去する事を予見したもので、思いがけない突然の彼の死で、<後継者問題が大変な事態となり、まさに即、致命的な“彼の国の破れ”となって、それを顕わにした>という訳である。   彼の死が、熱病によるものか、それとも彼の政策処遇に危機感や不満を抱いて、毒をもって の暗殺をなしたものであったのか、まったく特定することが出来ないが、とにかく彼は、自分の築いた国と共に破たれたわけである。そして、その国全域が“天の四方に分かたれ、、、彼の血筋、子孫には属することなく、他の者たちに分裂、帰するところのものとなる。”との預言がなされている。ここまでが、第11章の<2節から4節までの文言>となるが、323年BCの大王死後の後継者(ディアドコイ)争い(数々の戦争と抗争的政略)は、終わる事無く断続的に繰り返されて、世代交代の時代まで続いたと見て取れる。306年にアンティゴノス(382-301年)が、その子デメトオス(337-283年)と共に王位を宣言(小アジアを拠点にして)したので、それに対抗して翌年には、プトレマイオス(エジプト)、セレウコス(メソポタミヤ)、カッサンドロス(マケドニア)が王国王位宣言をなした。これにより一時的(305-301年)ではあるが、大王制覇の遺領地が4つの国に分かたれると、ダニエル書の8章21~22節で云う文言が、それに相当するとしてその成就に至るを見る事になる。これは大王の遺領地が何時ともなく3つ、或いは4つのいづれかに分かたれて継承されゆく時代の在ることを考慮してのものである。BC280年代の終わり頃には、大王アレクサンドロス側近のディアドコイ(後継者)達は皆いなくなるものとなる。(セレウコス、プトレマイオス、リュシマコスらは281年、デメトリオス283年、カッサンドロス297年没) 4つの著しく目立つ角(8章8節)は、セレウコス、プトレマイオス、アンティゴノス(デメトリオス)、アンティパトロス(カッサンドロス)を指標したもので、マケドニア兼ギリシャ領域圏は、子の代のカッサンドロス、デメトリオス、それにリュシマコスやエペイロス王が係わって、まだ小さな都市国家でしかないローマがその領域圏に加わり、その行く末が特定されるものとなる。8章での預言は、560年頃(ベルシャザル治世第3年)とあり、この11章ではキュロス王の第3年、536年BC頃だから、20数年過ぎた隔たりがあって、ペルシャ後のギリシャに根ざしたその行く末に関わる11章での内容はより具体的に、歴史度のある記述様相を呈している。この11章では、8章で特徴的に表示された<4つの角、および4つの国>にこだわるような、同様な表示はなされていないが、その内容を踏まえて、大いに先々への予見表示がなされ得る様な意図が込められており、留意すべき点となろう。
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*大王アレクサンドロス3世の死後の歴史、いわゆる現在、一般史として知られている限りでは、大王の血縁関係は、
316年に異母兄ピリッポス3世とその妃が、また同母妹クレオパトラがその頃以降、プトレマイオスとアンティゴノスとの政争の犠牲となり、消されている。
大王直系では、310年に正妃ロクサネとその子アレクサンドロス4世が、
翌9年には庶子のヘラクレスが、いずれもカッサンドロスの関与、手引きで消されている。
最終唯一残った大王の血縁は、異母妹のテサロニカで、カッサンドロスがマケドニア王位継承権を正当化するため彼女をとどめ、これと結び、305年王位を宣して王国を継ぐ。
生まれた3人の息子(ピリッポス4世、アンティパトロス2世、アレクサンドロス5世)の代(297-294年)に、後者2人が王位を独占する争いで、デメトリオスとリュシマコスの介入を招き、その結果は、双方とも消される。その間に母のテサロニカも、295年に息子のアンティパトロス2世に消され、大王アレクサンドロスの血縁、直系子孫は完全に絶たれたものとなった。ギリシャ側マケドニア王国は、その折りに一時デメトリオスが治めるが、さらにこの領域での継承抗争は270年代まで続き、ようやく、276年にデメトリオスの子・アンティゴノス2世が祖父アンティゴノスの名で示す<アンティゴノス朝>王国への時代をむかえる。その頃はまたプトレマイオス王朝、セレウコス王朝の最も盛んなる状勢時であり、三つどもえの3王国がが継争、割拠する。 *大王アレクサンドロスが当該標榜せんとした国は、いよいよこれからという処であったと思われる。果たして何らかの理想的な国づくり構想を思い描いていたであろうか、問われるところでもある。10年余でペルシャの体制を一掃し、自らの意としてその最初の大成、ペルシャからすべての人民の解放をなしえたと、少なからず、或いは大いに自負するものだったろうか。ペルシャの属州トップを次々と自分の臣下にすげ替えて、事をなしていったと見られるわけだが、その大成のなるや、12年でアレクサンドロスは世を去る破目となった。彼が意図した最後のしるしとさえなったのは、スサでの兵士らを含めた大規模な集団結婚式であったと、歴史的伝記類から知りうるわけで、自分の立場を堅め表すると共に、東西融合政策の手始めともなり、且つ、新たな国としての門出のシンボルでもあったようだ。この東西融和を込めた如き集団結婚式は、その結実結果としてみれば、ダニエル書の第7章5節での言示、<三本の肋骨を口にくわえた熊>を象徴した事象結果に通じたものとなる。この場合、<口にくわえた状態のまま>に言示の意味がある。つまり、“噛み砕いて飲み込んだ”腹、胃袋に入った=消化されたといった表現が付け加わっていれば、<東西融和>のうまくなされて、先々の状況が良好となろうとの見方がとれるものとなる。だが、現実は様々な点で、アレクサンドロスが死ぬ直前までにさえ、<破れ>をもたらすものとなった。アレクサンドロスが、もしアリストテレスを師として、その学園生活をなしていなかったら、そのような大業をなした彼とはなり得なかったであろう。その学業期間は、342~340年BCのほんの3年足らずであったが、14才前後からの多感な精神的成長期にあるものであったから、王宮でのある特異な環境下で育ってきた彼の立場も作用してか、その精神素養の影響の強さは、彼の人生を左右、決定付けるほどのものであったと言える。彼の父フィリップス2世王は、王都ペラから離れたミエザの学園に、かのアリストテレスを招来して、息子の教育にあたらせた。父王フィリップスは、かねてより母親オリンピアスの教育、影響下から息子アレクを早く引き離したいと願っていたとみられる。その頃、王と有 力貴族、王族らとの関係がしっくりいかないのは、オリンピアスにその原因があるのに気づいていたようで、息子アレクを世継ぎ、王位につけることさえ、皆ひどく嫌うようになっていた。父王でさえ王族、貴族らの軋轢を感じる事があるほどで、息子アレクは、母親の背中を見て、母親がひどく軋轢を受けているのをしばしば感じるものとなったが、それは自分が居るからだと子供ながらに思うようになった。また自分への風当たりも良くないものとなってきていた。彼の宮廷での生活の重苦しさからの解放は、母の下から離れ、かのミエザの学園生活が始まってからであった。ここでの学友仲間との交わり、学びと訓練を共にする事の喜び、味わいは、深く心に刻み込まれ、自分のこれからの未来と、世界が開かれ行くのを感じ入るものとなった。また自分を取り巻く学友との友愛の情をひどく感じるものとなった。   こうして、精神素養豊かに第一級の若者にふさわしく、勇猛心、冒険心、探究心に溢れ、友情の心、厚き王子となっていった。だが、現実は様々な障害、試練の連続であり、それらを乗り越え、マケドニア王国から仲間と共に、自分の理想をめざして、雄飛する自分を思い描いて憚らないものとなっていった。彼にとっては今や、神々から授かった大志ゆえのそれとして邁進してゆくほか無かったと思われる。(大王アレクサンドロスに関する古代の幾多の歴史的伝記類から、その人物形姿キャラを辿り見る限り、BC336&334からの遠征、その12年間、323年時点へのプロセスで、東方ペルシャ的王権の大王へと変貌を余儀なくされてゆく、そんな感じの着色、粉飾がなされているかも知れない。   [注]:アレクサンドロス3世については、その名声と共に不滅の歴史事蹟となったわけだが、実 際の処、その史実的実像となるパースンキャラを、第一次史料となるものだけのベースか ら捉え知ることが出来るというものではない。同時代の古代史家とか、大王侍従の史官や 書記官によって、情報となる史料が幾ばくかは残存していたであろう。BC3世紀末頃以 降には一時なりとも、アレキサンドリアや、小アジアのペルガモの図書館などに<大王伝 書>の類として所蔵されていただろうとの推定もなされえよう。 ただ紀元前後のローマ時代にはアレクサンドロス大王に関する文書が非常に豊富になって その関心度の高さが窺がえるものとなる。ローマが世界第一等のものとなり、今やローマ が世界となりつつあるという自負心があって、大王アレクサンドロスの事蹟を自分たちロ ーマ人のアイデンティティーのうちに取り込み融和させて、より一層自分たちの存在を高 め、ローマ文明、その大いなるを讃えんとするかのようである。 その代表例として、二人の対照的な歴史家、伝記作家を以下に挙げておこう。 ・ディオドロス・シケリオテス:(BC80年代頃生~BC20年頃没=正確な生没不詳)作品:『歴史叢書』・・3部40巻からなる当時の世界史、第一部:神話時代及びオリエント古史からトロイ陥落まで。第二部:アレクサンドロス大王の死まで。第三部:ローマ・カイサルによるガリア征服まで。   *アレクサンドロスに関しては、アレキサンドリア図書館史料、クレイタルコスの「アレクサンドロス伝」(BC3世紀中頃著出)、ペルガモン図書館などから大王死後のディアドコイ戦争時代を扱ったヒエロニモスの「後継史」等からその内容の引用、または参考引見されたと見られる。(ヒエロニモスは、最初に大王の側近書記官、兼のち部将のエウメネスに仕え、その後、アンティゴノス、デメトリオス、アンティゴノス2世と仕えた文官(書記)で、大王の後継者の同時代史を著わした。原著、写本などは、失われて残存しない。)   *ディオドロスはシチリア出身で、前67~50年頃にかけエジプトに滞在、その他ギリシャ、地中海世界各地、イオニア方面を旅している。ローマでの滞在も度々、何らの確証もないが、最後はローマで没しただろうと推定される。彼の大王伝記事には、アッリアノスやプルタルコスなどの伝書とは異なる、その著述部分が幾多あることが知られている。 ・クイントス・クルティウス・ルフス:(AD1世紀の人物、アウグスト帝末頃の出生、生没不詳)作品:『Histories of Alexander the Great=アレクサンドロス大王伝 』10巻から成るが、1、2巻目は消失、*内容は物語風の伝記で、歴史史料価値には欠けているが、大衆向けの読み物といった感じで、それなりの良さがあると見られる。だが、この作品からの他への引用関連は見られず、孤立的な古書となる。   *この人物は、生涯素性などほとんど不明で、知られうる残存古記録は皆無に等しい。推察され得たある一説では、かってティベリウス帝の後見人だったとする見方があり、クラウディウス帝のAD43年時に、何らかの欠職補充として10月から12月までの執政官として、皇帝に選出され、仕えたとして、ローマ・コンスルの年代記録リストにあったとされる。(かって共和政期の最高位権力を有したようなコンスルではなかったが。)この説は、半世紀近くあと、ほぼ同時代人と云える歴史家であり、元老院議員でもあったタキトゥスが調索、解しえた見識から出たものらしく、証拠立てとなる史料は何も残っていない。 ■大王アレクサンドロスに関わる、ほかの歴史家については、ここをクリック  ②、上記のごとく、4節までは、きわめて簡略冒頭的に、的確に捉え示したあと、主内容的な流れの預言に移行展開するものとなる。ここで注意すべきは、ダニエル自身は、キュロス大王の第3年目にあって、しかもペルシャの中心地(バビロン<チグリス河>スサ)に居ながら<預言内容そのものの視点>は、バビロン捕囚帰還後のユダヤの民がエルサレムを再建するという成り行きでの、エルサレムに視点が置かれ、そこからの目線に基づくものとなっているということである。それにより<南の王勢と北の王勢>という大枠レーアウトが定まり、以後の預言内容が順次ポイントアップ的にみたされるものとなる。<5節の文言>は、”南の王が強くなる、、”で始まる。四方に領版域が分割されてゆく段階で、、、305年BC以降、エジプト・アレクサンドリアに拠るプトレマイオス(一世)はその勢力範囲を拡大してゆく。その過程で遡る事、316-15年の事とだが、バビロニアの太守に初めて任職(これは帝国再編成会議、遺将、遺臣らにより321年BCに北シリアのトリパラディソスで、取り決められた分割協定による)されていたセレウコスが、当時の最高総司令官職にあったアンティゴノスの後継者野心による勢力拡大の為、バビロニア太守を追われ、エジプトのプトレマイオスの処に落ちのび留まる事となる。そのおりに、9才ほど年上のプトレマイオスの下に客食将軍として仕えるものとなり、2、3年の間、軍事、政治に関わる事だけでなく、色々な面で、先輩プトレマイオスの手腕の良し悪しを学び吸収して、さらに実力アップへの素養を付けるものとなる。その頃、すでに320年にプトレマイオスがシリア太守(ラオメドン)を追い出し、領土拡大を兼ねた挙に出ており、それ以降急速にアンティゴノスとの対決姿勢が現実化していった。それ故すでに、エジプト(南)から、北シリア・小アジア方面(北)での初期預言形勢版図がその歴史的現出をなすに至った状況であった。アンティゴノスもプトレマイオスの進出後、すぐに南シリア、パレスチナ方面への進出を計り、プトレマイオスの将軍ニカトール勢を追い払うなどして、316年頃には、シリア方面に息子のデメトリオスを太守職に据える如くに担当派遣するものとなっていた。312年になり、エジプト・プトレマイオスの反撃のチャンスが到来した。その頃アンティゴノス自らが北シリアから海路伝いにギリシャへの勢力拡張遠征に出ており、シリアの全域は、子のデメトリオス勢だけの守りとなった。この機会を逃さずエジプトはシリアへの進出を試みるわけである。そのプトレマイオスの反撃に客将セレウコスも加わり、大いに一役買うに至る。迎え撃つデメトリオスは、<ガザでの戦い>で敗走する。知らせを受けていた父アンティゴノスは、急遽シリアに戻るが、その隙の間にセレウコスは、プトレマイオスの支援によりバビロニアへの帰還(311年)を果たす。その後、アンティゴノス側の大勢力による再三の征討戦にも、巧みな夜襲、奇襲により討ち堪えて、自領バビロニアを守り抜き、かって元の太守職に返り咲く以上に大いなる存在となってゆく。やがて306-5年~301年にかけて、4王国分立時代に至るが、小アジアを拠点とするアンティゴノスとその勢力は、301年に、反アンティゴノス派の同盟勢力により、フリュギアのイプソスの会戦で、セレウコス、リュシマコス連合軍に敗滅する。これによりセレウコスは、中北部シリアから小アジア中南部に領有を拡大する。小アジア中北部から海峡を渡ってのトラキア地方は、リュシュマコスの王国となり、なおしばし、4分王国時代が続く。かって、エジプト・プトレマイオスの配下に客将として仕えたセレウコスは、大きな存在となり、翌300年BCには北部シリアのオロンテス河畔に新都の建設に着手、これが父祖アンティオコスの名を冠した<アンティオキア>として、後世まで残る。5節での<強くなる、その将軍のひとり>とは、まさにセレウコス以外に見当たらない。 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以上にて、ダニエル書11章5節の言文は、南の王、プトレマイオス、その将軍の一人が、セレウコスとして、照合特定されるものとなる。このような込み入った史実的事情におけるものから、そうしたかたちでの預言的中を成らしめているという事は、神から賜った預言の驚異的な権威性をいかんなく高めるものと言える。③、続いて、6節以下だが、いよいよ<南の王と北の王>を軸にその勢力事情の展開となる。だがこの6節として仕切られた部分はかなり長い文脈から成り、その関連内容が一つにまとめられているのが判る。(元々古原典には節の符割りはなく、後世に節別けされたが、)ここで言示されたひと纏りの関連内容が内包示唆している歴史事蹟は、一般史的に取り扱う立場からすれば、その詳細な記述が可能とすればかなりの分量のものとなろう。キーワード的に要点を順にたどると、<縁組和親=南王の娘が北へ>⇒<女は政威力、立場を保ちえず>⇒<その王も子も失墜>⇒<結果は、侍従者も含め、死にわたされる>=他の英訳、邦訳では<女を招いた支持者も、女に子をもうけた者(王)も、女をその所有利権と共に強く支えた者も、など>がある。さて、この文言内容に関する照合比定ということになるが、この6節は、“年を経て後、”或いは他の訳文では“何年かの後、”とかの言葉で始まり、以下続き文が来るものとなる。“、、~縁組をなし、、~和親を計ります。”この言葉の裏には、南と北との戦いの終結の直接的な和議が現場宿営からか、或いは宮廷特使の派遣によりなされた事情が隠れている。しかもここでの文言段落の予言主役は、<嫁いた女>であり、そこにスポットが当てられているということ自体に、預言特有の高度な秀一性が潜んでいると見られ得る。これは、南の王と北の王の関係がほんのしばらくの間、一応の併存、共立関係が続いた後、両者の間に勢力伸張の衝突、紛争が起きてきた状況経緯の事後を前提とした予見表示であると言える。その歴史的背景は、少々溯って概略的に説明すると、以下のようである。、、南のプトレマイオス朝の創始者・プトレマイオス1世と北のセレウコス朝の創始者・セレウコス1世との代には、その両者の間に、さしたる紛争は生じていなかった。セレウコスにはバビロニア州復位に関わる大変な恩義があった。また、二人の間に密約(後継者として共に最後まで残り、ゆえに、お互いは争わない)を誓ったとも、、、それがあったからこそ、セレウコスは、後事を気にする事なく、むしろ守られて東方バクトリア、ソグディアナ、インド方面への大王以来の再度の遠征を成し得たといえる。それにはお互いの通商経路、つまりインド方面からアレキサンドリアまでの通商利権に関わる協益意向も含まれていたかも知れない。)彼らは、BC281年の同じ年、又はプトレミーの方が数年先、285-82年頃に亡くる。その没し方は異なるが、、(没年は、古史料類とその史学研究により異なるようだ。)彼ら両者の子の代になって、その当初から、すでに険悪な空気が漂い始めた。つまりセレウコスがトラキアとの海峡近くの小アジアで、プトレマイオス・ケラウノスにより暗殺されたことが、両王朝の間に暗雲をもたらした。セレウコスの長子アンティオコス1世は、父を殺し、マケド・トラキア王に登位したケラウノス、そしてリュシマコスの王妃で、未亡人になったアルシノエ(2世)と結んだ事の振舞いに、2人ともエジプト・プトレミー家出であったから、何はともあれ不信に思い、一時、怒りと疑心暗鬼がその頂点にまで達した。そんな訳あり状況の中、その後それらの事が遂に第一次シリア戦争(274-271BC)への導火線ともなった。(プトレマイオス・ケラウノスは、エジプトのプトレマイオス1世の長子であったが、父王との意見対立で追放、その王位の継承から外された流浪の身で、トラキアのリュシマコス王の下に身を寄せていた。リュシマコスの後継者問題に絡み、ケウラノスの援助手引きにセレウコスが応えてリュシマコスと戦う事に、それでリュシマコスは敗死する。その後、同行していた当のプトレマイオス・ケウラノスの手に掛かり、セレウコスが暗殺される。)第一次となる戦争は、北の王・セレウコス朝アンティオコス1世が、南シリア(コイレーシリア)に向けて侵攻してゆくことで始まり、エジプト・プトレマイオス2世(南の王)が受けて立った。これの詳しい事は、古史料記録を残さなかったか、残らなかったかで詳細は知られないが、274年に始まり、1、2度かの会戦がなされたかどうか判明しないが、271年に終息した。北の王・アンティオコス1世がアナトリア(小アジア)や北部シリアの諸都市、領地を失うほどの敗北を帰した。(おそらくプトレマイオスの艦隊からの挟撃を警戒してか、思い通りに軍行進撃が出来なかったと見られる。また、キュレネ王メガス(現リビア地方)との協約的な目算が途中で外れてしまった。エジプト・プトレミー王朝からの独立のためのそれ。)<6節>の“年を経て後”は、何年かが経っての状況となるが、これは、上記の第一次戦争の時代、及びその後の経過を含めての表示で、つぎの第二次となる北と南との戦争の直後、その<終結和約に係わった時点>から生起する事象を特定、ポイントアップした予見である。第二次となる戦争の概略:BC260年に始まり~253年の期間における戦いとするもの。 ・北の王はアンティオコス2世テオス(287-246、在位:261-246年) ・南の王はプトレマイオス2世フィラデルフォス  英語でプトレミーとも記される。(308-246、在位:285-246年)*285共同統治、281年単即位とも   *南のプトレマイオスはすでに先の第一次戦で、北に勝っており、この  戦いでは、48才を過ぎた熟年ベテランの年令の頃となる。  ------------- *北のアンティオコス2世は、即位後すぐの構えであり、先の父王1世の  敗軍の将としての姿、有様を10年ほど前とかに、少年期過ぎに  見て過ごしている。27才頃の事。状況の経緯は、時代の変転いちじるしい中、アンティゴノス2世ゴナタスが、マケドニア王国の所領に成功する。(リュシマコス⇒プトレ・ケラウノスら⇒ソステネスら⇒本人[276-274]⇒エピロス王ピュロス[273-272]年、後に再び、復在位:272-239年)そのころ、彼のギリシャ全域、及びエーゲ海への支配権伸張に対して、アテナイ、スパルタそれぞれに与する諸市とエジプト・プトレミー王国とが同盟共闘するかたちで、対アンティゴノスの進出拡大を阻む軍事対抗をとるものとなる。262年頃からギリシャ本土で戦いが始まる。その直後、それに合せたように、北の王アンティオコス2世テオスは、マケドニアの王となったアンティゴノス2世ゴナタスとの同盟関係を得る事で、南の王プトレマイオスに対し、シリアへの支配権確保を見据えて、進攻に乗り出すものとなる。その手始めとして、小アジアのエジプトが、先に奪った所領地を奪回すべく軍勢を差向けていった。この両者の戦いの戦況模様を伝えるような古記録は残されていない。ギリシャ本土、エーゲ海側でのアンティゴノス2世ゴナタスの優勢を伝えた記事が古史料に散見されているようである。それによると、、262年以降の状況進展で、アンティゴノスが一応、先にスパルタ、アテナイに勝利し、その後、258年にエジプト・プトレミー2世の海将パトロクルス率いる艦隊をコス島湾近辺で打ち破る。エジプト側にとっては、アンティオコスとの対戦も継続中であり、不利とみたプトレミー2世は、255年アンティゴノスとの和議を結ぶ。それからしばらくして、アンティオコス2世とのいくさが好転しないまま、小アジアの所領地、パンフリア、イオニア、キリキアなどの、また幾つかの諸都市(エペソス、サルゴス、ミレトス等々)を奪い返されたまま、253年、敗北模様での状況のまま、和議にこぎつける結果となった。(和約取り決めの主導は、負けたアンティオコス2世の方であったと見られ、とにかく、アレクサンドロス大王からの時代、娘らの取り扱いが結婚に係わるかたちで、一種の慣習として継承されている。集団結婚というの論外だが、)その和約の取り決め内容により、プトレマイオス2世(南の王)は、娘ベレニケを北の王アンティオコス2世に嫁がせるかたちで差し出す。252年の頃である。この縁組和親は、初めの数年は、良好に推移したようで、新王妃ベレニケとアンティオコスとの仲も良かったとみられる。ところが、離縁された前妻のラオディケ(かってより女王の如きであったが、)は、エペソスに移り住んでいたが、そのまま引き下がるものではなかった。好機が来たならば、元女王への復帰をと、その下準備、勢力付けの策を講じる事に心ひるむことがなかった。旧王族派は、ラオディケの下に結束を一層強め、親エジプト派を凌ぐ勢力をたくわえつつあり、まさに水面下では朝廷の勢力は二分されているかの如き状況となっていった。アンティオコス2世がそれに薄々気づき始めた頃、折り悪く時の定めか、エジプトからの内命特使により、南の王プトレマイオス2世逝去の訃報を受けた。246年になって間もない月の頃であったが、ラオディケにとっては、好機到来と強く自覚したに違いない。(彼女には元々、勢威があり、その名も曾祖母や祖叔母から受け継ぐ血統で、父は、王アンティオコス1世との同母兄弟の次男(アカエウス)であり、娘が離婚状態とはいえ、王家にあっては最有力に結びついた王族の一員であった。そして、その第二次となった戦争でも、兄アンティオコス王を助けてその時期を掻いくぐり、娘の不本意な離婚が結果したが、裏方での手堅い支援者となったであろうとの見方もできる。だが、父アカエウス[Achaeus]の去就などは、古記録史料には見い出されず、実のところ定かではない。アナトリア=小アジアで、ガラティア種族と戦い、ギリシャ諸市を守った事で、支持が厚く、後々の記念祭事に捧げの礼がなされたとの記録がある。孫に同名の王族がおり、アナトリア領地の総督太守となっている。)  南の王プトレマイオス2世は、246年の初めの月、1月28日の逝去だと、一般史では知られている。その数ヶ月後、7月には、何故かアンティオコス2世テオスが、急死するという予期せぬ事態が生じた。前妻ラオディケと寄りを戻したかのように、彼女のいるエペソスへ出向き、その宮館に滞在中に起きた事だという事から、如何なる方法であれ、ラオディケが、王を死に追いやった、至らしめたと、、、一般史的には推察されている。いまや、表面化、、アンティオケの王宮にいる王妃ベレニケとの女の戦い、ラオディケは、その勢威をもって自分の息子らを王位に即けると、強い決意をおもてに示したに違いない。それに対して現王アンティオコス2世テオスは、エジプト王義父に拠り過ぎて、今や自らの立場をもち堪えることができない状況に至ったと見られる。アンティオケの宮廷では、王死去の知らせで大変な状況となったが、ともかく、しめやかな葬儀が済まされ、(コレハ古史料記録ニナイ。)一息ついた王妃ベレニケは、8月に入って後、気を取り戻して、自分の幼子を王位に据えるべく、摂政となるとの宣言をした。だが、それを支持する者らの数も多数を占めることなく、エジプトの新王で、兄弟でもあるプトレマイオス3世に援助の手を差し伸べる。その危急の使者を密かに立てるやいなや、ベレニケとその子らは、反対勢力の手により暗殺されるものとなった。   ④、次に7節となるが、ここでの“その頃、この女の根から、~、、”の表現からして、前節6の、上記した歴史事象に直接結び付いている事象と見るほかない。つまり、南の王プトレマイオスの新たな動きに言及したもので、一般史的には、第3次の戦争を引き起こし、その遂行をなしたところの軍事模様を予見したものと言える。(この戦争はエジプト側から見て、通称、<ラオディケ戦争>として歴史に名を残す。エジプト王プトレマイオス3世は、拭い切れない疑惑と憤激の思いに駆られて、シリア王国を攻めに攻め込んだと歴史は書き記している。アンティオケの城塞占拠だけでなく、メソポタミヤの主都セレウキヤ、バビロンにまでも、、(アナトリアへも進攻する勢いだったが、厄介なことがエーゲ海キクラデスの島で起こり、それまでに進攻を止めたとされている。)8節の文言にある如く、できる限りの戦利品を収奪して運び去り、エジプトに帰ったと。その時代期間は、246年9月前後に始まり、241年に終息しているとの一般史的な見方における内容に照応していると見てよい。(第3次シリア戦争=ラオディケ戦争)9節で、“その後、~、、、”と断り書きの表現があるが、北も南も、その頃以降、内紛や、政情不安、経済的沈下などで苦境に晒されるが、その後という時点として、<北の王>が、幾分か余裕ができ、優位となって、<南の王の国>の領域に攻め込む事があったというものである。ここでの特明的ポイントは、<そのころ>と<一つの芽が起って、、>が同じ時として結び ついており、しかも<この女の根から、>の表現が、<彼に代り、>での<彼>を<根>としており、<根=彼>は、③で前記したプトレマイオス2世をさしており、その根は、同根としての<女の根>であり、したがって、女・ベレニケの兄でもある<プトレマイオス3世エウエルゲテス>を<一つの芽>として、スポット予見したものである。 ⑤、つぎに<その子らは~>から始まる10節から12節までの文言が新たな進展を示すものだが、前節のパラグラフの歴史事象との関連において、異なる点は、<時期や時の表示に係わる>直接表現を取り止めて、王位継承の<代から代に替わる継承者ら>を示す言葉、“その子らは、~、、”の文言から進めて、その事象内容を予見開示していることである。このパラグラフでの北と南とによる軍事模様は、一般史的次元からの照合を見て取るならば、第4次の戦争(古代ヘレニズム時代のシリア戦争と明記されたもの)に同定されうる。これは、いわゆるセレウコス朝を衰微から立ち直らせ、再興、隆盛させたアンティオコス3世(在位223-187BC:241生)を主眼とした事蹟を主内容としている。だが“その子らは、”としているから、複数人であり、暗に3世王の子ら、セレウコス4世、特にアンティオコス4世(エピハネス)をもターゲットとして含み入れたかに思われる向きとなる。   ここで、その頃の時代の北の王・セレウコス朝と南の王・プトレマイオス朝、それぞれの王の在位継承順の王たちを列記しておこう。・北・セレウコス朝:アンティオコス3世メガス(223-187年BC)⇒子・セレウコス4世フィロパトル(187-175)⇒弟アンティオコス4世エピファネス(175-163)⇒子の幼少アンティオコス5世エウパトル(163-161)⇒セレウコス4世の子であるデメトリオス1世ソテル(161-150、生:185)⇒152年前者と並立したアレクサンデル1世バラス(150-146BC)⇒ その後は、デメトリオスとアレクサンデルの双方の子らの間での継承紛争を軸とした状況過程が続いた。・南・プトレマイオス朝:プトレマイオス4世フィロパトル(221-204年BC)⇒幼年の同5世エピファネス(204-181)⇒エピファネスの妻・摂政女王クレオパトラ1世(193-176)プトレマイオス6世フィロメトル(180-145)⇒6世の子で同7世ネオス・フィロパトル(145/144)⇒前王暗殺後 同8世エウエルゲテス(145-131)⇒夫に対するクレオパトラ2世の反乱、宮廷での紛争期(131-124)⇒プトレマイオス8世エウエルゲテスの復位(127-116) ⇒プトレマイオス9世ソテル2・ラテュロス(116-110、109-107、88-81)この王は、弟・同名10世アレクサンドロスとの間、母クレオパトラ3世の権力介入により、交互に王位の廃・復位を繰り返した。[注]:王朝・王家の娘たちについて、その嫁ぎ先は、父王らも強く望むほど奨めたごとく、かっての大王の下、その後継者らの血筋の王家か、或いは関連の王国かが、その共通の対象フィールドであった。後継者らは、暗黙のうちに大王下後継血筋の王家であるべくの徳価にこだわって、互いに戦争をし合っても、その王家の起点べースを忘れることなく、それを維持せんとした。ところが、時代が下るにつれ、むずかしい状況事態になってゆく。その先がけとも、兆候ともなったのが、その初期エジプト・プトレミー朝の娘らからはや起ってくる。プトレマイオス1世と2番目の妻ベレニケ1世との娘アルシノエ、彼女はマケドニア・トラキア王リュシマコスに嫁ぐが、子への王家相続問題、王国継承問題やらの紛争で、命からがらエジプトに逃れ、舞い戻ってしまう。戻るはいいが、彼女は、同母弟であり、いまや王となったプトレマイオス2世の王妃アルシノエ1世(トラキア・リュシマ王の娘であったが故か)をひどい困難な目にあった腹いせをも込めてか、追い落して王妃の座を奪ってしまう。同母(異母)婚の最初の例であり、女王アルシノエ2世の共同統治の始まりであった。(婚儀は公けの形式儀礼であったが、、)   もう一つの例は、生みの親でなく、幼児途中からアルシノエ2世を母として育てられたプトレマイオス2世の娘ベレニケ・フェルノホラスである。
この娘は、先に上記した予言での注目渦中の女で、セレウコス王家・アンティオコス2世王に嫁いだ娘である。彼女はひどい災難どころか、生きのびる事ができず、殺されてしまう。
こういった事件事例がもとで、王朝王家の娘らは、つまずき以上に、大きな歴史的トラウマを抱えてしまう。他王家に嫁いでもどうなるものかと、先の分からない現実に、、もはや、嫁ぎ出てゆくのをためらうものとさえなり、将来の生き方を早くから目視する。、、、、このような訳で、かっての大王後継者系王家対象フィールドの共通規定枠は消沈してゆくものとなる。エジプト・プトレマイオス王家では、公然、慣習化したかのように、兄弟姉妹婚による王家の維持が計られ、守られるものとなる。この傾向は、シリア・セレウコス王家にも飛び火して行なわれたケースを見る。その最初の同母出結婚は、ラオディケ4世の一度目は長子と、2度目(セレウコス4世との)3度目は4世エピファネス。196年と192-190年と175年頃。彼らは、アンティオコス3世メガスとラオディケ3世の子らであった。特にエジプト、シリア両王家の間には深刻なわだかまりが出来て、互いに嫁がせるような状況を心情的にも完全に喪失してしまっていた。この状況は、193年、アンティオコス3世メガスが、無理やりにでも娘・クレオパトラ1世をエジプト王家に嫁がせる事で切れたかに見えたが、、これは、対ローマへの両家の同盟体勢が取れうるならの願いの策が込められたものであった。だが外的環境は、ローマのアジア、東方への進出により、一層深刻な問題となる。  彼らの時勢、時節は、13節、及び15節以降、19節まで該当すると見なせるが、順次追っての後述となるが、これらの文節範囲は、従来的見かた解釈を考慮しつつ、再度の検証、照合をすべきところであり、秘潜儀的、妙理暗明的な処、秘められたる何がしかの内象をあらわし示す事になるであろう。    *この10節以降のパラグラフからは、厳密にして正確なる検証の試みが必要、求められる事になるが、実際の一般史が示すところは複雑、広範囲的な記述内容であるので、その照応立証には困難極まりない難しさが伴う。10節での<その城にまで攻め寄せる~、、>とは、北のアンティオコス3世がBC219年に数多の大軍を率いてエジプト・アレキサンドリアの玄関口、ペルシュウムの要塞ペルシオンまで攻め込んできた事を示している(第4次シリア戦争BC219年~217年までの始まり)この進攻には、222-221年でのアンティオコス3世のメディア、ペルシスなど、その総督らによる反乱を鎮圧する時期に合せて、南のエジプト・プトレマイオス4世の軍勢が、シリア北部、港湾都市セレウキア・ピリエのなどへの進攻がなされた背景があった。この時、南のプトレマイオスも大軍をもって対応しますが、北のアンティオコスは、何らかの理由で不利と見て、ペルシオン城砦の攻略をあきらめ撤退を余儀なくされます。しかし、その途中、ガザの近辺、パレスチナで両者は対峙し、激戦ともなり、<11節>で記されているように、南の王は大軍を起こすけれども、その軍勢の多くを失います。つまり、この折は双方共にあいこで、多くの軍勢を失い、218年には一時撤収します。   翌217年6月、アンティコス3世は、再び南シリアに侵攻、ここでガザ近郊のラフィアでの戦いとなり、これはヘレニズム時代有数の大会戦として知られていますが、<12節>では、南のプトレミー4世が、北のアンティオコス軍を打ち砕きます。この大会戦には勝利しますが、“勝つことはありません。”との表現で、状況を伝えていますが、、確かにこれで和議を結び、終結の線引きをしたわけではないからです。そして、つぎの13節の文言に繋がってゆく状況を示しているからです。    ⑥、<13節の文言>および<15節から19節の文言まで>   この13節文言は、再び北のアンティオコス3世が、その機に乗じて南シリア(コエレ・シリア)に進攻して来ることを示します。(第5次シリア戦争BC202-195年に比定)これにはプトレマイオス4世の204年の死、幼少のプトレミー5世の継位に絡む宮廷内紛という状況を見てのものでその好機を捉えての進出であったと見られる。南のエジプトも内紛のさなか、有力な傭将の将軍スコパスに大軍を率いさせて進出します。この時、199年にスコパスは一足さきにパレスチナの各地を占拠、奪回したかに見えたが、198年での<パニアスの戦い>で敗北、一挙に逆転されて、これが事の成り行きを決める最終的な決戦結果となり、アンティオコス3世の完全勝利を導き出します。(パニアスは、ヨルダン川の源流点、ヘルモン山系の南西麓の、のちに改名されたピリポ・カイザリア付近に当たります。)このイクサ模様は、15節以降の内容との照応となりますが、この北の王は、アンティオコス3世であり、その勢威そのものです。彼はその勢いで、アレクサンドリア本国を占取し、自国に併合せんとの思いに駆られますが、<17節>では、それを取りやめ、和睦して自分の娘を与えて、先々の事を計らんとします。これは、193年BC頃にクレオパトラ1世(当時12才ほど)が、南の王プトレマイオス5世エピファネス(17才ほど)に嫁ぐことに照応しています。
<18節>の“その後、”では、北の王アンティオコスは、アナトリア(小アジア)の海沿いの国々(ヘブル原典、70人訳ギリシャ語では、島々ともなっているが、これらを含めて、)を征取して、マケドニア、ギリシャ方面にも進出して行きます。ところが、彼のこの進攻に対して、ローマからの大将(将軍)のひとり、二人が率いる軍勢により、彼アンティオコスがその進攻により与えた恥辱を、今度は自分の上に返されるものとなります。(原典、70人訳では、敗北という“彼自身の恥辱の<他に>”と訳すことができ、その恥辱を彼の上に返した。ともなります。これは、191年BCのテルモピュライの戦い、190年のマグネシアの戦いでの彼の敗北でその和約、アパメイアの和約も非常に手厳しい内容で、他国との同盟禁止、捕虜獲得の禁止、軍船数の最小な制限、戦象の放棄と禁止、膨大な賠償金を課せられるという、大変な恥辱を返されるものとなる。(アナトリアの領有地すべてを失う、タウロス山系以西、以北での領地を失ったあげくでの状況下で、、)<19節>では、これらの履行、賠償金の支払い財源に困窮し、アンティオコス3世は、遂につまづき倒れるものとなる。(187年、自国領地内の要塞を含め、金品となるものはないかと隈なく顔を向けるなか、スサの神殿で金品となるものに手をつけ、収奪せんとしたが、地元民の猛反対に遭い、暗殺されてしまう。)    *ここで、注意すべきところは、上記した文節文の間にある、<14節>の文言の照合である。“そのころ多くの者が起こって、~、、、”“南の王に敵する”のは、北の王(セレウコス王朝)だけではなかったようです。ヨルダン川以東のモアブ、アンモン、ナバテア、南のエドム、アフリカでは、北のリビア、南のエチオピアなどから、、、この<14節の文言>が的確に表示している特徴は、二つの点に絞れます。一つは、<南の王>に対しての敵意を示している事。二つ目は、ダニエルの自民族、ユダヤの民からも、敵意反抗を発揚顕示して、かねてより印象付けられ、その思い描いた<幻を実現>しようとしたが、<失敗する>というもの。この二点から注意すべきは、どうやらこの予言は、アンティオコス3世の治世時代の事柄で、その子の代、アンティオコス4世エピファネスがエルサレムを暴虐的に占領した時勢さ中での事柄ではないということです。(ユダヤの民・マッカバイオス一家から始まる民族的な自主独立への戦争、最終的にはアサモナイオス・マカベアのユダヤ王国ハスモン朝の確立と、それに合した直後のシリア・セレウコス朝の支配から独立した前141年に至る事情のものに該当せず。)その文言(14節)の歴史的背景には、プトレマイオス1世当時からのシリア占有(320年)、失退、奪回(312年以降)の繰り返しの時代があり、プトレマイオス2世フィラデルフォスの治世時代には、ユダヤとの関係は友好関係になって来ていた。(ヨセフスの古代史によれば、エジプトでのユダヤ人奴隷約12万人の解放と、王国図書館及び、学書研究センターのための蔵書収集行政の一環として、ユダヤ人の保有する<モーセ5書>の翻訳が許される時代、時に至ったと見え、ギリシャ語への翻訳事業が着手される(旧約聖書70人訳の初段階の試みBC258年)等々で、良好な関係を見せているかのごとくであった。だが、このような経過の一面があるなか、北のアンティオコス朝と南のプトレマイオス朝との双方には、すでに第2次となる戦争抗争の継続(260-253年)状況を辿るさ中にあった。そして、先に上記したように第3次(246-241年)、及びアンティオコス3世メガスの王国低落からの大躍進への第4次の戦争(219-217年)、第5次(202-195年)の戦争へと繰り返されてきた事を見たが、その第3次の戦争後の状況下で、ユダヤ・エルサレム内外では、エジプト支配下からの離脱を望み、自主独立の気運が目覚めてきていた。このような気運のさ中、プトレマイオス4世フィロパトルが、217年6月頃のラフィアの一大会戦で、セレウコス朝アンティオコス3世を降したわけであったが、その直後、彼は、エルサレムに入都し、かの神殿で戦勝への拝儀礼をするつもりで、供犠、及び至聖所への入拝をなさんとするも、(律法によるユダヤ側のしきたりにより、)不名誉な反対妨害を被るものとなる。(第4次戦の終息直後)他国の宗教儀礼の掟など何一つ知らなかったプトレマイオスであったが、王としての体面をひどく傷つけられたとして、怒りをあらわにし、サレクサンドリアに帰った暁には、そこに在住のユダヤ人をすべて追放、さもなくば処刑殺害するとの目論み意向を申し渡して、エルサレムを去るという思わぬトラブルの一件があり、この事件により、ユダヤ・エルサレムのエジプトからの離脱を大いに叫び、事を起こさんとする猛者連中が発揚したわけであった。だが、民衆はこのさわぎに際し、2分されることなく、親エジプト派(大祭司門下衆、及び代表議員衆)の内外対応処置により、彼らの試みは失敗するものとなった。<14節の文言だ。>だが、彼ら一派は、アンティオコス3世メガスとの結び付きを強くし、これが彼のエルサレム来都への意識付けを濃くし、その水先アピールとなった。その頃までの戦場となる所域は、地中海の海岸寄りの平地方面がおもであり、ヨルダン川方面に至る丘陵地や、内陸の山々の織り成す平地地域などは、さほど戦火にさらされることはなかった。<16節>で、この<麗しい地に>彼は初めて立ちます。そして、<その地は荒らされます。>と表示されています。先に上記した199年から198年中の、南の王が送り出した傭将軍・スコパスと、来攻してきた北の王アンティオコス3世メガスとの内陸地での、ユダヤ、パレスチナを含めたコエレー・シリア(広範囲シリア)の争奪戦となったものです。アンティオコスは、ナバテア王国と手を組み、その主力をヨルダン川の東側から回り込ませて上ガリラヤの麗しき地への進攻を自らが軍勢を率いて行なってきたと見られます。    *ここで、アンティオコス3世メガスの子・アンティオコス4世エピファネスについては、いまだ何も記していませんので、言及すべきかと思われる。   4世エピファネスは、父・3世メガスの末っ子(三男)として生まれた。不幸にして父のローマに対する敗北(上記したが191、190年の両戦役にて)し、その戦後処理の<アパメイアの和約>の締結条項により、189年からローマへの人質となった。彼は、定かでないが、215年頃の生まれであったから、その時は、丁度、青年期盛りの25、6才だったと見られる。しかし、父・アンティオコス3世が187年に亡くなり、兄(次男)のセレウコス4世が王位を継いだ関係で、その息子・デメトリオス1世ソテルが彼と交換に人質となり、エピファネスは、3年余ほどで解放された。   しかし、その後、しばらくは自由人として、ローマに留まり、あるいはローマに拠点をおいてローマの状況ばかりでなく、ギリシャの諸都市の文化、伝統の空気を思う存分に吸い込んだと見られる。特にローマの実力、共和政の体勢、元老院での政治あり方、その権力など、かなり自分なりの把握して熟知したものと見られる。彼のこの情報知識との兼ね合いの性向は、対ローマへの基底的位置付けとなって、やがてのち強く表面化するものとなる。(アナトリア、エジプトを含め、わが東方のギリシャ文化領域を再統一して、ローマに対しなければならないという思いつき考想が心のうちに根ざして)彼の政治的ポリシーなど、その立場は、それゆえ、彼の父・アンティオコス3世とは、対照的なものとさえなったと云える。父のアンティオコスは、スサの近隣生まれで、スサ、バビロンでの育ちである。そこではヘレニズム化の趨勢が見られるとはいえ、いまだペルシャの文化、伝統色が息づいているところであったが、そのヘレナイズ以前に、この方面での知識の源泉的なカルティベイトは、ヘブライ的なものを兼ね備えていた。(アレクサンドリア学派ができる前に、バビロン学派があったほどに。)父・3世アンティオコスは、バビロン、及びメソポタミアに在住していたユダヤ人家族2000世帯ほどを小アジアのリュディア、フリュギアに難なく移住させるほどの実力者、彼のユダヤ人への信頼また、かの地域に住むユダヤ人の彼への支持、信頼度は意外なほどあったと見られる。彼は、ユダヤ・エルサレムに対しては、そのユダヤ人らにはそれ相応に慎重に対処したと見られる。(ヨセフスの「ユダヤ古代史Ⅻ」でも記している。)彼は、まさにかってのペルシャ大王キュロス路線を継承するようなものとなっていた。したがって、ユダヤ人、及びその宗教的伝統に対しても、一応の理解を示していた。当時の公用語は、ギリシャ語が主であったが、庶民レベルでは、アラム語が広く常用されており、宮中の書記官、史官クラスの者らのうちには、バイリンガルなユダヤ系の者が幾人かは仕えていたと見られる。   (ダニエル書が、第2章4節から7章の終わり28節まで、アラム語で記され、他はすべてヘブル語で記されているという<言葉の使用構成>となっている。これは非常に注目に値する事であり、秘すべきところ、開放黙認よろしきところ等々で、その当時での対応、反応など、興味深々といったところである。いつ頃、ダニエル書、その封印の巻物の巻が解かれるものとなったであろうか。モーセ5書がアレキサンドリアでギリシャ語に翻訳<70人訳>された、その初期段階のBC250年代頃には、すっかり開封されていたというものであったろうか、、、、。)その父に対して、子のエピファネス4世は、175年、王位を確保したが、ローマの重いくびき(賠償金支払い・アパメイヤの和約)に苦しめられて、王国の支配運営は、ほとほと思わしくなかった。父の偉業とその健全なる王国を継承できなかったエピファネス4世は、エルサレムへの破滅的荒廃をなすような所業を自ら行なうような結果を自分に継ぐものとなった。これは、ダニエル書の第8章9節以下、14節での内容における、彼の所業の見かけ上の外観の様子を描いているものでり、エピファネス4世の予言である。これは、父3世アンティオコスの代わりに、その悪い暴虐な所業予言を全部、自らをして自分に科したというかたちで、その予言史事情が成就しているというものである。そのダニエル8章の予言記事も、後半15節以下、その明説予言で、何か二重的な予言性を示している。それ故、そこでは、キーワードとなる<言葉>を取り出す事ができる。(大王アレクサンドロスとその後の4つの国への変遷事蹟で、8章と11章以降には史的同事性の深い係わりがある事から、、、) ■ダニエル書・第8章テキストの部分参照:ここをクリックにて。・18節<深い眠りに> ⇒これは、11章が10章から連続して続く文章記事として、その   10章9節の<深い眠りに>の言葉との、いわゆる“共通項”を   なしている。なんでもない表示文のように思われるが、実は非常   に注目すべき事象的形相、及びその深層的な啓示想式が秘められ   ている。(これを論示するだけで、大変な文章量になるので、割   愛するが、簡単に、)非常に重要な<共通項>である。  *ダニエルが実際にこの<深い眠りに>陥ったという状態で、啓示内容の展開が始まる。
これは、“深い眠り”という起点的様態形式を暗に表現する事で、本書でのダニエルの他の啓示受容の様式とは異なることを示している。  
 (<深い眠り>そのものの事象的表現に類似したものは、聖書中、アダムの創2:21、アブラハムの15:12節ほか数点見られる)  
*現代科学的な<夢心理学>の分析上では、眠りの科学分析の認識としては、深い眠り状態では、夢を見る事のない熟睡状態と同一視できるということになるが、、ダニエルの場合はこれとどう違うものかの論点があり、立場、意見の違いも出てくる。  *ダニエルは、心の計り知れない深層心理を知的に自覚、意識して   <深い眠り>状態をそれに当てて示そうとした。   神からの啓示内容をまさに深層ぶかいものとなし、そのような次   元からでないと、その啓示そのものの本意が成立しない、啓示内   容の真意が欠け、充足する事無く表現できず、伝えられないと。ダニエルの他の啓示内容とは異なり、この二箇所の内容は、その   <共通項>でもって、重厚なるものとしている。   ダニエルは、ほんの一時<深い眠り>の状態に陥った。が、彼の   脳中での眠りの(心理)状態には、普通の人と比べ、深さと広さ   とかで、量的に富んでいたとも、、、それで、実際に   <深い眠り>の時点において、神により掌握された状態から、神   の啓示手行によりその占有、浮上的な彼の意層に啓示内容が印映   移植されるものとなったということが起りえたと、、、。   或いはまた、その啓示授受の心理的程度の状態差があるとして、   それがどのようであれ、意識的にその啓示内容を文書化するにあ   たり、<深い眠り>という状態形式を内容表現のための重要な欠   くことの出来ない手段として、その表現中に取り入れたという見   方も可能となる。この場合では、彼の意識的文書著述の能力は、   まさに天才を越えた天才とも言えようか。、、  *ここでの<共通項>の“深い眠り”の啓示内容の真相にあって、   二重複相的に予見された対象事象があり、一方が表立った形で、   他方を被い秘めたものとして表示されているという啓示的仕組み   が見られる。(啓示幻の授受言示のエリアは、<深い眠り>の領   域外であり、それへの説き明かしのアプローチで、<深い眠り>   を入り口に、その規定内へと展開。そこからまた規定外の幻内容   を見直すと、そこに新たな事相が表化し得るという可能性の余地   が見い出される。)・17節<終わりの時> ⇒この言葉には、二つの使い分けがあり、それを示す事柄、意味す   るところが異なっている。   ①、19節の“憤りの<終りの時>”:この表現は、23節の“彼らの国の<終りの時>”と、同次元的であり、この二つは、同じ時、同じ時期を示すものである。しかも、<定められた終りの時>にかかわるものという、次の時代への継続的性向関係を示しているものとなる。  
②、同じ19節の“定められた<終りの時>”:この表現は、17節の“この幻は<終わりの時>にかかわるものです。
”の<終わりの時>と、同次元的で、その<時>を限定特定して用いた言葉となっている。そして、この<終わりの時>は、ユダヤ・イスラエルの旧約民族としての<終わりの時>を暗示するものである。(エルサレムの滅亡)これはまた、ダニエル書内のテキスト上では、①での二つから続くかたちで、対照できるもので、この<終わりの時>は、11章27節の“定まった時”の来るまで、或いは同29節の“定まった時なって”の、その時に至る事により、現前してくる“終わり”という表現のニュアンスの時と同義である。“定められた<終りの時>”という時の範疇の内にあって<定まった時になって、>を経由併展直後して、⇒その<終わりの時>へ、である。そして、また、11章40節の<終わりの時になって、>のそれそのものと同じであり、それを予め指し示すものである。   *史実的事蹟ではその8章9節~14節内の事柄は<アンティオコス4世エピファネス>の悪業を予見したものとして、あえて表示されているかの如くであるが、これを事象的兆例とし、また、<終わりの時>の事として、“悟りなさい”というものです。つまり、<終わりの時>にも同じようなことが起るが、それは、なし崩し的で、断続的で、幻などで一つに表示説明できないほど、複雑、多混様な事象ものとなるからである。(ローマのポンペイウスのエルサレム占領BC63年からウェスパシアヌス、ティトスの占領AD70年それ以後にまでかかわるからである。、、)・23節<ひとりの王> ⇒ヘブル語{メレク}、ギリシャ語{バシレウス}で、共に英語のような冠詞(a)は   付されていない。(両語には(a)に比すべき不定冠詞はなく、   (the)に比定する冠詞だけがあり、それぞれ常用されている。)   文法的訳上により、{a king}となる訳だ。邦訳では、英訳に   準じて、{一人の}となるが、日本語の修飾性が高いから、さらに   その修飾の規定が強く印象付けられてくるわけだ。   ①ここでの王、メレク、バシレウスは<ひとりの>という観念規定に捉われてはならないということだが、しかし、同時的に一度に何人もの王が起こり成立することはないから、その継承上での代々の王を含めた意味で、ひとつに纏めたところの代表者的表現の<王>と見なすべきとの点も考慮しなければならない。   ②この王の起る時期(時代)は、本文テキストでははっきりと明示されている。
前節(23節)の<4つの国が起った>事を受けて、その後の、
“彼らの国の終わりの<時に>なり、”
と表示され、しかも彼ら共々その国々の罪業が、もう許しがたくその限界を超えて満ちてきた状態の時に、という形相的に示された条件も付随しているその時期に、という事になる。   前項で記した<終わりの時>に関して、<彼らの国の終わりの時>という表現もあると、すでに指摘したわけだが、これのギリシャ語訳:“エプ エスカトーン テース バシレイアース アウトーン”はその<4つの王国の終わりの時に、>を示すもので、8章9節以下の文言との関係においては、それらと結びつけられる時代時期的次元のものではないということである。つまりアンティオコス3世メガス、及びその子のアンティオコス4世エピファネスを示す事象として解釈するならば、その彼らの事蹟は、彼らの王国の後半の時期に入っていまだ間もないもので、<終りの時>には該当しないということになる。(彼らセレウコス朝はBC310年頃から64年までと見られ、彼らの在世時期は、BC200年前後から160年代までの時であり、250年の全存続期間の、それは、110年~150年過ぎた中後半への過渡期に当たる時となる。確かにこの後半への彼らの時期は、もはや衰退してゆくばかりの始まりの時で、再び隆盛することなく、残り100年ほど世代を重ねて、その終りの時に至るというものである。)  ③23節の<王>の起こりの言及から25節までは、その王の特徴とか、所業の様相を象徴表示したものとなっている。これらについては、つぎの項目で記すが、<日本聖書協会訳>での本文テキストから、  “その顔は猛悪で”と邦訳された観点について分析しておこう。   原典ヘブル語では“メレク”(王)に続いて“アズ⁻パーニーム”とある。ギリシャ語訳は、“バシレウス”のあと“アナイデース プロソーポィ,”   ・アズ{-עז }= アナイデース{αναιδης} ⇒ 邦訳:猛悪で、   ・パーニーム{פנים }= プロソーポィ,{προσωπω,} ⇒   邦訳:その顔はこれら言葉は、王に直接かかる説明的修飾語である。邦訳では、この部分を一つの文節でもって意訳して、日本語の文章形式での表現を巧みなものとしている。しかし、“顔は猛悪で”という訳文は、一見、ひどく印象付けられるが、ただ単に顔面、つらがまえが猛悪??という事であるに過ぎないとすれば、また何か一見、子供じみた感じのもの、、ともなり兼ねない。   英訳ではどうか、見てみると、  ・a king of bold countenance,(Ame'canRevised-Sd版)  ・a king of fierce countenance,(KingJames版)  ・a king bold in counterance,(70人訳ギリシャ語対訳版)などがある。   countenance は、“顔つき、表情”などで、容貌、外貌、外見、風貌などに通じる。顔の表情でその人物の性格の一面が少なからず感じられるという考えがあるが、、、   bold は、一般に“大胆な”“無遠慮な”と辞書に出ているが、 それだけでの邦訳適用では、今一しっくりしない。 この語にはもっと幅のある意味深長な多様的、概念 的ニュアンスがあるようだ。(太っ腹な、臆する事のない気心、豪胆な、等々)   fierce は、“荒々しい、猛烈な、険悪な”などがあるが、。  この語の意味にかの日本語の“猛悪な”が介在  しているようである。結論として、英語のboldとfierceの両方をあわせたような存在性と捉えるのが妥当と見られる。だが、それだけではない、続いて記事原典テキストは、接辞接続字でもって、特記すべき特徴を付け加えているから、、ゆえにつぎの項目の分析へ、、、・23節<なぞを解き> ⇒ヘブル語{ゥメービーン ヒィードォーッ} <:ומבין חידות >   ギリシャ語{カイ スニオーン プロブレーマタ.}   <και συνιων προβηματα.>・25節<君の君たる者>⇒  (注:翻訳のギリシャ語旧約聖書は、古代ローマ時代、AD2世紀140年代頃までに3種類のものが世に出ている。これらより古いものは、良く知られている<70人訳セプティアギンタ>で、BC256年頃アレクサンドリアで、まず“モーセ5書”が、72日間かけて、72人のエルサレムからのユダヤ人翻訳者らによって完結している。その後、ほかの預言書、史書、詩文書、他などが、逐次翻訳追加されて、BC200年~150年前後までに完成したと見られている。ほかの3種類もユダヤ人によるものだが、以下の人々による。・アキラ<Aquila>キリスト教の発展に70人訳書が大いに貢献し、そのお株を奪われたことで、ユダヤ教に転向したアキラが、ユダヤ教及びユダヤ人のために翻訳、しかしヘブル語底本からの遂字訳を意図したものとなっている。(abt.AD126年)・テオドティオン<Theodotion>彼は、セミ・キリスト教とも別称されるエビオン派からの転向者で、70人訳を全面的なベースとしており、まさにそれの改訳をなしたものである。もちろんヘブル本だけでなくアキラ訳を参照使用したが。
・シンマコス<Symmachus>
彼もエビオン派に属する人で、上記アキラ訳の粗野的な 逐語訳を嫌って、優美さのこもった意味訳の翻訳をしている。
このダニエル書の言及分析では、70人訳ギリシャ語のものを用いているが、その訳巻がヘレニズム時代の200年~ 遅くとも 150年頃までに、或いは封印の遵守の定めを守り、それ以後、100年頃までに一般的な公開としてその翻訳が完了したという、見方
により、あえて、その時代との同時代性における訳者の時代感覚の妙映痕跡を探る意味も込めて使用するものとしている。)密接に関連した8章の後半部分に係わる上記解述で、ひどく本論に戻るのが遅れましたが、ここで再び、第11章の続き部分に移ります。

Unknown Future
http://www.geocities.jp/sayufm_musiclabo_s/micoHP/indexb.html







2018年12月29日土曜日

南極老人星

福禄寿は、星の仙人たちである・・七福神の由来(3)
2017-02-22
七福神について、さらに「日本人と福の神」という本を読んでみました。
「福禄寿」と「寿老人」について書いてあるところをご紹介させていただきます。
いろいろな本を読んでみましたが、一番興味深いと思い、選びました。
古代中国文化は奥が深く、ミステリアスな魅力に富んでいます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
    *****
(引用ここから)
「福禄寿・寿老人」
「南極老人星」への信仰
七福神の中の「福禄寿」と「寿老人」は、ともに「南極老人星」を神格化したものである。
そのために、しばしばその間に混乱が見られる。
「寿老人」と「福禄寿」の説明には錯綜した説明が展開しており、そのため、両者の間には明白な区別がみられない。
「南極老人星」は、中国の占星術では寿命をつかさどる星とされており、それゆえ「寿星」、「寿老人」などとも言われる。
「南極老人星」が見える時は、天下は太平に治まり、国主や人民の寿命も安泰であるが、
この星が見えない時は、国家に戦乱が続き、国主や人民にも危機が迫ってくると信じられた。
このような思想ないし信仰は古くからあり、中国最初の通史、紀元前91年頃に完成した司馬遷の「史記」に、
「地平線近くに「南極老人」という大きな星があり、この星が現れた時は天下太平である」と記されている。
我が国においても、すでに平安初期には「老人星」が現れると人々も長寿になるという思想が認められる。
ただ、中国も日本も北半球に位置しているので、「老人星」はわずかに、春分の夕方と秋分の明けた頃の南の地平線付近に現れるのみである。
この「南極老人星」は、宋代の頃になると、人格神化するのである。
たとえば1056年~1063年、「南極老人星」が「道士」の姿に化身して市井に現れた、との伝説がある。
この「道士」とは、「道教」の経典を読んだり儀礼を執り行ったりする宗教者のことである。
また、宋代の1086年~1093年に、老人星が一人の老人に化身して現れた、とも言う。
この伝説は、魔訶阿頼耶著「日本七福神伝」や山本亮著「七福神考」に引用されている。
この伝記によると、
宋の元祐の頃、都に背丈がわずか3尺ばかりの一人の老人がいた。
その老人の頭は、胴体と同じ位長かった、とあるから、長頭に短体ということになる。
目は優美で、豊かなあごひげを生やしていたとあり、また質素な衣服を着て、占いを楽しみながら、町をあちこち歩き、金銭が手に入ると、それで酒を買って飲み、頭を叩きながら、「自分は人の寿命を支配する聖人なり」と語ったという。
「寿命を支配する聖人」といえば、ただちに「寿老人」と思われるが、ここには「老人星の化身」と記されているだけであって、「寿老人」とも「福禄寿」とも記していないのである。
「七福神考」には、次のように言う。
「寿老人」は、その形、端正にして、仙老の像であり、「福禄寿」は「長頭短体」にして、最も異相なり」と記してある。
そうすると、一老人は「福禄寿」ということになる。
それでは、「福禄寿」とは、どのような神なのか?
「福禄寿」の「福」は、幸福を意味しており、その幸福も様々あるが、とりわけ家庭の幸福であり、さらには子孫繁栄までも含んでいる。
次の「禄」は「俸禄」である。
これは官に仕える者に支給される手当のことで、したがって、「禄」には「富貴」の概念も見られ、これを広義に解釈すれば、「財産があって身分の高いこと」と言える。
最後の「寿」は「寿命」である。
「寿命」がいつまでも続くように、という願いが込められている。
このように「福禄寿」は、人間の三大願望といわれる
「幸運・富貴・長寿」
のことであり、これを換言すれば、したがってきわめて現世利益的である。
しかし「福禄寿」に対する信仰は、決して低俗なものでない。
「福禄寿とは、福人、禄人、寿人の三人を合わせ描ける名なり」と述べられている。
ここに言う「人」とは、「神仙」という意味である。
「神仙(仙人)」は、道教が理想とする人間像であり、よって、「福禄寿」は三つの徳を兼備する、「神仙の中の神仙」なのである。
それでは、「福」「禄」「寿」を授かるには、どうすればよいのか?
その方法や手段を知りたいものである、と、多くの人々はその尊像を守り、その前に酒肴を供えて饗応し、経典を唱えて祈っている。
また「福禄寿」の護符を受けて「肌守り」としている人々もいる。
このようにすれば「福禄寿」を授かり、豊かで楽しい幸福な生活に恵まれると信じている
ところで、中国の道教では、もう一つの考え方がある。
それは、宗教的、道徳的行為を実践すれば、「福・禄・寿」に恵まれるという考えである。
そのためには、「罪過を告白しながら心身を清めること」、つまり一種の「懺悔法」をするのである。
また、祭壇を設けて祈ることであり、主として「天神」の祭祀が目的となる。
中国の古代では、「天神」と言えばほとんどが「星辰」であり、「福禄寿」の場合は言うまでもなく、「南極老人星」である。
そして、善行を修めて功徳を積み、悪行をなさず、罪過を避けることである。
このように、日常の暮らしの中で心がけることにより、「福・禄・寿」に恵まれるとしている。
さらに「善行」を積んだ家には、良い報いが訪れ、それが子々孫々にまで及んで、多くの人々が幸福になるというのである。
ここには、中国道教の深い幸福観が述べられている。
ややもすると、「福禄寿」に対する信仰は、ひいては「七福神信仰」は、民衆の卑俗な現世利益と片づけてしまいがちである。
しかし、これらの信仰は、深い宗教的・道徳的行為、ないし実践に支えられているのである。
中国人、詳しく言えば「漢民族」は、春節(旧正月)になると、各家で「福禄寿三星図」をかけ、その前に種々の供物を捧げ、「今年こそは「福・禄・寿」に恵まれますように」と祈願をする。
「福禄寿三星」は、
「福星」、
「禄星」、
「寿星」
の総称であり、「三福神」とも言っている。
「三星図」は、文字通り「三星」を「三人」に擬人化して描いたものである。
台湾を訪れた時、何種類かの「三星図」を見る機会に恵まれた。
その中で印象に残った一枚は、画面に向かって中央に、ドジョウ髭を生やした天官が威儀を正して立ち、
右側に同じようにドジョウ髭を生やした天官が嬰児を抱いて立ち、
左側に、長頭で白い顎鬚を生やした老人が杖をついて立つ、という図柄であった。
この「三星図」は「年賀」としても人気があり、新年になると「福禄寿に恵まれますように」と願って、戸口に張る風習もある。
台湾で某氏に受けた説明によると、中央が「福星」、右側が「禄星」、左側が「寿星」であるという。
いかにも明快な説明であるが、いささか納得がいかない。
中央の天官が嬰児を抱く図もあり、よく見ていると、それは抱くというよりは、今にも手渡そうとしているようでもある。
また嬰児が手を伸ばしている図もあり、さらに、背後に嬰児の母と思われる高貴な女性が立っている図もあり、その部分に視点を置くと、一つの聖家族のようにも思われる。
杖を突いて立つ老人の杖には、ヒョウタンあるいは巻物が結びつけてある。
また杖の先端が鹿の頭で飾ってあったりする。
「七福神考」によると、この巻物には、人々の寿命の長短を記してあるのだという。
(引用ここまで)
        *****
韓国の大企業「サムソン」株式会社の「サムソン」も、「三星」の韓国語読みだということを知りました。
明星ラーメン、みたいな感じでしょうか?

始まりに向かって
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/c/d3b8ad356d6a6682294adede76abadd2

ロージーの予言

ロージーの予言
2010/3/29(月) 午後 11:05
近未来独り言 軍事
The Coming China/Russia Invasion of the United States
http://educate-yourself.org/lte/comingchinainvasion27may05.shtml
合衆国への今度起きる中国 / ロシアの侵略
(5年前の古い記事より、気になる部分だけ一部抜粋)
私は太字でロージーの予言のあるキーワードを強調した。
従ってそれらの心配のために準備する必要性に焦点を合わせることができる。
ロージーによって予言されるように、未来は可変性であり、予言は石で投げられない。
これらの可能性に気付く人々の数がより大きいと、それだけいっそう良い結果に向かって未来を変える
可能性がより大きくなる。
現実は集合的な思考によって作成される。
あなたは恐れからあなた自身を解放する事によって、暗黒面の議題を減少し、否定的な感情を促進させる
運命及び(暗黒の記事のソルチャファールの果てしない流れの後ろの本当の目的)絶望感でいっぱいに満たされたインターネットの記事の影響からあなた自身の接続を切り離すことができる。
ファシストアジェンダが前進することを予想する間に、私はダムのヒビ割れのサインを見る。
未来の困難のために準備することは必要であるが暗黒面の妨害に加わることもまた必要である。

メモ・独り言・戯言
https://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/31264320.html

メモ・独り言・戯言
https://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/32365589.html
https://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/32343190.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/32369383.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/31273049.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/32073345.html
http://blogs.yahoo.co.jp/jennifer1215b/31823986.html









2005
Original Message -----
From: Rosie
To: <editor@educate-yourself.org>
Sent: Friday, May 27, 2005 11:41 AM
Subject: 未来についての思考
私は非常に長い間予言に打ち込んでいた。
私が起きるために待っていたほとんどすべてのことが長年をかけて起こってしまった。
予言は無制限である。
それは警告であって、もし状況が変えられるなら、それが予測される方法で起きる必然はない。
もし我々が我々の態度を改めないなら、それは最悪の場合となる。
私はチェコスロバキア共和国の解放が起こると2005年5月に書いた。
それは起きるはずだった。
しかしサインはまだ終了していない。
私は、それが本当に厳しくなる前に、これが起きなければならないことを確信している。
公然と、あるいは舞台裏でかは解らないが、ロシアと中国が団結することは完全に予測される。
中国は北西から来て合衆国を攻撃するはずである。
私はこれがどのようにしてうまくいくのかは理解しない。
それは意外ではあるが、それは予測される。
すでに中国とロシアの兵隊はここ北アメリカに何年もの間いる。
それらは地下のベースで、オフリミットの「生息保護域」エリアに位置する。
大きい数はブリティッシュ・コロンビアに置かれている。
したがってそれらは「北西」側から中に入るだろう。
私はそれらがヨーロッパで起こると同時に来る世界の悩みについてももっとたくさん言うことができる。
ロシアは古い方向に完全に戻る。
その区域にもう一つの革命が起こるが、一度「ロシア語」として考慮されたこと、本来のロシアあるいは
共和国として意味するかどうかは私は知らない。
民主主義国家と友人になってロシアのことは忘れなさい。
計画には第三次世界戦争がある
これを達成するために、アメリカは孤立している必要がある。
それは同じくこの目的で内部的に分割される必要がある。
私はこれがどのように行なわれようとしているかは正確には知らない。
しかし合衆国の中に戦いのような内戦があると予測する。
これの目的は合衆国を弱め、外からの攻撃に米陸軍を役に立たなくさせることである。
これらすべてはずっと以前に予言した。
私の意見はこれらの計画が暗黒面であることである。
しかしながら、NWOとそのすべてが非常に良くない終わりに到るであろうという強力な預言をあなたは
聖書の中に見つけることができる。
聖書が「売春婦、バビロン、偉人」と呼ぶこの古来のシステムに起きるであろうひどいことを避けるため
にそうなることを感じる黙示録を呼び出す。
属性を読めばそれはちょうどこの「売春婦」がだれであるか豊富に明確になる。
彼女は政府ではないが、すべての国家を支配し、お金および商業を世界的に制御する。

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足立ケンより;
「ドン・クロフトは繰り返しイギリスのエリザベス女王が「バビロンの売春婦である」と認知しました。
ロージーによる上記の声明に基づいて、それは確かにイングランドの女王がイングランド銀行を通して通貨および商業を世界的に制御すると同時に意味を成しています。」
しかしながら、「灰」以外の何も彼女から残らないでしょう。
燃える建物のグラウンドの灰以外は何もないのと全く同じように、彼女はいなくなるでしょう。
非常に良いニュースである、しかしそこに到達するのは難しい。
私は移行への時代がそれほど難しくないことを祈っています。
私は予測されたすべてのひどいことが人々を通して伝わるのを残念に思うでしょう。
残念なことに、若干の本当の迫害と痛みがあるでしょうが、人々は抵抗をしなければなりません。
彼らは気力を見せるでしょう。
中略
言うまでもなく、飢饉がもちろん同じく予測される。
また何か食べるものを求める都市生活者の歩き回る一団。 しばらく大きい問題は飲料水の確保である。
大きい激変の前に、現在の法皇は死ぬ。
彼が生きている限り、我々にはまだ準備する時間があるかもしれない。
これはそれ自体ローマ法王には何も関係を持たない。それはただサインに過ぎない。
カレンダーと日付の代わりに通過するサインがある。
ずっと以前に与えられた日付のほとんどは今のところ間違っている。
米国の激しい嵐は我々がその方向で先頭に立っているという印である。
他の印はオゾンホール、エイズ、低い出産率および乱行である。
私を困惑させるもう1つの事は人間のクローニングである。
17世紀に予測されたことをもし今それがされることを仮定するが、新しい人間が成年期まで育つまでにはしばらく時間がかかり遠いようではあるが他のすべてはパズルの小片のようにフィットする。

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2018年12月23日日曜日

出揃った韓国「破滅」の条件。米韓同盟終了と日本の資金援助拒否

出揃った韓国「破滅」の条件。米韓同盟終了と日本の資金援助拒否
人気記事国際
2018.11.06 
513 by 津田慶治『国際戦略コラム有料版』
tsuda20181105
「政治思想の欠落」を疑われても仕方のないようなトランプ外交に翻弄され、世界の米国離れが進行しています。
「もっとも顕著なのが韓国」とするのは、メルマガ『国際戦略コラム有料版』の著者・津田慶治さん。
津田さんは今回の記事で、南北統一にひた走る文在寅大統領の思惑と、北朝鮮との統一が韓国にもたらす負の側面を記しています。
米中貿易戦争の緩和か
11月第1週は、株が下落していたがトランプと習近平の電話首脳会談で貿易摩擦緩和で一致したという。どうなるか?
株価上昇の原因
NY株は、10月3日に2万6,651ドルと過去最高値を付けて、10月26日に
2万4,688ドル
まで下がったが、11月1日2万5,380ドルに戻したが、11月2日は
2万5,270ドル
と前日より109ドル下げた。中国と米国の電話首脳会談が実現して、11月の首脳会談で合意草案策定をトランプ大統領は指示したと報道、その後、ホワイトハウス高官やクドロー米国家経済会議(NEC)委員長が早期の米中の貿易合意に否定的な見方を示したことで、下げている。
しかし、日経平均は、合意草案の報道を受けて空売りの買戻しで11月1日に550円以上も上げて2万2,243円まで上昇した。日本も10月2日に2万4,448円と6年ぶりの高値を付けたが、10月26日に2万0,971円と下げていたが、戻した。
前回「アメリカ、終わりの始まり。それでも中国とは距離を置くべき理由」で、米中貿易戦争の一時休戦などの政治的な取り組みがないと、下落が続くとしたが、トランプ大統領も暴落の原因が米中貿易戦争であると見て、日本の安倍首相に中国 と米国との仲介を依頼したと見ている。
そして、安倍首相により中国に、日本が経験した米国との貿易摩擦の対処方法を説得し、中国が対応を変えたようであるが、そのことを中国国民に隠すために、中国が日本より上を演出したのであろう。
安倍首相訪中に米国は、非難しなかった理由でもある。
安倍首相は、帰国後米国のトランプ大統領に中国の妥協した事項を伝えて、米国から電話して米中電話首脳会談が実現し、妥協が成り立った可能性もある。
中国の対応が大きく変化し柔軟になっている。
しかし、まだ、妥協事項についてはわからないし、トランプ大統領の得意な交渉の駆け引きかもしれないし、中間選挙のために株価を上げるためだけに、わざと仕組んだ可能性も否定できない。
株価の今後の動向
IMFは、2019年の経済見通しを下方修正し、アップルの決算報告は良かったが、今後の見通しを述べなかったことで期待値に達しないと、アップルまでもが株価を下げてしまった。
これでFANG株すべてが値下がりになった。NY小型株はほとんど下げているし、J&JやPGなどのデフェンシブ株だけが良い。
しかし、ハイイールド債の暴落はまだないので、景気の後退期には入っていない。
一進一退の景気状況のようである。
日本企業も減額修正が多くなり、すべての企業が増収増益の感じから少し変化して、景気の変わり目を予兆している。
これは、相場の大きな転換点になっている。そして、2019年3月以降景気減速が明確化する可能性が高い。
3月以降は、米減税の効果が剥がれてくるこ とになり、景気を支えるものがない。
よって、空売りの戻り買いしかないので、自立反発も長続きはしない。
だから、10月2日に付けた2万4,448円を上抜けはしない。
株価は、将来を織り込むので、景気後退が見えてきた現時点では、それを織り込み始める。
悪い材料が出ると空売りが50%を超えて株価が暴落し、良い材料が出ると暴騰の繰り返しになる。
上下動に激しい相場になる。しかし、企業業績が徐々に下向きになるので、株価は徐々に下がることになる。
ということで、下げのエリオット波動が始まり、第1波が来たようでもある。
上下しながら、下がっていくことになる。景気後退期になり、金融政策も変化させる必要になる。
金融政策
次回のFRBの利上げは難しい。株価の暴落になる と利上げはできない。
というより、金融緩和に戻る可能性も高い。量的緩和で資金が市中にダブつき賃金上昇によるインフレ圧力は高く、米国債金利上昇で景気後退になるとスタグフレーションとなり、最悪になるので、その前に処置をしないといけなくなる。
インフレが大きくなる前に米国が景気回復の金融緩和すると、日本はどうするかということになる。
現時点でも1ドル=113円であり、金利差が縮小すると円高の可能性も出てくる。
景気後退期に入り、日本の金融政策の方が難しい。
円高で不景気になるが、より強い量的緩和を行うと、株式市場も市場機能が失われる。
現時点ではPERが13倍程度と株が安い状態であり、市場機能は健全であるが、企業利益が少なくなり、PERが16倍以上になると 、株が高い状態になり、日銀のETF買いは市場機能を損なう可能性が出てくる。
金融政策でもマイナス金利で現時点でも金融機関の利益がなくなり、地方銀行が大変なのに、不景気になったら貸出先もなくなることで一層存続が見通せなくなる。
非常にアクロバット的な金融政策にするしかなくなる。
PERの数値に基づく日銀ETF買いと短期金利をゼロ%にして10年国債の金利を引き上げて1%にした国債買いを行うことにするしかない。
この処置を景気後退前にすることである。景気後退が明確化した後では、この処置もできなくなる。
しかし、不景気で輸出がなくなると経常収支が大幅な赤字になり、円安に振れるので、その時は不景気化のインフレ(スタグフレーション)になり、打つ手なしになる。
インフレが加速しないように金利を上げるしかない。
この状態にならないような財政金融政策を取っていくことが重要でしょうね。
ということで、今まで私が提言した金融財政政策を無視したことで、非常に難しい状況になってきている。
米国のトランプ大統領と共和党幹部との違い
米国中間選挙が日本時間11月7日(水)の昼に分かるが、この選挙の途中結果が発表されるごとに株価が上下することになりそうである。
トランプ大統領は、共和党のペンス副大統領などの国際派とは違い、政治思想なく自分の評判しか関心がない。
今の時点、景気を維持して株価維持の方が、対中国貿易戦争で強硬な手段を取ることより優先レベルが高いようである。
為替条項を日本とのFTA交渉でも入れると いうように、中国に対抗するための日米同盟重視でもない。
その時々の自己評価優先である。このため、右と左に大きく振れるので、トランプ政策の予測が難しい。
世界は予測できないトランプ外交を信用できなくなり、米国を頼りにできないために、米国抜きの外交にシフトしている。
その最も進んでいるのが韓国である。
韓国の変化
韓国は、核付き南北統一に突き進んでいる。そして、韓国の有事指揮権も米国から韓国に移管するという。
これで、在韓米軍は、韓国指揮下では戦えないので、在韓米軍は撤退になるだろう。米韓同盟も終了になる。
韓国は対北朝鮮国境線を無防備にするというし、人的往来を自由化するというし、北朝鮮と合併するしかない。
北朝鮮での鉱山ビジネスや安 価な労働力などを手に入れるが、膨大なインフラ建設などの負担がかかってくる。経済的な観点がない。
勿論、日本は、慰安婦問題や徴用工問題で、韓国との対立があり、韓国からの資金支援要請を受けないだろうし、北朝鮮の拉致問題が解決しないことから、北朝鮮への資金援助もしないはず。
文在寅大統領は、核付きの強大国になる夢を追いかけ始めた。日本に対しても核兵器で脅せる。
このような政策の理由は、賃金の引き上げ政策で、韓国経済を弱めてしまい、経済の起爆剤が欲しいからのようだ。
韓国経済は、今サムソンとLG以外は不景気であり、就職先がないので韓国の学生の多くが日本企業に就職する道を志向している。
文在寅大統領は、韓国経済の起爆剤として、韓国の鉄道をロシア鉄 道に繋げて、釜山をユーラシア横断鉄道の起点としたり、北朝鮮の鉱山開発をするようである。
世界分割ゲーム
トランプ外交が信用できないので、世界を再分割するゲームが起きている。
イスラエルが一番心配である。米国を頼りにしてきたが、中東撤退の方向であり、サウジとの友好関係でイラン対抗をしようとしたが、サウジと米国の関係がおかしくなり、近傍に味方がいなくなる状況になっている。
このため、イスラエルのネタニエフ首相は、サウジとの友好関係を維持すると表明した。
サウジもロシアとの関係を強固にするということで、ロシアが中東を取り、中国がアフリカと東南アジアを取り、日本とインド、ベトナムなどは共同して中国の進出を緩和しようとしている。
米国 は孤立化し、カナダは欧州に寄り、中南米は迷っている。中国は中南米にも手を出し始めている。
欧州は、中をまとめるのに忙しく他地域への関心はない。これは、中露による世界分割劇になっている。
ここでも日月神示の予言が実現している。
さあ、どうなりますか?

MV
https://www.mag2.com/p/news/375394?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000125_sat&utm_campaign=mag_9999_1222&l=unq0156e88


2018年12月22日土曜日

WebBotの最新の予想

2018年12月のウェブボット予測
2018年中のウェブボットは以下のような予想を上げています。
※太字は特に期待されている内容。青字は的中させた内容です。
ビットコインが年内に220万円到達
ビットコイン年末10万ドル到達
ライトコインの価格がビットコインの1/5に落ち着く
中国の規制が強まる
1月にNEOの価格が上昇する
XRPは2018年に3ドルを目指すが価格操作に注意
夏頃に革命、世界中がBTCに注目
DASHは政府が絡み急騰する。
2018年中にスカイコイン高騰
仮想通貨人口が1%から13%に増加
イーサリアムが大きく乱高下する
今年イーサリアムは上昇するが、今年半ばと秋頃にスマートコントラクトに深刻な問題が見つかる
モネロが春以降に高騰する
リップル・モネロは仮想通貨の全体的な上昇の波に乗って上昇する

COINZ
https://coinzmoney.com/563








WebBotの最新の予想
では次に、気になるWebBotの最新の予想を確認してみましょう。
WebBotの予想は有料で配信されているため、すべての予想を公開することはできません。
そのため、一部の主要な仮想通貨や仮想通貨全体に関連する予想をピックアップして説明します。
ビットコイン
ビットコインについては、
「2018年内に220万円に到達する」という予想と、
「2018年末に10万ドル(約1,100万円)に到達する」
という予想が公開されています。
2018年10月8日現時点のビットコイン価格は、約75万円前後となっています。
残り2ヵ月を切る中、世界中のビットコイナーが年末の価格上昇への期待が高まっていることでしょう。
イーサリアム
イーサリアムについては、「2018年に大きく乱高下する」という予想と、
「イーサリアムの価格は上昇するが、2018年半ばと秋頃にスマートコントラクトに深刻な問題が見つかる」
と予想されています。
後者に限っては、すでに的中していることが分かっています。
2018年4月、イーサリアムのスマートコントラクトに重大なバグが見つかりました。
バグの発生により、イーサリアムのブロックチェーン上で発行されているERC20トークンの一部で異常が生じたのです。
これにより、仮想通貨の価格が暴落する要因となってしまいました。
リップル
リップルについては、
「リップルは仮想通貨の全体的な上昇の波に乗って上昇する」という予想と、
「3ドルを目指すが価格操作に注意が必要」と予想されました。
後者については、的中したとは言い切れませんが、実際にリップル社が価格操作の疑いがあるとし、リップル投資家に訴訟を起こされたこともありました。
訴訟に関する詳しい内容は、こちらの記事で説明していますので、ご覧ください。
その他の仮想通貨
その他の仮想通貨については、
「ライトコインはビットコインの価格の1/5に落ち着く」、
「ダッシュが8月~10月頃に政府が絡んで急騰する」
といった予想をしています。
また、リップル同様、
「モネロも仮想通貨の全体的な上昇の波に乗って上昇する」といった予想や、
「スカイコインは2018年中に高騰する」とも予想されています。
その他の仮想通貨関連について
その他の仮想通貨関連の予想については、
「中国の規制が強まる」という予想や
「仮想通貨人口が全体の1.2%から13.8%に増加する」といった予想もあります。
実際に中国での仮想通貨に対する規制は強まっていることから、前者は的中しているといえます。
後者の仮想通貨人口については、正確な数字を出すのは難しいといえます。
なぜなら、匿名性の高い仮想通貨や取引所も存在しているからです。
ただ、ダリア・リサーチ社(ドイツ)が公開した調査結果を1つの指標として見ることもできます。
ダリア・リサーチ社による調査結果では、仮想通貨投資の主要な国の中で
日本(11%)が最も仮想通貨の保有率が高い
ということが分かりました。
日本に次いで、
英国(9%)、
米国(9%)
となっており、平均は7%という調査結果が出ています。
ここまで、WebBotの過去予想や最新の予想を確認してきましたが、ふとこんな疑問が頭を過ぎった人も多いのではないでしょうか。
それは、なぜWebBotの予想が当たったり、外れたりするのか、という疑問です。
では、2018秋の現時点でビットコインが200万になってない理由を例に、WebBotの予想が当たる理由と外れる理由を説明していきたいと思います。
2018秋(現在)ビットコインが200万になってない理由
WebBotは最新の予想で、2018年内に220万円に達すると予想しています。
しかし、2018年も残すところ、わずか2ヵ月を切った現時点でビットコインは200万円どころか80万円にも達していません。
実は、至ってシンプルな答えで説明することができます。
なぜなら、上記の「そもそもWebBotとは?」でも説明した通り、WebBotはネット上の掲示板やSNSの感情に関するキーワードからデータを収集しているからです。
ざっくり言ってしまうと、ネット上で価格下落の発言が多くなれば、WebBotもマイナスを予想します。
一方で、価格上昇の発言が多くなれば、WebBotもプラスの予想をするということなのです。
つまり、ビットコインが2018年内に220万円に達するという予想は、ネット上でビットコインの価格上昇に関する発言が多いことを指すという訳です。
だとすれば、ビットコインの価格が現時点で200万円に達していないことに納得ができるのではないでしょうか。

Finte-X
https://finte-x.jp/13622










では、なぜWebBotの予想が的中するのでしょうか。
WebBotの予想と群集心理の関係性
WebBotの予想が的中には、群集心理との関係性を知ることで納得できます。
ぐんしゅうしんり【群集心理】
群集が示す特殊な心理状態。一般に判断力が低下し、興奮性が強くなり、衝動的・無責任的な言動をとる傾向になる。
引用:コトバンク https://kotobank.jp
そもそも人は、群集心理に基づいて仮想通貨や株などの売買を行うと考えられています。
実際に、ジョン・マカフィー氏のような影響力の大きな人のツイートは、瞬く間に世界中に発信され、それを見た人が売買を行う。
売買によって仮想通貨の価格は変動し、多くの人が
「ジョン・マカフィー氏のツイートは的中率が高い!」
と信じるようになり、現実になってしまうということからも納得できるかと思います。
このように、WebBotの予想が的中することも、この群集心理によって説明でき、いわば、WebBotはインフルエンサー的な存在であると考えることができます。
WebBotの予想を上回って早い段階で予想が的中することにも理由があり、それはWebBotの予想を先回りして行動する人が多くなるからです。
WebBotの予想を先回りする人が多ければ多いほど、仮想通貨の値動きは早い段階で訪れることになるのです。
ただし、WebBotの予想が困難なケースも存在します。
それは、群集心理に基づいていない大地震や天変地異などの自然災害の予想や、コインチェックのハッキング事件のような突発的な出来事が発生した場合です。
繰り返しますが、WebBotの予想は群集心理に基づいた予想であることから、自然災害や突発的な出来事を未来予測することは現時点では難しいと言わざるを得ないのです。
過去予想で的中した自然災害に関しては、恐らくネット上で高い確率で発生するデータが多数存在したことから、WebBotはそのように予想したのでしょう。

Finte-X
https://finte-x.jp/13622





「2018年秋分の日、1ビットコインは220万円に到達する」最新未来予測=高島康司
2017年10月12日
日増しに注目度が高まっているビットコインについて、「来年の秋分の日前後に220万円になる」との最新予測が出た。
その俄には信じがたい分析を紹介する。
『未来を見る!ヤスの備忘録連動メルマガ』高島康司)
※本記事は、未来を見る! 『ヤスの備忘録』連動メルマガ 2017年10月6日号の一部抜粋です。ご興味を持たれた方はぜひこの機会にバックナンバー含め今月分すべて無料のお試し購読をどうぞ。
「来年秋、ビットコインは220万円へ」ほか各仮想通貨の最新予測
未来予測プログラムによる相場分析
今回は、元マイクロソフトのコンサルタントだったクリフ・ハイが開発したコンピュータによる未来予測プログラム「ウェブボット」の最新仮想通貨相場予測を紹介する。
主催者のクリフ・ハイは、直近のインタビューで
「市場の動きに影響を与えたくないので、今後は仮想通貨の相場予測は公表しない」
としていた。しかしこれは、ネット放送などの公開インタビューだけに限った話であった。
相場予測に特化したレポートは、今後も毎月出すようである。
最新版は、10月4日に出された「Sparks!(火花)」というタイトルのレポートである。
今回は、10月から2018年の秋くらいまでの相場変動の予測をカバーしており、仮想通貨のみならず、推奨するICOも登場している。
長いので、4回のメルマガに分けてポイントを紹介しよう。
まず最初は、既存の仮想通貨の相場予想だ。ここでは日本で購入できる仮想通貨に限定した。以下である。
ビットコイン(BTC)相場
これまでの過去のデータでは、2018年2月になるとビットコインは152万円まで上昇するとあった。
今回の新しいデータでは、これを越える価格水準が提示されている。
それは、来年の秋分の日前後には220万円になるという予想だ。
一方、これはビットコインの価格が単純に上昇するというのではなく、ドルの減価によるハイパーインフレーションの進行を表現している。
また、現在のデータからは、この220万円という価格が、ビットコイン単独のものなのか、主要な仮想通貨すべての価値を合算した価格なのかは明確には判別がつかない。しかし、この価格予想の中心になっているのがビットコインであることは間違いない。
ビットコインキャッシュ(BTH)相場
ビットコインキャッシュのデータは、分岐元のビットコインから完全に分離した。
つまり、ビットコインキャッシュは仮想通貨として独立したものになっている。
テクノロジーの発展があるので上昇が期待できるという。今年の11月あたりからビットコインキャッシュが注目されるようになるとする。2018年の2月にはビットコインをはじめとした仮想通貨は上昇するが、ビットコインキャッシュはそれ以前から上昇を開始し、パーティーのような騒がしい状態になるとの見方だ。

MAG2
https://www.mag2.com/p/money/316837






クレイグ・ハミルトン・パーカーの2019年予言

2018.10.01(第55回)
クレイグ・ハミルトン・パーカーの2019年予言
10月になりました。2018年も残すところあと3カ月たらずになりました。
激動の年だったのですが、来年の2019年はどうなるのでしょうか? 
そこで今回はいつもの世界情勢の分析ではなく、
クレイグ・ハミルトン・パーカー
というイギリスの著名なサイキックの2019年に関する予言をお送りします。
クレイグ・ハミルトン・パーカーは、大手企業の宣伝部長だった異色のサイキックです。
毎年9月に翌年の年間予言を公開しており、その的中率は7割を越えるといわれています。
 これまでもイギリスのEU離脱やトランプの勝利などを的中させてきました。
また、毎年の予言の的中と外れをきちんと自己検証して発表するめったにいないサイキックでもあります。
 今回は9月18日に公開された2019年予言の要約を掲載します。ちなみに予言の原文は以下のサイトで読むことができます。
http://psychics.co.uk/blog/predictions/
だが同じ予言はユーチューブにもアップされており、こちらのほうがはるかに詳細に解説されています。
https://www.youtube.com/watch?v=sg36DJHNfaE
掲載する予言は、ブログではなくユーチューブのビデオを参照しました。
●アメリカに関して
・トランプはシリアを巡ってプーチンに挑戦する。
全面的な戦争にはならないものの、ロシアとアメリカの対立は危険なレベルに達する。
・アメリカ軍はイスラエルも含めたシリアの周辺諸国に新たに展開し、ロシア軍を牽制する。
このため、シリアは一層危険な状態になる。
・トランプは病気になる。しかしこれは、大統領の任期のまっとうが危ぶまれたり、死の危険にさらされることはない。
もちろん、反トランプ派はこれを利用してトランプに辞任を迫るが、それは実現しない。
ただ、短期間、大統領としての職務を中断する。
・トランプ家のだれかが自動車事故を引き起こす。
自動車事故でなくても、車に関係した事件である。
・トランプは弾劾や罷免の危機を免れる。反トランプ派の弾劾に向けた努力は実現しない。
一方トランプには新たなスキャンダルが持ち上がる。だがこれが、トランプの弾劾にいたることはない。
・トランプは、2018年11月の中間選挙では驚くべきほど勝利する。
もちろん共和党は少しは議席を減少させるものの、他の政権が中間選挙で大敗するような状況にはならない。
このときには新たなスキャンダルも出てくるが、トランプの支持率にはたいした影響はない。
そして、2020年の選挙でも勝利し、大統領を2期務めることになる。
・バブルの崩壊や金融危機などアメリカ経済には多くの懸念があるが、そうしたことは起こらない。
2019年のアメリカ経済は依然としてよく、景気が最高によい状態が続く。絶好調である。
・しかし、自然災害ではアメリカにとって厳しい年となる。
カリフォルニア州で巨大地震が起こるというわけではないものの、全米で地震が多発する。
また、今年以上に多くのハリケーンが襲う。これは環境破壊の結果でもあるが、太陽活動の活発化の結果でもある。
・アメリカのみならずカナダでも自然災害は多発する。
どうも大きな森林火災のようだ。
・トランプはパキスタンに経済的な圧力をかけ、大きな交渉をまとめ、他のアラブの政府にも同じように行動するように迫る。
これにより、パキスタンからイスラム原理主義のテロリストが完全に退去する。
だが、テロリストは隣国のアフガニスタンに結集し、アフガニスタンの治安が一層悪くなる。
このようにトランプは、軍事力ではなく経済力を使って圧力をかけ、目的を達成する。
・いまトランプの弁護士は元ニューヨーク市長のルディー・ジュリアーニだが、彼はトランプと馬が合う。
トランプは彼を政権の高官に抜擢する。
しかしジュリアーニは自分が大統領になる野望を持っているため、2019年にはトランプを裏切る。
しかし彼の計画はうまく行かない。
・NASAは月面基地の建設を発表する。
目的はレアアースの採掘である。この計画の予算が計上される。
・有名人のカップルか夫婦が自殺する。2人が同時に自らの命を絶つようだ。
この2人がだれなのかはいまのところよく分からない。
●ヨーロッパに関する予言
・ヨーロッパの選挙で反EUの極右が大躍進し、各国の議会で多数派になる。
・EUの旗のデザインが修正される。
EUの旗の角に米国旗にあるような星のマークが加えられる。また、欧州統一軍が結成される。
・ドイツのアンゲラ・メルケル首相が辞任する。
メルケルのキリスト教民主党が少数政党に転落し、メルケルは辞任を迫られる。
・トランプ政権はアメリカに輸入されるドイツ車に高関税を課す。
そのため、ドイツの自動車産業は大打撃を受ける。中国もドイツ車に輸入を停止する。
・ヨーロッパには新たな移民の大波がやってくる。
これが原因で、フランス、ドイツ、スエーデン、そしてオーストラリアでは激しい抗議運動が起こる。
トランプ政権はシリアでロシアに挑戦するので、シリア内線が再燃する。
この結果、シリアから新たな移民の波が押し寄せるのだ。
・2019年はドイツにとって極めて厳しい年になるに違いない。
極右の抗議運動や経済の低迷に見舞われる。
・2019年はヨーロッパ経済にとってかなり厳しい時期となる。
そのため、2019年の年末までユーロの価値は下落する。さらに、世界の貿易や金融は大きく低迷する。
●世界に関する予言
・中国ではバブルが崩壊して不況に突入する。
これに怒った人々は抗議運動を始める。
これは共産党政権を転覆するような革命にはならない。
しかし中国は、民主化革命の方向に向かう運命であり、2019年の動きもその一環である。
・オーストラリアで例外的に巨大な森林火災が発生する。
キャンベラが被害に中心になる。
・ロシアに大きな隕石が落下し世界的なニュースになる。
これは、2013年にシベリアで発生した隕石の落下と同じようなものだ。
これは大きな脅威とならないものの、地球環境にもっと関心を払う必要性の示唆になる。
・中国はいっそう多くのロシア製兵器を購入する。
潜水艦や戦艦などが中心となる。
その結果、南シナ海のパワーバランスが壊される。
アメリカはこの地域の米軍を増大させる。
・南アフリカで実施されている十分な補償なしに白人が経営する農場から土地を買収する政策に抗議して、武力衝突が発生する。
・南アフリカの総選挙で不正選挙が発覚する。このため、議会は解散され、再度総選挙が実施される。
・トルコがシリアから撤退する。内戦の再燃で増加する移民の波がトルコに入るのを阻止するために、トルコとシリアの国境沿いに難民収容センターなどを設けたバッファーゾーンを作る。その形成のために現地を支配しているロシア軍を攻撃するが、ロシア軍の反撃にあって敗退する。そして、シリアから撤退する。
・米朝首脳会談がまた行われ、取引が成立する。その結果、南北の友好関係が強化され、朝鮮半島統一の機運が高まる。だが、北朝鮮とアメリカの交渉成立の効果がちょうど出始めたとき、北朝鮮の国民はキム・ジョンウン体制に反抗し、キム・ジョンウンは中国に亡命する。
・スーダンの停戦協定が破られ、内戦が再燃する。
・ネパールで破壊的な地震が発生する。
・カナダで大規模な森林火災は発生する。
・中国とインドネシアを巨大な台風が襲う。
この台風は北上し、日本に上陸する。2019年の日本では大規模な洪水が襲う。
●イギリスに関する予言
・メイ首相はイギリスがEUを離脱する3月29日までは首相に止まるが、その後は辞任する。
メイ首相はEUからイギリスを離脱させた首相として、歴史に名を残すことにこだわっている。
・いまEUとの交渉成立によるソフトな離脱か、それとも合意もなしにイギリスが追い出されるハードな離脱になるかが焦点になっているが、ハードな離脱になる。ただ、3月29日の直前にドイツとフランスがなんらかの妥協を提示する。
・離脱以後、いくつかの港で混乱が発生するも、すぐに貿易量は回復する。また、いまイギリス国内で騒がれているような医薬品の不足は起こらない。
・EUに止まるがアイルランドとの間に国境ができてしまい、貿易が阻害されるのではないかとの懸念があるが、そうはならない。
国境は開かれ、ものと人のこれまで通りの自由な往来が可能になる。
しかし、アイルランドによって国境はできるだろう。
・離脱直後、ポンドは大きく値を下げるものの、すぐに上昇に転じて急騰する。
・私は大衆紙、サンに発表した2017年の予言で、イギリスでは保守党と労働党に代わる第3の党が結成されるだろうと予言したが、それは2019年に実現する。
・メイ首相の辞任後、デビッド・デイブスとボリス・ジョンソンが党首の座を争うが、ボリス・ジョンソンが党首になる。
・9月になると思うが、イギリスで総選挙が行われる。
保守党が勝利するものの、新しく設立される第3の党も躍進する。
・政府は、投資目的ではなく初めて住宅を購入する人々を支援する。
政府保証のローンのようなものだ。また、大家からいま住んでいる賃貸の家の購入を促進する制度も整備される。
これが背景となり、不動産価格は高騰する。
・トップ企業が賄賂を渡して国際的な契約を偽造する不正が発覚する。
これにはスコットランドからの影響力の効果だ。おそらくこれは、ニコラ・スタージョン首相であろう。
・目抜き通りの賃貸料や不動産価格が高いように、アクセス数の多いドメインネームには高い金額が支払われるようになる。
・グーグルのような大手のオンライン企業に課税される。
これまでは「ダッチ・サンドウィッチ」と呼ばれる課税を回避する抜け穴があったが、それは違法になる。
・NASAとのパートナーシップにより、イギリスの新しい宇宙計画が発表される。
太陽観測用の天体望遠鏡などはそのひとつだ。
・イギリスのEU離脱の前後のタイミングで、イギリスの銀行や金融機関で障害が発生する。
これはロシアの仕業である。それと同時に、クレジットカード会社やウェブサイトも攻撃される。
・大規模な洪水がイギリスを襲う。特に、西部とランカシャーの被害が大きい。
・スコットランドで船が沈没する。人命が失われ、海の汚染が広まる。
・イギリス、フランス、スペインとの間で漁業権の争いが発生する。
両国の抗議に対応するため、どの国も漁業が禁止される領域が設定される。しかし、各国の漁船による争いが起こる。
・イギリス、ないしはアメリカの工場が大爆発する。
これはガス会社のようだが、化学物質が関係しているようだ。
・ジュリアン・アサンジは逃亡を試みる。
これは、滞在しているエクアドル大使館の近くで抗議運動が起こり、その機会を利用する。
以上です。 パーカーはさらに詳しい予言を12月に発表すると言っているので、注目です。日本の予言もあるかもしれません。

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