2015年3月21日土曜日
予知情報
予知情報
2014年12月31日
2015年のエネルギー
2015年前半のエネルギーは、きわめて強くなるでしょう。
これは、2014までの浄化のエネルギーが主に働いたサイクルに進化するために必要な多くのチャンスが加わるからです。
浄化と進化のダブルワークに意識を向けなければならないため、圧倒されないように気をつけてください。
春分過ぎた頃から進化のエネルギーが、本格的に働きかけるようになります。
しかし、そのエネルギーにシフトする春分頃に、私たちの集合意識に混乱の渦の時期が訪れる可能性が、今のところ存在します。
光と影のコントラストが強くなるにしたがって、チャレンジが浮上しやすくなるからです。
同時に二極化されていたすべてが統合されるというミラクルパワーも強くなります。進化の波に私たちはそのようにして乗れるようになります。
内なる呼びかけが強くなります。
そこで大切なのは、「シャドウワーク」です。
シャドウを否定せずに、今までのようなやり方ではなく、影を抱擁し光と統合させるワークをする状況が個々と集合意識に訪れるでしょう。
高次元からすると対立は存在せず、すべてがつながり、善意に満ちています。
個々の魂とグループソウルが成長するためにどうしても通過しなければならない偉大なるイニシエーションの扉が待ち受けています。
世界的には、政治、経済が極度の混乱状態に陥る可能性があります。
しかし、私たちの集合意識がその頃に進化を選択していたのなら最悪な事態に「どんでん返し」が起きえます。混乱を招いていた者たちが後ずさりして、誰もが予想できなかった調和が生まれるかもしれません。
人類の目覚める力が強くなると権威を振りかざす者たちは子ども扱いされるようになるでしょう。
個人レベルの「どんでん返し」は、たとえば、物質的ななにかを必要としていて、論理的には手に入れる可能性がまったくない場合があります。
しかし、結果的には思いがけないシンクロによって、念願のものが手に入るというようなことが起きるのです。それは「5次元的豊かさ」にタップインするノウハウをあなたがマスターしたからです。
2015年は、なにかと物質的に、サバイバルモードになる「5次元的豊かさ」にタップインするかといった、お試しが訪れます。
このような光と影をどのように私たちが抱擁するかによってこれからの三次元を生き抜くノウハウを学ぶことができますこれが高次元のカリキュラムの一部だからです。
難しいと感じるときは、私たちがここに何を学ぶためにやって来たのか、魂の目的を自覚することです。
さらには、天使や高次のガイドたちのサポートに感謝することです。
2015年は、私たちのハイアーセルフに100パーセントつながり、恐怖よりも愛を選択することが要求されています。
そうなると、自らの魂の目的と、高次の存在たちへの感謝を忘れることは起きません。
個人レベルでも、集合レベルでも、人々が調和を求める兆しが、
夏ごろから2015年後半にかけて強くなります。それにしたがって、共同創造への情熱も強く現れます。人間本来の姿である優しさと平和な心の価値が、重んじられるようになります。
ひとりでなにごとも考えて決めるという、今までのパターンから、
みんなで相談して、みんなで決める傾向が強くなります。その価値を誰もが心底から悟るようになります。
ワンマンだった人たちが、時代遅れで取り残されるようにどんどんなっていきます。
共同創造によって起きる魔法の力に人々は目覚めていきます。
集うことの喜びと協力、調和を私たちの集合魂はもっと経験する必要があります。
これも高次のカリキュラムで私たちがまだやり残していることです。
ということで私も2015年は、気の合う仲間たちと、なにかいっしょに始めるようになるのではないでしょうか?
愛知ソニア 連載「イナンナが語る ニビル星人アヌ一族の物語」2015年のエネルギー
http://sonia.thd-web.jp/e21224.html
2015年01月15日18:51
ニビル(プラネットX)がはっきり見えています。
以下のビデオは昨年12月に撮影されたもので、連続で自動再生されます。ロシア(言葉がロシア語だったため)、イギリス、アメリカからニビルがはっきりと見えるようになっています。
日本からも2つの太陽が見えるのでしょうか。私はまだ見たことがありません。どうして国や地域によって見えたり見えなかったりするのかが不思議でなりません???
http://beforeitsnews.com/space/2015/01/%e2%98%85planet-x-arrives-its-huge-what-youve-never-been-told-2487256.html
日本や世界や宇宙の動向
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/51948856.html
黄金の金玉を知らないか? 2015年の予言いろいろ 浸水というキーワード
来年と言えば、以下のようにユダヤ祭日と日食・月食が重なる日が多い。
2014年4月15日 過越の祭り ・・・ 皆既月食
2014年10月8日 仮庵の祭り ・・・ 皆既月食
2015年3月20日 宗教暦新年前日 ・・・ 皆既日食
2015年4月4日 過越し祭 ・・・ 皆既月食
2015年9月13日 ユダヤの政治暦の新年の前日 ・・・ 部分日食
2015年9月28日 仮庵の祭の初日 ・・・ 皆既日食
これは何かある。。
特に9月に集中している。
そしてシュミータ年。ユダヤの7年周期です。
こんな記事も書きました。
強い7の正体。ユダヤ7年サイクルについて
これも何かある。。
それと、その昔2012年12月22日 人類滅亡と騒がれた時がありました。
いや、そりゃあんた。
2015年の計算間違いでしょ!という情報もあるようです。
黄金の金玉を知らないか?
http://golden-tamatama.com/blog-entry-1753.html
2015年3月8日日曜日
ファティマ
2015年03月16日19:02
ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章(1) - 「地獄」は神話ではなく、事実として存在する
1917年にポルトガルのファティマで聖母マリアと名乗る女性と会い続けた3人の少女少年
ファティマいう言葉そのものは聞いたことがありました。
簡単な概要は、ファティマの聖母 - Wikipediaから冒頭部分を抜粋しますと、
ファティマの聖母は、カトリック教会が公認している、ポルトガルの小さな町ファティマでの聖母の出現譚の一つ。
他の伝説との違いは、これをローマ教皇庁が奇跡として認め、第三の予言を長年にわたり秘匿したことである。
というものですが、何というか、一種のキリスト教の信仰上での伝説みたいなものなのだろうと勝手に思っていて、
特に興味を持ったことはありませんでした。
しかし今回、ふとしたキッカケで、そのことについて調べているうちに、
この話は大変に興味深い……というより、感動的なものであることを知りまして、
それと共に、どうも今の時代は(地獄という概念を考えると)かなり「やばい段階に突入している」という感じもしたわけでありまして、
どのくらいのことが書けるのかわからないですが、書いてみたいと思いました。
ファティマの聖母を調べることに至った理由なんですけれど、
今朝、いくつかニュースを見ていましたら、マレーシアのニュースで、「マレーシアのコタキナバルの涙を流すマリア像」についての報道を知りました。
報道の内容そのものは、昔から数多くある「血や涙を流すマリア像」の話と同じで、
特にご紹介するようなものではないと思われます。
この「目から涙などを流すマリア像」という現象は、非常に多く報告されていることで、
このブログでも過去何度か取り上げたことがあります(こちらのリンクに一覧があります)。
そして、この現象は、日本語版の Wikipedia では項目としては存在していませんが、
英語版には、Weeping statue (涙を流す像)という Wikipedia 項目があります。
そこには、
ほとんどの場合は、「涙を流す像」は、カトリック教会から認定されないか、
あるいは、デマやニセモノであることが証明されている。
とあります。
ところが、そこに続いて、
ただし、バチカンが唯一その現象を認めた例も存在する。
それは、日本の秋田県にある涙を流す聖母マリア像だ。
とあるのでした。
何と、バチカンが認定しているひとつだけの「涙を流すマリア像」は日本にあるのでした。
さらに、英語版の Wikipedia には、
この秋田の場合で珍しいのは、他のケースと異なり、
テレビを通じて、日本国民の全体が涙を流す聖母マリア像の姿を見ることができたことだ。
とあります。
「秋田にそんなのあったの?」
と調べてみますと、こちらは、日本語の Wikipedia にありました。
秋田の聖母マリア
秋田の聖母マリアとは、日本の秋田県にあるカトリックの在俗修道会「聖体奉仕会」で起きたとされる一連の奇跡現象を意味する呼び名。
「秋田の聖母マリア」は、教区司教によって認可された数少ない聖母出現の一つであり、日本より海外での知名度の方が高い。
さらに続けますと、
発端は1973年に、同会所属の修道女の手の平に、出血を伴う十字架型の傷が現れたことである。
そのほかにも、木製の聖母マリア像からの101回に渡る落涙および芳香現象、3つのお告げなどの奇跡があったと言われている。
これらの奇跡は1984年まで続いたとされている。
そして、ここにある、
> 3つのお告げ
の内容なのですが、これが、
修道女は天使を何度も目撃し、6月29日には天使は彼女にファティマの祈りを教え(略)
この祈りは、1917年にポルトガルのファティマで3人の少年少女を前に聖母が教えたものだったが、
当時は日本ではまだ和訳されておらず、天使が教えたその祈祷文は、後に和訳されて日本に広まるものと一字一句違わぬものだった。
と、ここで、「ファティマ」という文字と出会ったのでした。
つまり、最初に載せましたポルトガルのルシア、フランシスコ、ヤシンタの3人の少女少年が
「聖母マリアと名乗る存在」から教えられた祈り(ファティマの祈り)の内容と、
この秋田の修道女が「天使」から教えられた祈りの文の内容が同じだったというのです。
ちなみに、そのファティマの祈りは日本語では以下のものです。
ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より護り給え。
また、すべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。アーメン。
ちょっと難しいですが、簡単な日本語にしますと
主イエス・キリストよ、私たちの罪をお許し下さい。
私たちを地獄の火からお守り下さい。
すべての人々、ことに御憐れみを最も必要としている人々を天国にお導き下さい。
というような感じだと思います。
なお、この「声」を受けた秋田の修道女の方は、笹川さんという方で、こちらのページに詳しく書かれていますが、
天使というより、聖母マリアそのものからの声を受けていたように読み取れ、
その点でも、ファティマの3人の少女少年たちと似た状況だったようです。
ところで、この「秋田の聖母マリア」について、カトリック新潟教区の司教は、
「これらの一連の現象が詐欺的、病的、異端的、邪教的なものではないと確認された」
ということを意味する声明、つまり、「聖なる現象と認定する」という内容の声明を出しました。
これを 1984年にバチカンに伝えた際に、バチカンでこの状況を正式に受理した方はどなたかというと、
時のラッツィンガー枢機卿で、この人こそ、私が「最後のローマ法王」と信じてやまない後のベネディクト16世 Cardinal Ratzinger - Pope Benedict XVIでした。
調べると、ベネディクト16世が枢機卿になった時の最初の仕事が、秋田の聖母マリアの声明の受理だったのでした。
ベネディクト16世は、今に至るまで「涙を流す聖母マリア」の中で、唯一バチカンの受理を受けている秋田の聖母マリアの認定者でもあったようです。
地獄は現実として存在する
秋田の笹川修道女が「聖母から受け取った祈り」と「ファティマの祈り」が一致したことで、
「秋田からファティマ」へとつながったわけですが、なぜ、私がこのファティマの出来事に興味を持ったか。
私はキリスト教徒ではありませんので、聖母が出現したということ自体に驚きや感動をおぼえるものではありません。
現象そのものではなく、「聖母のメッセージそのもの」に興味を持ったのです。
ファティマのメッセージは「3つの予言」というようにも言われているのですが、その中に、
地獄の実在。
についての下りがあるのです。
そのことにとても興味を持ったのでした。
そして、「地獄の光景」には「悪魔の実在」も登場します
(3人の子どもたちは地獄の様子を一瞬だけ、聖母に見せられていますが、そこには悪魔もいます)。
私は「悪魔」について、たまに考えたり、 In Deep でも書くことがありました。
そのあたりは、カテゴリー「悪魔の輪郭」などをご参照いただけると幸いですが、基本的に、
悪魔は実在する。
というスタンスというか思い込みを持っている部分もあるわけですが、その中でも、過去記事、
・「悪魔 vs キリスト教」の戦いが世界中でエスカレートしている 2014年01月29日
で書いていますが、
ベネディクト16世が法王を退任して以来、世界の「悪魔化」の傾向が著しくなっていると感じています。
しかし、それを長々と書き出すと、違う方向に行きそうですので、
まずは「ファティマの3つの予言」の概要を Wikipedia から抜粋して編集したものを載せます。
ファティマでの聖母からのメッセージ
第1のメッセージ
死後の地獄が実在することについて:多くの人々が罪深い生活や傾向によって、死後地獄へ導かれている。
肉欲や傲慢など現世的な罪から回心しないままでいることにより、人は死後、永遠の地獄へと行く。
具体的に、聖母はこの少女ら3人に、地獄のビジョンを見せ、彼らはそのあまりの光景に戦慄した。
地獄は神話ではなく実在し、そこは全ての人が死後行く可能性のあるところで、入ったが最後、二度と出ることはできない。
となっていて、「地獄は神話ではなく現実に存在するもの」で、
大変に多くの人々が死後地獄に行っていると聖母と名乗る人物は、子どもたちに語っています。
そして、「地獄に行くと、永遠に出られない」とも聖母は述べています。
2つ目は下のようなもので、大きな戦争に関してのものです。
ファティマのメッセージの年は、第一次世界大戦中の 1917年のことですので、
終わる戦争のほうは第一次大戦、始まるのは第二次大戦と考えるのが妥当かもしれません。
第2のメッセージ
大戦争の終焉と勃発:第一次世界大戦は、まもなく終わる。
しかし人々が生活を改め罪を悔い改めないなら、さらに大きな戦争が起き、沢山の人が死に、
そしてその多くが地獄に落ちてしまう。
その前兆として、ヨーロッパに不気味な光が見えるだろう。
この中の、
> ヨーロッパに不気味な光が見える
というのは、1938年1月25日にヨーロッパの極めて広い範囲で、オーロラが観測されたことがあったのですが、
そのことを予言したと言われることがあります。
基本的に、フランスだのポルトガルだの、ヨーロッパの内陸部でオーロラが観測されるということは、ほぼあり得ないことです。
そんなこともあり、当初は、「ヨーロッパのどこかで大火事が起きている」というように報道されたようです。
daily-mirro-1938.jpg
1938年1月26日のデイリー・ミラー紙(多分イギリスの新聞)の一面。
「北部の空すべてが光っており、大火事の懸念」とあります。Luisa Piccarreta より。
これはきちんと調べてみないとわからないですが、
太陽活動が活発な時だったとすれば、太陽フレアや CME (コロナ質量放出)の異常に大きなものなどが発生していたのかもしれませんが、
いずれにしても、この異常なオーロラが現れた頃から、第二次世界大戦が始まっています。
ファティマの3つめのメッセージは「ファティマ第3の秘密」などとして知られていることのようですが、
今に至るまで、「どうやらバチカンはすべてを公開していない」ようです。
Wikipedia からの抜粋です。
第3の秘密
聖母マリアは、1960年になったら公開するように。それまでは秘密に、とルシアに厳命した。
その内容は「ファティマ第三の秘密」と呼ばれ、
ルシアを通じて教皇庁に伝えられたが1960年が過ぎても教皇庁は公開せず、
2000年になってから発表に踏み切った。
教皇庁によれば教皇暗殺の危機だとされる。(これを)疑問視する意見もある。
この「疑問視」については、この「第3の秘密」に関して、
1960年代にそれを読んだ当時のローマ法王が絶句して具合を悪くしたり、あるいは、40年もの間、歴代の法王が発表を見合わせるほどの内容であったわけで、
「極めて衝撃的なもの」である可能性が高いわけです。
それが、上のような「軽いもののであるわけがない」というのが、バチカンの発表が疑問視されている理由ですが、
もうひとつの理由は、聖母マリアからメッセージを受け取った少女ルシア自身が 2000年代に(ルシアはすでに 90歳代)に、
「それはほんの一部で、バチカンは嘘をついている」
と司法省へ提訴したということがあったからのようです。
もっとも、ルシアは 2005年に 97歳で亡くなっていて、このあたりはうやむやなままのようです。
ヨハネ・パウロ二世(右)と面会する晩年のルシア
この「第3の秘密」については、今回はそこまで行き着けないと思いますので、別の機会に書こうかと思いますが、
先ほど出ましたベネディクト16世も枢機卿時代に「確かにあれは(第3の秘密の内容の)すべてではなかった」と認めています(ソース)。
天使の声を受けて若くして旅立ったふたり
ところで、この 1917年にファティマでメッセージを受けた3人の少女少年のうち、
このルシアだけは、97歳という長寿で人生を全うしますが、
冒頭に示したように、男の子のフランシスコは 10歳、最も年下のヤシンタは9歳という若さで、
共にスペインかぜが原因となってからの長期の病気で亡くなっています。
この3人について、南山大学の三上茂教授による
・ファチマの聖母マリア・ファチマの真実
という非常に膨大な、論文とも言えるウェブサイト上に詳細に書かれているのですが、
この3人の子どもたちの行動や生き方は、私が思わず涙ぐんでしまったほどのものでした。
この3人のうち早くに亡くなった2人の子どもたちは、
自分がもうすぐ天国に行くこと、つまり「自分がもうすぐ亡くなること」を、聖母のメッセージによって察知するのですが、
それでも、死ぬ瞬間まで、主と聖母、そして、「救われない他の人々を救うための祈りと犠牲のために」生きていくのです。
9歳と10歳ですよ?
この子どもたち3人のファティマ後のそれぞれについては、
「ファチマの真実(2)」というページの最後のほうにあります。
こちらは、フランシスコ(男の子)についての記述からの抜粋です。
1917年6月13日の御出現のとき、ルシアは聖母に天国に連れて行ってもらえるかどうかを訊ねていますが、
聖母はそれに対して「ええ、フランシスコとジャシンタをまもなく連れて行きます」と答えておられます。
このときからフランシスコとジャシンタは自分たちの生命がそれほど長くないことを知っていました。(略)
フランシスコは自分の役割がイエズスの聖心と聖母マリアの汚れなき御心を慰めることであるということをよく知っていました。
彼が病床に臥していちばん残念だったことは、教会に行って御聖体の前で長い時間を過ごすことができなくなったことでした。
最も若いヤシンタ(ジャシンタ)は、ファティマの聖母からのメッセージとは別に、頻繁にヴィジョンを見ており、三上教授のサイトでは、
> ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。
くどいようですが、まだ「9歳」だったヤシンタは、霊的な友人となっていたフランシスコの死に際して、以下のような事を述べた記録が残っています。
1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前でフランシスコにこう頼んでいます。
「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。
罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望みになるだけ、わたしは苦しみます、と二人に伝えてちょうだい」
この時のヤシンタの状態は、スペインかぜに続いて、気管支肺炎と肋膜炎を併発して、ベッドから起き上がることもできない状態でした。
9歳といえば、今のうちの子と同じ年齢ですが、まるで比較などできません。
ところで、ヤシンタの見たヴィジョンの中には(これは聖母との会話ができていたルシアにも見えなかった)、
「バチカン、あるいはキリスト教信仰の崩壊」
とも取ることのできるような「光景」も含まれていて(法王が人びとから石を投げられている)、
後述しますが、どうも「第3の秘密」は、そのあたりとも関係しそうです。
バチカン、あるいはキリスト教信仰の崩壊が含まれているならば、
歴代の法王が倒れるほどのショックを受けたり、公開をためらう理由も理解できます。
ファティマのメッセージの根幹は「ロシア」のこと
やはり、だいぶ長くなってきていて、1回で書くのは難しくなってきた感じです。
2回くらいにわけたいと思います。
というのも、
ファティマのメッセージで最も重要なもののひとつが「ロシア」の意志と動静
ということがあるのです。
ロシアの存在や考え方次第によっては、
「世界(の人類の霊魂)は地獄に叩き落とされる」
とも解釈できる部分があるのです。
もちろん、この「地獄」は例えとしての地獄ではなく、「現実の地獄」です。
次にはそのことと、あるいは、第3の秘密にふれたいと思います。
ところで・・・。
ファティマで、聖母は子どもたちに、
「地獄は実在し、そこに一度入ると永遠に出られない」
と述べています。
ここに疑問もあります。
天国は永遠なのか。
あるいは、そうではないのか。
もし、地獄と同じように天国も永遠の場所なら、死んだ人々は二度と肉体を持つ世界には戻って来ないことになります。
輪廻や転生の概念は存在しない?
そのあたりのことも含めて、何が何やらわからない、といったような疑問もありますが、今回はここまでとしておきたいと思います。
In Deep
http://oka-jp.seesaa.net/article/415662218.html
ファティマの聖母から知る「永遠の地獄」への序章(1) - 「地獄」は神話ではなく、事実として存在する
1917年にポルトガルのファティマで聖母マリアと名乗る女性と会い続けた3人の少女少年
ファティマいう言葉そのものは聞いたことがありました。
簡単な概要は、ファティマの聖母 - Wikipediaから冒頭部分を抜粋しますと、
ファティマの聖母は、カトリック教会が公認している、ポルトガルの小さな町ファティマでの聖母の出現譚の一つ。
他の伝説との違いは、これをローマ教皇庁が奇跡として認め、第三の予言を長年にわたり秘匿したことである。
というものですが、何というか、一種のキリスト教の信仰上での伝説みたいなものなのだろうと勝手に思っていて、
特に興味を持ったことはありませんでした。
しかし今回、ふとしたキッカケで、そのことについて調べているうちに、
この話は大変に興味深い……というより、感動的なものであることを知りまして、
それと共に、どうも今の時代は(地獄という概念を考えると)かなり「やばい段階に突入している」という感じもしたわけでありまして、
どのくらいのことが書けるのかわからないですが、書いてみたいと思いました。
ファティマの聖母を調べることに至った理由なんですけれど、
今朝、いくつかニュースを見ていましたら、マレーシアのニュースで、「マレーシアのコタキナバルの涙を流すマリア像」についての報道を知りました。
報道の内容そのものは、昔から数多くある「血や涙を流すマリア像」の話と同じで、
特にご紹介するようなものではないと思われます。
この「目から涙などを流すマリア像」という現象は、非常に多く報告されていることで、
このブログでも過去何度か取り上げたことがあります(こちらのリンクに一覧があります)。
そして、この現象は、日本語版の Wikipedia では項目としては存在していませんが、
英語版には、Weeping statue (涙を流す像)という Wikipedia 項目があります。
そこには、
ほとんどの場合は、「涙を流す像」は、カトリック教会から認定されないか、
あるいは、デマやニセモノであることが証明されている。
とあります。
ところが、そこに続いて、
ただし、バチカンが唯一その現象を認めた例も存在する。
それは、日本の秋田県にある涙を流す聖母マリア像だ。
とあるのでした。
何と、バチカンが認定しているひとつだけの「涙を流すマリア像」は日本にあるのでした。
さらに、英語版の Wikipedia には、
この秋田の場合で珍しいのは、他のケースと異なり、
テレビを通じて、日本国民の全体が涙を流す聖母マリア像の姿を見ることができたことだ。
とあります。
「秋田にそんなのあったの?」
と調べてみますと、こちらは、日本語の Wikipedia にありました。
秋田の聖母マリア
秋田の聖母マリアとは、日本の秋田県にあるカトリックの在俗修道会「聖体奉仕会」で起きたとされる一連の奇跡現象を意味する呼び名。
「秋田の聖母マリア」は、教区司教によって認可された数少ない聖母出現の一つであり、日本より海外での知名度の方が高い。
さらに続けますと、
発端は1973年に、同会所属の修道女の手の平に、出血を伴う十字架型の傷が現れたことである。
そのほかにも、木製の聖母マリア像からの101回に渡る落涙および芳香現象、3つのお告げなどの奇跡があったと言われている。
これらの奇跡は1984年まで続いたとされている。
そして、ここにある、
> 3つのお告げ
の内容なのですが、これが、
修道女は天使を何度も目撃し、6月29日には天使は彼女にファティマの祈りを教え(略)
この祈りは、1917年にポルトガルのファティマで3人の少年少女を前に聖母が教えたものだったが、
当時は日本ではまだ和訳されておらず、天使が教えたその祈祷文は、後に和訳されて日本に広まるものと一字一句違わぬものだった。
と、ここで、「ファティマ」という文字と出会ったのでした。
つまり、最初に載せましたポルトガルのルシア、フランシスコ、ヤシンタの3人の少女少年が
「聖母マリアと名乗る存在」から教えられた祈り(ファティマの祈り)の内容と、
この秋田の修道女が「天使」から教えられた祈りの文の内容が同じだったというのです。
ちなみに、そのファティマの祈りは日本語では以下のものです。
ああイエズスよ、我らの罪を赦し給え、我らを地獄の火より護り給え。
また、すべての霊魂、ことに主の御憐れみを最も必要とする霊魂を天国に導き給え。アーメン。
ちょっと難しいですが、簡単な日本語にしますと
主イエス・キリストよ、私たちの罪をお許し下さい。
私たちを地獄の火からお守り下さい。
すべての人々、ことに御憐れみを最も必要としている人々を天国にお導き下さい。
というような感じだと思います。
なお、この「声」を受けた秋田の修道女の方は、笹川さんという方で、こちらのページに詳しく書かれていますが、
天使というより、聖母マリアそのものからの声を受けていたように読み取れ、
その点でも、ファティマの3人の少女少年たちと似た状況だったようです。
ところで、この「秋田の聖母マリア」について、カトリック新潟教区の司教は、
「これらの一連の現象が詐欺的、病的、異端的、邪教的なものではないと確認された」
ということを意味する声明、つまり、「聖なる現象と認定する」という内容の声明を出しました。
これを 1984年にバチカンに伝えた際に、バチカンでこの状況を正式に受理した方はどなたかというと、
時のラッツィンガー枢機卿で、この人こそ、私が「最後のローマ法王」と信じてやまない後のベネディクト16世 Cardinal Ratzinger - Pope Benedict XVIでした。
調べると、ベネディクト16世が枢機卿になった時の最初の仕事が、秋田の聖母マリアの声明の受理だったのでした。
ベネディクト16世は、今に至るまで「涙を流す聖母マリア」の中で、唯一バチカンの受理を受けている秋田の聖母マリアの認定者でもあったようです。
地獄は現実として存在する
秋田の笹川修道女が「聖母から受け取った祈り」と「ファティマの祈り」が一致したことで、
「秋田からファティマ」へとつながったわけですが、なぜ、私がこのファティマの出来事に興味を持ったか。
私はキリスト教徒ではありませんので、聖母が出現したということ自体に驚きや感動をおぼえるものではありません。
現象そのものではなく、「聖母のメッセージそのもの」に興味を持ったのです。
ファティマのメッセージは「3つの予言」というようにも言われているのですが、その中に、
地獄の実在。
についての下りがあるのです。
そのことにとても興味を持ったのでした。
そして、「地獄の光景」には「悪魔の実在」も登場します
(3人の子どもたちは地獄の様子を一瞬だけ、聖母に見せられていますが、そこには悪魔もいます)。
私は「悪魔」について、たまに考えたり、 In Deep でも書くことがありました。
そのあたりは、カテゴリー「悪魔の輪郭」などをご参照いただけると幸いですが、基本的に、
悪魔は実在する。
というスタンスというか思い込みを持っている部分もあるわけですが、その中でも、過去記事、
・「悪魔 vs キリスト教」の戦いが世界中でエスカレートしている 2014年01月29日
で書いていますが、
ベネディクト16世が法王を退任して以来、世界の「悪魔化」の傾向が著しくなっていると感じています。
しかし、それを長々と書き出すと、違う方向に行きそうですので、
まずは「ファティマの3つの予言」の概要を Wikipedia から抜粋して編集したものを載せます。
ファティマでの聖母からのメッセージ
第1のメッセージ
死後の地獄が実在することについて:多くの人々が罪深い生活や傾向によって、死後地獄へ導かれている。
肉欲や傲慢など現世的な罪から回心しないままでいることにより、人は死後、永遠の地獄へと行く。
具体的に、聖母はこの少女ら3人に、地獄のビジョンを見せ、彼らはそのあまりの光景に戦慄した。
地獄は神話ではなく実在し、そこは全ての人が死後行く可能性のあるところで、入ったが最後、二度と出ることはできない。
となっていて、「地獄は神話ではなく現実に存在するもの」で、
大変に多くの人々が死後地獄に行っていると聖母と名乗る人物は、子どもたちに語っています。
そして、「地獄に行くと、永遠に出られない」とも聖母は述べています。
2つ目は下のようなもので、大きな戦争に関してのものです。
ファティマのメッセージの年は、第一次世界大戦中の 1917年のことですので、
終わる戦争のほうは第一次大戦、始まるのは第二次大戦と考えるのが妥当かもしれません。
第2のメッセージ
大戦争の終焉と勃発:第一次世界大戦は、まもなく終わる。
しかし人々が生活を改め罪を悔い改めないなら、さらに大きな戦争が起き、沢山の人が死に、
そしてその多くが地獄に落ちてしまう。
その前兆として、ヨーロッパに不気味な光が見えるだろう。
この中の、
> ヨーロッパに不気味な光が見える
というのは、1938年1月25日にヨーロッパの極めて広い範囲で、オーロラが観測されたことがあったのですが、
そのことを予言したと言われることがあります。
基本的に、フランスだのポルトガルだの、ヨーロッパの内陸部でオーロラが観測されるということは、ほぼあり得ないことです。
そんなこともあり、当初は、「ヨーロッパのどこかで大火事が起きている」というように報道されたようです。
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1938年1月26日のデイリー・ミラー紙(多分イギリスの新聞)の一面。
「北部の空すべてが光っており、大火事の懸念」とあります。Luisa Piccarreta より。
これはきちんと調べてみないとわからないですが、
太陽活動が活発な時だったとすれば、太陽フレアや CME (コロナ質量放出)の異常に大きなものなどが発生していたのかもしれませんが、
いずれにしても、この異常なオーロラが現れた頃から、第二次世界大戦が始まっています。
ファティマの3つめのメッセージは「ファティマ第3の秘密」などとして知られていることのようですが、
今に至るまで、「どうやらバチカンはすべてを公開していない」ようです。
Wikipedia からの抜粋です。
第3の秘密
聖母マリアは、1960年になったら公開するように。それまでは秘密に、とルシアに厳命した。
その内容は「ファティマ第三の秘密」と呼ばれ、
ルシアを通じて教皇庁に伝えられたが1960年が過ぎても教皇庁は公開せず、
2000年になってから発表に踏み切った。
教皇庁によれば教皇暗殺の危機だとされる。(これを)疑問視する意見もある。
この「疑問視」については、この「第3の秘密」に関して、
1960年代にそれを読んだ当時のローマ法王が絶句して具合を悪くしたり、あるいは、40年もの間、歴代の法王が発表を見合わせるほどの内容であったわけで、
「極めて衝撃的なもの」である可能性が高いわけです。
それが、上のような「軽いもののであるわけがない」というのが、バチカンの発表が疑問視されている理由ですが、
もうひとつの理由は、聖母マリアからメッセージを受け取った少女ルシア自身が 2000年代に(ルシアはすでに 90歳代)に、
「それはほんの一部で、バチカンは嘘をついている」
と司法省へ提訴したということがあったからのようです。
もっとも、ルシアは 2005年に 97歳で亡くなっていて、このあたりはうやむやなままのようです。
ヨハネ・パウロ二世(右)と面会する晩年のルシア
この「第3の秘密」については、今回はそこまで行き着けないと思いますので、別の機会に書こうかと思いますが、
先ほど出ましたベネディクト16世も枢機卿時代に「確かにあれは(第3の秘密の内容の)すべてではなかった」と認めています(ソース)。
天使の声を受けて若くして旅立ったふたり
ところで、この 1917年にファティマでメッセージを受けた3人の少女少年のうち、
このルシアだけは、97歳という長寿で人生を全うしますが、
冒頭に示したように、男の子のフランシスコは 10歳、最も年下のヤシンタは9歳という若さで、
共にスペインかぜが原因となってからの長期の病気で亡くなっています。
この3人について、南山大学の三上茂教授による
・ファチマの聖母マリア・ファチマの真実
という非常に膨大な、論文とも言えるウェブサイト上に詳細に書かれているのですが、
この3人の子どもたちの行動や生き方は、私が思わず涙ぐんでしまったほどのものでした。
この3人のうち早くに亡くなった2人の子どもたちは、
自分がもうすぐ天国に行くこと、つまり「自分がもうすぐ亡くなること」を、聖母のメッセージによって察知するのですが、
それでも、死ぬ瞬間まで、主と聖母、そして、「救われない他の人々を救うための祈りと犠牲のために」生きていくのです。
9歳と10歳ですよ?
この子どもたち3人のファティマ後のそれぞれについては、
「ファチマの真実(2)」というページの最後のほうにあります。
こちらは、フランシスコ(男の子)についての記述からの抜粋です。
1917年6月13日の御出現のとき、ルシアは聖母に天国に連れて行ってもらえるかどうかを訊ねていますが、
聖母はそれに対して「ええ、フランシスコとジャシンタをまもなく連れて行きます」と答えておられます。
このときからフランシスコとジャシンタは自分たちの生命がそれほど長くないことを知っていました。(略)
フランシスコは自分の役割がイエズスの聖心と聖母マリアの汚れなき御心を慰めることであるということをよく知っていました。
彼が病床に臥していちばん残念だったことは、教会に行って御聖体の前で長い時間を過ごすことができなくなったことでした。
最も若いヤシンタ(ジャシンタ)は、ファティマの聖母からのメッセージとは別に、頻繁にヴィジョンを見ており、三上教授のサイトでは、
> ジャシンタは6回の聖母御出現が終わった後にも、1920年2月に亡くなるまでの間、絶えず聖母の御出現を受ける恵みを神から戴いていました。
くどいようですが、まだ「9歳」だったヤシンタは、霊的な友人となっていたフランシスコの死に際して、以下のような事を述べた記録が残っています。
1919年4月4日にフランシスコが亡くなる少し前に、ジャシンタはルシアのいる前でフランシスコにこう頼んでいます。
「わたしの愛のすべてを主と聖母に捧げます。
罪人の回心とマリアの汚れなき御心に対する償いのために主と聖母がお望みになるだけ、わたしは苦しみます、と二人に伝えてちょうだい」
この時のヤシンタの状態は、スペインかぜに続いて、気管支肺炎と肋膜炎を併発して、ベッドから起き上がることもできない状態でした。
9歳といえば、今のうちの子と同じ年齢ですが、まるで比較などできません。
ところで、ヤシンタの見たヴィジョンの中には(これは聖母との会話ができていたルシアにも見えなかった)、
「バチカン、あるいはキリスト教信仰の崩壊」
とも取ることのできるような「光景」も含まれていて(法王が人びとから石を投げられている)、
後述しますが、どうも「第3の秘密」は、そのあたりとも関係しそうです。
バチカン、あるいはキリスト教信仰の崩壊が含まれているならば、
歴代の法王が倒れるほどのショックを受けたり、公開をためらう理由も理解できます。
ファティマのメッセージの根幹は「ロシア」のこと
やはり、だいぶ長くなってきていて、1回で書くのは難しくなってきた感じです。
2回くらいにわけたいと思います。
というのも、
ファティマのメッセージで最も重要なもののひとつが「ロシア」の意志と動静
ということがあるのです。
ロシアの存在や考え方次第によっては、
「世界(の人類の霊魂)は地獄に叩き落とされる」
とも解釈できる部分があるのです。
もちろん、この「地獄」は例えとしての地獄ではなく、「現実の地獄」です。
次にはそのことと、あるいは、第3の秘密にふれたいと思います。
ところで・・・。
ファティマで、聖母は子どもたちに、
「地獄は実在し、そこに一度入ると永遠に出られない」
と述べています。
ここに疑問もあります。
天国は永遠なのか。
あるいは、そうではないのか。
もし、地獄と同じように天国も永遠の場所なら、死んだ人々は二度と肉体を持つ世界には戻って来ないことになります。
輪廻や転生の概念は存在しない?
そのあたりのことも含めて、何が何やらわからない、といったような疑問もありますが、今回はここまでとしておきたいと思います。
In Deep
http://oka-jp.seesaa.net/article/415662218.html
2015年3月5日木曜日
古代天皇
「竹内文書」
古代天皇家の系図が書かれていた。
つまり、神武天皇から始まったとされる天皇家の歴史が180度ひっくり返るということです(真実なら)。
その白峰氏は、故人である広瀬謙次郎という方(いくつか著作あり)と生前会っていますが、
その際、次のような話を聞いたと言います。
「広瀬先生が亡くなる前のことですが、「見せたいものがある」と、
ある神紋を見せられたんですね。
それは16の菊花紋が中に入っていて、まわりにダビデのマーク(六芒星)なんです。
広瀬先生によれば、それこそが古代イスラエル王朝の正式な紋章だったんだそうです。
さらにそれは、レムリアの王族の末裔の証でもあるんだと私に教えてくれました。
伊勢神宮の石碑にもカゴメのマークがあることは有名ですが、
本当はカゴメの中に菊花紋が入っているべきものです。」
一般人がこのようなことを話したら間違いなく狂人的扱いを受けるでしょうが、
白峰氏、只者ではないです。
http://nikusiminorensa.at.webry.info/201203/article_3.html
これは私が、八咫烏の自称山田さんと言う方から学んだ、日本の裏の歴史です。
https://workspaces.acrobat.com/?d=mB-htgdt7ebdXE0FICF6Fw
ハムレットの水車小屋
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1043
南北朝正閏論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
南北朝正閏論(なんぼくちょうせいじゅんろん)とは、日本の南北朝時代において南北のどちらを正統とするかの論争。閏はうるう年の閏と同じで「正統ではないが偽物ではない」という意味。
概要
近世以来、「南北朝のいずれが正統か?」を巡って、南北朝正閏論が行われてきた。論者の主張は、大きく分けると以下の4つになる。
南朝正統論
北朝正統論
両統対立論
両統並立論
北朝方公家における南朝観
1392年(明徳3年/元中9年)閏10月2日に
南朝の後亀山天皇が吉野から京都の大覚寺に入り、
3日後に三種の神器が後小松天皇に引き渡された。
ところが、後小松天皇は自己の皇統こそ正統なものであると主張しており、
後村上天皇以後の南朝の天皇は上皇である後醍醐院が勝手に立てた「南方偽主」であり、
天皇でもない後亀山が行幸の体裁で入京したことに反発を示した。
加えてこの時交されたとされる
明徳の和約は義満ら室町幕府と南朝方の間のみで行われたものであり、
後小松天皇ら北朝方はその内容は知らされていなかったもしくは合意をしていなかったようである。
そのためか、北朝では「譲国の儀」実施や大覚寺統と持明院統による両統迭立など、和談の合意内容が明らかとなるとこれに強く反発した。後小松天皇は後亀山天皇との会見を拒絶し、平安時代末期に安徳天皇とともに西国に渡った神器が天皇の崩御とともに京都に戻った先例に則って、上卿日野資教(権大納言)・奉行日野資藤(頭左大弁)らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷したのである(『南山御出次第』『御神楽雑記』)[1]。また、元号も北朝の「明徳」が依然として用いられ続け、2年後の明徳5年(1394年)2月23日に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、朝廷では後小松天皇や公家たちの多くがこれに反発し、16日間にわたって議論を続けた末、足利義満の強い申し入れによって「不登極帝」の扱いとして尊号のことが定まった次第であった(『荒暦』)。
後小松天皇及び北朝の公家の反発の原因としては、彼らが後村上天皇以後の南朝歴代を「偽主」としてみなし、三種の神器も平安時代末期に平家が安徳天皇とともに西国に連れ出した時と同様に不当に持ち出されたもので、自己の皇統の正統性に強い確信を有していたからと考えられている。特に持明院統の中でも後光厳流皇統に属する後小松天皇は皇位継承の正統性を巡って、崇光流皇統とも呼ぶべき伏見宮と対立関係にあり、それよりも遠い関係にある大覚寺統の皇統は否定されて然るべき存在であった。また、公家達の多くも家督を巡って南北に分裂しており、南朝方についた同族の復帰につながりかねない南朝の正統性を認めることには否定的であった。そして、何よりも正平一統前後に南朝方が京都を占領したことが計4回あったものの、
いずれも短期間に終わり北朝は南北朝期の大部分において京都に存在し、
朝廷機構を把握していた。それが、北朝方の自負の裏付けとなった。
その結果、後村上・長慶の両天皇はその在位は否認され、後亀山天皇の在位は認めなかったものの、後高倉院(守貞親王)などの例に準じる形での太上天皇の待遇のみは認められたのである。
このことは、室町時代に作成された複数の文献にて知る事が可能である。後小松天皇は退位後、大覚寺統の皇族ではなく実子の称光天皇に皇位を譲ったが、称光天皇は子供のないまま重病となりこのまま崩御すれば、
後光厳流皇統の断絶は確実となった。そのため、 応永33年(1426年)、後小松上皇は内大臣洞院満季に命じて『本朝皇胤紹運録』を編纂させた。現存する写本の中でも古い形態に属する写本において南朝については、
義良親王 陸奥太守、於南方稱君主、號後村上天皇云々……
寛成親王 法名覺理、於南方自立號長慶院
熙成王 法名金剛心、自吉野降後、蒙太上天皇尊號、號後亀山院
とされ、
後醍醐天皇以後は光厳天皇以後の歴代北朝の天皇が正統な天皇として扱われたのである。
また、これは伏見宮に対しても同様であり、
後小松上皇の猶子となり称光天皇の後を継いで即位した後花園天皇を伏見宮貞成親王の子ではなく、
後小松上皇の子として掲載して伏見宮と切り離している。
これは、南朝・伏見宮とともに正統な皇位継承者ではないとする後小松上皇の強い信念の現れであり、崩御の時の遺詔においても貞成親王を太上天皇にすることの無いように念を押したのであった。だが、後小松上皇崩御後の文安4年(1447年)に貞成親王に「後崇光院」の尊号が贈られた。この時のことを万里小路時房は日記『建内記』文安4年11月27日に「凡非帝位人尊號、後高倉院(但後堀河院嚴父之謂也)、後龜山院(三種神器被渡當朝之謂也)両度也、今度之儀、淺自後高倉院、深自後龜山院者歟」と書いている。ここで注目されるのは、時房は後小松上皇の遺詔を理由として貞成親王への尊号に最後まで反対していた廷臣であったことである。時房の記述は、当時の北朝では南朝の後亀山院(天皇)が後高倉院・後崇光院と同様の「尊称天皇」とみなされていたことを示すとともに、後小松上皇の遺詔に反した後崇光院への尊号よりも更に低い価値しか認めていなかったことを示している。その後、後花園天皇の子・後土御門天皇の時代になって壬生晴富(小槻晴富)が北畠親房の『神皇正統記』に反駁する形で『続神皇正統記』を著した。「後村上天皇、諱は義良、第九十六代第五十世云々、これは南方偽主の御事にて、當朝日嗣には加奉らず……後嵯峨院御正嫡の御流として誠に神皇正統の正理に歸し、此記(『神皇正統記』)の名目自然の道にかなひ侍る御事よとふしきにも奇特にも侍るかな」と述べて光厳院を九十六代、後醍醐天皇の重祚を九十七代、光明院を九十八代として、以後後花園院まで続けている。この書は『神皇正統記』の著者である北畠親房の意図を歪めるものとして古くから非難された書物であるが、その一方で後嵯峨天皇以前を兄を嫡流とする「正統」理念で描きながら、それ以後は弟の亀山天皇の系統を嫡流とするために「正理」理念を持ちだして弟を嫡流とする親房に対する鋭い批判も含まれており、また北朝系公家の典型的な歴史認識を示したものであった。
『本朝皇胤紹運録』は勅撰の皇室系譜として幕末に至るまで宮中で重んじられ、そこに描かれた北朝正統論は絶対的に扱われた。後述のように『大日本史』の朝廷献上が大幅に遅れたのもその影響であり、幕末の光格天皇が自身を(神功皇后を含めて)「神武百二十世」と記していることからも伺え、また同時代の公家で歴史家でもある柳原紀光も『続史愚抄』の中で北朝正統論を唱えている(ただし、紀光は後村上天皇に関しては正平一統の期間に限定して正統な天皇であったとしており、朝廷の公式見解とは異なった態度を取っている)。
近代以前の南北朝正閏論
南朝正統論の嚆矢は、南北朝時代に南朝方の重鎮であった北畠親房が著した
『神皇正統記』であった。
親房は三種の神器の所在と皇統における「正統」概念をもって南朝正統論を唱えた。
親房は南朝の正統性を示すために、
「正統」概念の中には儒教や神道の教説を取り入れる形で有徳の者が皇位継承者に選ばれるという
正理正義の理念を含めた。
だが、一方で当時の家督継承の基本的な考え方で儒教や神道の考え方にも適っていた正嫡正流の概念も捨て去ることは出来ず、結果的には両説を組み合わせたものとなってしまった。更に神器の問題にしても上記の安徳天皇が神器をもって西国に下った時の後鳥羽天皇即位の事情など理念と史実の乖離を完全に説明することは出来なかった。その後、北朝によって皇統が統一されて楠木正成ら南朝方の人々を「朝敵」と認定され、更に実際問題として南北朝合一後も80年近くにわたって「後南朝」と呼ばれる北朝及び室町幕府に対する南朝復興運動が続いていたことから、親房以後に南朝正統を唱える者はいない状態が続いた。
この風潮が変化したのは、『太平記』が流布されて公家や武士などに愛読され、南朝方に対する同情的な見方が出現するようになってからである。 永禄2年(1559年)、楠木正成の子孫を名乗る楠木正虎の申請によって、楠木正成は朝敵の赦免を受ける。これをもって直ちに南朝正統論が発生した訳ではないが、南朝を論じることがタブーではなくなったという点では画期と言える。また、楠木氏と同様に南朝方であった新田氏の末裔と名乗った徳川氏が政権を取ったことも状況に変化をもたらした。江戸時代に入り、林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初めて南北併記の記述が用いられた。もっとも、息子の林鵞峰が書いた同書の南北朝期の記述では北朝正統論を採用している。
その後、水戸藩主・徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。『大日本史』は三種の神器の所在などを理由として南朝を正統として扱った。その際、北朝の天皇についての扱いについても議論となり、当初北朝天皇を「偽主」として列伝として扱う方針を採っていたが、現在の皇室との関連もあり、後小松天皇の本紀に付記する体裁に改めたという。だが、光圀が生前に望んでいた『大日本史』の朝廷献上は困難を極めた。享保5年(1720年)、水戸藩から『大日本史』の献上を受けた将軍徳川吉宗は、朝廷に対して刊行の是非の問い合わせを行った。当時博識として知られた権大納言一条兼香(後、関白)はこの問い合わせに驚き、
北朝正統をもって回答した場合の幕府側の反応(三種の神器の所在の問題)などについて検討している(『兼香公記』享保6年閏7月20日条)。この議論は10年余り続いた末に、享保16年(1731年)になって現在の皇室に差しさわりがあることを理由に刊行相成らぬとする回答を幕府に行った。だが、吉宗は同書を惜しんで3年後に独断で刊行を許可したのである。また、水戸藩も不許可回答の翌年である享保17年(1732年)に江戸下向中の坊城俊清に同書を託して朝廷への取次を要請した。これが嘉納されたのは実に69年後の文化7年(1810年)のことであった。ただし、光圀の南朝正統論は水戸学に継承されるが、細かいところでは議論があった。光圀に仕えていた栗山潜鋒は神器の所在に根拠を求め、
同じく三宅観瀾は名分の存在に根拠を求めて対立している。これは三種の神器の所在で正統性を求めた場合、前述の後鳥羽天皇の即位の経緯の問題が発生する上、北朝でも光厳天皇は即位した時に本物の三種の神器を保有していた可能性が高いという問題が発生するためである(これは後醍醐天皇が隠岐島を脱出した際に出雲大社に対し、天叢雲剣の代替品として出雲大社の宝剣を借り受ける綸旨が現存していることからも指摘される[2])。
徳川光圀と並んで南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎が挙げられる。闇斎も南朝正統論に基づく史書編纂を計画していたが、執筆前に没した。彼の南朝正統論はその独自の尊王論とともに垂加神道を通じて多くの門人に伝えられ、闇斎の系統を引く学者(跡部光海・味池修居ら)の間で行われた。江戸時代後期の頼山陽も『日本外史』などを通じて尊王論を鼓舞したが、彼もまた南朝正統論を採っていた。特に死の間際に書いた絶筆ともされる「南北朝正閏論」は道義に基づいて南朝を正統とし、北朝の後小松天皇は南朝の禅譲によって即位したと主張している。史実ではない禅譲論を採っていることなど内容には問題があるものの、
まさに命がけの一文は後世に少なからぬ影響を与えた。
他の代表的な南朝正統論者としては、『続神皇室正統記』に対抗して、南朝を正統とする『改正続神皇正統記』を著した天野信景、『南朝編年記略』や『南朝皇胤紹運録』を著した津久井尚重、『南山巡狩録』を著した大草公弼などがいる。
更に幕末になると、成島司直の『南山史』や鹿持雅澄の『日本外史評』などの両統並立論も出現するようになる。その一方で朝廷では、前述のように永く現皇統につながる北朝を正統とする原則が守られ、
祭祀もその方針で行われてきた。
だが、『大日本史』の刊行問い合わせ問題以後、
公家の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、
幕末の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。
南北朝正閏問題
喜田貞吉 / 国史教科書で両朝を並立して記述したとして1911年に編修官を休職。
皇居外苑にある楠木正成像
明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた
維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、
旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。
これに伴い、1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や
贈位などが行われるようになった。
また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成された
『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝の天皇が歴代に加えられ、
続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、
北朝の天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。
なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、
宮内大臣から北朝の天皇は後亀山天皇の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、
認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。
ただし、これらの決定過程については不明な部分が多い。
また、こうした決定の効果は宮中内に限定されていた。
一方、歴史学界では、南北朝時代に関して『太平記』の記述を他の史書や日記などの資料と比較する
実証的な研究がされ、
これに基づいて1903年(明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている
国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。
ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、
とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水での発言がこれに拍車をかけた。
そして、1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説に
「もし両朝の対立をしも許さば、国家の既に分裂したること、灼然火を賭るよりも明かに、
天下の失態之より大なる莫かるべし。
何ぞ文部省側の主張の如く一時の変態として之を看過するを得んや」
「日本帝国に於て真に人格の判定を為すの標準は知識徳行の優劣より先づ国民的情操、
即ち大義名分の明否如何に在り。
今日の多く個人主義の日に発達し、ニヒリストさへ輩出する時代に於ては
特に緊要重大にして欠くべからず」という論が出され、
これを機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。
この問題を巡って野党立憲国民党や大日本国体擁護団体などが当時の第2次桂内閣を糾弾した。このため、政府は野党や世論に押され、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会で南朝を正統とする決議をおこなった。さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には『大日本史』の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ[3]、南北朝時代は南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。
以後、戦前の皇国史観のもとでは、足利尊氏を天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成や新田義貞を忠臣とするイデオロギー的な解釈が主流になる。1934年(昭和9年)には斎藤内閣の中島久万吉商工相(政友会)が尊氏を再評価した雑誌論説「足利尊氏論」(13年前に同人誌に発表したものが本人に無断で転載された)について大臣の言説としてふさわしくないとの非難が起こり、衆議院の答弁で中島本人が陳謝していったん収束した。しかし貴族院で菊池武夫議員が再びこの問題を蒸し返し、齋藤實首相に中島の罷免を迫った。これと連動して右翼による中島攻撃が激化し、
批判の投書が宮内省に殺到したため、
中島は辞任のやむなきに至った(詳細は中島久万吉参照)。
この事件の背景にはのちの天皇機関説事件につながる軍部・右翼の政党勢力圧迫があったとされる。
第二次世界大戦後における南北朝時代を巡る議論
第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった(平泉澄は戦後も「吉野時代」の表現を用いているが、ごく一部の見解にとどまる)。ただし、宮内庁[4]を始めとして、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。また価値観の転換や中世史の研究の進歩で、足利尊氏の功績を評価したり、楠木正成は「悪党」(悪者を意味せず、幕府等の権力に反抗した者をさす)としての性格が研究されるようになり、後醍醐天皇の建武の新政は宋学の影響で中華皇帝的な天皇独裁を目指す革新的なものであるなど、南北朝時代に関しても新たな認識がなされるようになった。
網野善彦は職能民など非農民層に着目し、南北朝時代が日本史の転換期にあたると主張している。また、太平洋戦争の敗戦直後には、熊沢寛道に代表される自称天皇が現れ、自身が南朝の子孫であり正統な皇位継承者であると主張した(南朝の子孫という主張が正しいかどうかについては異論も多く一般には信じられていない)。ただし血統的には、大覚寺統より持明院統が嫡流で、持明院統の中でも伏見宮家が、その嫡流にあたることから、現在の皇室の血筋が最も尊いとされている。
『足利治乱記』には後亀山天皇と後小松天皇が会見して神器の引き渡しが行われたように記されているが、明治時代に三浦周行が『日本史の研究』において、『南山御出次第』『御神楽雑記』など、当日の次第を記した書物が全て神器の還御の手続で行われていることを指摘して、両天皇の会見を根拠のない俗説であると結論付けている。
^ 元弘3年3月17日付「紙本墨書後醍醐天皇宸翰宝剣代綸旨」(出雲大社所蔵、重要文化財)。
^ ただし、現在の学説では
北朝の光厳・光明・崇光の三帝は三種の神器を保有していたことがほぼ確実とみられ、
神器の有無を根拠に北朝のすべてを「正統でない」とするのは無理である。
なお、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされる。
また、明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであって、
最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、
南北朝が合体した(明徳の和約)ことまでを否定するものではなく、
したがって現在の北朝の天皇の正当性を否定するものではない。
^ -天皇陵-歴代順で探す
ハムレットの水車小屋
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関連項目
南北朝時代 (日本)
日本における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、
日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。
一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。
正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、
後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、
1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。
これは室町時代の初期に当たる。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。
それぞれ正統性を主張した。
南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称する(→南北朝正閏論)。
後述のように皇室は南朝を正統としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
南北朝の天皇 をご覧ください(Wiki元記事)
明治政府の修史事業 - 久米邦武筆禍事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E4%BF%AE%E5%8F%B2%E4%BA%8B%E6%A5%AD
南北朝正閏論って何~に?
http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A3xTtNGp9QxVOT8A6f.JBtF7?p=%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=
京都ウラ天皇と薩長新政府の暗闘 (落合秘史)
ハムレットの水車小屋
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1043
鬼塚英明氏の孝明天皇暗殺説は嘘だった可能性が高い
ところで小野寺直に関するあらゆる記事には総花から妨害が入ります。
どうしてでしょうか?
本物だからですよ。
http://kemeno53.blog86.fc2.com/blog-entry-400.html
http://kemeno53.blog86.fc2.com/blog-entry-1081.html
http://kemeno53.blog86.fc2.com/blog-entry-1079.html
日本古来より伝わるところの「三種の神器」は嘉吉三年九月に持妙
院統よりし回収し現在小野寺直氏が所持
注:持明院統のことです
関連記事:すり替えられた八紘一宇
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/948.html
上記記事の中で堀川辰吉郎氏に関する記事での修正を近日中に行います。
大霊脈の著者である中矢伸一氏は堀川辰吉郎が明治天皇(大室寅之佑)のご落胤にこだわりすぎた
結果内容がずれてしまったようです。
中国が後醍醐天皇の御子孫である小野寺直氏に【南朝天皇御璽】を贈呈してきた事が
何を意味しているのか
平和ボケ国家のおバカさん連中には何が何だか解らない~以下参照
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/636.html
ニューヨークタイムズが日本に天皇は二人いると言っていることは......
南北朝正論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%AD%A3%E9%96%8F%E8%AB%96
管理人注:持妙院統ではなく持明院統
http://search.yahoo.co.jp/search;_ylt=A2RA1COWogtV9zIAJBuJBtF7?p=%E6%8C%81%E5%A6%99+%E9%99%A2%E7%B5%B1&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=&afs=
持明院統と大覚寺統と別れた原因は、後嵯峨上皇が息子である兄のの後深草天皇を無理矢理譲位させ、次男亀山天皇に即位させた事から始まってますが、何故、そんな事をしたのでしょうか? 以下参照
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1155772306
☆
必見!隠された日米戦争
http://blog.goo.ne.jp/adoi/e/6934eb2acb1b27be98f4ab6370af8eb9
動き出した八咫烏
https://www.facebook.com/youji.murakami/posts/432430570169173
村上 陽治
2013年2月11日 ?
村上氏は秘密結社鷹の爪の人のようです。鷹の爪と言ってもアニメーション
動き出した八咫烏
アノニマス、TPP、八咫烏:八咫烏は日本のアノニマスだった!?
http://quasimoto.exblog.jp/16541038/
韓国本国が手を出してはいけない場所に手を出していたようです。
http://blog.livedoor.jp/nevada_report-invest…/…/4320878.html
新日鉄住金、韓国大手と全面対決…技術盗用訴訟
多額の報酬で社員OBを抱き込まれ、
鋼板製品に関する最先端技術を盗用されたとして、
新日鉄住金(東京)が韓国の鉄鋼最大手ポスコを相手取り、
不正競争防止法に基づき986億円の損害賠償や同製品の製造・販売の差し止めなどを求めた
訴訟の第1回口頭弁論が25日、東京地裁(高野輝久裁判長)であった。
ポスコ側は「盗用の事実はない」と請求棄却を求め、全面的に争う姿勢を示した。
新日鉄ということは、日本経団連の中核です。しかも京都天皇(オーナー)の父親でもある、故堀川辰吉郎氏の正妻の女婿にあたる企業です。韓国は日本の裏権力に手を出してしまいました。
そりゃあ消されますね、韓国は。
韓国は日本の本当の姿を知りません。
黄金の百合の金塊を管理していたのは、秘密結社八咫烏の裏天皇の一人下鴨神社の大宮司の管理人Kなんですから、
借金で消えるはずがありません。
日本国民置いてけぼりのただの茶番劇に過ぎません。
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1043
クズシリ、クズコ、ムレコの各親分(やぞう)として上記下鴨神社の大宮司,鎌倉八幡宮の大宮司,熱田神宮大宮司の曾孫の広瀬祐也(フリーメーソン33位階)の3人がサンカの頭領のアヤタチで八咫烏の秘密結社で裏天皇。その上に大親分(おおやぞう)の大烏がいる。その名前はKであろう。ロスチャイルドもロックフェラーもKの使用人(ミスカシ(透破)とツキサシ(突破)という使用人)である。明治政府はサンカを河原乞食と蔑み神代文字を遠ざけた。現代日本も自虐的に扱われている。あたかももう終わりのように。支配者は奴隷が結束しない様に奴隷間に憎しみを起こさせる問題を作る。日本と近隣諸国との問題も同じなのである。人はそれを賎民資本主義と呼ぶ。戦後の本当の支配者は日本人である。だからあの戦争にわざと負けたのである。
要するに、天の芝居。日本の役割は闇をまとめて、ルールの中でゲームをさせてしかるべきときになれば、彼らを裁き、天に返す事だと認識しています。だから日本の中に、闇が入り込み、日本を独占しようとしていたんです。在日は明らかにルール違反を犯したので、彼等に裁かれます。
中国黒龍会を作ったのは秘密結社八咫烏なのはわかっていますので、中国国内に敵の役割として本物の世界天皇である小野寺直氏と共に、中国を作り変えようとチベットやウイグルなどで裏工作をやっているものと思われます。味方の役割でいるのが、アノニマスなどに変装して出現したハッカー達だと思われます。警察には戸籍がない、八咫烏を逮捕できませんから。
でなければ、闇の最後の攻撃などと、中丸薫氏などが本を書いて出版など出来るはずがありません。陰謀論として、世の中にこれらの存在がいますよと示したのも、おそらく彼らで間違いないんですよ。フルフォード氏もおそらくは、八咫烏の神芝居に加担している、一人です。彼から陰謀論が始まったようなものですから。竹内文書さえも八咫烏は捏造して発表せよと捻じ曲げたんですから。
北朝鮮が日本をポアなど出来るはずがありません。真の黒幕は、日本なのに。ただの紙芝居ならぬ神芝居なのに。
とりあえず日本の秘密結社八咫烏の情報が未確認ながら、これで確認できました。日本の裏権力の構造の一端も。黄金の百合の金塊の使用許可者Kの話は陰謀論でもチョコチョコ出ていましたが、八咫烏の裏天皇とはね。これなら幕府がどうやって統治していたのかの説明が出来ます。何で武士が表であれだで争っていても、日本が普通の体裁を執れるような戦国時代だったのかも。
要するに金を朝廷や神社(八咫烏)が握って、武士が代理で支配していただけ。それが幕府。その外側には、渤海国の末裔である、今の北朝鮮。つまり、朝廷による幕府の代理統治。支配権は武士が持っているが、へましたら八咫烏によって、粛清される。日本はこういう支配体制だったようです。お金(金塊)は神社が握っていて、何かあったときにしか発行しなかったようです。
それが明治維新のときに、その武士達がバチカンなどのサバタイ派に付いてしまって、東京明治天皇である大室寅之助を立てて八咫烏達を河原乞食扱いにした。日本の国体を守っていた彼らを遠ざけたことが、先の混沌を産んでいた原因でした。
八咫烏などは天の声にしたがって動いているみたいなので、
何も知らない日本国民や政治家は彼らの掌で踊っているだけ。
天の試練の名の下に。それがセムメーソンが主張している、
日本人を成長させるための試練であると、認識しています。
http://tenkataihei.xxxblog.jp/archives/51826419.html
東京スカイツリーを作った、先ほどと知事を辞任した石原氏もこれらの天の計画に加担しています。
彼はおそらく、全てを知っています。
闇のバフォメットの五芒星になるように建物を作っていたなど、まさに計画的でした。
表は何もないように見えても、それを上回る裏の顔を持っているのが、日本です。
まさにもう、想像力の世界です。
ハムレットの水車小屋
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/1043
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