ヤス:米国防の実態,中イロ日の新経済圏
2018.12.01(第57回)
加速する世界の多極化、日本が中心
2018年もあっという間に過ぎ、残すところわずかとなってしまった。
今年は、トランプ旋風による保護主義が世界を席巻し、既存の世界秩序が大きく撹乱される一年となったが、
来年はさらに変化の激しい年になると思われる。
今回は、来年の激動の中心となる状況について解説したい。
重要な情報なのではないかと思う。
まず、先頃トランプ政権から発表になった国防関連の報告書について解説したい。
おそらく日本の主要メディアでは報道されないと思うので、重要な情報だ。
●トランプ政権の自由貿易否定の理由
周知のようにトランプ政権は、中国のみならず日本やEUなどの同盟国に対しても関税を大幅に引き上げ、自由貿易によるグローバリゼーションを断念する姿勢を明確にしている。
中国との間で始まった貿易戦争が、世界経済の成長を押し下げるのも時間の問題と見られている。
トランプ政権はこのような保護主義的な政策を採用する理由を、自由貿易に基づくグローバリゼーションでは、アメリカの貿易赤字が大きく不均衡な経済関係を強いられているので、国益を守るためにこれを是正する必要があるからだとしている。
保護貿易へのシフトは、あくまで「アメリカ・ファースト」の政策の一環だというわけだ。
しかし筆者は機会あるごとに、トランプ政権の真の目的は、
軍事的な覇権の再構築である
と主張してきた。アメリカの国防産業の基礎になっているのは民間の製造業だ。
グローバリゼーションの影響で製造業が空洞化してしまったため、国防産業の産業的な基盤が失われた。
そのため、アメリカの兵器システムは、急速に発展しているロシアや中国の最新鋭のシステムに追いつかれ、その結果、アメリカは軍事的に劣勢な状況に追い込まれつつある。
このような状況を挽回するためにトランプ政権は、
1)保護貿易によって国内製造業を保護し、
2)インフラと軍事に対する政府の公共投資を活発に行い、3)海外に移転した製造業の生産拠点の国内回帰を実現する政策へと舵を切った。
このようにして国内の製造業の基盤を整備して、ロシアや中国を凌駕する強い国防産業を再建することを目標にしている。
これが、トランプ政権の目標であり、現在の保護貿易主義の背後に存在する本当の理由である。
この仮説は軍事産業系のシンクタンク、「新アメリカ安全保障センター(CNAS)」が2016年の大統領選挙の約1ヵ月後、次期トランプ政権に向けて提出した「未来の鋳造(Future Foundry)」という報告書で提言された内容に基づいている。
このレポートでは、アメリカの国防産業は製造業との有機的な連関を喪失しており、ロシアや中国に負けないためには、最先端のITを導入して、国防産業を再強化しなければならないとしていた。
しかしこの報告書では、国防産業の劣化した状況を総論的に解説するにとどまり、状況の深刻さを示す詳細な記述はなかった。
●10月に公表された新しい報告書
そのようななか、9月にまったく新しい報告書がトランプ政権に提出された。
これは内容が非公開の報告書だったが、10月にその一部が公開された。
2017年9月、トランプ大統領は「大統領令13806号」を出し、アメリカの国防産業の実態の調査を命じた。
この報告書は、これに対する調査結果として提出されたものである。
この報告書は、「合衆国の国防産業と製造業におけるサプライチェーンの弾力性調査とその強化に向けての報告書(Assessing and Strengthening the Manufacturing and Defense Industrial Base and Supply Chain Resiliency of the United States)」という非常に長い題名である。
これは国防総省を中心に、あらゆる省庁が協力して編成したタスクフォースによる報告書である。
目的は現在の国防産業の産業的な基盤を徹底して調査し、最先端の軍事力の維持が可能であるか査定したものだ。
国防産業の基盤の包括的な調査としては、60数年ぶりになるとのことだ。
●300を越える領域で格差が拡大
この報告書を見て驚くのは、アメリカの国防産業の劣化の実態が詳細に分析されていることである。
すでにロシアや中国との間では、300ほどの領域でアメリカの国防産業の劣化が進行しており、深刻な状況だという。
深刻さを認識してもらうために、いくつかの例を見てみる。
・数値制御工作機械のドイツ依存
精密兵器の製造にはなくてはならない数値製造工作機械はすべてドイツからの輸入に依存している。
・レアアースの供給は中国依存
2000年代初頭まではアメリカ国内でもレアアースの掘削産業は存在していたものの、いまはない。
精密兵器やIT機器にはなくてはならないレアアースは、すべて中国からの供給に依存している。
・ASZM-TEDA1添着炭
化学兵器や有毒ガス、また放射能ガスの防御機器の製造には欠かせない物質、「ASZM-TEDA1添着炭」の国内メーカーのほとんどは倒産しており、すでに一社しか残っていない。
「ASZM-TEDA1添着炭」は72種類の防御機器で使われている。
・精密兵器用IT基盤
精密兵器はプリントされたITの基盤を必要としているが、この分野でも米国内のメーカーはほとんどが倒産しており、一社しか残っていない。
300を越えるエリアがあり、延々と書くと長くなるのでこのくらいにとどめるが、報告書を読むとアメリカの国防産業の劣化の状況がよく分かる。
●倒産、熟練工不足、海外サプライチェーンの依存
このような劣化を引き起こしている最大の原因は、グローバリゼーションによって製造業が空洞化したことだとしている。
米国内の製造業では倒産が相次いだ結果、最先端の兵器の製造には欠かせない特殊部品メーカーが消滅しつつあるのだ。
たとえば、海軍艦艇のためのプロペラのシャフト、戦車の砲塔、ロケット燃料、ミサイル用の精密赤外線探知機などのメーカーはすべて倒産した。
その結果、最先端の兵器製造にはなくてはならないこうした部品の供給は、中国を中心とした海外のサプライチェーンに完全に依存した状態だ。
また現状では、装甲車や海軍の艦艇、軍用航空機の製造には欠かせないアルミプレートの生産も危機的な状態にある。
さらに、こうした兵器用部品メーカーの倒産とともに、働いていた熟練工の多くは解雇され、国防産業から去った。
特に、工作機械、溶接、エンジニアリングなどの分野が深刻な熟練工不足の状況にある。
一方国防総省は、機会を見て国防産業の現状把握に努めてきた。
しかしその調査は、今回の報告書のように詳細なものではなく、国防総省と契約しているロッキード・マーチンやボーイングのような巨大企業に調査をしただけであった。
国防産業の基盤がどのような状態にあるのか分からなかったとしている。
ロッキード・マーチンやボーイングは多くの種類の軍用航空機を生産しているが、その製造は無数の部品を供給しているメーカーに依存している。
これらのメーカーは国防産業に特化しているわけではなく、一般の製造業のメーカーだ。
グローバリゼーションによる国際競争に敗退し、生産拠点を海外に移転するか、または倒産してしまったのである。
その結果、ロッキード・マーチンやボーイングのような会社は、中国やEUを中心とした海外メーカーのサプライチェーンに、部品を発注しなければならなくなっている。
こうした、国防産業内部の脆弱性は詳細な調査を待ってはじめて明らかになった。
●2025年までに国防産業を再建する
こうした報告書だが、急速に発展する中国のテクノロジーと、ロシアの軍事システムに対する恐怖が滲み出ているのが分かる。
中国は「中国製造業2025」という巨大プロジェクトを立ち上げ、2025年をひとつのメドに、中国が最先端テクノロジーの製造業大国になるとしている。トランプ政権はなんとしても2025年までに、中国、ならびにロシアの動きを阻止し、アメリカが最先端テクノロジーで圧倒的な優位を確確立し、米国内の国防産業を再編しなければならないと考えているようだ。
こうした国防産業の脆弱性への危機とそれを乗り越えるための再編計画の推進こそ、トランプ政権がいま強く推し進めている、
自由貿易とグローバリゼーションの否定
に基づく保護貿易主義政策の背後にある最大の理由であることは間違いない。
今回の報告書の公表で、これが証明された。
●変更不能な保護貿易政策と加速する多極化
こうした状況なので、トランプ政権が現在の保護貿易政策を変更するなどということは、まずあり得ないと考えたほうがよい。
トランプ政権は自由貿易こそ米経済を支える基盤であることを理解しつつあるので、いずれ政策を転換するだろうとの希望的観測も主要メディアではときおり見られるが、そのようなことはまずないと見たほうがよい。
トランプ政権は、アメリカの軍事的覇権を永続化するために、国防産業の再建に必死に取り組んでいる。
彼らにとって自由貿易とグローバリゼーションは、アメリカの覇権を軍事的に弱体化させた最大の原因なので、同盟国との関係などあらゆる犠牲を払ってでも、これを阻止するつもりだ。
もちろん、トランプ政権が引き金を引いた保護貿易主義への動きは、各国に大きな波紋を巻き起こしている。
水面下で始まっている、ドルによる国際決済通貨システムから脱却する脱ドル化の動きはその一端だ。
それとともに、アメリカの同盟国から、こうしたトランプ政権を真っ向から非難する発言も相次ぐようになっている。
たとえばドイツ外務省だが、11月7日、ハイコ・マース外相は地方紙のインタビューで、
「今回の中間選挙での選挙運動は、米国社会がいかに分断されているのかを示しており、さらに推進した」
と述べた。さらに外相は、
「米国は欧州域外の最も重要なパートナーの一国であり続けることに変わりはないが、その関係を再検討する必要がある」
とした。そして、「米国の国際条約撤退や制裁関税などの措置に対し、欧州結束が唯一の打開策だ」と強調した。
またドイツ産業連盟(BDI)は、「貿易摩擦の終焉みえず」と題する声明を発表した。
ディーター・ケンプ会長は
「ドイツ産業界は、米国から厳しい逆風を受け続けることになる。
多くの民主党議員もトランプ大統領の通商政策を支持していることから、米国の貿易政策が保護主義から方向転換することは、想像できない。
米政府の対立路線は世界経済にとって脅威で、今後も続くだろう」とコメント。
さらに、
「貿易摩擦が米国企業に対しても利益をもたらすことはなく、米政府の制裁措置が米国内の景気にマイナスの影響を与えるのは時間の問題だ。国家の安全保障にかこつけて、一方的に関税を課すことは誤りだ」と指摘した。
●多極化の動きの中心のひとつは日本か?
このように、トランプ政権の保護主義を強く非難する発言は、同盟国の多くの政府関係者から相次いでいる。
フランスのマクロン大統領もトランプ政権の批判を躊躇しなくなっている。
だからといって、保護主義の理由が軍事的覇権維持のための国防産業再編と強化であるとしたら、トランプ政権の方針が変化することなどあり得ないことだ。
むしろ、保護主義の動きは加速するだろう。
そして、その余波として、各国の脱アメリカ化と多極戦略も加速するはずだ。
そして、このような多極化の中心のひとつになっているのは、日本の安倍政権の動きである。
この方向がはっきりと見えたのが、10月26日の安倍首相の訪中である。
「競争から協調へ、日中関係を新たな時代へ押し上げたい」
とする安倍首相は李克強首相と会談し、通貨スワップ協定の再開や、第三国でのインフラ共同開発で合意した。
ちなみに「通貨スワップ協定」とは、金融危機などによる自国通貨の暴落を回避するために、両国の通貨を相互の中央銀行が持ち合う協定のことだ。
たとえば、なんらかの理由で人民元が大幅に下落した場合、中国の人民銀行は手持ちの円を市場で売って人民元を買い支え、下落幅を抑えることができる。
また、日銀も同じことができる。
また、「第三国でのインフラ共同開発」とは、言葉の使用は回避したが、中国が
「一帯一路」構想
で推し進めているインフラ建設への協力である。
これで中国と日本は、「一帯一路」でがっちり組む方向に動き出したということだ。
そして、さらにここで注目されるべきは、安倍政権のその後の動きである。
訪中から帰国直後、訪日したインドのモディ首相と会談した。首脳会談では、日本とインド両国の経済や国防への協力が合意されたほか、ミャンマー、バングラデシュ、スリランカのインフラ建設における両国の協力は合意された。
この3ヵ国は中国の「一帯一路」によるインフラ建設も進んでいる地域である。
ということでは、ある意味で日本が仲介役となりながら、インドのインフラ建設構想と中国の「一帯一路」になんらかの協力関係ができる可能性が出てきた。
さらに日本はロシアとも良好な関係にあり、領土問題はあるものの、経済協力は進展している。
すると、中国、インド、ロシアは日本が仲介することで、これまでにないような新しい経済協力関係が築かれる可能も出てきた。
●ロシア、中国、朝鮮半島を結ぶ行路
これは
中国、インド、ロシア、日本が結ばれる新たな経済圏の出現
といっても過言ではないかもしれない。アメリカには依存しない本格的な多極化の動きになるはずだ。
そして、すでにこうした動きの成果も出てきている。
日本の主要メディアではほとんど報道されていないようだが、
鳥取県と韓国江原道、中国吉林省、ロシア沿海地方、モンゴル中央県
の5地域が共同発展策を探る
「第23回北東アジア地域国際交流・協力地方政府サミット」
が10月30日、ロシア・ウラジオストクで開かれた。
そこでは、境港と韓国の東海、ウラジオストクを結ぶ定期貨客船航路の延伸による物流ルートの構築に向けて連携することで合意した。
さらにウラジオストクからは、ロシアのシベリア鉄道でヨーロッパにまでつながる。
また、中国の吉林省も鉄道でウラジオストクにつながっている。
これが完成すると、
日本、朝鮮半島、中国、ロシアが単一の貿易ルートで結ばれる
ことになる。いわばこれは、日中韓ロの「一帯一路」のような構想である。
しかし、日本のこのような動きは保護主義と中国、ロシア排除のトランプ政権の基本政策からは大きくずれている。
ということでは、今後は日本の安倍政権がトランプ政権による攻撃のターゲットとなるということだ。
ただ攻撃は、表だった安倍政権批判ということにはならない可能性のほうが大きい。
予想外のところから日本を代表する企業が攻撃されたり、また日本経済の弱いエリアが締め付けの対象になるかもしれない。
昨今、カルロス・ゴーン会長の逮捕で日産とルノー、そして三菱自動車の三社アライアンスの行方に暗雲がただよっている。
この動きもこうした文脈で見たほうがよいだろう。
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2018年12月22日土曜日
タワーマンション 東京五輪後にやってくるスラム化の恐怖
タワーマンション 東京五輪後にやってくるスラム化の恐怖
オリンピックを開催した国はオリンピック後に衰退する運命なのでしょうか。
派手に演出したオリンピックの残骸が開催国の重荷になってしまいます。
3年後のオリンピックの準備で東京は華やかさを増していますが、オリンピックが終わってもその華やかさは維持されるのでしょうか。
そうは思えないのですが。。。
東京だけでなく首都圏のあちこちにマンションが建設されています。
人口が減少しているのにマンションばかり立ち並んでどうするのでしょうか。
保育園は不足しているのにマンションばかりが過剰供給です。
やがて空室が目立つようになるでしょう。
マンションを売りたくてもそう簡単には売れなくなるのではないでしょうか。
東京のタワーマンションも何十年後かに必ず老朽化します。
どうするのでしょうかね、老朽化したタワーマンション。
山の上から東京の高層ビル群が見える時がありますが。。。まるで天空の墓場のように見えたりします。
将来的に東京の高層ビルが巨大な墓石のようにならないことを願うばかりです。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20170330/dms1703301700009-n1.htm
タワーマンション 東京五輪後にやってくるスラム化の恐怖
高層階の住民からすれば、住宅ローンをたんまり抱えて、「無理くり」入居してきた一般庶民である住民の存在は気に入らない、低層部の住民からみれば、必要のない豪華な共用施設を独り占めして我が物顔でふるまう高層階住民のいやらしさが癪に障るというわけだ。
しかし、この話はあくまでも現状での話だ。
別にお互い「好き」で買ったマンションなのだから入居後の争いなど他人からみればどうでもよい話ともいえる。
問題はこれからだ。タワマンの高層階は「投資」として買った人が多い。つまり、投資は「入口」があれば、必ず「出口」=売却することによって完結する。
湾岸エリアのタワマンを買った多くの外国人投資家は東京五輪が終わるまでに、自分たちの投資を確定させようとする。
相続税の節税目的で買った人は当然だが、相続発生後はこの物件に用はない。
すでにこのエリアの中古マンション市場では、彼らによる「売り」が優勢になっている。新築のタワマンが折からの建設費の高騰により分譲価格がどんどん上がる中、中古市場では「売り逃げ」を図る投資家が繰り出す大量の売り物件で溢れている。
新築物件への影響は甚大になる。東京五輪後の東京の将来について楽観的な人は少ない。首都圏ですら、今後は人口が減少に向かうことは間違いなく、激しい高齢化社会の到来は首都圏においては、実はこれからが本番と言われている。
東京がアジアの金融センターになることを唱える政治家は多いが、外国人の金融マンの間ではジョークとしか聞こえないだろう。彼らは口をそろえて「アジアの金融センターはシンガポールあるいは香港」と断言する。
ということは、東京五輪後に東京タワマン投資の掛場に新たに登場する投資家は少ない。相場は「下げ」となる。もともと東京五輪目当てで上がってきたタワマン高層階相場は、大量の「売り」の出現により暴落するだろう。
さらに国税庁はタワマンの相続税評価額を見直し、これまで階層差に関わらず一緒だった評価に格差をつけた。相続税対策としての妙味も減じられてしまったタワマンの高層階をあえて高い価格で買おうとする人は激減するだろう。
この相場下げの影響は、本来は高層階とは縁のないはずの低層部の住戸の中古相場の足を引っ張ることにもなるだろう。
ここまではこれから数年間の話。
そして大問題が、東京五輪以降で顕著になるタワマンの大規模修繕問題の話である。
タワマンの建設が進んだのは1995年以降と言われる。
大都市法が改正され、都心部の容積率が大幅に緩和された結果、大量のタワマンが湾岸部を中心に供給されてきた。
そのマンションの多くが築25年を超えるのが東京五輪以降だ。
実はタワマンの大規模修繕については工法が確立されていない。
外壁の修繕をするためにも足場が組めないのでゴンドラによる作業になる。高層建築物では、上層部は穏やかな日でも強風であることが多い。作業面積は限られ、天候を見ながらの作業となり工期は通常の作業の3倍以上かかるといわれ、そのぶん負担金額は通常のマンション工事と比べて大幅増となる。
エレベーターも高層用は通常のマンションと比べて高性能であるぶん、更新する場合のコストは高額になる。しかもタワマンはエレベーターが一棟あたり15基くらいある。地震に対して「安心・安全」を謳う非常用発電機も更新の場合は1基あたり数千万円から1億円にもなる。
こうした負担について、デベロッパーはマンション分譲時に明確な説明はしていない。むしろ管理費・修繕維持積立金が安いのは「戸数が多いから」という一見わかったような説明をしているが、これらの費用が年々急上昇していく実態が世の中で明らかになるのはやはり
「アフター2020」
ということになる。
当然、これらの費用を負担するのは区分所有者自身だ。
投資家に見捨てられた高層部には、「逃げ遅れた」外国人が空き住戸を自国民に使わせ、住棟内のトラブルが増えるだろう。
管理費や修繕維持積立金の滞納が頻発することも心配だ。
彼らが国に帰ってしまえば、そのあとを追いかけるのは至難の業だ。
低層部では無理なローン設計で買っていた「背伸び」組の住民たちの中に、ローンが払えず破綻する人たちが発生するかもしれない。
管理組合は人種の違い、経済力の違い、年齢層の違いからくる阿鼻叫喚のスラム状態になす術がない。
そんなタワマンの未来を今から予見している人は少ない。
しかし、この事態は決してオカルト小説ではない、間近に迫った問題なのである。
ここまで、記事引用は⇒日本や世界や宇宙の動向さんより
さて、カレイド・スコープ氏による以下の内容では、もう差し迫った事態であることが怖いです。
(中国人富裕層が)2020年の東京オリンピック開催を当て込んで、東京23区内の新築物件に向かいました。東京23区内といっても、特に過熱しているのは、山手線の内側と東京湾岸エリアです。
初期の頃、東京の大手不動産会社の青図面を見ただけで、住むことのない豪華新築マンションを次々と買い漁っていったのです。
それは、2013年から2014年に集中しました。
日本の税制では、不動産購入後5年以内に売却すると、売却益の35%に税金がかかってきます。
しかし、5年以上が経過後の売却益にかかってくる税率は21%に大幅減額されるのです。
湾岸エリアのタワーマンションを爆買いした中国人の富裕層は、購入後5年が経過する2019年に売り払おうと身構えています。
中略
しかし、東京オリンピックが、最悪、頓挫の方向に向かったり、都心の再開発計画と切り離された場合、2019年を待たずして、東京23区内の新築物件の価格と、湾岸エリアのタワーマンションの価格には、早くも値崩れの兆候がはっきり出てくるでしょう。
その場合は、東京の地価暴落は、もっと早い時期にやって来るでしょう。
それが、東京が抱える潜在的な脅威なのです。
<バブル崩壊の予兆は、去年の段階ですでに出ている>
すでに今年の夏には、首都圏の新築マンション契約率が、不動産市場の「好・不況」の目安となる70%を割り込んでいて、消費者心理が冷え込んでいることを示しています。
これは、不動産購入を計画している人たちが、実は、マイナス金利の日本の未来に危機感を持っている証拠で、物件の動きは、去年の秋から極端に鈍くなっているのです。
http://www.mag2.com/p/money/28796/1
以上
それでも、大阪市内でも尼崎あたりでも、大型マンションや高層マンションが次々と建設されています。不動産会社の営業マンは、「即日完売だったんですよ~」とか平気で言いますが、その陰で「売れ行きが悪い」とこぼしているんですから、困りものです。あのセイクレストみたいなことを言ったりしているんですらもう本当にうそばっかりです。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
www.あほうどりのひとりごと.com/category/10167437-1.html
ジョン・ホーグの未来予想
ジョン・ホーグの未来予想
1914年と2014年
いままさに集合無意識から現れようとしている我々の未来とは、どのような姿なのだろうか?
そのヒントになるのは、2014年こそ第一次世界大戦が勃発した1914年の100周年であるという事実だ。
第一次世界大戦は、それ以前のヨーロッパを中心とした世界秩序を完全に破壊した。1914年以前は、経済のグローバリゼーションと科学技術の急速な発展という、まさに理性の合理的な力がもたらした繁栄を享受していた。
国際紛争は、大きな戦争にならないように、ヨーロッパ各国の王侯貴族が密接に結び合ったネットワークのなかで管理され、安定した国際秩序の維持に成功していた。それは、王侯貴族と特権階級である外交官が活躍する壮麗な世界であった。
事実、ヨーロッパで戦争は43年間も起こっていなかった。
これを180度変えたのものこそ、第一次世界大戦だった。
第一次世界大戦は、周到に計画されて起こった戦争ではまったくない。
理性の勝利によって、経済や政治を完全にコントロールしたと思い込んだ傲慢さの背後で、抑圧された暗く動物的な集合無意識の力がなんの前触れもなく突然と解除されてしまったのだ。
集合無意識の力がもたらす破壊は壮絶なものだった。オスマントルコ帝国やオーストリー・ハンガリー帝国、そしてロシア帝国は完全に消滅し、ドイツ帝国は崩壊した。
そして、それとともに、長い間ヨーロッパの国際秩序を管理していた王侯貴族の世界は、それを支えていた伝統的な階級社会とともに吹き飛んでしまった。第一次世界大戦前と後の世界では、ほとんどなんの共通点もないほどに変化してしまった。
2014年のいま、100年前と同じことが起きようとしているのだ。読者の方々は、自分の内面に、また社会の激しい動きのなかに、集合無意識が息を吹き返し、荒々しいエネルギーの発散をはじめたのを感じないだろうか?
2014年のいま、まさに100年前の過程が再現されようとしている。
おそらく、第一次世界大戦の終結100周年にあたる2018年には、かつてと同様、世界の様相は相当に異なっているはずだ。
2014年に始まる根本的な変化
では我々の集合無意識は、100年前と同じように、世界大戦へと我々を追い込んでいるのだろうか?いや、そうではない。これから破壊されるのは、コントロールがつかないほど肥大化した金融システムと、それに過度に依存した現代の経済システムである。
2014年から2018年にかけて、世界経済は1930年代の大恐慌を上回る不況に突入する。これが引き起こされる原因は、民衆の怒りというかたちをとる、激しい集合無意識の炸裂だ。
過度なグローバリゼーションは、低賃金労働の導入で中間層を没落させ、地域の住宅街を中心とした共同体を消滅させた。多くの人々の生活は先が見えないほど不安定になり、これまでの慣れ親しんだ安定した生活世界は消え去ってしまった。グローバリゼーションはほんの一部の人々に莫大な富を残したものの、大部分の人々には極端な格差しか残さなかった。
この恨みが、集合無意識の荒れ狂う力を解除させ、世界各地で激しい抗議運動に火を付ける。
トルコ、ブラジルなどの新興国ではこうした抗議運動はすでに起っているが、新興国の経済の停滞が続くにしたがって一層激しいものとなろう。
またアメリカでは、これまでにない激しい抗議運動が全米各地で起こるはずだ。
アメリカの衰退の真の意味とみずがめ座の時代
これまでに 解説したように、アメリカの衰退はだれの目にも明らかになりつつある。しかし、アメリカの衰退の後に待っている世界は、これまで考えられているような、BRICs諸国などが地域覇権を分け合う多極化した世界秩序の出現という地政学的な変化だけではない。
もちろん多極化は進展するだろうが、アメリカ の衰退ははるかに深い意味をもつ。
この意味を理解するためには、アメリカの衰退が起こっている時期に注目する必要がある。2008年にみずがめ座の時代に入ったことを考えると、衰退の過程はみずがめ座の時代の特徴を反映したものとなるはずだ。
で は、みずがめ座の時代の特徴とはなんだろうか?それは、巨大組織の衰退、個人の力の強化、ネットワークの拡大などの特徴だ。それに伴い、社会のあらゆる方 面で中央集権が解体して、分散化が加速度的に進む。アメリカの覇権の衰退と多極化は、あらゆる領域でダイナミックに進む分散化の過程が、地政学の分野で表 現されたものにしかすぎないのだ。
2018年にやってくる徹底して分散化した世界
したがって、世界の多極化が本質的な現象だと誤解してはならない。これから我々の目の前に現れてくるのは、徹底して分散しシステムなのだ。
こうしたシステムは、2015年から2016年に起こる世界的な不況の過程で出現する。
先の解説ですでに紹介したように、2015年から始まる世界的な不況でドルと円は衰退し、中国の元が唯一の信頼できる基軸通貨となる。
しかし、元の基軸通貨の支配は長くは続かない。
というよりも、2016年頃になると、基軸通貨という概念が意味をなくし始めるのだ。
基軸通貨が必要であるの は、中央銀行が管理する不換紙幣によって維持されている経済システムのもとだけだ。
不換紙幣を相互に交換するツールが基軸通貨なのである。
だが2016年頃からは、ビットコインのような、ネットワークで使われるデジタル化した通貨が、あらゆるものとサービスの取引に使われるようになる。こので は中央銀行も一般の銀行も、中央集権化したあらゆる金融システムは必要なくなる。世界に分散化した個人が、ネットワークを通してデジタル通貨を支払い手段 として経済関係を結ぶのだ。
またこれは、投資にも大きな影響を与える。いま次第に大きくなっているクラウドファンディングが投資の中心的な形態になるはずだ。
もはや、巨大な投資銀行の役割はなくなる。
宗教と信仰
分散化というみずがめ座の時代の特徴は、宗教と信仰にも歴史的な転換を迫ることになる。中央集権化した教壇と、それを支えている信者の信仰心は、やはり急速に衰退する。
権威を集中した一神教的な宗教に変わって、個々の人間に神的な力が宿っていることを自覚する方向にシフトする。これは、特定の権威が神聖なものを独占している中央集権的な宗教の時代から、神聖性が個々の人間に分散化した時代になる。
そのような時代では、自分の内面に宿る力こそがもっとも神聖なものなので、信 仰という態度を保持する必要性もなくなる。
ヤスの備忘録2.0さんより抜粋
PRESIDENT 2015年1月12日号
もし私が日本の若者だったら、外国語を習得して日本脱出に備えます。
もしくは、カラシニコフ銃を手に立ち上がり、革命を起こそうとするかもしれません(笑)。
日本に骨を埋めるつもりなら、農地を買ってトラクターを運転できるようにもなってください。
これからは農業の担い手が不足するので、食糧を生産できる人の将来は安泰です。
ライバルが少ないうちに始めれば、15年後に農家として大成功したあなたのもとに「ここで働かせてください」と言ってくる人が現れますよ。ジム・ロジャース
▼ジョン・ホーグの2017年予測
特に大統領選挙では、1968年から一般投票の勝利者を予測し、すべて的中させている。
周知のようにアメリカの選挙システムでは、一般投票で得票したものが大統領になれるわけではない。
選挙の結果は、各州に配分された選挙人の人数によって決まる。
そのため、たとえ全米の得票数が上回っていたとしても、選挙人の獲得数で対立候補が上回っていれば、選挙には負けることになる。
今回の選挙ではこのケースであった。
クリントンの得票数は230万票もトランプを上回っていたものの、選挙人の獲得数ではトランプが勝っていたので、トランプの勝利が決定した。
ジョン・ホーグは、早くも1998年からクリントンが大統領になる可能性があること、そして2015年にトランプが立候補し泡沫候補であった時期に、トランプ旋風が起きることを予見していた。
そして、おおよそ次のようなことをかなり早い時期から述べていた。
「クリントンが大統領になる可能性は十分にある。それは間違いない。
一方トランプだが、彼が勝利する可能性は5%程度だ。
だが占星術から見ると、11月8日の投票日はトランプにとって絶好調の日だ。
5%が残りの95%を上回る可能性はある。今回は最後まで結果は分からない」
これは、クリントンでもトランプでもどちらが勝利してもおかしくないという予想に聞こえるかもしれないが、
事実、一般得票ではクリントンが勝利し、選挙人の獲得数ではトランプが勝利するという結果になった。
これは、ジョン・ホーグの予見した通りの展開ともいってよいだろう。
そのようなジョン・ホーグだが、今回トランプ政権の2017年がどのような年になるのか、予想する記事を配信した。
次の7つが起こるという。
1)米経済は2017年に好景気になる。
2)しかし好景気は2017年の秋には終わる。2018年にはインフレを伴う大不況がやってくる兆候が出てくる。
3)皆既日食のある8月21日前後には政治的、経済的な災難がアメリカで相次ぐ。
これらの出来事でアメリカ国民は自分たちのアイデンティティーを本格的に問われるようになる。
また、これらの出来事はトランプを決定的に変える。
4)オバマとネオコンが2014年に開始したロシアとの冷戦は、トランプによって2017年には終了する。
5)ロシアとアメリカは協力し、ISを攻撃する。2017年の夏にはISは駆逐される。
6)もしアメリカが2017年中に温室効果ガスを規制する気候変動会議をリードしなければ、2019年にはアメリカの覇権は完全に終演する。
7)2017年に起こる気候変動は激烈だ。トランプ自らが大きな経済的な損失を被る。
これに彼はショックを受けて、地球温暖化を信じるようになる。
もしこの転換が2017年に起こり、アメリカが気候変動会議をリードすることができれば、アメリカは再度大国として世界をリードする位置につく。
だが、この判断が2018年から2019年にずれ込むと、中国の世紀が本格的に始まり、アメリカは中国に追随するだけの国になるだろう。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/446147264.html
http://www.あほうどりのひとりごと.com/category/10091553-54.html
[予知情報] 松原照子予言,2019年
[予知情報] 松原照子予言,2019年
世見2017年12月30日来年の世の中の動向は
★世見★松原照子氏のスピリチュアル情報
<世見>
2017/12/30 来年の世の中の動向は
2017年も明日で終わりです。
2018年に向けて、今年の内にお心の整理をなさってくださいね。
2018年がどのような一年になるのかは、月刊SYOの新年号で思いの丈を書かせていただいていますが、けっして油断できない一年になると思っています。
自然界も、経済界も、国との付き合いも、中々厳しいものを感じています。
私の感じる世界が真実に迫るものかはわかりませんが、世界は大きく変化しようとしているのが感じられるのです。
自然界におきましても、危機迫る何かを感じ取り始めているのは私だけではないと思います。
人類はあらゆる自然災害に打ち勝ち、生き抜いてきたのですから、今後どのような災害が来ても大丈夫と申し上げておきたく思います。
いつも申し上げていますように、自然界に感謝する気持ちを忘れずにいますと、必ずや自然界に届きます。
来年は中国の動きから目を離してはいけません。
来年も隣国北朝鮮は、日本国を嘲笑うかのようにミサイル発射をすることでしょう。
来年も韓国は、中国と共に慰安婦問題を突き付けて来ることでしょう。
来年、中国・韓国は反日ムードを国民に煽ることになると思います。
来年と申しましても二日後です。
今年を振り返りますと、アメリカ合衆国大統領トランプ氏の動向が目立ちました。
出来ることなら、月刊SYO新年号の「世の中の動き」を是非お読みいただきたいとも思います。
2018年、2019年の2年間に、何か大きなことが起きるようにも思えて、自分の心に気合を入れてもいます。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/456049358.html
世見2018年5月1日平成時代、この30年
★世見★松原照子氏のスピリチュアル情報
<世見>
2018/5/1 平成時代、この30年
昭和をどのようなイメージで受け止めているのでしょうか。
平成はもうすぐ終わりを告げます。
1989年から丁度30年後の2019年に平成は終わります。
この30年で世界はどのように変わり、どのようなピリオドを打つのでしょうか。
30年というのは、過ぎてしまえばアッという間です。
平成元年には、天安門事件やベルリンの壁崩壊が起きました。
その後、ソ連が解体。
香港が中国に返還され、金正日が総書記に就任したのが平成9年。
そして彼は平成23年に死去しました。
EU単一通貨ユーロが導入されもしました。
イラク戦争が勃発したのも15年前です。
地下鉄サリン事件が起きたのが平成7年、今から23年前の3月20日です。
未曾有の巨大地震が西と東に起き、阪神淡路大震災では大火が暴れ、東日本大震災では大津波の恐怖を体験したのです。
この大災害から未だに立ち直っていない方々もおられます。
天災は人類の想いなど受け付けてはくれません。
いつ起きるのかは地球しか知らないことなのです。
雲仙普賢岳の火砕流のもの凄さ、そして御嶽山の噴火。
豪雨は、日本列島を洗っているかのようです。
平成元年の4月には消費税3%の徴収開始。
バブルピークの平成元年、そしてバブル崩壊。
日経平均株価は3万8,957円、こんな時もありました。
時代は流れゆき、一人一人の生き様が刻まれて歴史が作られて行きます。
私達は歴史の証人です。
望むことが出来るのであれば、未曾有の大災害はもう二度と体験したくありませんが、
「災害は忘れぬ内にやって来る」
と言葉が変化しそうです。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/459105079.html
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/222085673.html
富士山より怖い白頭山の噴火確率99%だって
早川由紀夫教授のホームページに見つけた資料を下記に転載します。
また、東北大学名誉教授である谷口宏充氏は、
「白頭山の過去1100年間の噴火を調査した結果、10世紀に大噴火した後、14-20世紀の間に6回噴火したことが明らかになった」
という公式発表を2012年にしています。
なぜかというと、
「2011年3月の東日本大震災で、プレート運動が起き、白頭山が噴火する確率は、2019年まで68%、2032年までは99%」
と述べているのです。
以下早川教授記載のもの転載
青森県内の十和田湖915年火山灰の上には,白頭山 Baitoushan から日本海をわたって飛来してきた火山灰(苫小牧火山灰)が認められる(町田・他,1981;Machida and Arai, 1983)
両テフラの間にはクロボクまたは泥炭が約3cm堆積している。
苫小牧火山灰は,アルカリ長石を含むというきわだった特徴をもつ。
北海道・青森県・秋田県北部のほか,八戸沖および日本海北部の海底にも見いだされる。
白頭山は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国の国境にあり,中国では長白山 Changbaishan とよばれている。
長白山の地表直下では,次のような堆積物の積み重なりが観察される(Machida et al., 1990):上位より,
白山 Baishan ⇒火砕流
円池 Yuanchi ⇒降下軽石
両江 Liangjiangラハール/長白 Changbai ⇒火砕流
白頭 Baegudu ⇒降下軽石
二道白河 Erdaobaihe ⇒岩なだれ
なお,町田・光谷(1994)は上の層序を若干修正し,白山火砕流を長白火砕流の上部に含め,円池降下軽石を10世紀ではない後世の噴火堆積物としている。
また,町田・白尾(1998)は,苫小牧火山灰を長白火砕流から立ち上った灰かぐらと考えている。
白頭山の10世紀噴火のマグニチュードは7.4であり,過去2000年間では,インドネシア・タンボラ火山の1815年噴火(M7.1)をしのいで,世界最大級である。
日本列島の上に降り積もった苫小牧火山灰の厚さは5cm以下であるから,北海道・東北北部が受けた被害は軽微なものだったろう。
しかし,噴火規模・噴火様式から考えて,当時の白頭山周辺地域が受けた被害は甚大であったと想像される.
Machida et al. (1990)は,少なくとも4000km2の森林がこの噴火によって破壊されたとみている。
青森県小川原湖の堆積物中に,厚さ13cmの泥を挟んで,苫小牧火山灰と十和田湖915年火山灰があることを福澤・他(1998)は認め,その間に22枚の葉理を数えた。
この葉理が年縞であるとみなすと,苫小牧火山灰は937年に降ったことになる.しかし泥の堆積速度が一様だったと考えると,13cmの泥の堆積時間として約40年が期待され,22年では短すぎる(池田・他,1997)。
『高麗史』の世家巻第二の高麗定宗元年(946年)条に「是歳天鼓鳴赦」,および志巻第七に「定宗元年天鼓鳴」とある。
また,『朝鮮史』は同年条に「是歳,天鼓鳴ル.仍リテ赦ス」と記し,その引用元として『高麗史』および『高麗史節要』を挙げている。
天にかなりの鳴動があったため,罪人の大赦をとりおこなったのだろう、鳴動が聞こえた月日は,いずれの史料にも記されていない。
鳴動の聞こえた場所にかんする記載もないが,大赦をおこなうほど深刻に受けとめられたのであるから,おそらく高麗の都であった開城(Kaesong,現在のソウルの北西)付近で為政者らが直接体験した事件であったと想像される。
当時の高麗の領土は白頭山のある威鏡道地方に及んでなく,火山灰の分布軸からも外れている.このため,鳴動の原因を知るには至らなかったようだ。
なお,『高麗史』と『朝鮮史』をみる限り,10世紀前半に他の鳴動・降灰事件の記録は見られない。
まとめ
史料に書かれた記録にもとづいて火山学的に検討した結果,以下の結論が得られた。
白頭山の噴火クライマックスは947年2月7日で,噴火開始は946年11月(あるいは944年2月)だったと思われる。
以上
早川氏のホームページには、十和田湖の噴火についても書かれてあります。
十和田湖の噴火と白頭山の噴火には相関関係があるとも推察されています。
ふと869年に起きたという貞観地震と関連があるのかもしれないと思ったりします。
白頭山付近には中国の赤松原発があります。
もし、白頭山の噴火が起きれば、規模は1980年のセント・へレンズ山噴火レベルと推定されると谷口教授は言います。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/category/10091553-54.html
ポールシフト後の世界,未来の地球…海外のサイキックによる姿
アセンション系の話について興味がある人は多いと思います。
3・11以降そのことに引き寄せられた人や、理由なく何かが脳裏に浮かぶようになった、または何か分からないけど敏感になったなど感じている人もとっても多いと思います。
私もその一人です。ある瞬間、突然あるシーンが見えたり、立っていると目の前の景色が縮んだり広がったり…ある時は、ふわ~っと空に飛んでいたり…。
こんな体験を持つと、今見ているものは幻?あるいは別の世界が同時に存在している?とか妄想していますが・・・
私たちの未来はどこへ?
…そしてどうなっていくのでしょうか?
自分への問い、いつもそればかり考えてちょっと悲観的な部分もありましたが、いろいろなことを調べて探しているうち、この答えならいいな、と思うものがありました。
松原照子さんやコテ造さんなど、足元にも及ばない程の内容なのです。
海外の友人からその人のことを耳にしていた時、「アネモネ」という雑誌にその方のリーディングなどがびっくり!掲載されていました。
それはペニー・ケリーさんという方が見てきた未来のお話です。
ペニーさんが語る未来の地球は、とても素晴らしいものです。
私たちの意識は変革をしていて本当に大切なこと、愛や親しみ、人々との協調、共鳴…を知ればこのような素晴らしい未来を手に入れることができる人が多くなる、ということだと思います。
(これから起こることはいかようにも変えられる未来というものであろうと思います。それは人々の意識が変わることで、その未来も変えられる、というような…)
まずは、そんなペニーさんが語る2011年から2021年までの世界の動きをご紹介します。
―――メッセージ―――
「国の機能が崩れていくため、国同士の戦いはほんのわずかとなります。
ほとんどの戦いは内戦です。
例えば『人民とその国の政府との戦い』『富裕層と貧民層』『持っている人と持たない人』『若者と老人』『工業と経済の発展を信じる人とそれが破壊を進めていると信じる人』との間に起きます。
また、非常に大きな破滅状態と混乱が起きます。破滅状態は2012年が最悪なのではなく、2011年から2021年までにおよびます。
2015年から2019年までは、非常に大変なことになるでしょう。
特に米国では、2021年までに自分たちの国が決して昔のようには戻らないと気づき始めます」
(アネモネ9月号より)
そしてそのペニーさんが見てきた未来が4つに分けてまとめられています。
1地軸移動「ポールシフト」後の新しい赤道
2世界都市は、ポールシフト後の未来の都市
32度のポールシフトを乗り越えた人類の近未来
4 2413年の遠い未来の様子
ポールシフト (pole shift) とは、惑星など天体の自転に伴う極(自転軸や磁極など)が、何らかの要因で現在の位置から移動すること。
実際に、地球の地磁気は過去100万年あたり1.5回程度の頻度で反転していることが地質的に明らかである。現在では極端な移動こそはないものの、中心核の磁性変動で磁北が1年に約64キロというスピードで東へ向かって移動しているとする研究結果が発表されている。
自転軸に関しても、2004年12月26日に発生したマグニチュード9.3のスマトラ島沖地震では、最大で約2cm程度移動した(広義の"ポールシフト"、極運動が発生した)可能性があるとする予測がある(Wikipediaより)
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/222085673.html
pennykelly.com
http://www.pennykelly.com/node/204)
世見2017年12月30日来年の世の中の動向は
★世見★松原照子氏のスピリチュアル情報
<世見>
2017/12/30 来年の世の中の動向は
2017年も明日で終わりです。
2018年に向けて、今年の内にお心の整理をなさってくださいね。
2018年がどのような一年になるのかは、月刊SYOの新年号で思いの丈を書かせていただいていますが、けっして油断できない一年になると思っています。
自然界も、経済界も、国との付き合いも、中々厳しいものを感じています。
私の感じる世界が真実に迫るものかはわかりませんが、世界は大きく変化しようとしているのが感じられるのです。
自然界におきましても、危機迫る何かを感じ取り始めているのは私だけではないと思います。
人類はあらゆる自然災害に打ち勝ち、生き抜いてきたのですから、今後どのような災害が来ても大丈夫と申し上げておきたく思います。
いつも申し上げていますように、自然界に感謝する気持ちを忘れずにいますと、必ずや自然界に届きます。
来年は中国の動きから目を離してはいけません。
来年も隣国北朝鮮は、日本国を嘲笑うかのようにミサイル発射をすることでしょう。
来年も韓国は、中国と共に慰安婦問題を突き付けて来ることでしょう。
来年、中国・韓国は反日ムードを国民に煽ることになると思います。
来年と申しましても二日後です。
今年を振り返りますと、アメリカ合衆国大統領トランプ氏の動向が目立ちました。
出来ることなら、月刊SYO新年号の「世の中の動き」を是非お読みいただきたいとも思います。
2018年、2019年の2年間に、何か大きなことが起きるようにも思えて、自分の心に気合を入れてもいます。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/456049358.html
世見2018年5月1日平成時代、この30年
★世見★松原照子氏のスピリチュアル情報
<世見>
2018/5/1 平成時代、この30年
昭和をどのようなイメージで受け止めているのでしょうか。
平成はもうすぐ終わりを告げます。
1989年から丁度30年後の2019年に平成は終わります。
この30年で世界はどのように変わり、どのようなピリオドを打つのでしょうか。
30年というのは、過ぎてしまえばアッという間です。
平成元年には、天安門事件やベルリンの壁崩壊が起きました。
その後、ソ連が解体。
香港が中国に返還され、金正日が総書記に就任したのが平成9年。
そして彼は平成23年に死去しました。
EU単一通貨ユーロが導入されもしました。
イラク戦争が勃発したのも15年前です。
地下鉄サリン事件が起きたのが平成7年、今から23年前の3月20日です。
未曾有の巨大地震が西と東に起き、阪神淡路大震災では大火が暴れ、東日本大震災では大津波の恐怖を体験したのです。
この大災害から未だに立ち直っていない方々もおられます。
天災は人類の想いなど受け付けてはくれません。
いつ起きるのかは地球しか知らないことなのです。
雲仙普賢岳の火砕流のもの凄さ、そして御嶽山の噴火。
豪雨は、日本列島を洗っているかのようです。
平成元年の4月には消費税3%の徴収開始。
バブルピークの平成元年、そしてバブル崩壊。
日経平均株価は3万8,957円、こんな時もありました。
時代は流れゆき、一人一人の生き様が刻まれて歴史が作られて行きます。
私達は歴史の証人です。
望むことが出来るのであれば、未曾有の大災害はもう二度と体験したくありませんが、
「災害は忘れぬ内にやって来る」
と言葉が変化しそうです。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/459105079.html
http://www.あほうどりのひとりごと.com/article/222085673.html
富士山より怖い白頭山の噴火確率99%だって
早川由紀夫教授のホームページに見つけた資料を下記に転載します。
また、東北大学名誉教授である谷口宏充氏は、
「白頭山の過去1100年間の噴火を調査した結果、10世紀に大噴火した後、14-20世紀の間に6回噴火したことが明らかになった」
という公式発表を2012年にしています。
なぜかというと、
「2011年3月の東日本大震災で、プレート運動が起き、白頭山が噴火する確率は、2019年まで68%、2032年までは99%」
と述べているのです。
以下早川教授記載のもの転載
青森県内の十和田湖915年火山灰の上には,白頭山 Baitoushan から日本海をわたって飛来してきた火山灰(苫小牧火山灰)が認められる(町田・他,1981;Machida and Arai, 1983)
両テフラの間にはクロボクまたは泥炭が約3cm堆積している。
苫小牧火山灰は,アルカリ長石を含むというきわだった特徴をもつ。
北海道・青森県・秋田県北部のほか,八戸沖および日本海北部の海底にも見いだされる。
白頭山は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国の国境にあり,中国では長白山 Changbaishan とよばれている。
長白山の地表直下では,次のような堆積物の積み重なりが観察される(Machida et al., 1990):上位より,
白山 Baishan ⇒火砕流
円池 Yuanchi ⇒降下軽石
両江 Liangjiangラハール/長白 Changbai ⇒火砕流
白頭 Baegudu ⇒降下軽石
二道白河 Erdaobaihe ⇒岩なだれ
なお,町田・光谷(1994)は上の層序を若干修正し,白山火砕流を長白火砕流の上部に含め,円池降下軽石を10世紀ではない後世の噴火堆積物としている。
また,町田・白尾(1998)は,苫小牧火山灰を長白火砕流から立ち上った灰かぐらと考えている。
白頭山の10世紀噴火のマグニチュードは7.4であり,過去2000年間では,インドネシア・タンボラ火山の1815年噴火(M7.1)をしのいで,世界最大級である。
日本列島の上に降り積もった苫小牧火山灰の厚さは5cm以下であるから,北海道・東北北部が受けた被害は軽微なものだったろう。
しかし,噴火規模・噴火様式から考えて,当時の白頭山周辺地域が受けた被害は甚大であったと想像される.
Machida et al. (1990)は,少なくとも4000km2の森林がこの噴火によって破壊されたとみている。
青森県小川原湖の堆積物中に,厚さ13cmの泥を挟んで,苫小牧火山灰と十和田湖915年火山灰があることを福澤・他(1998)は認め,その間に22枚の葉理を数えた。
この葉理が年縞であるとみなすと,苫小牧火山灰は937年に降ったことになる.しかし泥の堆積速度が一様だったと考えると,13cmの泥の堆積時間として約40年が期待され,22年では短すぎる(池田・他,1997)。
『高麗史』の世家巻第二の高麗定宗元年(946年)条に「是歳天鼓鳴赦」,および志巻第七に「定宗元年天鼓鳴」とある。
また,『朝鮮史』は同年条に「是歳,天鼓鳴ル.仍リテ赦ス」と記し,その引用元として『高麗史』および『高麗史節要』を挙げている。
天にかなりの鳴動があったため,罪人の大赦をとりおこなったのだろう、鳴動が聞こえた月日は,いずれの史料にも記されていない。
鳴動の聞こえた場所にかんする記載もないが,大赦をおこなうほど深刻に受けとめられたのであるから,おそらく高麗の都であった開城(Kaesong,現在のソウルの北西)付近で為政者らが直接体験した事件であったと想像される。
当時の高麗の領土は白頭山のある威鏡道地方に及んでなく,火山灰の分布軸からも外れている.このため,鳴動の原因を知るには至らなかったようだ。
なお,『高麗史』と『朝鮮史』をみる限り,10世紀前半に他の鳴動・降灰事件の記録は見られない。
まとめ
史料に書かれた記録にもとづいて火山学的に検討した結果,以下の結論が得られた。
白頭山の噴火クライマックスは947年2月7日で,噴火開始は946年11月(あるいは944年2月)だったと思われる。
以上
早川氏のホームページには、十和田湖の噴火についても書かれてあります。
十和田湖の噴火と白頭山の噴火には相関関係があるとも推察されています。
ふと869年に起きたという貞観地震と関連があるのかもしれないと思ったりします。
白頭山付近には中国の赤松原発があります。
もし、白頭山の噴火が起きれば、規模は1980年のセント・へレンズ山噴火レベルと推定されると谷口教授は言います。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/category/10091553-54.html
ポールシフト後の世界,未来の地球…海外のサイキックによる姿
アセンション系の話について興味がある人は多いと思います。
3・11以降そのことに引き寄せられた人や、理由なく何かが脳裏に浮かぶようになった、または何か分からないけど敏感になったなど感じている人もとっても多いと思います。
私もその一人です。ある瞬間、突然あるシーンが見えたり、立っていると目の前の景色が縮んだり広がったり…ある時は、ふわ~っと空に飛んでいたり…。
こんな体験を持つと、今見ているものは幻?あるいは別の世界が同時に存在している?とか妄想していますが・・・
私たちの未来はどこへ?
…そしてどうなっていくのでしょうか?
自分への問い、いつもそればかり考えてちょっと悲観的な部分もありましたが、いろいろなことを調べて探しているうち、この答えならいいな、と思うものがありました。
松原照子さんやコテ造さんなど、足元にも及ばない程の内容なのです。
海外の友人からその人のことを耳にしていた時、「アネモネ」という雑誌にその方のリーディングなどがびっくり!掲載されていました。
それはペニー・ケリーさんという方が見てきた未来のお話です。
ペニーさんが語る未来の地球は、とても素晴らしいものです。
私たちの意識は変革をしていて本当に大切なこと、愛や親しみ、人々との協調、共鳴…を知ればこのような素晴らしい未来を手に入れることができる人が多くなる、ということだと思います。
(これから起こることはいかようにも変えられる未来というものであろうと思います。それは人々の意識が変わることで、その未来も変えられる、というような…)
まずは、そんなペニーさんが語る2011年から2021年までの世界の動きをご紹介します。
―――メッセージ―――
「国の機能が崩れていくため、国同士の戦いはほんのわずかとなります。
ほとんどの戦いは内戦です。
例えば『人民とその国の政府との戦い』『富裕層と貧民層』『持っている人と持たない人』『若者と老人』『工業と経済の発展を信じる人とそれが破壊を進めていると信じる人』との間に起きます。
また、非常に大きな破滅状態と混乱が起きます。破滅状態は2012年が最悪なのではなく、2011年から2021年までにおよびます。
2015年から2019年までは、非常に大変なことになるでしょう。
特に米国では、2021年までに自分たちの国が決して昔のようには戻らないと気づき始めます」
(アネモネ9月号より)
そしてそのペニーさんが見てきた未来が4つに分けてまとめられています。
1地軸移動「ポールシフト」後の新しい赤道
2世界都市は、ポールシフト後の未来の都市
32度のポールシフトを乗り越えた人類の近未来
4 2413年の遠い未来の様子
ポールシフト (pole shift) とは、惑星など天体の自転に伴う極(自転軸や磁極など)が、何らかの要因で現在の位置から移動すること。
実際に、地球の地磁気は過去100万年あたり1.5回程度の頻度で反転していることが地質的に明らかである。現在では極端な移動こそはないものの、中心核の磁性変動で磁北が1年に約64キロというスピードで東へ向かって移動しているとする研究結果が発表されている。
自転軸に関しても、2004年12月26日に発生したマグニチュード9.3のスマトラ島沖地震では、最大で約2cm程度移動した(広義の"ポールシフト"、極運動が発生した)可能性があるとする予測がある(Wikipediaより)
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
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pennykelly.com
http://www.pennykelly.com/node/204)
[予知情報] 射手座木星の2019年
2019年は最後の浮足立った年?木星が射手座に移動後の社会情勢
October 05, 2018 00:01
2017年10月~2018年11月中旬まで蠍座の間をうろついていた木星が、2018年11月下旬より1年間、射手座に移動します。
その木星を使って、2019年の世相を読み解いてみましょう。
そもそも占い関係なしに言えば、日本国を揺るがす大きなイベントとして、
天皇即位、
参議院選挙、
オリンピック前年、
消費税10%開始
などが挙げられ、かなりざわつく年であることが予測されます。
射手座は、弓を掲げたケンタウロスの形をしています。
弓は遠くのものを射止める道具であり、今ここに無い理想を狙う象徴です。
空想上の生物ケンタウロス族は人馬の姿をしており、一般的には粗暴な性格をしています。
しかし、この星座のモチーフとなっているケンタウロスは、ケンタウロス族の賢者ケイローンと呼ばれる人物で、
医学・音楽・予言
など多才で博識であったとされています。
そのようなことから、
運動、
医学、
音楽、
予言(オカルト)、
遠くにあるもの(海外・通信・移動)、
理想的なもの(宗教・教育)、
足元を省みない
などといったキーワードが抽出できるでしょう。
木星が射手座を通り過ぎるというのは、そういったキーワードの意味が強まる時期ということです。
こういったキーワードと、2018年現在見られている兆候をぶつけてみて、ありうる未来を予測することができます。
【1】いざなぎ景気の再来
木星の公転周期は12年なので、木星を使って社会を読み解こうとするならば
12年前の2007年
にそのヒントがあります。
その時期は、米国でじりじりサブプライムローンが焦げ付いておりましたが、日本はいざなぎ景気の時代です。
その翌年のリーマンショックまで、景気はイケイケでした。
消費税増税前の駆け込み需要、オリンピック前の需要と波に乗るならば最後の時期ですが、調子に乗っていると翌年以降痛い目に遭います。というよりも、
水面下では不況の波が押し寄せています
ので、見た目に騙されないことが重要です。
【2】教育改革
2020年度(2021年1月)からセンター試験が廃止されて、大学入試共通テストという形式で大学受験が新しくなります。
つまり、2018年4月以降に入学した高校生はこの変更に巻き込まれる形となるでしょう。
教育業界もこの対応に追われていますが、ある程度の試験の予測が整いノウハウが確立してくる時期になるかと思われます。
また、角川ドワンゴ学園のN中等部の2019年4月開校、堀江氏のゼロ高の2018年10月開校と様々なスタイルの学校が教育業界に殴り込みをかけ、少子化社会の中、学生獲得は熾烈を極めるでしょう。
【3】スポーツの注目度アップ
別にサッカーワールドカップ等の大きな行事は少ないものの、オリンピック代表選手の選考に一喜一憂する機会が増えたり、日本人選手の海外での活躍が期待できたりするかもしれません。
オリンピックについて、2018年は運営体制で国内からのバッシングが激しかった訳ですが、スポーツそのものに対する注目度は高くなることで今よりかは、良い意味で注目できそうです。
ただし、開催費用はさらにかさむでしょうから、それのバッシングは避けられないでしょう。
【4】宗教絡みの事件が増える
例えば、24年前はオウム真理教の地下鉄サリン事件が起きました。
12年前は、紀元会、顕正会、摂理などの宗教団体が問題を起こしました。
2019年も宗教絡みで何かしら、大きなことは起こるのでは無いでしょうか。
考えられそうなのは、創価学会の池田氏がここ数ケ月姿を見せていないことが大きな波紋を作るとか・・・。
まあ、天皇即位も広義での宗教変革といえるかもしれませんが。
【5】通信が更に便利になる
日本のwifiインフラ整備は先進国の中では遅れていますが、オリンピックに向けて、公共インフラが更に充実する可能性はあるでしょう。
また、新通信規格5Gも2020年開始予定から1年前倒して開始される可能性も高まってきました。
5Gでは、スマホのデータ転送量が更に増える他、他の機器への通信がより便利になると言われています。
魔術師ダッチの人生放浪日記
http://cagliostro-a-dutch.blog.jp/archives/77758493.html
2050年までの未来を科学的考察を含めて占う
July 21, 2018 17:10
時代は、複業だとかテレワークだとか色々と言われていますが、大多数の人にとっては、今一つ実感が湧かない現状にあります。
ただ、いずれはそちらの方向にシフトしていくことはまあ間違いはないでしょう。
問題なのは、いつ時代が変遷していくかということです。
何事も大事なのはタイミング。
儲かると言われる株だって、売るタイミングを間違えると損することは充分にありえます。
青信号で安全な筈の横断歩道も、しばらくそこに立っていればやがて赤信号になり、車が往来し始め、歩行者にとって地獄の環境となるでしょう。
世界のダイナミズムにタイミングを合わせないと、先走って変人扱いされたまま終わったり、遅すぎて先行者利益を取られてしまったりします。
そういう訳で、大まかな世の中の流れを西洋占星術(特に天王星の動き)及び、その他、科学的統計などをミックスして、2050年までの日本の流れを追っていこうと思います。なお、
★マークは占星術を基にした予測、
☆マークはオカルト一切抜きにした資料に基づいた予測
です。
【1】2018年~2026年(牡牛座天王星)
★更なる豊かさを求め、インフラを整備する時代
牡牛座は資産や安定性を司る星座。星の動きからすると、2010年代半ばぐらいまでの独立・起業・副業を煽るような動きは落ち着きます。
ある意味では企業文化の最盛期ということもありますので、企業とか組織にくっついていた方が、ソロ活動をするよりも何かとお金を稼ぎやすい時代かと思われます。
また、この時代では資産を守る意識が強く働き、堅牢性も追及されることでしょう。
☆おそらく日本における企業社会の最盛期となるのがこの時代です。
東京オリンピックに向けたインフラ整備が急ピッチで進み、以後も余波で企業の経済活動は活性化していることでしょう。
また、ここで最盛期と書いたのは、既に日本の人口が毎年減ってきているのであり、それに伴って経済が衰退することを意図しています。東京の人口のピークも2025年です。
それ以降は東京ですら、衰退の道を歩み始め、インフラの整備が困難になっていきます。
インフラは何も、物理的なものに関わらず情報に関わるものも含みます。
例えば、オリンピック観光客用にとwifi環境の整備が進むことでしょう。
一方でサイバーセキュリティの強化も伴い、ガチガチの監視管理によって、逆にユーザーに不便を強いることもあるでしょう。
特に企業活動について、セキュリティは非常に大事なものですので、ガチガチの防御システムに守られることとなります。
それによって在宅勤務を推奨する潮流が一時的に弱まるかもしれません。
【2】2026年~2033年(双子座天王星)
★多様性と流動性の時代
双子座は移動・流通・通信を司る星座です。また、双子座はその名のとおり、双子であり、多数の顔を有している星座でもあります。そういったところから多様性という言葉もキーワードにしても良さそうです。
その辺りに革命的な何かが起きると占星術では予測できます。
☆デパートも銀行も老人ホームも地方からなくなります。
2030年ごろには人口不足により、38道府県で生産力が低下するためです。
職を求めて労働者はさらに都会に進出し、地方に老いた親をそのままにしてはおけないと引退した老人をも地方から引っ張り出されるケースが増えるでしょう。
つまり、引っ越しなどの民族大移動が日本列島各地で見られることとなります。
すると物流業者は大忙し。
昨今、ヤマト運輸は人手不足に伴い、サービスの質を下げましたが、今のペースでは流通サービスの質はますます落ちていくため、流通改革を求められる機運が高まることでしょう。
また、引っ越しをするということは、働き方や働く場所そのものを変えるということになります。
様々な事情を持った人たちがマジョリティ化することで、職場はそれらに対応していかなければなりません。
ここでようやく企業社会も規制が緩やかになり、ダイバーシティ対応や複業など多様な働き方が、実感を持てるほどに一般化されることでしょう。
【3】2033年~2039年(蟹座天王星)
★家・共同体・国の概念が変わる時代
蟹座は保守的な性格を帯び、自分のホームを守ることを主眼とした星座です。
我々にとってホームとは何かということですが、それは文字通り物理的な家屋であったり、家族や共同体などのコミュニティだったり、人によっては国や地域を指すこともあるでしょう。
双子座天王星の時代を経て、多様な価値観が普及し、これまでの伝統的なホームは失われつつあります。
蟹座天王星は、容赦なくホームに改革のメスを入れることでしょう。
☆多様な価値観普及の功罪として、若者は結婚しないもしくは、マッチングの難易度が上がり結婚したくてもできない時代に突入し、既に少子高齢化問題が盛んに叫ばれています。ただ、この時代になると様子が変わってきます。かつての若者が高齢化し、かつての高齢者(団塊の世代)はぼちぼちお迎えが来る年頃です。
2039年前後は年間160万人ぐらいずつ日本人が死んでいくと考えられます。
2017年の出生数が91万人ですから、この死亡数がいかに多いかは納得できるでしょう。
検死するための医者不足、僧侶不足、火葬場不足、墓不足などの問題が一時的に湧きあがります。
そういった多死社会への対処をするために、儀式の効率化、墓の機能性重視の風潮は強まると予測されます。
今では親族に対して、盆暮正月、冠婚葬祭ぐらいでしか顔を合わせない人も多いでしょうが、死に対する扱いの変化は、親族の在り方にも一石を投じることになるかもしれません。
また、家屋そのものに関しても、変化はあるかもしれません。双子座天王星の時代の引っ越し前の地方の家、今では誰が住んでいるのでしょうか?
大抵の場合は、空き家ですね。
空き家を放置すると犯罪者の温床になったり、害獣(スズメバチなど)が住み着いているのに駆除できなかったり、不法投棄による環境汚染問題が発生したりで問題です。また、都市部でも、タワーマンションの老朽化に伴い、管理組合内での意見の対立して補修が進まないといった問題に見舞われるリスクはあります。それ故に、居住環境の大幅な改革が求めらることでしょう。
また、インフラも老朽化が甚だしくなっているにも関わらず、地方は人口減による税収不足で、インフラ再整備ができず、住む場所を規制する公的な動きも強化される可能性はあります。というよりも、この頃には青森市(2018年時点で28万人都市)レベルでも存続が危ぶまれる状態となっています。
自然災害やハザードマップとかにかこつけて、コンパクトシティ化が求められるでしょう。
【4】2039年~2046年(獅子座天王星)
★遊びの社会が到来する時代
獅子座は子どものように無邪気な遊び心を持った星座です。
近年、一部のオピニオンリーダーは「好きなことだけで生きていけば?」と周囲を煽りますが、一般人レベルがそれを実感できるのは、この時代あたりからだと思われます。
お気楽な一般市民としては、遊びそのものが産業化して、主婦が趣味でやっている小物づくりをバザーに出店がするがごとく、利益度外したビジネスごっこが流行るかもしれません。
もしくは、2010年代半ばに流行ったサロンビジネスブームの再来もありえるでしょう。
ただ、利益を度外視して、遊んでいるだけでも生きていける時代って、何が起こっているのでしょうか?
☆2040年代前半は、人口のボリュームゾーンのひとつである団塊ジュニア世代(1971~1974年生まれ)が70歳に到達し、定年が引き上げられていなければ、というか定年や年金の概念が残っていれば、引退して余生を送る時期です。
しかし、一説によれば楽観的試算で2043年には国民年金(厚生年金は2037年)の積立金が枯渇しています。
年金以外の何らかの方法が生み出されていることを祈るばかりです。
・・・ということもありますが、架空の楽園の実態は、人工知能や3Dプリンタなど技術の発展に伴う失業でしょう。
業務の高度化、資本所有の格差によって、多くの人が働きたくても働けない社会が到来します。
そうなると、古代ローマのように、市民はパンとサーカス(食料と娯楽)が提供されて、遊び惚ける時代になるかもしれません。
何故、提供されるかといえば、貧困とそれに伴う暇は、犯罪に繋がりやすいからです。
税収もないのに、支出に悩まされる行政としては地獄のような時期であるため、海洋資源の採掘などで資金源を獲得しなければ非常にまずい状態です。
【5】2046年~(乙女座天王星)
★シンギュラリティの時代
乙女座は、細かい物事や緻密作業全般に影響する星座です。
つまりプログラミング、コンピュータ言語、人工知能に関する革命が起きる時期と解釈できるでしょう。
人工知能が人間の知能を超え、生活が大きく変化するという概念を
「技術的特異点(シンギュラリティ)」
と言います。一般的に流布されているレイ・カーツワイル博士の説によれば2045年が可能性が高いとのことです。
とはいえ、社会の変化は、大抵の場合、助走期間がありますので、翌日から急に違った生活を強いられるというのは考えづらいです。
2044年~2046年の間に木星と冥王星の合とか、天王星と冥王星の衝など占星術的にインパクトのあるイベントが目白押しであり、その3年間において世界がじわじわと激変していくものかと考えられます。
☆人工知能が人類を凌駕するということで、実務的なことは人工知能がやってくれるとした場合、人類は何をするのでしょうか?
おそらくは、技術に関する法整備、倫理・哲学の整備、管理責任などそういったことが求められるのでしょう。
機械が起こした事故は誰が責任を取るのか、機械が生産した機械の所有者は誰か。
人に似せた機械を作成・廃棄するときに制約を作るべきなのか・・・
そういった細かいことが沢山決められ、守ることが義務となります。
ところでテクノロジーは、加速度的に進歩しており、世界の保存情報は、2年ごとに倍になるとすら言われています。
とはいえ、いくらデータや知恵があったとしても、それを物理的に影響を与えるいわば手足が無ければ、バーチャルの存在に留まっているだけだということです。
例えば、2050年頃には世界で深刻な水不足が懸念されています。そういった、試算は機械の得意分野です。
ところで水不足の件ですが、日本は水資源は一見豊かそうに見えますし、水道を捻れば水はいくらでも出てきそうなもので、何が問題なのでしょうか。
実は問題は農作物の輸入にあります。
農作物の育成には多大な水を使うのです。
そして、現在大量の農作物を輸入しているということは、大量の水を輸入しているのと同義なのです。
ついでに言えば、インフラの老朽化から日本国内の水道水の利用料金は高くなると言われています。
人工知能様がこういった社会問題を解決してくれればいいのですが、いくら優秀な頭脳があったとしても、地球規模で何らかの解決策を実行してくれる手足が無ければ、理想通りの世界には中々ならないでしょう。
・・・そんな感じで、未来の状況を天王星の動きに即した時系列にまとめてみました。
既に記述したとおり、その時期になったら、いきなり切り替わるのではなく、グラデーションのように少しずつ変化していきます。
周囲の人たちの携帯電話がガラケーからじわじわスマートフォンに切り替わったかのような感じです。
グラデーションの最先端の部分を見極めつつ、少しだけ先行して、少しずつ慣らしていくのが、多分、効率の良い生き方なのだと思われます。
魔術師ダッチの人生放浪日記
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魔術師ダッチの人生放浪日記
hベンチャー企業北京支社の20代管理職⇒プロ無職⇒プロ占い師⇒普通な魔術師。
他人の仕事運、旅行運、恋愛運を占いながら、国内外問わずいろんな所をぶらついて、
見て聞いて考えたことを徒然なるままに書き殴ります。
魔術師ダッチの人生放浪日記
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白頭山の噴火確率
富士山より怖い白頭山の噴火確率99%だって
早川由紀夫教授のホームページに見つけた資料を下記に転載します。
また、東北大学名誉教授である谷口宏充氏は、
「白頭山の過去1100年間の噴火を調査した結果、10世紀に大噴火した後、14-20世紀の間に6回噴火したことが明らかになった」
という公式発表を2012年にしています。
なぜかというと、
「2011年3月の東日本大震災で、プレート運動が起き、白頭山が噴火する確率は、2019年まで68%、2032年までは99%」
と述べているのです。
以下早川教授記載のもの転載
青森県内の十和田湖915年火山灰の上には,白頭山 Baitoushan から日本海をわたって飛来してきた火山灰(苫小牧火山灰)が認められる(町田・他,1981;Machida and Arai, 1983)
両テフラの間にはクロボクまたは泥炭が約3cm堆積している。
苫小牧火山灰は,アルカリ長石を含むというきわだった特徴をもつ。
北海道・青森県・秋田県北部のほか,八戸沖および日本海北部の海底にも見いだされる。
白頭山は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国の国境にあり,中国では長白山 Changbaishan とよばれている。
長白山の地表直下では,次のような堆積物の積み重なりが観察される(Machida et al., 1990):上位より,
白山 Baishan ⇒火砕流
円池 Yuanchi ⇒降下軽石
両江 Liangjiangラハール/長白 Changbai ⇒火砕流
白頭 Baegudu ⇒降下軽石
二道白河 Erdaobaihe ⇒岩なだれ
なお,町田・光谷(1994)は上の層序を若干修正し,白山火砕流を長白火砕流の上部に含め,円池降下軽石を10世紀ではない後世の噴火堆積物としている。
また,町田・白尾(1998)は,苫小牧火山灰を長白火砕流から立ち上った灰かぐらと考えている。
白頭山の10世紀噴火のマグニチュードは7.4であり,過去2000年間では,インドネシア・タンボラ火山の1815年噴火(M7.1)をしのいで,世界最大級である。
日本列島の上に降り積もった苫小牧火山灰の厚さは5cm以下であるから,北海道・東北北部が受けた被害は軽微なものだったろう。
しかし,噴火規模・噴火様式から考えて,当時の白頭山周辺地域が受けた被害は甚大であったと想像される.
Machida et al. (1990)は,少なくとも4000km2の森林がこの噴火によって破壊されたとみている。
青森県小川原湖の堆積物中に,厚さ13cmの泥を挟んで,苫小牧火山灰と十和田湖915年火山灰があることを福澤・他(1998)は認め,その間に22枚の葉理を数えた。
この葉理が年縞であるとみなすと,苫小牧火山灰は937年に降ったことになる.しかし泥の堆積速度が一様だったと考えると,13cmの泥の堆積時間として約40年が期待され,22年では短すぎる(池田・他,1997)。
『高麗史』の世家巻第二の高麗定宗元年(946年)条に「是歳天鼓鳴赦」,および志巻第七に「定宗元年天鼓鳴」とある。
また,『朝鮮史』は同年条に「是歳,天鼓鳴ル.仍リテ赦ス」と記し,その引用元として『高麗史』および『高麗史節要』を挙げている。
天にかなりの鳴動があったため,罪人の大赦をとりおこなったのだろう、鳴動が聞こえた月日は,いずれの史料にも記されていない。
鳴動の聞こえた場所にかんする記載もないが,大赦をおこなうほど深刻に受けとめられたのであるから,おそらく高麗の都であった開城(Kaesong,現在のソウルの北西)付近で為政者らが直接体験した事件であったと想像される。
当時の高麗の領土は白頭山のある威鏡道地方に及んでなく,火山灰の分布軸からも外れている.このため,鳴動の原因を知るには至らなかったようだ。
なお,『高麗史』と『朝鮮史』をみる限り,10世紀前半に他の鳴動・降灰事件の記録は見られない。
まとめ
史料に書かれた記録にもとづいて火山学的に検討した結果,以下の結論が得られた。
白頭山の噴火クライマックスは947年2月7日で,噴火開始は946年11月(あるいは944年2月)だったと思われる。
以上
早川氏のホームページには、十和田湖の噴火についても書かれてあります。
十和田湖の噴火と白頭山の噴火には相関関係があるとも推察されています。
ふと869年に起きたという貞観地震と関連があるのかもしれないと思ったりします。
白頭山付近には中国の赤松原発があります。
もし、白頭山の噴火が起きれば、規模は1980年のセント・へレンズ山噴火レベルと推定されると谷口教授は言います。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/category/10091553-54.html
早川由紀夫教授のホームページに見つけた資料を下記に転載します。
また、東北大学名誉教授である谷口宏充氏は、
「白頭山の過去1100年間の噴火を調査した結果、10世紀に大噴火した後、14-20世紀の間に6回噴火したことが明らかになった」
という公式発表を2012年にしています。
なぜかというと、
「2011年3月の東日本大震災で、プレート運動が起き、白頭山が噴火する確率は、2019年まで68%、2032年までは99%」
と述べているのです。
以下早川教授記載のもの転載
青森県内の十和田湖915年火山灰の上には,白頭山 Baitoushan から日本海をわたって飛来してきた火山灰(苫小牧火山灰)が認められる(町田・他,1981;Machida and Arai, 1983)
両テフラの間にはクロボクまたは泥炭が約3cm堆積している。
苫小牧火山灰は,アルカリ長石を含むというきわだった特徴をもつ。
北海道・青森県・秋田県北部のほか,八戸沖および日本海北部の海底にも見いだされる。
白頭山は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中国の国境にあり,中国では長白山 Changbaishan とよばれている。
長白山の地表直下では,次のような堆積物の積み重なりが観察される(Machida et al., 1990):上位より,
白山 Baishan ⇒火砕流
円池 Yuanchi ⇒降下軽石
両江 Liangjiangラハール/長白 Changbai ⇒火砕流
白頭 Baegudu ⇒降下軽石
二道白河 Erdaobaihe ⇒岩なだれ
なお,町田・光谷(1994)は上の層序を若干修正し,白山火砕流を長白火砕流の上部に含め,円池降下軽石を10世紀ではない後世の噴火堆積物としている。
また,町田・白尾(1998)は,苫小牧火山灰を長白火砕流から立ち上った灰かぐらと考えている。
白頭山の10世紀噴火のマグニチュードは7.4であり,過去2000年間では,インドネシア・タンボラ火山の1815年噴火(M7.1)をしのいで,世界最大級である。
日本列島の上に降り積もった苫小牧火山灰の厚さは5cm以下であるから,北海道・東北北部が受けた被害は軽微なものだったろう。
しかし,噴火規模・噴火様式から考えて,当時の白頭山周辺地域が受けた被害は甚大であったと想像される.
Machida et al. (1990)は,少なくとも4000km2の森林がこの噴火によって破壊されたとみている。
青森県小川原湖の堆積物中に,厚さ13cmの泥を挟んで,苫小牧火山灰と十和田湖915年火山灰があることを福澤・他(1998)は認め,その間に22枚の葉理を数えた。
この葉理が年縞であるとみなすと,苫小牧火山灰は937年に降ったことになる.しかし泥の堆積速度が一様だったと考えると,13cmの泥の堆積時間として約40年が期待され,22年では短すぎる(池田・他,1997)。
『高麗史』の世家巻第二の高麗定宗元年(946年)条に「是歳天鼓鳴赦」,および志巻第七に「定宗元年天鼓鳴」とある。
また,『朝鮮史』は同年条に「是歳,天鼓鳴ル.仍リテ赦ス」と記し,その引用元として『高麗史』および『高麗史節要』を挙げている。
天にかなりの鳴動があったため,罪人の大赦をとりおこなったのだろう、鳴動が聞こえた月日は,いずれの史料にも記されていない。
鳴動の聞こえた場所にかんする記載もないが,大赦をおこなうほど深刻に受けとめられたのであるから,おそらく高麗の都であった開城(Kaesong,現在のソウルの北西)付近で為政者らが直接体験した事件であったと想像される。
当時の高麗の領土は白頭山のある威鏡道地方に及んでなく,火山灰の分布軸からも外れている.このため,鳴動の原因を知るには至らなかったようだ。
なお,『高麗史』と『朝鮮史』をみる限り,10世紀前半に他の鳴動・降灰事件の記録は見られない。
まとめ
史料に書かれた記録にもとづいて火山学的に検討した結果,以下の結論が得られた。
白頭山の噴火クライマックスは947年2月7日で,噴火開始は946年11月(あるいは944年2月)だったと思われる。
以上
早川氏のホームページには、十和田湖の噴火についても書かれてあります。
十和田湖の噴火と白頭山の噴火には相関関係があるとも推察されています。
ふと869年に起きたという貞観地震と関連があるのかもしれないと思ったりします。
白頭山付近には中国の赤松原発があります。
もし、白頭山の噴火が起きれば、規模は1980年のセント・へレンズ山噴火レベルと推定されると谷口教授は言います。
あほうどりのひとりごと 幸福への近道
http://www.あほうどりのひとりごと.com/category/10091553-54.html
2018年10月16日火曜日
クシュ王国: 紅海沿岸の歴史
クシュ王国: 紅海沿岸の歴史
2012/10/31(水)午後7:09
紅海沿岸の古代史歴史
■古代のクシュと獅子の顔をした女神
今日からから数回、アフリカ東岸やアラビア半島南西部の古代史について調べてみる。
その最初としてクシュ(クシ、エチオピア)についてもう一度言及して起きたい。・・・
実は「検証: 聖書アラビア起源説 その1」の続きだが、別シリーズとして再度取り上げようと思う。
これまでの『検証: 聖書アラビア起源説』シリーズでクシュ(聖書ではクシ、以下ではクシュ呼ぶ)については、旧約聖書の記述と「聖書アラビア起源説」の著者であるサリービーの説ついて述べた。
検証: 聖書アラビア起源説 その30 遠いクシ(エチオピア)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30954034.html
検証: 聖書アラビア起源説 その31 かなり近いクシ(クシュ)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30962689.html
クシュはエジプトの南にあり、歴史上存在した王国としては必ずしも紅海沿岸に位置していないのだが、紅海沿岸における古代史の鍵を握るのは、この「クシュ」の地理的概念のようにも思える。
古代ギリシア人(少なくとも紀元前8~5世紀頃)にとってなぜ東西2種類のエチオピア人が存在したのか?
旧約聖書にはなぜあれほど頻繁にクシびと(エチオピアびと)が登場するのか?
アンドロメダはなぜエチオピアの王女なのか?
そんなことをぼんやりと考えると、これまでのエジプトの南とされていた地理的概念としての「クシュ」が、実際にはもっと広範囲で、複雑であったのではないかと思う。
議論の最初として、まず一般的に「クシュ」について調べてみよう。
クシュの古代史
スーダンを流れるナイル川流域のクシュと呼ばれた地域は、もともと古代エジプト時代には『ヌビア』と呼ばれ、金と奴隷の重要な供給源となっていた。この名前が果たして古代エジプトの言葉で「金」を意味する「nebu」、転写すると『nab.w』、あるいはコプト語『nub』に由来するかは定かではない。
古エジプト王国時代には、ヌビア地域は『Ta-seti』、つまり「砂漠の弓の大地」と呼ばれており、中王国時代になってから『Ta-seti』に対して、『Kasch』とも呼ばれるようになる。『クシュ』はこの古代エジプトの言葉である『Kasch』に由来すると考えられている。
僕達の頭の中では古代エジプトのピラミッドのイメージがあまりにも強く、「エジプトは高度な文明」、「ヌビアは未開の地」という偏見をどうしてももってしまう。
確かに、考古学的証拠によるとヌビア地方における王国の形成はエジプトに比べて遅く、金属の加工技術やさまざまな技術面において後発であったのは否めない。しかし、古代オリエント世界において、ヌビア地域に興った諸王国は、古代エジプトに対抗する南の勢力として毅然として存在していたと考えられる。
それに、もし・・・
「歴史上で最もピラミッドを多く作った国は?」
というクイズがあったら、正解は
「クシュ王国」 だ
・・・まぁ ピラミッドの建造された“年代”や“大きさ”にはかなりギャップがあるのだが・・・。
いずれにせよ、古代史におけるこの国の役割を考えると、決してこの国の歴史を軽視することはできず、考古学的調査ももっと集中的に行うべきであろう。
Aグループと先史ケルマ文化
ヌビアはエジプトの初期王朝が誕生する以前から文化圏が存在したことが確認されている。初期のヌビアの文化は、その特徴によっていくつかのグループに分けられている。紀元前3600年から3000年頃までの間、地理的にはアスワン北部辺りからナイル川第二瀑布までの範囲に興った文化はAグループと呼ばれる。
Aグループの人々は、ヤギや羊などを飼育する一方で、大麦や小麦、果物などの栽培をおこなう半遊牧民的な生活をしていたと考えられる。気候的な条件で牧牛場として適した土地が少なかったようで、牛の飼育をした形跡はごくまれにしかみられていない。赤と黒の土器や籠の製造、皮の加工も行っていたようだが、金属加工は行われておらず、墓地の副葬品として発掘される斧などはエジプト製であったと考えられている。
エジプト南部との貿易は活発に行われていたようで、西村氏のサイトによれば、エジプト人たちはヌビアから象牙や黒檀を輸入し、ワイン壷やビール壷などを輸出してようだ。その他、亜麻布、チーズ、油、蜂蜜なども取り引きされていたという。ナルメルの化粧パレットやヒエロコンポリスから出土したパレットは、ひょっとしたらこのヌビアのAグループの影響を強く受けていたのかもしれない。
参照下さい→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25101860.html
参考→ http://www.geocities.jp/kmt_yoko/NaqadaI-II.html
社会的な階層はまだ無かったと考えられるが、後期には部族の長に相当する人物がいたことが、墓などの装飾から推定される。そうした勢力関係もあったのか、古代エジプト第1王朝のアハ(紀元前3000年頃)はヌビアに軍事遠征を行っている。アビドスから発見された象牙板には、彼がヌビアに対して軍事遠征を行った記録が書かれている。(ちなみに彼の時代にはシリアやパレスチナ地方にも軍事遠征を挙行している)
紀元前2600年頃になるとAグループの考古学的痕跡は発見できないようになる。以前は、エジプトによって奴隷や兵隊として強制移住させられたとか、エジプトに同化されたとの説が有力であった。しかしながら、最近の研究では、その後も度々エジプトがヌビアに対して軍事遠征がおこない、家畜などを奪ったというエジプト側の資料があることから、引き続きその地域には居住しているヌビア人達がいたと考えられるようになった。また、彼らの文化を伝える出土品が少ないのは、おそらく半遊牧民的な生活様式によるものだと考えられている。
さて、Aグループと同じ時期に、ナイル川をもう少し上流に遡ったあたりには先史ケルマ文化(勝手にそう呼んでます)がおこる。北部はAグループの南の境界線であるナイル川第二瀑布であり、南に方の境界については不明である。時代的には、Aグループとほぼ並行して存在しており、同一の文化であったとの見方もある。Aグループに比べ人口が密集していたことが分かっているが、やはり半遊牧民的な生活を送っていたようだ。
Cグループと初期ケルマ文化
紀元前2500年ほどになると、Aグループ文化の後継としてCグループと呼ばれる文化グループが登場する。(以前はA,B、Cグループとあったのだが、BグループはAグループと関係のあった先史ケルマ文化としてみられ、時系列的(A→B→C)にBグループとして分類できる文化は存在していなかったことが判明している)。地理的にはAグループ同様でアスワン北部からナイル川第二瀑布までだ。エジプトの第6王朝時代から新王朝時代まで続くCグループと並行して、ナイル川第二瀑布からケルマにかけて初期ケルマ文化も確認される。
Cグループの特徴は小形の円形墳丘墓で、下層が石、上部が砂で覆われている(実施はコンクリートで形を成していたかもしれない)。定住した痕跡はほとんど発見されておらず、おそらくCグループの人々はテント住まいの半遊牧的生活をおくっていたとされている。生活様式は、ほぼAグループと似たようなものであり、手で作られた陶器は、黒色に焼かれ、左右対称の模様が白の塗料で描かれていた。
しかし、後期では粘土づくりの方形の住居が登場し始め、この頃に半遊牧民的生活は終焉を迎え、定住生活に変わったとみられ、その後紀元前1600年頃には城壁に囲まれた要塞都市なども建設されており、第二中間期にはエジプトへの移住も増加したと考えられる。
Cグループ文化圏の南に発展した初期のケルマ文化も、同様のものであったと考えられるが、エジプトからの輸入品などは限られていて、独自の文化を発展させていたと考えられる。今日のエリトリアに、Cグループのものと思われるサイトが発掘されたが、おそらく初期ケルマ文化のものであったかもしれない。いずれにせよ、その後のダモト王国の基礎となった文化とであろう。
ヌビアの宗教
古エジプト王国時代から判明しているヌビアの神はデドウェンという名前で、この神は「富と乳香をもたらすもの」として崇められていた。ピラミッド・テキストにも記述があり、神と同等とみなされているヌビアを支配する王デドゥン(Dedun)が、ヌビアからエジプトの王に対して「宝や人をもってくる」とされている。
新王朝時代になると人間の姿として描かれるようになり、ライオンの頭をもった姿で表されるようなる。エジプト第25王朝を築き、ナイル・デルタまでを支配したヌビア人達は、自らをデドウェンの息子と名乗ったと言われている。その後、メロエ王国の時代になると頭が獅子の神は戦争と豊嬢を司る神アペデマク(Apedemak)として、ヌビア人全体に信仰されるようになる。
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獅子の神のようなオリジナな神に加え、ヌビアでは、ラー、ホルス、アメン、ハトホル、オシリス、アヌビス、セト、マート、トト、プタハ、アトムなどをはじめ、様々なエジプトの神々がもたらされた。一方、鳥の姿をしたヌビアの太陽神マンドリスのように、ヌビア出身でエジプト化した神々もいくつかる。
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雌ライオンの顔をした女神セクメトは、おそらくヌビア出身であったと考えられる。
戦争と狩猟の神オヌリスには、雌獅子の姿をしたメヒト女神が妻で、ヌビアに逃げた彼女をエジプトに連れ戻したという神話が残っている。この逃亡する女神の話はいくつかのバージョンがある。
破壊の女神セクメトがヌビアへ逃げる・・・が、夫で知恵の神トート神が連れ戻す
湿気の女神テフヌトがヌビアへ逃げる・・・が、夫で大気の神シュウが連れ戻す
(参考 → http://www.moonover.jp/bekkan/god/mehit.htm)
これらの話に共通するのは、
妻が獅子の顔をした女神である
両者は夫婦である
妻の出身はおそらくヌビア?(テフヌトについては自信なし)
そして・・・
逃亡先も共通する。
ヌビアだ。
繰り返しになるが・・・
夫婦の神々・・・
妻はヌビア出身のライオンの顔をした女神
ある日、何かが原因で ヌビアへ逃亡
しかし、夫は妻をめでたく連れ戻す
神々を置き換えただけの他愛のない話のようだが・・・
何か歴史的な大イベントが背景にあるような気がする・・・
なんだろうか・・・?
■黒い王妃イアフメス・ネフェルタリの秘密
ヌビア地方の歴史について前回の続きだ。
前回 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31049201.html
ケルマ王国(紀元前1700年~紀元前1500年)
さて、紀元前1700年頃になると初期ケルマ文化圏はケルマ王国と呼ばれる国家体系をとるようになってきた。文化的にも政治的にも首都ケルマが当時のヌビア地域の中心となり、エジプトに比べると著しく中央集権的な政治体制をとっていたと考えられる。エジプト側の資料からは、この頃のヌビア地域は人口が多く、豊かな農耕地域があったことが分かっており、そこでは、寺院や集団墓地、そして丘陵古墳などが盛んにつくられ、古墳などからは金属製の武器などの副葬品が発見されている。
また、ケルマ王国は第二中間期(紀元前1782年頃~紀元前1570年頃)において、エジプトに拮抗する勢力となり、何度もエジプトへ軍事遠征を図り、略奪行為をはたらいていた。ヌビア地域で発見される大量の古代エジプトの工芸品は、この時代のものであると推定されている。エル・カブの市長の墓からは、紀元前1575年頃から1550年にかけて、ヌビア人がエジプト深くまで侵入した記録が発見されている。また、当時ナイル下流域を支配していたヒクソス王朝がケルマ王国に宛てに送った書簡に使用した印章がケルマで発見されたことから、ケルマ王国がヒクソスと同盟を結んでいたと考えられている(カーメス王の碑文からもそれが確認されている)。
エジプトの第17王朝と第18王朝は同じ家系に属しているが、中間期から新王国時代へ移行する便宜上分けられて呼ばれている。家系図を表すと下図のようになる
ここで注意を引くのが・・・
イアフメス・ネフェルタリ (紀元前1562年~紀元前1495年)だ。
黒くて美しいイアフメス・ネフェルタリ
第18王朝はヒクソスを倒したイアフメス1世が始めたことになっているが、血統的には第17王朝(テーベ王朝)と連続している。問題のイアフメス・ネフェルタリは、このイアフメス1世の妹にして王妃であると考えられているが、まだ確定的であるとも言えない。彼女が「イアフメス朝」の家系図のラインにあるのは、彼女が「偉大な王妃の娘」という称号をもっているからで、セケエンラー・タア2世とイアフヘテプ王妃の娘(つまりイアフメス1世と兄弟)、もしくはイアフメス1世の兄カーメスとイアフヘテプ王妃2世(あるいはイアフヘテプ王妃)」の娘であると考えられている。
混乱の原因は、彼女の所有する数多くの称号で、上記の「偉大な王妃の娘」の他にも、「王の娘」、「王の妹(姉?)」、「王の母」、「2つの国の支配者」などがある。イアフメス1世の妻となってからは神の妻となることで、夫イアフメス1世が王権の正統性を主張すべく「アメンの神妻」というタイトルが加わる。第26王朝の王妃ニトクリス2世(紀元前570年~紀元前526年のファラオ・アマシスの王妃)まで28人もの王妃が「アメンの神妻」という称号を名乗るが、イアフメス・ネフェルタリはその初代である。
テーベの第17朝であるイアフメス朝は伝統的に月の神を冠する王が続いたが、エジプト再統一をきっかけにアメン神が登場するのは興味深い。このアメン神が最初に全国区で崇拝され始めたのは、エジプト混乱期である第1中間期をおさめ上下エジプト再統一を行った第11王朝のメントゥホテプ1世からである。この時以来、アメン神は太陽神ラーと融合しアメン=ラーとして崇拝されるようになったのだが、同じように第2中間期と言われる混乱期を収拾したイアフメスの妻が「アメンの神妻」を名乗るのは、このメントゥホテプ1世を意識したのだろうか・・・。
問題は、王妃イアフメス・ネフェルタリを描いたと思われる肖像画だが、奇妙なことにそのほとんどが彼女の肌の色を「黒」で描いている。
王家の人間に対してこのような描き方は他には例を見ることができない。TT359に描かれている数多くのイアフメス朝の人々の中でも、イアフメス・ネフェルタリの肌の色だけが黒で描かれている。
彼女の夫の名でもあるイアフメスの意味は『月の神ラー(lah)が生まれた』であり、この月の神ラーというのは、新王国時代になると他の月を司る神トートやコンスなどの存在の陰に隠れ、ほとんど姿をみせなくなる。月の神Lahが古王国時代から崇拝されてきた創造神Aaであるとも言われていたり、北シリアの月の神に結び付ける見方もあるが、まだ明確なことは分かっていない。ひょっとしたらヌビアの神ではないだろうか?
また、ネフェルタリの意味は、ラムセス2世の妻ネフェルタリもそうだが、『美しきもの(美しさ)』である。
私は黒いけれども美しい・・・(雅歌)・・・
シバ女王の大先輩だったのかも・・・。
彼女は死んだ後、アメンヘテプ3世の治世(紀元前1388年~紀元前1351年)に彼女の息子のアメンヘテプ1世とともに神格化されたとされている。一般的に、彼女の肌が黒く描かれるのは、この神格化にあるとされている。多産と豊穣を司る女神としてエジプト全土で崇拝されていたようで、21王朝時代になってからもそれが確認できる。彼女の肌を描く時に黒が使用されるのは、このナイル川の運ぶ肥沃な大地を「黒い大地(ケメト)」として表現されていたと解釈されている。
まぁ、偉大な王妃であったことにはかわりはない。夫のイアフメス1世の死後、まだアメンヘテプ1世が幼かったために摂政を務め、混迷の時代に終止符を打つとともに、第18王朝繁栄時代の基礎を築いたのだ。
しかし、大地の神ゲブを描く時に、たまに「緑」をつかって描かれているが、「黒」ではない。
したがって・・・
『なぜ、彼女の肌は黒いのか?』という問いを説明するのに彼女の神格化を挙げるのは果たして適当なのだろうか?
イアフメス・ネフェルタリ は ヌビア人 でないか?
彼女がヌビア人であるとする見方は、エジプト学者の間でもかなり以前から存在していた。
その議論に関しては、彼女と見られるミイラの解剖結果からも推測されている。
リンク先参照→ http://clegg.tv/tutsblackroots2.htm
イギリスの解剖学者ElliottSmithが調査した結果、彼女の頭の髪の毛は非常に少なく、頭蓋骨の天辺には髪がなかった。20の束ねられた人の髪とみられる紐状のものが彼女の頭に巻きつけてあり、それは現代でも見られるヌビア女性の典型的な髪形と似ていなくもない。また、歴史家WilliamL.Hansberryは「王妃の歯は大きく、健康だった(ラムセス2世は虫歯に悩まされていた)。彼女の鼻は短く平らで、膨らんだ唇に大きな口をしていた。」と彼女のミイラについて報告している。
・・・いずれにしても解剖の結果は、
彼女が明確に「ネグロ」、つまりヌビア出身であったことを示している。
RevealingQueenAhmose-Nefertari(PhotoshopReconstruction)
それに・・・ちょっと気になったのだが、彼女の母親であるイアフヘテプ皇后の墓には、王妃としては珍しく斧などの武器が副葬品として埋葬されている。夫と長男がヒクソスとの戦いで死んだ後も、まだ幼少のイフアメスの摂政としてテーベ王朝を統率し、ついにはヒクソス打倒を達成した武人王妃であったとも言われている。
これは後述するが、ヌビアの土地は著名な「武人王妃」を何人か輩出しているのも確かで、彼女達のためのピラミッドも建設されている。
前回の記事に書いたが、ヌビア出身の雌ライオン顔をした女神セクメトやメヒトが勇猛であるのも、ひょっとしたヌビアの女性に対する伝統的な先入観、「勇猛さ」と「美しさ」をエジプト人がもっていたからにほかならないだろう。
しかし、その後テーベのエジプト王朝が、ヒクソス王朝を解体することに成功し新王国時代を切り開くと、今度は踵を返すようにヌビア方面に拡張政策をとりはじめる。トトメス1世(紀元前1524年~紀元前1518年)がヌビア地方に対して軍事遠征を行い、北部ヌビア地域を支配下におさめる。
これはどうしたことだろうか・・・。
その後、紀元前1450年前後にトトメス3世が、スーダン北部にある高さ98mの小山ゲベル・バルカルをエジプトの南の国境とし、そこに都市ナパタを建設する。これにより、ヌビア地方にエジプト文化が再び流入すると、ケルマ文化はしだいに姿を消すことになる。
ところで、ヌビアの王女を描いたミュージカル『アイーダ』は、エジプト側の将軍にして恋人であるラダメスの名前からも察する通り、ラムセス2世の時代(紀元前1279年~1213年)を想定している。
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当時ラムセス2世はナイル川第一爆を超えて、ヌビア遠征を行った。ラムセス2世にはエジプト史上で最高の美女とされるネフェルタリ王妃がいる。ネフェルタリはラムセス2世が24歳にしてセティ1世から王位を継ぐ以前に結婚している。即位してからは、ヒッタイトの王女を含め30人以上の側室をもったとされているが、ネフェルタリに対する彼の愛情は格別のものであったと考えられる。
ソロモンのハーレム
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30522659.html
どこから来たのか? ラムセス2世の愛した美女ネフェルタリ
彼女を一躍有名にしたのは王妃の谷で発掘されたテーベ西にある王妃の谷より発見された彼女壁画だ。
壁画における彼女はたいてい、カツラをかぶり、太陽の円盤がついたアメン冠にエジプトハゲワシの頭巾をかぶっている。ハゲワシといっても、女神ネクベトで上エジプトの守護女神である。このハゲワシ頭巾の被る位置は時代を反映していて、第17王朝末期と第18王朝のはじめは頭の天辺、18王朝中期からは頭の後方だというのだが・・・僕にはあまり違いが分からなかった・・・orz。
古代エジプト第4王朝あたりからハゲワシ頭巾は登場するらしいのだが、やはり前述のイアフメス・ネフェルタリと重なってしまう。
ラムセス2世はネフェルタリとの結婚25周年を記念して、ヌビア地方のアブ・シンベルに建設したアブ・シンベル大神殿と、ネフェルタリに捧げるべきして建てたハトホルの神殿(アブ・シンベル小神殿)を築いた。
素情が知られていない絶世の美女ネフェルタリ王妃だが、ラムセスのヌビア遠征と、それにまつわるアブ・シンベル小神殿の建設などから、出身地はヌビアでなかったのではないかとも言われている。
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(彼女の出自に関しては、彼女の墓の位置関係からツタンカーメンを暗殺したとされるファラオ・アイではなかったかと言われ、出身地はテーベから北へ行ったところのアクミームでなかったかとされている。アクミームは知名度こそないが、現代の街の下にはひょっとすると古代エジプト最大の遺跡が眠っているとも言われている)
参考→ http://55096962.at.webry.info/200812/article_19.html
ふむ。
しかし、イアフメス・ネフェルタリがヌビア人だとすると、
第18王朝の血筋は、すくなくともヌビアとの混血からはじまっていることになるのだろうか?
■ブラック・ファラオ
前回は第18王朝時代の話だったが、ここで時代をくだろう。
ナパタ王国(クシュ王国)誕生
紀元前11世紀頃にエジプトが第三中間期といわれる混迷期にさしかかると、ヌビア人達はトトメス3世(BC1486-BC1425)が築いた都市ナパタを本拠地として独立を果たす。第3瀑布と第4瀑布の中間にあるこのナパタには、ゲベル・バルカルと呼ばれる高さ98メートルの岩山があり、トトメス3世はエジプトの南の国境として定めた。
この時エジプトの支配領域は史上最大のものとなったわけで、ラムセス2世(BC1303-BC1213)の治世においても、ナパタまでエジプトが支配力を誇っていたことが知られている。
よく見るとすごい遠いね・・・。
エジプトの第三中間期は紀元前1069年頃から始まったと言われるが、その頃からナパタに対するエジプトの実効支配力が無くなったと考えられ、ヌビア人達の活動拠点となったわけだ。
それから・・・300年の月日が流れる。
この間の出来事はあまり記録されておらず、すでにヌビア地域に「王国」と呼べるような社会形態ができていたのか、あるいはゆるやかな部族連合のようなものが存在していたのかはっきりと分かっていない。ただ、紀元前850年頃にはヌビアで最初のピラミッドがナパタ近くのアルクル(El-Kurru)で建設されているように、王権の存在はあったようにも思える。
エジプトでは新王朝時代からはファラオは王家の谷に葬られるようになったが、ピラミッドは規模こそ小さいが一部の裕福な民間人が墓として建設されていた。つまり、民間レベルで建てられる墓のフォームの一つであって、王権とは結び付かなくなっていた。
さて、
紀元前750年頃、有力なヌビアの族長とみられるアララという人物が、このナパタを中心としたナパタ王国を建国する。この王国は、エジプトのヌビア地域に対する呼び名である『クシュ』をとって「クシュ王国」とも呼ばれるようになった。文化的には、宗教などもふくめて大部分がエジプト化していて、本家のエジプトでは忘れられていたピラミッドなども建設されるようになった。
アララの後継者であるカシュタ(紀元前750年~746年)は、勢力をアスワンまで拡大し、ヌビア人としてはじめて「上下エジプトの王」の称号を名乗った。エジプトの伝統の継承者はリビア人王朝などではなく、ヌビアのクシュ王朝であると・・・。紀元前750年頃にテーベを占拠したことによって、彼の宗主権がエジプト全体に公式的に認められた。この時期、エジプトではいくつかの王朝が乱立する中、カシュタの時代にヌビア王朝の勢力は中部エジプトにまでおよんだと考えられる。ひょっとしたら「クシュ」と言う呼び名はこのカシュタ王に由来しているのかもしれない。
混乱のエジプト
一方エジプトはどうだったかというと、第21王朝の時代(紀元前1069年~紀元前945年)になると軍隊の将軍や政府の高官、そしてファラオまでもリビア系の名前が目立つようになる。以前は第22王朝よりリビア系王朝が開始されたと考えられていたが、最近の研究ではどうもこの頃から古代エジプトからの文化断絶が確認されている。リビア系のファラオや高官は、彼ら独自の文化と風習をエジプトに持ち込み、古来連綿と続いていたエジプト文化を受容しない傾向があった。
第20王朝最後のファラオであるラムセス11世の頃にはエジプトは上下に分裂し、上エジプトをアメン大司祭国家、下エジプトでは首都をペル・ラムセスからタニスに遷都したスメンデス1世が支配していた。この政治的な混乱期に便乗する形で、紀元前945年にシェションク1世(旧約聖書ではシシャク)が王位を獲得する。彼は、第21王朝時代のファラオ、プスセンネス2世に仕えていたリビア人将軍であり、イスラエルの首都エルサレムに攻撃を仕掛けようとしたことでも有名である。
シェションク1世によって第22王朝からはじまる9人の下エジプト・ブバスティス出身ファラオの記録があるためブバスティス朝とも呼ばれている。この王朝は上エジプトのアメン大司祭国家を支配下におき、一時は上下エジプトを統一するが、デルタ地域以外の支配基盤は相変わらず脆弱であった。
ブバティス王朝は200年間存続するが、シェションク2世の治世に分裂が起こり、前王と側室の間に生まれたペドゥバストがナイル川中流に独立した王朝、第23王朝を設立する。エジプトにおける当時の分裂状態はいろいろと研究されているが、非常に分かりにくい。図に表すとおそらく次のようになるだろうか・・・。
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当時、第22王朝の支配力は弱体化し、少なくてもレオントポリスに拠点を置く第23王朝、及びヘラクレオポリス(ネンネス)、ヘルモポリス(ウヌー)にそれぞれ地方の支配者がいた。
クシュ王カシュタが上下エジプトの支配者としてファラオを名乗り第25王朝が開始されるが、下エジプトまでは支配力が及ばず混沌として状態が続いていた。
リビア系の諸侯であったテフナクト1世は、サイスを拠点として自らの王朝(第24王朝)を建てた。(24王朝と呼ばれるが時系列的には25王朝の後だ)。その後、テフナクト1世は下エジプト地域の実効支配を強めながら、第22王朝(タニス)のオソルコン4世や第23王朝のイウプト2世、そしてヘラクレオポリスのペフチャウアバステト、そしてヘルモポリスのナムルトらと同盟を結んで、ヌビア人が北へ(下エジプトへ)勢力を拡大するのを防ごうとした。
一方、テーベをはじめとする上エジプト一帯はヌビア王朝(クシュ王国)が支配しており、エジプト中部は北のテフナクトをはじめとする勢力と南のヌビアに対して流動的だった。カシュタの後継者となったピイは、即位してからヌビアを出ることはなく、20年以上ヌビアの奥地で沈黙を保ったままだった。おそらくこうした状況が下エジプトの不穏な動きを助長させていたのかもしれない。このピイは古い資料だと「ピアンキ」と書かれている場合があるが、どうも誤りだったようで、最近では「ピイ」に訂正されている。
さて、北のリビア系王朝が力をつけてくると、中部エジプトの支配者達は南のヌビアか、北のリビア系王朝のどちらにつくか選択しなければなかった。クシュ王朝が北部に遠征することを決意したのは、ヌビアに忠実であった支配者達がテフナクトの攻撃を受けてピイに救援をもとめてきたからだ。
ピイの信仰
ピイが王権を受け継いだ時代、クシュ王国ではエジプトから移入したアメン信仰が盛んであったと考えられている。ゲベル・バルカルには、もともとトトメス3世が基礎を建設し、セト1世、ラムセス2世の時代を経て少しずつ拡張されてきた。ピイはこれを三段階に分けて拡張するが、「ビフォー・アフター」の匠も喜ぶような方法で行う。つまり、トトメス3世時代からの部分を壁と柱で補強する。第二のステップとして50の柱を使って大広間を完成させる。そして、第三ステップとして、大きな中庭をつくり、全長150メートルにもなる神殿コンプレックスを完成させた。このヌビアのアメン大神殿では、神官団がテーベの神官団と同様に強い政治的影響力をもっていたと考えられる。
また、ピイはテーベにおいて女王ハトシェプスト(トトメス2世)以来伝統と成っていたオペト祭を復活させた。オペト祭というのは、アメン神が妻ムトと結ばれるためにナイル川の増水1か月前にカルナック神殿からこのルクソール神殿を訪問するという祭りで、言ってみれば聖婚儀礼だ。日本のお神輿とも似ていて、アメン神とムト神、そして子供のコンス神の像をカルナック神殿から舟で運び、その像を2、3週間ルクソール神殿に安置し、奧の聖堂では王権付与などの儀式が行われるのだ。
ムトが(「9つの弓(すべての外国の敵)」の女主人)であり、セクメトとバステトの融合した女神であることを考えると、この儀式にも「獅子の顔をした女神がヌビア逃亡する」という一連の話にも関係があるようにも思える。
参考→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31049201.html
それはさておき・・・
そんな信仰神の深いピイであるからこそ、エジプトへの軍事遠征の大義名分が
旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す
・・・であったというのは、本心からであったと考えられる。
ピイのエジプト遠征
当時の記録(ピイの勝利の碑文)は、ヘルモポリスのナムルトが同盟を裏切ったことへの言及からはじまる。しかし、実際にこのナムルトがヌビアとの同盟関係にあったのか、それとも最初から北部諸王朝と同盟関係にあったのかは議論が分かれるところらしい。それよりもナムルト(Nimlot、Namart: 紀元前754年~紀元前725年)は、Nemrod(ニモロデ)とも表記されるのだが・・・、これは聖書に登場するニムロデと同じだ。
ニムロドは旧約聖書においてはクシュの息子であったことを考えると、関連性を探してみたくもなる。もちろん、この時代のヘルモポリスの支配者ナムルトがそうであったと言う気はない。世の中で最初の権力者となったニムロドの王権は、メソポタミアの諸都市におよんでいたということなのだが、さらに2000年以上もさかのぼった時代の話だ。
そうなると今度はエジプト王朝の創始者であるナルメルとニムロドの関係も興味深い。
ナルメルについてはこちら
→ ナルメルのパレット http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24830403.html
名前の類似性だけでなく、旧約聖書の創世記10章8節に書かれてある。
「クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。」
まぁ、証明する資料は存在しないので、憶測で話すしかないのだが、
ただ・・・「ニムロド」が“エジプトに存在していた名前”ということは、とても興味深いように思える。
さて、先へ進もう。
ピイの治世20年目に、テフナクトはヘルモポリスのナムルトを寝返らせると、下エジプトの連合軍を率いてヘラクレオポリスを包囲した。
ヘラクレオポリスの支配者ペフチャウアバステトはテフナクトの連合軍から早い時期に離脱しヌビア側についていたのだが、テフナクト1世の軍隊に包囲されると苦境に立たされていた。ペフチャウアバステトと駐屯していたヌビア軍は対抗しながら、テーベに使者を送りピイに助けを求めた。
ピイはこの助けに素早く応じ、軍を編成すると将軍パウェレムと司令官ルメルセケニ指揮下にある上エジプト軍をヘラクレオポリスに派遣した。
テフナクトがいったん下エジプトに戻った後、ナムルトはヘラクレオポリス包囲軍の司令官として駐留した。
オペト祭が行われているテーベを訪れていたピイにとっては、まず祭り事を滞りなく行い、上エジプトの支配者たる地位を確固たるものすることが重要であった。「戦争は人まかせ・・・」ともでもいうようだが、送り込んだクシュ軍は精鋭ぞろいでナムルトの軍勢に十分に対抗するだけの戦力であると思っていたのかもしれない。
ピイが送り込んだクシュ軍はペル・ペガの戦いや2度の小競り合いで勝利を収め、重要な砦を奪取した。ナムルトはヘルモポリスに逃げ帰った。
ヘルモポリスを逃げ帰ったナムルトだが、南からやって来たピイが率いるクシュ軍本隊に包囲された。ナムルトは5ヶ月にわたって篭城したが、結局食料が尽き降伏した。
■クシュvsアッシリア
古代エジプトにおいて有数の宗教センターでもあったヘルモポリスの街は、クシュ軍との5カ月にわたる籠城戦によって惨憺たるものであったに違いない。ヌビアを支配するクシュ王にしてエジプト第25王朝のファラオであるピイは、今や中部エジプトを完全に掌握しつつあった。ヘルモポリスの鉄壁の守りを誇った門が開かれ、ピイとクシュ軍は街の中に入った。ピイは平伏すナムルト王や王族達には全く興味を示さず、馬小屋に入っていくと、長い包囲戦によって痩せこけた馬を見て、ナムルトを叱責したという。
「ラー神の恵みにより私の呼吸に生命が与え続けられる限り、誓って言うが、汝(ニムロト)が自らの欲望の追求のために行ったどんな悪事よりも、馬達が飢えに苦しんでいることの方がずっと嘆かわしい…私はこのことで汝を非難せざるを得ない。」(ウィキ参照)
さて、中部エジプトを手中に収めたピイは、今回の戦争の主犯であるサイス王朝のテフナクトを追いつめるべく、ナイル川をさらに下り、膠着状態にあったヘラクレオポリスに向かった。途中ヘルモポリスへ向かうはずだった第23王朝の軍勢と相対することになったが、これを打ち負かした。ヘラクレオポリスを包囲していたテフナクトの軍勢はメンフィスまで後退した。ヘラクレオポリスの支配者であったペフチャウアバステトは包囲からの解放者としてピイの来訪を大歓迎したと言う。
エジプト伝統の都市メンフィスではテフナクト側につく約8000人の兵士が強固な防衛線をはって抵抗したとされている。そこでピイは、メンフィスの港に会った敵の舟をことごとく奪取し、川から街へ攻め入った。メンフィスの街に入ったピイの軍勢は、“洪水のように攻め”、数多くの兵士を殺し、あるいは捕虜にした・・・とあるが、この“洪水のように”に対してはいろんな解釈がある。ひょっとしたら文字通り「水攻め」を行ったのかもしれない。
さて、メンフィスでの戦いに敗れた下エジプトの諸公達は、ピイに服従したが、テフナクトはサイスまで逃げ、その後ピイに使者を派遣し、命乞いをするともに忠誠を誓った。
テフナクとは言った。
「どうかご慈悲を!屈辱にまみれた私は、尊顔を拝めません」
(ナショナルジオグラフィック)
そして、下エジプトで勝利を収めたピイは黄金や馬などの戦利品を船に積みこむと、踵を返すように故郷ヌビアに戻っていった。その後、彼が再びエジプトに姿を見せたという記録はないと言われている。
紀元前725年頃の出来事であった。
一般にはトトメス3世の時に、エジプトは最大に拡張したと伝えられるが、良く考えると面積的にはヌビア王朝と呼ばれる第25王朝だ。
紀元前715年にピイが死去し、35年に及ぶ統治に幕を閉じると、臣下の者たちは遺志に従って、エジプト式のピラミッドに埋葬し、寵愛していた4頭の馬を遺体のそばに埋めた。エジプトで500年以上も前にすたれたピラミッド埋葬の慣行を、ピイは復活させたかったのだ。
・・・ピイの物語については、クリスチャン・ジャック著の『ブラックファラオ』がお薦めだ。
さて、この先は・・・ちょっと面倒くさいのでウィキから要約しながら抜粋しよう(ピアンキはピイに訂正)。舞台はピイがエジプトへの遠征に勝利をおさめたところから始まる。
勝利が確定するとピイは降伏した王、及び州侯達から莫大な献上品を受け取り、勝ち誇って本拠地ナパタへと帰還した。そしてナパタのゲベル・バルカルの聖域で新たな大規模な建築活動を執り行い、新王国時代にエジプトによって建てられた神殿を改修・拡張してその威光を示した。そして、弟であるシェバカに王位を継承すると、ピイは紀元前716年に没した。
一方、ピイがヌビアに戻ってからというもの、下エジプトではまた不穏な動きが出てきた。そして、第24王朝のテフナクトはヌビア軍が引き上げた後すぐに忠誠の誓いを破棄し反乱を起こした。再び起きたテフナクトの反乱に対して、ピイが何らかのアクションを起こしたという記録はない。おそらく、その必要もなかったのかもしれない。テフナクト1世は、まだピイが存命中の紀元前720年頃死去し、第24王朝の王位は息子のバクエンレネフ(ボッコリス)に受け継がれる。
ひるがえってヌビアでは、弟のシャバカがピイの後を継承した。シャバカは、テフナクトの後継者であるバクエンレネフが拡張的な政策をとりはじめたところ、治世2年目に早くも軍事遠征を行いバクエンレネフと対峙した。マネトによればシャバカ(サバコン)はバクエンレネフ(ボッコリス)を捕らえて生きたまま焼き殺したという。
シェバカは兄ピイのようにヌビア地方に戻らず、古都メンフィスを居城とし、エジプト全土を支配するための基盤を整備した。そして、エジプトの古い伝統の継承するために、第6王朝のペピ2世の名を襲名し、国内に王権の正統性をアピールした。また、散発的に起こった反乱に対しては、殺さず、労働力としてナイル川の氾濫から守るための堤防を築いたと言われる。
ウィキには次のように書いてある。
具体的な経緯を記した記録が無いが、シャバカ王の記念物がエジプト全域から発見されることから、彼は実際にバクエンレネフを殺し、第24王朝を滅ぼしてエジプトを再統一したらしい。彼の治世に関することはあまりわかっていないが、少なくともメンフィス、デンデラ、エスナ、エドフ、そして何よりもテーベで壮大な建築活動を行っており、高い指導力を発揮したと考えられる。シャバカの14年の治世の後、ピイの息子であるシャバタカが王位を継いだ。
まだ、古代オリエント史をよく知らなかった頃、アッシリアの有名な王達と戦ったエジプト王朝は、古代より連綿と続いてきたファラオだと思っていたが、良く考えるとアッシリアの王と戦ったのはクシュ王朝だった。
シャバタカ vsセンナケリブ
シャバタカの治世に入るとサルゴン2世率いるアッシリアの勢力が拡大してきた。サルゴン2世の後継者センナケリブは、バビロニアを再び支配下におき、今やシリア全土の反乱を平定すべく軍をすすめていた。この事態に対しユダ王ヒゼキヤはシャバタカの下へ支援を要請してきたのであった。シャバタカはこの要請に答え、パレスチナへの軍事遠征に踏み切った。遠征軍司令官には王弟タハルカが任命された。
シャバタカの治世第2年(紀元前701年)、エジプト軍はアルタクの救援に向かい、アルタク平野でアッシリア軍と激突した。しかしながら、エジプト軍はこの戦いに敗れてパレスチナから後退することになる。センナケリブは、、
「我が軍が敵を木っ端みじんに打ち砕いた」と言ったらしいが、タハルカは何とか生き残った。
紀元前690年にシャバタカ王が死去するとタハルカが王位を継承した。タハルカの即位当初はアッシリアの脅威が遠のいた。それはアッシリアで紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、王位を巡って内戦が勃発したためである。
この一時的な平和の間にタハルカは熱心に内政に取り組み、大規模な建築を数多く残している。対外的には、紀元前673年にパレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱を支援してこれを成功させた。
しかしタハルカの成功はアッシリアの内政安定とともに失われた。アッシリアの王位継承の内戦を、母ナキアの支援の下で勝利したエサルハドンは、紀元前671年に大軍を率いてエジプトへと向かってきた。
あの奇妙な占いをおこなっていたナキアだ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25560551.html
タハルカ vsエサルハドン
タハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入した。タハルカは下エジプトで行われた戦いで敗れ、メンフィスはついに陥落した。その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷してテーベへと逃走した。
アッシリア王エサルハドンはこの勝利を高らかに謳った碑文を残している。
更に彼は「上下エジプト、及びエチオピアの王」を称しており、ヌビアに至る全エジプトを征服したと誇っている。しかしこれに関しては明白に誇張であり、テーベに逃走したタハルカはその地でなお支配を維持していたことが、彼が行った儀式などに関する碑文から確認できる。
タハルカはなおアッシリアに対する抗戦を続けており、エサルハドンはこれを鎮定するために紀元前669年に再度エジプトに遠征した。しかしその途中で急死し、アッシリア王位はアッシュールバニパルが継承した。アッシュールバニパルは一旦軍を引き上げさせたため、タハルカはこれに乗じてメンフィスを奪回し、下エジプトでもこれに連動して反アッシリアの反乱が発生した。
タハルカ vsアッシュールバニパル
タハルカの北進と下エジプトの反乱を受けて、アッシュールバニパルは再びエジプトへと侵攻した。紀元前667年、アッシリア軍の攻勢を受けてタハルカは再び敗北し、テーベからも逃走してナパタまで撤退した。当時のテーベの長官メンチュエムハトはアッシリアに降り、全エジプトがアッシリアの支配下に置かれた。
この時、アッシリアに従順であったサイスのネコ1世だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともにエジプトの管理をアッシリアから任された。これをきっかけにサイスの王家はエジプトにおける地位を確固たるものとしていき、やがて第26王朝を建てることになる。
一方ナパタまで逃れたタハルカは、従兄弟、もしくは甥であるタヌトアメンを共同統治者、及び後継者であると定め、その翌年(紀元前664年)に没した。
タハルカは、父のピイと同様、ピラミッド埋葬を望んだ。ただし、歴代のクシュの王たちが眠るエル=クッルの王家の墓地ではなく、ナイル川の対岸にあるヌリに埋葬するよう命じた。なぜこの場所を選んだのか。考古学者ティモシー・ケンドールは、死者の再生を信じるエジプトの太陽信仰にもとづき、タハルカは永遠の命を得ようとしたのだと推測する(ナショナルジジオ)。
後継者タヌトアメンは、タハルカの意思を継いでエジプトの支配権回復を目指して活発に活動した。かつてのピイの『勝利の碑文』とともに発見されたタヌトアメンの『夢の碑文』には、タヌトアメンが見たという夢についての記録が残っている。それによれば、彼は二匹の蛇が出てくる夢を見た。この夢は「南の国はあなたのものです。あなたは北の国をも取りなさい。」と言う意味に解され、彼はそれに従ってエジプトの再征服に向けて軍事行動を起こしたという。
彼は快調に進撃し、テーベとメンフィスを奪回したが、アッシュールバニパルが再度自ら軍を率いてエジプトへと進軍するとこれに敗れてメンフィスを失い、テーベへと逃れた。更にアッシリア軍の追撃を受けて、彼はキプキピを経てナパタへと逃げ帰った。アッシュールバニパルはテーベを略奪したが、ヌビアへまでは進軍しなかったため、タヌトアメンはナパタの地で引き続き王位を維持することができた。
タヌトアメンは紀元前656年に死去し、ヌビアの地に葬られた。
タヌトアメンはエジプトを支配した最後のヌビア王であり、彼の死をもって第25王朝の終焉と見なすのが一般的である。ナパタを中心としたヌビア人の王国は存続し、やがてその中心をより南方のメロエへと移し、メロエ王国へと続いていく。
アッシリアも強いが・・・クシュ王国もすごい。
よくこんなアッシリアの勢力図を見るが・・・
■クシュ王国 ピラミッドから海上へ
アッシュールバニパルにテーベを奪取されて、エジプトへの支配力を失ったクシュ王国だが、アッシリア軍がヌビアまで進軍することはなく、タヌトアメンはナパタの地でクシュ王国の支配者として統治を続けた。そして彼の死をもって第25王朝が終焉となるわけだが、それはあくまでエジプト側の視点であって、クシュ王国はその後も連綿と続く。
クシュ王国とアッシリア帝国の戦いもまだ続いた。タハルカがヌビア地方に戻った後、下エジプトではリビア系と見られるサイス朝のネコ1世がアッシリアの傀儡政権となった。しかし、間もなくネコ1世は下エジプトの諸侯と同盟を組み、アッシリアへ反旗をひるがえした。しかし結局敗れ、ネコ1世はニネベに連行され、再度アッシリアへの忠誠を誓わされた。
その後、タハルカの後継者タヌトアメンが下エジプトに攻め込んだ時、サイス朝のネコ1世は、紀元前664年にクシュ軍との戦いの際に殺害されたと伝えられている。ネコ1世の子であるプサメティコス1世はシリアに亡命し再起をはかることにしたが、その後、アッシュールバニパルによってクシュ軍がまたしても追い払われると、プサメティコス1世はエジプトの支配者としての地位を手に入れることになる。
その後、『アフリカ周航』や『ナイル川から紅海までの運河建設』、そして旧約聖書の『メキドの戦い』など、何かと有名なネコ2世が後を継ぎ、その後プサメティク2世と続く。このプサメティク2世は6年という短命政権にもかかわらず、ヘリオポリスには21、79見事な一対のオベリスクが作られたエジプト中にその足跡を残している。
紀元前592年プサメティク2世は、クシュ王国に対して軍事遠征を行う。
遠征の動機は、クシュ王のアスペルタがエジプトに進軍する準備をしていたためであったと考えられるが、定かではない。当時のヌビアへの軍事遠征は第三瀑布まで達したと言われ、その軍隊の大部分は将軍ポタシムト(Potasimto)が指揮するギリシア傭兵であったとされている。エジプト軍は後のファラオになるアマシス(Amasis)が率いた。
このヌビアへの攻撃は第一次攻撃で、ヌビアが二度とエジプトまで攻め入ることがないように国力を弱めることが目的であり、実際その目的はクシュ王国の諸都市を破壊することで成し遂げられた。
ナパタには当時エジプト軍が破壊したと思われるクシュ王の像が保管されている場所があり、そこにある最も新しいクシュ王がアスペルタであったことから、アスペルタの時代にプサメティク2世との戦争があったとされているが、近年では疑問も投げかけられている。プサメティク2世は、破壊行為の際に第25王朝(ヌビア王朝)のファラオの名を碑文から消し、歴史から抹殺しようとした。
その時に破壊されたクシュ王達の銅像は現在復元され、ケルマ美術館に保管されている。
奇妙なのは、プサメティク2世が自分の父親であるネコ2世の名前も消し去ったと言うのだ。したがって、考古学的に確認される当時の破壊行為が、プサメティク2世によるものではなく、クシュ王国内で起きた王朝の争いによって生じたのではとの疑問も投げかけられている。それに、彼がその後エジプトの南の国境として定めた場所が、新王朝時代のようにナパタ(ゲベル・バルカル)ではなく、アスワン近くの第一瀑布であったというのも、彼の軍事遠征が力を誇示するものであるが、ヌビア地域を実効支配するものではなかったということが分かる。
ヌビアのピラミッド
ピイの下ナイルへ向けた軍事遠征で目のあたりにしたエジプトのピラミッドの文化的衝撃は創造を絶するものであったに違いない。上エジプトにおけるピラミッドの存在は、すでに王権とは分離され、貴族の墓としても建てられるようになっていた。ヌビア地方にも紀元前9世紀頃に建設されたピラミッドが確認されているが、ヌビアにおいて再び王権と強く結びつくようになる。
エル=クル遺跡には、カシュタとピイ、シャバカ、シャバタカ、タンウェタマニの陵墓が残されている(タハルカはヌリ遺跡に埋葬された)。ウィキによればエル=クル遺跡にある14基のピラミッドは王妃のもので、そのいくつかは著名な"warriorqueens"(武人王妃)のものである。
武人王妃何て聞くとヒクソスを追い払い第18王朝の基礎を築いたイアフヘテプ皇后を思い出す。彼女の墓にも王妃のものとしては珍しく斧などの武具が一緒に副葬品として埋葬されていた。その斧にはグリフォンのリリーフがついている斧があり、その様式がミノアのグリフォンと酷似していることから、ミノア文明との関係が議論されてきた。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/26175605.html
少しファンタジー的なシナリオを考えると・・・、彼女はもともとヌビアの王族であったかもしれない。娘のイアフメス・ネフェルタリの肌の色が黒で描かれているもそのためだ。メロエ王朝の時代になると、ヌビア地方の人々がギリシア植民地と交易を行っていたものを示唆する遺物が見つかるのだが、何か関係があるのだろうか?
→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31072685.html
以前のブログ記事でも紹介したが、紀元前5世紀頃から「ヌビアのピラミッド」が数多く建設されるようになる。ナパタ王国からメロエ王国まで数百年の間に建てられた「ヌビアのピラミッド」は220基。120基を有する本家エジプトの倍近い。もちろん、エジプトのピラミッドと比べると”ミニ”であり、傾斜角度約70゜で高さは最大のもので30メートルほど、底辺の幅も8メートルをほとんど越えることがない。(エジプトのピラミッドの場合、基礎の大きさは少なくとも5倍以上、傾斜角は40~50゜)ウィキ。
クシュ王国の王に関して、第25王朝後のアトラネルザからアスペルタまでの4人の王(アトラネルザ、センカマニスケン、アンラマニ、アスペルタ)の存在については、時系列も含めて確実なものをみなされている。
彼らの名前が確認できる記念物も比較的多く見つかっており、彼らが近い親類関係にあったことも判明している。紀元前593年から568年にクシュ王国を統治したアスペルタからの時代に関しては、長い碑文なども見つかっており歴史的な出来事なども確認できる。彼の時代にはおそらくエジプトとの戦争も起こっていたと考えられる。
クシュ王国の王宮ではまだエジプト文化が主流であり、クシュ王もすでに支配力を失っているにもかかわらずエジプトの王であるかのように振る舞った。
ナパタからメロエへの遷都の日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中には、中心地は徐々にメロエに移転し、ナパタは宗教的な意味合いが強かったと考えられる。
他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。
メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。
クシュは鉄の仲介者だったのか?
クシュ王国の活動がメロエに移ったのは、鉄の鉱山の存在を挙げる学者が多くいる。これまでクシュ王国は、交易で象牙、金、そして奴隷などを輸出していたことが知られており、メロエ朝時代からの墳墓からは金が豊富に発見されている。しかしながら、それらの金がいったいどこに由来するものなのかはこれまで分かっていない。
タハルカの治世より「鉄」を使用していた痕跡が発見されている。彼の墓から発見された先が黄金で装飾された槍は、棒の部分が鉄から出来ていた。メロエ朝時代の遺跡からはスラグの山がいくつも発見され、一時期はメロエが古代アフリカの一大鉄産業地帯であったと解釈され、ヌビアがアフリカに鉄器を広めた仲介者であったとも言われた。
しかしながら、大量にスラグが発見される一方で、鉄を使用したオブジェの数はそれほど多く発見されていない。また、1976年ヘルマン・アンボーン(HermannAmborn)のスタディでは、ヌビア地域に精錬所があった形跡が全くないということが結論づけられている。スラグの山は決して精錬プロセスから生じたものではなく、非鉄金属、金、あるいはマジョリカ焼きのような陶器造りの生産プロセスで形成されたものだと言うのだ。メロエ朝時代には、キリンやダチョウなどの野生動物、人や家畜などを描いた陶器が造られていたことが分かっている。
ふむ・・・
さて・・・
プサメティク2世の侵略から70年ほど後、今度は新たな脅威がアジアからやってくる。
アケメネス朝ペルシア だ。
紀元前525年頃、アケメネス朝ペルシアのカンピュセス王の侵攻を受けた。
ここでよくベルリン博物館にあるナパタ碑文が引き合いに出され、「ヌビアの王ナスタセンがケンバスデン(すなわちカンビュセス2世)の軍を打ち破り、その軍船すべてを奪取した」とされているが、ナスタセン王は在位紀元前335年~315年のヌビアの王であるので、カンピュセス2世の時代とは異なる。
結局、ヌビア北部地域が侵略されるも、激しく抵抗した結果、ペルシア軍を追い返すことに成功する。
それにしても、ペルシアはなぜヌビアを攻めたのだろうか?
わざわざ・・・
■クシュ王国 紅海へ
35年間クシュ王国を統治したHarsijotef(およそBC404年~BC369年と推定)が残した碑文には、彼がそれまでの王と同様に王国への侵入を図ろうとする遊牧民族と戦わなければならなかったこと、そして戴冠式からはヌビア中の重要な神殿をまわり、地方の神々に合意を取り付けなければならなかったと記されている。当時の碑文の文字にエジプトのヒエログリフが使用されていたが、時代とともに文字としての仕様が失われていったことが見てとれるという。
紀元前3世紀初頭のものと推定されるアリヤマニ(Aryamani)の碑文はほとんど判読不可能だそうだ。おそらく、ヒエログリフを使っていたヌビア人達は、メロエに遷都してからは独自の文字を発展させたという。
ただし、アリヤマニの碑文の年代特定は困難を極めている。それにこの碑文が見つかったのはケルマ地方に近いカーバ(Kawa)である、ナパタやメロエ地方ではなく、クシュ帝国の原点とも言うべきで発見された。アリヤマニのファラオとしてつけられる称号が、ラムセスを名乗ったファラオ達の時代(BC1292年~BC1070年)を模倣していることから、新王朝時代の末期頃であったとも言われ、更にはアララ(ピイの父)であった可能性も示唆されている。
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いずれにせよ、メロエに活動の拠点が移るにつれ、
ヒエログリフの記憶も薄れていった。
それに代わって登場したのがメロエ文字だが・・・
これがどうも・・・
紅海を超えてアラビア半島南部
更には同じ時期にインドで発達したアブギダ(abugida)・アルファベットと似ているそうだ。
クシュ王国の交易相手はもはやエジプトではなかった。
紅海からインド洋にむかっていった
・・・かもしれない。
クシュ王国メロエ王朝について書く前に、前回あっさりとスルーしてしまったアケメネス朝ペルシアのカンピュセス王のクシュ王国侵攻(BC525年頃)について述べておこう。この時代の出来事を伝承する文献としては、その真贋はさておきヘロドトスの『歴史』が重要だ。
カンビュセス、クシュへスパイを送る
エジプト攻略後、カンビュセスは3つの遠征を計画した。目指す相手はカルタゴ人、アンモン人およびリビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの「長命族(マクロピオイ)である。計画をめぐらしてやがて決定した方針は、カルタゴには海軍を、アンモンには陸上部隊から選抜した部隊を派遣すること、エチオピアへは先ずスパイをおくり、その王に贈物をするという口実の下に、エチオピアにあると伝えられる「太陽の食膳」なるものが真実あるかどうかを見届けさせ、そのほかにもいろいろと探らせることでああった。
エジプトを攻略したカンビュセス
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『太陽の食膳』とは次のようなものであるという。町はずれに草原があって、ここにあらゆる種類の四足獣の肉を煮たのが一面に置いてある。実は町のその時々の係りの者が、夜の内にこの肉を草原に丹念に並べておくのであるが、昼間は誰でも勝手に行ってそれを平らげる。土地の住民は、大地がいつも自然にこの食物を産み出してくれるのだといっているそうである。いわゆる『太陽の食膳』とはこのようなものだといわれている
カンビュセスはスパイを派遣する決意を固めるとすぐに、エチオピア語を解するイクテュオパゴイ人をエレパンティネの町から呼び寄せることにした。(中略)
このイクテュオパゴイ人は「魚を食う人」という意味で、ヘロドトス、パウサニアス、アッリアノス、プリニウス、ストラボン、そしてプトレマイオス(ローマ天文学者)など古代の歴史家や地理学者などの著書に登場する。彼らが住んでいる地域は、ペルシア湾や紅海沿岸地域など報告する者によって様々であるが、プリニウスによれば端から端まで船で30日やアッリアノスによれば1万スタディオン(1800キロ)であったとされている。おそらく海上交易を生業とした民族であり、基本的にはアラビア語を話したとされている。
イクテュオパゴイ人がエレパンティネに到着すると、カンビュセスはエチオピアで述べるべき口上を彼らにいい含め、紫の衣裳、黄金の頸飾りや腕輪、雪花石膏の香油壺、椰子酒一甕などの贈物をもたせて、エチオピアへ遣わした。
カンヴュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである。
さてイクテュパゴイ人の一行はこの国へ着くとその国の王に贈物を献上し次のように述べた。
「ペルシア王カンビュセスは、貴王と親交を結ぶことを念願され、貴王に拝謁いたすようにと我らを遣わされました。これなる王からの献上品は、王自身も殊に愛用しておる品々でございます。」
しかしエチオピア王は彼らがスパイとして来訪したものであることを看抜いて、次のようにいった。
「ペルシア王は何も予と親交を結ぶことを大切と考えて、そなたらに進物を届けさせたのではない。またそなたらは真実を申しておらぬし-そなたらが来た目的はわが国の実情を探るためであるからな-、あの男も正義の人物とはいえぬ。ペルシア王が正義の士であるならば、自国の領土以外に他国領土を望むことはなかったであろうし、何の害も加えてこぬ民族を隷属させるようなことはしなかったであろうからな。
そこでこの弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。エチオピア王はペルシア王に忠告する。ペルシア人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。しかしそれまではエチオピアの子らの心に自国領以外の国土を獲得する願望を起さしめ給わぬ神々に感謝するがよい、とな。」
エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。王はそれから紫の衣裳を手にとって、それは何か、またどうして作るのかと訊ねた。イクテュオパゴイ人が紫や染色についてありのままを答えると王は、ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだといった。
確かにヌビア人は弓の名手として古来より知られているが、弓を引かせるというストーリーは同じくヘロドトスが紹介してリウスキタイ起源説ヘラクレス編にも登場する。・・・なんか創作臭いな・・・。
紫の染め物については以下を参照ください↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30494692.html
王は次に頸輪と腕輪などの金製品について問うたので、イクテュオパゴイ人がそれらの装飾品について説明すると、王は笑い、それを枷と思っていたので、自分の国にはこんなものより頑丈な枷があるといった。
金より頑丈なものとは何か?金はもともと柔らかい金属なので、それよりも頑丈なものとして青銅や鉄の可能も考えられる。前回の記事ではメロエが、鉄の一大生産地であったことについて否定的な見解を紹介したのだが、やはり鉄の生産地であった可能性も捨てきれない。例えばこんな記述もある
ナパタ時代の後期,紀元前1千年紀中頃には鉄器生産が始まっていた可能性があるが,王宮においてさえ鍛も日常の道具もほとんどは石器であった(Kendall1996)。それに対して,メロエにおける鉄器生産は出土したスラグの量からみて,鉄原料ならば5000トン,鉄製品ならば2500トンにのぼると推定されているのである。これが約500年間の集積であるとしても,年間5トン以上の鉄製品が作られていたことになる(Rehren2001)。これだけの鉄を生産するには,燃料となる木炭が大量に必要となる。
http://www.janestudies.org/drupal-jp/sites/default/files/JANES_NL_J_no17(2008)_7.tsujimura.pdf
3番目に王は香油について質問したが、使者がその製法やそれを体に塗りつけることなどを話すと、王は衣裳についていったのと同じ言葉を繰り返した。
さて、話が酒のことに及びその製法を聞いた王は、大層気に入り、王は何を常食としているのか、またペルシア人は最大限どれほど生き延びるのかと訊ねた。使者は王がパンを常食としている旨を答えて、小麦がどのようなものかを説明し、ペルシアでは80年が最高寿命であるといった。
するとエチオピア王がいうには、糞便を常食していては寿命の短いのも驚くに当たらない。実際ペルシア人はこの飲物で元気をつけることがなかったら、それだけの寿命も保てまい、イクテュオパゴイ人にその酒を指し示しながらいった。さすがのエチオピア人も、酒の点でだけはペルシア人に兜を脱ぐというのである。
今度はイクテュオパゴイ人が王に向かって、エチオピア人の寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が120歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲物は乳であると王は答えた。スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。
この泉は菫のような芳香を発していたという。スパイたちが語った話によれば、この泉の水は実に軽いので、水面にうけ部ことができるものは何一つなく、木も木より軽いものも浮かぶことができず、みな水底に沈むという。実際その話にあるような水がエチオピアに実在するとすれば、この水を常用しているエチオピア人が長命なのは、そこに起因しているかもしれない。
・・・“油の泉につかったように”って、水より軽いんだからやっぱり油か?スーダン地方は石油の産地でもある。いずれにせよ、メロエ王朝はローマから大衆浴場の文化を取り入れたようなことが書かれたあるが、水浴的な習慣はヌビアにすでにあったということなのだろう。
泉を離れると今度は牢獄へ案内されたが、ここでは囚人がみな黄金の枷を掛けられていた。このエチオピア人の国では、青銅が最も珍しく貴重なものなのである。牢獄見学の後、スパイたちはいわゆる「太陽の食膳」も見物した。
「太陽の食膳」を見学した後、最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これはヒュアロスという透明な石材を用いて、次のようにして製造されるという。エジプト式あるいはその他の方法で死骸を乾燥させた上、全身に石膏を塗り、その上からできるだけ本人の面影に似せて、その姿を描くのである。それから中をえぐったヒュアロス製の柱の中へ遺体をおさめる(ヒュアロスは細工し易い石材でこの国では多量に採掘される)。
遺体は石柱の中に収まっていても透きとおって見え、何らの悪臭も放たず、その他不快の種となるようなことを示すことも決してない。そしてその遺骸は、五体こごとく加工を施す前のままの姿で現わしている。この石柱は、使者に最も近い縁者が一年間自分の屋敷に置き、さまざまな動物を供え生贄をささげる。一年たつと家から運び出して、町の周囲に立てるのである。
カンビュセス 進撃と「カンビュセスの籤」
以上の視察を終えて、スパイたちは引き返していった。彼らから以上の報告をきいたカンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることを考えてもみなかった。カンビュセスはもともと気違いじみた性格で、冷静さを欠く人物であったので、イクテュオパゴイ人の報告をきくや否や、麾下のギリシア人部隊にはその場所で待機させ、全陸上部隊を率いて遠征の途に上ったのであった。
軍を進めてテバイに着くと、カンビュセスは遠征軍の中から5万を選抜し、アンモン人を征服してゼウスの託宣所を焼き払うことをこの部隊に指令し、自分は残りの部隊を率いてエチオピアへ向った。
しかし彼の軍隊が行程の5分の1も踏破せぬうちに、携帯の食糧はことごとく尽き、糧食についでは軍需品輸送用の動物も食い尽してしまった。この情況を知ったカンビュセスが、もしこの時自分の誤算に気付き、軍を返していたならば、最初の過失はともかくとして、彼は賢明であったといえるであろうが、彼はこの惨状を全く意に介さず、ひたすら先へ先へと進んだのであった。
兵士たちは地上に草の生えている限りは、これを食って生き延びたが、いよいよ砂漠地帯に入ると、彼らの内で戦慄すべき行為に出るものが現われた。すなわち十人一組で籤をひき、籤に当った者を一人ずつ食ったのである。カンビュセスもこのことを知ると、全軍が同胞相食む惨状に陥ることを恐れ、エチオピア遠征を中止して退却したが、テバイに着いたときには麾下の兵士多数を失っていた。
このヘロドトスが語るカンビュセスのクシュ遠征の顛末は、「ドラえもん」の藤子・F・不二夫が書いた異色の短編漫画「カンビュセスの籤(くじ)」にも登場する。藤子・F・不二夫の短編漫画を見ると、あらためて昔のマンガ家は凄いと思う。Wikiにはストーリーが掲載されているが、「食のタブー」もどこ吹く風、絶対読みたくなることうけあいだ。
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ただ、前回の記事でも触れたが、実際の歴史ではペルシア軍とクシュ軍の戦闘はあったようだ。これほど悲惨の結末という訳ではないのだが、ペルシア軍は撤退を余儀なくされた。
■王殺しとメロエの女王
クシュ王国メロエ王朝
メロエ王朝の誕生時期については、いろいろと議論が分かれている。政治的機能はすでにアスペルタの治世(紀元前6世紀初頭)からメロエに遷都されたようだが、宗教的機能は引き続きナイル川下流のナパタに残り、王もナパタに埋葬された。
一般的にメロエ王朝の初代王として知られているのはエルガメネス(Ergamenes:紀元前280年頃)だ。彼については、ギリシア人歴史家ディオドロス(紀元前100年頃)によって言及があるなど、当時他の古典文献に登場する数少ない王の一人である。ディオドロスによればメロエ王朝のエルガメネスはギリシア哲学者によって教育を受け、ヌビアの司祭を拒んだという。更に彼によれば、かつては慣習によって司祭が“王がいつ死ぬべきか”が決定していたが、王はこの命令を拒み、神殿に軍隊を送りこんで司祭を殺したという。
司祭が王の死ぬべき時を決定していたと言う話は興味深い。ジェームズ・フレイザー著の『金枝篇』を想起させ、再生を繰り返すアドニスのような植物信仰が根底にあるような気もする。ウィキの「王殺し」の記事を拝借すると
ヨーロッパでは、古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える。
この逸話の信憑性については定かではないが、彼によって新しいヌビアの時代が幕を開けたのは確かである。メロエはそれ以前にもクシュ王国の首都であったことはあるが、エルガメネスはメロエにピラミッドを築き、そこに自身を埋葬させた最初の支配者であった。それまでは、前回の記事にも書いたが、それまで宗教的な中心地はナパタであり王の戴冠式や埋葬はすべてナパタでされていたのだった。
その後の王については、ほとんど知られておらず、ピラミッドからの碑文から名前を読み解くのが精一杯だ。おそらく紀元前220年頃の王であっただろうアルネハマニ(Arnekhamani)は、大きな神殿をハルツームから北東190kmほどいったal-Musawwaratas-sufraに築いている。それを見る限りは、エジプトの文化の影響は大きく後退したことが見てとれるようで、他方ギリシア文化の影響も受けながら独自のメロエ文化や芸術が花咲いていたことが分かる。そして、ここは新たな宗教センターになっていたことが、巡礼者が残したと思われる碑文などによって考えられる。
カンビュセス率いるペルシア軍の侵攻を防いだヌビアだが、考古学的証拠から、メロエ朝時代のクシュ王国がプトレマイオス朝エジプトに対して軍事侵攻を企て、下ヌビア地域あたりを占領したとも考えられている。アディハラマニ王(BC207–186)とアルカマニ王(BC200頃)にはアスワンの近くに神殿も建設しており、少なくともその周辺は当時ヌビアの占領下にあったことが伺える。また、そこにはアディハラマニ王の碑文も残っているのだが、それがヌビアの王についてヒエログリフで記された最後の文書である。
世界史における時代の中心はギリシアやローマに移行しつつあり、歴史の教科書ではほとんど言及されることはないのだが、エジプト南部においては、エジプトとヌビア勢力の攻防がいたるところで展開していたと考えられる。
記録されているメロエ朝王の記録の中でも、シャナダヘト(Shanakdakheto:BC170-BC125)は最初の女王である。メロエのピラミッド群の中でもひときわ大きなピラミッドが彼女のために建設され、チェペルにある2つの小部屋は芸術性の高いリリーフで装飾されていたと考えられ、南部への軍事遠征によって数多くの牛と奴隷を得たことが描かれている。自らを「ラーの息子」、「2つの国の支配者」という称号を持ち、ナショナル・ジオグラフィックスによれば、史上最も重要な女王50の中に入る要チェックの人物だ。ナカで発見された彼女の名前が書かれた碑文は、現存するものではメロエ文字で書かれた最古のものである。
彼女の治世の後、アマニレナス(Amanirenas:BC40-BC10)やアマニスハヘト(Amanishakheto:BC10-BC1)などメロエ王朝では度々女王が支配者となった(7人ぐらいだろうか?)。聖書の使徒行伝や地理学者ストラボが述べているエチオピアの女王カンダケは、どうもアマニトレ(Amanitore:BC1–AC20)であると考えられている。
メロエの都市と神々
メロエの都市は3つの構成要素があった。王宮や行政などの重要な建物を城壁で囲むようにつくられたロイヤルシティ、アメン神の複合神殿、そして一般市民が住む居住区だ。ロイヤルシティの王宮には所謂“ローマ風呂(公衆浴場)”があり、装飾などから古典ローマの影響がみられるとされる(温泉自体はもっと古くから普及していたと考えられる)。メロエのピラミッドと居住区の中間には太陽神殿がある。
メロエではナパタ時代、あるいはもっと以前から信仰されてきたアメン神がそのまま最高神として信仰されていた。角がある羊の姿で描かれたアメン神はケルマ時代の太陽神として機能をもっていたことが確認できている。野生羊姿のアメン神は、エジプトの軍事遠征によってヌビアを征服した時にエジプトにもたらされたと考えられている。いわばヌビア・オリジナルだ。メロエ語では「アマニ」と呼ばれ、アマニを名前に冠する王も多数出た(Tanwetamani、Senkamanisken、Anlamani、Arkamani、Amanitore、Amanishakheto、そしてNatakamanなど)。
さらに、アメン神は時代と場所によってその姿や添え名は変化したらしい、カワでは「南の獅子」という添え名がつき、かつてライオンの姿の神であったことも示していおり、メロエ朝時代には羊の他にもライオンの姿でも描かれている。またメロエ朝時代にはアメン神が太陽を司るのではなく、稀にだが「月の神」であったことを示す碑文も発見されている。また、第25王朝のピイを見ても分かるようにテーベのアメン神が彼の妻ムートや息子コンスなどと一緒に崇められていたこともある。
メロエ朝時代にはアメン神の他にも次のような神が信仰されていた。
アペデマク(Apedemak) 獅子神
この神も頭がライオンで身体が人間という姿で、弓と矢筒と一緒に描かれている。戦争と豊嬢の神であり破壊と創造の力をもつとされている。ナカにあるライオン神殿の裏の壁には、3つの頭と4つの人間の手をもつアペデマクが描かれており、インドの影響もみられというが・・・どうだろうか。
また彼は頭がライオン、上半身が人間、下半身が大蛇という姿でも描かれているとなると、ゾロアスター教やミトラス教のズルワーン、グノーシス主義のアイオーンと重なる。
アメセミ(Amesemi)女神
獅子神アペデマクの妻だが、人間の姿で描かれている。ライオン神殿の側面にイシス、ムト、ハトホル、サティスとともに描かれている。この4人の女神たちに思いつきで並んでいる訳でも、美人コンテストをしているわけでもない。この女神達にすべて共通して『ラーの目』と関係がある。これらエジプトの4女神に比べてヌビアの女性らしくぽっちゃりと描かれているアメセミも、おそらく太陽神ラーと関係があったに違いない。タブンね・・・。
アレンスヌフィス(Arensnuphis) プトレマイオス朝
彼の名アレンスヌフィスはギリシア語に由来するが、古エジプト語では「良き伴侶」を意味する「Iri-hemes-nefer」である。これは特にプトレマイオス時代の下ヌビアの神殿などでエジプトの神シューの添え名としても見受けられ、雌ライオンの顔をもつテフヌトの兄弟、もしくは夫として、伝説によればヌビアからエジプトに来たと考えられている。アレンスヌフィス自身は人間の姿で描かれているのだが、ごく稀に吠えるライオンとして描かれていることがある。
アスワン近郊にあるフィラエ神殿では、彼には「美しい狩人、プントの主人」という添え名がつけられている。さらに「大風」、「北風とした来た者」、「ヌビアから来た者」、「天の創造者」、「ラーの後継」などがある。ギリシア神話にてこのアレンスヌフィスに対応するのはアルテミスと言われている。
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ふむ。。。
エジプトの伝説にある「ヌビアに逃亡する雌ライオンの顔をした女神」の由来の手掛かりを得ようとしたのだが、今回は残念ながらえられなかった。少し気になるのは、メロエ朝の時代でも上下統一を象徴する王冠があちらこちらで登場する。ひょっとしたら僕たちはこの王冠をとんでもなく間違えて解釈してしまっているのではないだろうか・・・。
ところで、メロエ王朝の時代で注目されるのが彼らの交易についてだ。
海上交易への道
メロエ王国の時代には、発掘される遺物などからもギリシア商人との盛んな交易がされていたと考えられており、それがナイル川を経由するルートではなく、アフリカ東岸の紅海から輸出し、そしてギリシア人植民都市と交易していたと考えられている。更にはアラビア半島南部を経由して、インドとも接触しおり、ヒンドゥー文化もこの時期流入してきている。
前回、前々回とメロエの鉄産業について少し紹介したが、実際メロエが「アフリカのバーミンガム」と呼ばれるほど鉄鋼産業が盛んであったかは今後の調査を待たなければならないだろう。しかし、鉄以外にも金や宝石をはじめ、メロエ産のコットン繊維なども海上交易の商品として広範囲に取引されていたと考えられている。
交易をする際に重要なのは相手側とのコミュニケーションだが、所謂メロエ文字と言われる文字は、フェニキア文字の発展と同様に商業的展開の必要性から生まれたものだろう。
そして・・・、この文字だが、
その交易の特性を示すようにインドからの影響もあるようだ。
■メロエ文字とその他の古代文字
クシュ王国の中心が時代とともにケルマから南方のナガタに移り、そしてナガタからさらに南方のメロエに移るにつれ、文化的にエジプトから独立したクシュ王国は、独自の文化を開花させていった。その変化は、クシュ王国独自のメロエ文字誕生にもみることができるが、それは独立した発展をたどったのではなく、おそらく交易を通じてこれまで関係の薄かった他の文化圏との接触も大きな要因だったのではないだろうか。
前回、マーラーさんから「聖書アラビア起源説」との関連を聞かれたが、僕がヌビア地域にこだわるのは、まさに今日の記事で取り上げる「言語」と「文字」の問題やY染色体の分布図をみるとアラビア半島南西部とアフリカ東岸(ヌビアはもっと奥地だが)にはどうしても何らかの関係あるよう思えるからだ。
そして、インドとも・・・
ヌビア人が話したメロエ語
メロエ語とは、およそ紀元前1000年から紀元前750年の間にヌビア(現在のスーダン)で成立したクシュ人の王国で話されていた言語である。この「メロエ語」という名前はクシュ王国の中心地がメロエに遷都されはじめた紀元前6世紀頃を考えると、誤解を招きやすいのだが、すでに紀元前1000年頃にはヌビアでは日常会話として話されていた言語とされている。つまり、ヌビア語と呼んだ方が適切なのかもしれない。
記録としてはエジプトの文字ヒエログリフで編集され、紀元前800年頃の古代ヌビアの碑文はほぼ全てヒエログリフを用いて書かれているそうだ。しかしながら、ヌビアの人名研究などが進み、メロエ的な特徴をもつ名前や地名、そしてフレーズなどはエジプト新王朝時代から存在していたとも考えられている。
その一方で、「メロエ文字」の発展は遅れて興った。もともとクシュ人の王国の中心地はナパタであったが、紀元前300年頃に、現在のハルツームの北のメロエに中心地が公式に移された。当時エジプトに対する文化的な依存度が低下したが、同じ頃に独自の文字、メロエ文字による表記法が発展し、メロエ語が公的な記録に使用されだしたことからも、そのことが伺える。
奇妙なメロエ文字
メロエ文字は、クシュ王国メロエ王朝において少なくとも紀元前200年頃までメロエ語を書き記すのに使用されていた。またおそらく、後継者である諸ヌビア王国で古ヌビア語を記すのに使用された。メロエ文字は所謂「アブギダ」、「アブジャド」、「アルファベット」という文字体系の中で、セム系の文字である「アブジャド」とインド系(ブラーフミー)文字である「アブギダ」の性質を併せ持つような不思議な文字だ。
ちょっと訳が分からなくなると困るので整理しておこう。
音素文字は原則として1字が1音素(発音の最小単位)を表す文字で、最初に僕らが知っているアルファベットの体系を想像してもらってかまわないだろう。ただし、「a」や「e」のような母音や「h」や「s」のように子音をどのように体系に取り組んでいるかで3つのグループに分けることができる。
「アブジャド」はセム文字系であり、ヒエログリフを簡略化することによってつくりだされた原シナイ文字(紀元前1500年頃)の一派であったと言われている。しかし、原シナイ文字がアルファベット体系の中で最も古い文字かと言えばそうでもない。上エジプトで比較的ヌビアの影響も濃いテーベ周辺で原シナイ文字と近似のワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年頃)も発見されている。
楔形文字(シュメール文字)は紀元前2500年頃には1000文字あったとされるが、その後500年間の内に400文字に簡略された。その後も簡略化の努力は続けられた。こうしたプロセスの中で母音を捨てられ、フェニキア文字の誕生で覚えるべき字形が22までに減った。フェニキア文字は、まさに広く使用されるようになった最初のアブジャドであり、広範囲に海洋貿易を営む民によって生み出された言語といっていいだろう。
このプロセスはギリシア語のアルファベットを誕生させ、また広域で利用されたアブジャドのアラム語は、中東を経てインドまで到達し、そこで今度はブラーフミー文字を発展させた。ブラーフミー文字はアブギダである。このブラーフミー文字は子音の音価と暗黙に続く母音の音価を保持することで音節を表現する。この辺の分け方は正直良く分からないが、アブギダが紀元前6世紀頃インドで誕生したことはチェックしておきたい。
ひるがえって、ヌビア地域ではアブジェドでありながら、アブギダとしての性格をもつメロエ文字が誕生したわけだが、おそらくインドで生まれたアブギダが、インド洋の海洋交易路を経てアフリカ東岸に達し、エジプトとの国交がほぼ断絶していたヌビア地域の文字形成に影響を与えたのかもしれない。
また、同じようにアラビア半島南西部のサバ王国や、後のヒムヤル王国からアブジャドである南アラビア文字がエチオピアの紅海沿岸にもたらされ、ゲエズ文字となった。このゲエズ文字も当初はアブジャドであったにもかかわらず、西暦300年頃になるとインドのブラーフミー文字や隣のメロエ文字などの影響を受けてアブギダに変化し、これまで右から左に書かれた文章も、左から右へと書式を変更している。
ウィキペディアには次のように書いてある。
アブギダとそれ以外の音素文字体系との間の明瞭な線引きは難しい。歴史上中間的な文字はいくつも生まれている。たとえば古代ヌビアのメロエ文字は、随伴するaを示さない(ひとつの記号がmとmaの両方を表すなど)ため、ブラーフミー系文字のアブギダに似ている。しかし、他の母音は完全な字で示し、ダイアクリティカルマークや変形では示さない。したがってこの文字体系は、本質的にはアルファベットに近いがある母音を表記しないものであったと言えよう。
文字の分類はそもそも正しいのか?
世界最古の音素文字をめぐってはヒエログリフから派生したと考えられる「原シナイ文字(紀元前1500年)」であるとか、「ワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年)」であると言われている。それがフェニキア語の祖である原カナン語に発展したとあるのだが、若干の違和感を覚えずにいられない。
カナン人がフェニキア人の祖であったことは、おそらく間違いないと思われるのだが、この原カナン文字は、フェニキア文字と似ているようにはとても思えない。どうだろうか。ヒエログリフが原カナン文字の由来というのはその類似性から容易に想像できるのだが、そこからフェニキア文字への発展段階には、もう何段階かの発展過程がないと説明しにくいような気もする。
フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(母音を表す記号がない)である。つまり、子音を表現する文字のみから構成される文字体系で、実際にどう読んだかは分からない。このフェニキア文字からは最初に分岐したと考えられるのが、古ヘブライ文字で、おそらく「紀元前10世紀頃に話されていたと考えられるヘブライ語」を表現するのに使用されたと言われている。
一般的・・・といっても聖書を史実と受け止める場合、古ヘブライ語はイスラエルの滅亡やバビロンの捕囚などでフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字に取って代わられ、その後、再びアラム文字をベースとして現在のヘブライ語が出来たというのが・・・どうも怪しい。
疑惑の一つ目は; フェニキア文字と古ヘブライ語ってそっくり!
驚くほどに・・・と言うか、ほとんど違いがない・・・
・・・って言うか同じでしょ? これは・・・。
つまり、紀元前10世紀以前、モーセも苦手であったヘブライ語はすでに存在していなければならないわけで、当然十戒の石板もヘブライ文字ではなく、フェニキア文字と同じ「古ヘブライ語」でなければならない。これは聖書に都合の良い箇所は「古ヘブライ文字」であり、それ以外は「フェニキア文字」と呼んでいるような気がしてならない。
疑惑の2つ目は; アラム文字とヘブライ文字ってそっくり!
・・まぁ、イエスもアラム語を話したと言われているが無理もないが、バビロンの捕囚後、密かにヘブライ語を伝承してきたユダヤ人たちが再び「ヘブライ語」を復活させたというストーリーはどうも怪しい。
ウィキペディアには次のように書いてある。
帝国アラム文字の影響
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語・アラム文字(帝国アラム文字)は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残しているが、ヘブライ文字にもその直接の影響を与えている。アッシリアの北イスラエル王国の征服と新バビロニアによるユダ王国の征服、バビロニア捕囚、キュロス王による帰還政策とそれに続くペルシア帝国時代に、帝国治世下のセム系諸民族は軒並み帝国アラム文字の使用に移行したようである。バビロニア捕囚の後もイスラエル王国系の北南の地域では、一部それまでの古ヘブライ文字が使用されていたようだが、この時期からアラム文字によってヘブライ語を筆記するようになり、ヘブライ語自体も徐々に文語化し日常の口語はアラム語へと移行したのではないかと考えられている。
このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字(SquareHebrewscript)または単に「方形文字」と称する。
方形ヘブライ文字の展開
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書では、単語末に形状を変化させるkの(ך)カフ・ソフィート、mの(ם)メム・ソフィート、nの(ן)ヌン・ソフィート、pの(ף)ペー・ソフィート、ṣの(ץ)ツァディ・ソフィートが出現している。しかし、これは同じ時期のパルミラ文字などの他のアラム語資料でもまったく同様の形態変化を起こしているので、方形ヘブライ文字だけではなくこの時期の西部のアラム文字系全体の変化と連動した、同一の現象と考えるべきだろう。
死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が随所で見られる。また後代のラビたちもこれらの文字を「ヘブライ字(ketāb'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。
蛇足ではあるが、北イスラエル王国領であったサマリア地域でも同様に古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。
・・・
古ヘブライ語と近似している・・・と言うのは要するにフェニキア文字と近似している・・・と同義だ。サマリアは聖書にも登場する北イスラエルの首都であったので、無理やり古ヘブライ語としているようだが、フェニキア文字と呼んではいけないのだろうか?
ふむ。。。
だいぶ話がそれてしまったが、言語を中心としてぼんやりとしたエチオピアとインドの関係についてスポットをあてようと試みたのだが・・・・結局ぼんやりとしたままだ。
■再論:サバ王国
2012/11/9(金)午後8:54紅海沿岸の古代史歴史
さて、クシュの歴史を紀元前2世紀ぐらいまで概観してきたが、一旦時間の流れを紀元前8世紀あたりまで逆戻ししよう。まだ、クシュ王国がメロエに遷都する以前、王国の勢力圏からは外になるのか、それとも衛星都市的に発展していたのかは定かではないが、ダモト王国がエチオピア北部、現在のエリトリアに興隆した。
後のアクスム王国の基礎となるべき国なのだが、その歴史についてはあまりにも闇に包まれている。この王国の発展には紅海の対岸にあるサバ王国も少なからず絡んでいるといわれている。
まずは、ここで紅海を越え、アラビア半島の歴史について調べてみることにしよう。
東アフリカとアラビア半島の間に横たわる紅海は長さ2250km、幅最大355km 平均的な水深は538メートルある。一番狭い海峡であるバブ・エル・マンデブ海峡では、2つの陸地の間はわずか27キロであり、琵琶湖の最大幅が23キロであることを考えると、筏で渡ろうと思えば渡れる距離であろう。人類の移動ルートとしては、ナイル渓谷からシナイ半島を通ったという北東ルート説よりも、このバブ・エル・マンデブ海峡を渡ったという南東ルート説の方が有力である。
こちらのサイトより拝借 ↓
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/012_2Ysennsyokutai_no_bunnpu_to_keiro.html
これはアラブ主著国連邦などで発掘された石器なども、この説を裏付けている。
人類の出アフリカは定説より早かった?
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110128001
(January28,2011)
初期現生人類の出アフリカ時期が定説より2万年早まるかもしれない。アラビア半島の太古の石器を発掘した研究者が発表した。
約13万年前、氷期の地球で温暖化が進行し、海水面が下がった。アラビア半島には航行可能な湖や河川も出現して、人類の水上移動が容易になったという。かつては乾いた砂漠だったアフリカ北部地域に中東への新たな移動ルートが生まれ、約20万年前に出現した初期人類に出アフリカのチャンスが訪れたと見られる。
アラブ首長国連邦の砂漠遺跡で発見された約12万年前の石器類も、新説の有力な証拠となる。
初期人類は約6万年前、ナイル渓谷や現在のエチオピア経由でアフリカを出たと考えられてきた。しかし太古の石器の発見により、現在のソマリアあたり、いわゆる“アフリカの角”から直接半島へ渡った可能性が出てきた。しかも、道具はアフリカ独特のデザインが施されているという。(中略)
気候データについては、洞窟の石筍(せきじゅん)から太古の湖や河川の気候記録を調査し、紅海の水位変動も調べたという。比較的温暖だった約13万年前は、アラビア半島で降水量が増加。人類は、出現した河川を船や筏(いかだ)で下っていた可能性がある。
イギリス、オックスフォード・ブルックス大学の自然地理学者エイドリアン・パーカー氏によると、この時期は紅海南部の水位が落ち込んでいたという。約4キロの航程でアラビア半島にたどり着けるため、人類にとっては海を渡る絶好の機会だったようだ。
ふむ。
かなり早い時期に人類はアラビア半島に定住していたと考えられる。
人類で最初の宗教は多神教だったのだろうか?
それとも・・一神教であたったのだろうか?
古代エジプトやメソポタミアでの信仰においても、なぜ、アフリカ東岸やアラビア半島南部にしか生息しない没薬や乳香が聖なるものとして見られ、オリエント世界の宗教で重宝されたのか
『聖書アラビア起源説』では、はっきりとアラビア半島のアッシール地方が『旧約聖書の舞台である』としているが、それが政治的なプロパガンタにせよ、方法論的な欠陥があるにせよ、このアラビア半島には『一神教の故郷』、あるいは『一神教の伝統』が育まれてきた何かがあると思われる。世界宗教たるイスラム教が辺境の地メッカで起こったのはそれなりの歴史的背景があるに違いないし、聖典であるクルアーン(コーラン)を単なる聖書の焼き直しとするのは明らかに間違えであろう。単純に考えると、現在ヘブライ語にもっとも近い言語はアラビア語であるから、ヘブライ語からアラビア語に翻訳する方が、より忠実に翻訳できると素人には考えられるのだが・・・。
アラビア半島南西部の歴史
アラブ系の伝統ではセム族出身のカターン(Qahtan、旧約聖書ではヨクタン)と、その息子達がアラビア半島南部の人々の祖になったと伝えられている。その内、1つのグループはヒムヤル、他のグループはカーラン(Kahlan)と呼ばれイエメン北部で遊牧を行っていた。
カーランの遊牧グループは、紀元前2500年頃にNajraと呼ばれるイエメンとサウジアラビアの境にある砂漠地帯に土手ダムをつくり、マアリブ地域に灌漑が整備したとされている。このカーラン族が後にサバ王国を建国したと考えられている。
このサバ王国が、旧約聖書に置いてソロモンを訪ねた伝説の王国シバであるとも言われている。
紅海沿岸の古代史を見る時に、おそらくアラビア半島に最初に登場するのはこのサバ王国で、おそらくその2~3百年早く紅海の対岸で興隆していたとされるダモト王国と何らかの関係はあったに違いない。また、サバ王国は、“王国”というよりは当初緩やかな部族連合に近い形で存在していて、旧約聖書で言われるところの「士師」達によって統制されていた社会であったかもしれない。
その後、まさに没薬や乳香の産地にカタバーン王国、アウサーン王国、ハドラマウト王国、そしてマーイン王国が誕生した。これらが紀元前8世紀頃に興隆したと言われている。ギリシアの天文・地理学者エラトステネス(紀元前276年~194年)は、セム族系の古代イエメン4部族としてマーイン人、シバ人、ハドラマウト人、カタバーン人を挙げている。
サバ王国の興隆については、実は以前述べている ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30381907.html
サバ王国についての最古の記録は、ユーフラテス沿岸の町ハディーサで発見されたメモ書きのような碑文で、紀元前8世紀頃にシュフとマリの行政官がアブ・ケルマール付近でサバとタイマーから来たキャラバン隊を襲ったというものだ。
調べている内に以下のページにも同じ記録についてもっと詳細な事を紹介していたので以下に引用する。
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Najran-2.html
「ユーフラテス川(駐留のスフ(Suhu)およびマリ(Mari)の知事によって駱駝の隊商が捕らえられた」と記述されている。
タイマーと古代シバから来た100名の人達を従えたこの隊商は200頭の駱駝から成り、羊毛、鉄、雪花石膏および青ムラサキ色に染めた羊毛を運んでいた。ところがこの隊商は通行料を支払わなかったので捕らえられた。雪花石膏を除けば、これらはアラビア半島南部の典型的な産物では無かった。
ホネガイの殻で染めた紫の羊毛はフェニキア人が扱う産物である。鉄はアラビア半島南部の輸出品としては知られていない。しかしながら、アナトリアおよびレヴァントに鉄の産地がある事は知られている。
「乳香の道の重要な中継地である古代シバ国およびタイマーの交易業者は彼等の香料をレヴァントでフェニキアの織物、鉄等と交換し、それからアッシリアで産するこれらの品の幾つかと交換する為に、東へ向かって旅をした」と言われている。
ルート的にはこんな感じだろうか?
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また、以前の記事では遠隔交易を営む商人達に加え、国家間どうしの取引として、新アッシリアとサバ王国の間に朝貢関係が存在していたと書いた。
古代の記録として2人のシバ王国の王がアッシリア帝国(新アッシリア時代)に貢物をしていたとされるが、サバ王国側の王名表と照合すると、おそらく次の2人の王になる。
紀元前715年頃:
イタマール・ワタール1世(サバ王国側資料)=イタムラ王(アッシリア側資料)
紀元前685年頃:
カリビル・ワタール1世(サバ王国側資料)=カリビル王(アッシリア側)
どんな人物だったのか?
イタマール・ワタール1世
イタマール・ワタール1世については、イエメンのシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqahから発掘された碑文に言及がある。これは彼の後継者であるカリビル・ワタール1世の碑文なのだが、イタマール・ワタール1世の治世に戦争によって様々な土地を獲得したことが書かれている。
彼は、まずカタバーン王国の王ヴァラド・アム(Walad'Amm「月の神アムの息子」)を倒し、その勢いでカタバーン王国南西部地帯から、都市Timna、Radman,Ru'ayn、そしてYahiriなどの地方、そしてアウサーン王国の中心地であったWusrを征服したとある。、更にサバ王国の北方にある都市国家カミナフ(Kaminahu)の支配下にあったナシャン(Naschan)とマンヒヤト(Manhiyat)を開放(?)し、カミナフそのものも支配下においたと記録している。
カリビル・ワタール1世
カリビル・ワタール1世は、古代南アラビア半島史におけるサバ王国で、最も重要な王になる。彼の活動は特に前述のシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqah神殿の碑文から読み取ることが出来る。比較的長いこの碑文は2つあり、考古学上の資料としては一方をRES3945、そして他方をRES3946と呼んでいる。RES3945では灌漑施設などの建設と軍事遠征についての報告であり、RES394もやはり建設事業と征服した土地などについての報告で、当時の南アラビア半島における政治情勢について分かる数少ない資料の内の一つである。
一方で、アッシリア側の資料がある。
ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年~紀元前727年)
タイマーからの朝貢を受け取ったとの記録がある。
サルゴン2世(紀元前721年から705年)
サルゴン2世が行った軍遠征のうち、紀元前716年にエジプト東部のシナイ半島にある都市アリシュに行軍し、軍事要塞を築いた時に、様々な貢物をシバ王国が贈ったという。つまりは『粉塵の様な形の黄金、宝石、象牙、黒檀の種、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタマール・ワタール1世から受け取った』というものだ。
センナケリブ(在位:紀元前705年~紀元前681年)
このセンナケリブと言う呼び名は旧約聖書のヘブライ語記述をさらにギリシア語訳したものに由来する慣用表記で、実際はアッカド語における表記シン・アヘ・エリバ(Sinahheeriba)で、意味は「月の神シンが兄弟の代わりに我を与えた」というものである。
アッシュールに神殿を建てたのを記念した基礎の碑文にセンナケリブは『シバの王カリビルから贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた』と書き記している。
紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによると、エジプトに対して軍事遠征を行ったセンナケリブに対して「アラビアとアッシリアの王」と述べている。
また、バーレーンで発掘された最古の入植跡から、センナケリブがアラビア北東部を攻略し、バーレーンの島々を手中に収めたことを示唆しているそうだ(ウィキ)
アッシリアへの朝貢は円滑な交易を保証する為の交易税又は賄賂であったと考えられるが・・・
当時、アラビア半島西南部の地域は戦国時代・・・。
おそらく軍事同盟を背景としたものであったに違いない。
何があったのか?
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2012/10/31(水)午後7:09
紅海沿岸の古代史歴史
■古代のクシュと獅子の顔をした女神
今日からから数回、アフリカ東岸やアラビア半島南西部の古代史について調べてみる。
その最初としてクシュ(クシ、エチオピア)についてもう一度言及して起きたい。・・・
実は「検証: 聖書アラビア起源説 その1」の続きだが、別シリーズとして再度取り上げようと思う。
これまでの『検証: 聖書アラビア起源説』シリーズでクシュ(聖書ではクシ、以下ではクシュ呼ぶ)については、旧約聖書の記述と「聖書アラビア起源説」の著者であるサリービーの説ついて述べた。
検証: 聖書アラビア起源説 その30 遠いクシ(エチオピア)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30954034.html
検証: 聖書アラビア起源説 その31 かなり近いクシ(クシュ)
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30962689.html
クシュはエジプトの南にあり、歴史上存在した王国としては必ずしも紅海沿岸に位置していないのだが、紅海沿岸における古代史の鍵を握るのは、この「クシュ」の地理的概念のようにも思える。
古代ギリシア人(少なくとも紀元前8~5世紀頃)にとってなぜ東西2種類のエチオピア人が存在したのか?
旧約聖書にはなぜあれほど頻繁にクシびと(エチオピアびと)が登場するのか?
アンドロメダはなぜエチオピアの王女なのか?
そんなことをぼんやりと考えると、これまでのエジプトの南とされていた地理的概念としての「クシュ」が、実際にはもっと広範囲で、複雑であったのではないかと思う。
議論の最初として、まず一般的に「クシュ」について調べてみよう。
クシュの古代史
スーダンを流れるナイル川流域のクシュと呼ばれた地域は、もともと古代エジプト時代には『ヌビア』と呼ばれ、金と奴隷の重要な供給源となっていた。この名前が果たして古代エジプトの言葉で「金」を意味する「nebu」、転写すると『nab.w』、あるいはコプト語『nub』に由来するかは定かではない。
古エジプト王国時代には、ヌビア地域は『Ta-seti』、つまり「砂漠の弓の大地」と呼ばれており、中王国時代になってから『Ta-seti』に対して、『Kasch』とも呼ばれるようになる。『クシュ』はこの古代エジプトの言葉である『Kasch』に由来すると考えられている。
僕達の頭の中では古代エジプトのピラミッドのイメージがあまりにも強く、「エジプトは高度な文明」、「ヌビアは未開の地」という偏見をどうしてももってしまう。
確かに、考古学的証拠によるとヌビア地方における王国の形成はエジプトに比べて遅く、金属の加工技術やさまざまな技術面において後発であったのは否めない。しかし、古代オリエント世界において、ヌビア地域に興った諸王国は、古代エジプトに対抗する南の勢力として毅然として存在していたと考えられる。
それに、もし・・・
「歴史上で最もピラミッドを多く作った国は?」
というクイズがあったら、正解は
「クシュ王国」 だ
・・・まぁ ピラミッドの建造された“年代”や“大きさ”にはかなりギャップがあるのだが・・・。
いずれにせよ、古代史におけるこの国の役割を考えると、決してこの国の歴史を軽視することはできず、考古学的調査ももっと集中的に行うべきであろう。
Aグループと先史ケルマ文化
ヌビアはエジプトの初期王朝が誕生する以前から文化圏が存在したことが確認されている。初期のヌビアの文化は、その特徴によっていくつかのグループに分けられている。紀元前3600年から3000年頃までの間、地理的にはアスワン北部辺りからナイル川第二瀑布までの範囲に興った文化はAグループと呼ばれる。
Aグループの人々は、ヤギや羊などを飼育する一方で、大麦や小麦、果物などの栽培をおこなう半遊牧民的な生活をしていたと考えられる。気候的な条件で牧牛場として適した土地が少なかったようで、牛の飼育をした形跡はごくまれにしかみられていない。赤と黒の土器や籠の製造、皮の加工も行っていたようだが、金属加工は行われておらず、墓地の副葬品として発掘される斧などはエジプト製であったと考えられている。
エジプト南部との貿易は活発に行われていたようで、西村氏のサイトによれば、エジプト人たちはヌビアから象牙や黒檀を輸入し、ワイン壷やビール壷などを輸出してようだ。その他、亜麻布、チーズ、油、蜂蜜なども取り引きされていたという。ナルメルの化粧パレットやヒエロコンポリスから出土したパレットは、ひょっとしたらこのヌビアのAグループの影響を強く受けていたのかもしれない。
参照下さい→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25101860.html
参考→ http://www.geocities.jp/kmt_yoko/NaqadaI-II.html
社会的な階層はまだ無かったと考えられるが、後期には部族の長に相当する人物がいたことが、墓などの装飾から推定される。そうした勢力関係もあったのか、古代エジプト第1王朝のアハ(紀元前3000年頃)はヌビアに軍事遠征を行っている。アビドスから発見された象牙板には、彼がヌビアに対して軍事遠征を行った記録が書かれている。(ちなみに彼の時代にはシリアやパレスチナ地方にも軍事遠征を挙行している)
紀元前2600年頃になるとAグループの考古学的痕跡は発見できないようになる。以前は、エジプトによって奴隷や兵隊として強制移住させられたとか、エジプトに同化されたとの説が有力であった。しかしながら、最近の研究では、その後も度々エジプトがヌビアに対して軍事遠征がおこない、家畜などを奪ったというエジプト側の資料があることから、引き続きその地域には居住しているヌビア人達がいたと考えられるようになった。また、彼らの文化を伝える出土品が少ないのは、おそらく半遊牧民的な生活様式によるものだと考えられている。
さて、Aグループと同じ時期に、ナイル川をもう少し上流に遡ったあたりには先史ケルマ文化(勝手にそう呼んでます)がおこる。北部はAグループの南の境界線であるナイル川第二瀑布であり、南に方の境界については不明である。時代的には、Aグループとほぼ並行して存在しており、同一の文化であったとの見方もある。Aグループに比べ人口が密集していたことが分かっているが、やはり半遊牧民的な生活を送っていたようだ。
Cグループと初期ケルマ文化
紀元前2500年ほどになると、Aグループ文化の後継としてCグループと呼ばれる文化グループが登場する。(以前はA,B、Cグループとあったのだが、BグループはAグループと関係のあった先史ケルマ文化としてみられ、時系列的(A→B→C)にBグループとして分類できる文化は存在していなかったことが判明している)。地理的にはAグループ同様でアスワン北部からナイル川第二瀑布までだ。エジプトの第6王朝時代から新王朝時代まで続くCグループと並行して、ナイル川第二瀑布からケルマにかけて初期ケルマ文化も確認される。
Cグループの特徴は小形の円形墳丘墓で、下層が石、上部が砂で覆われている(実施はコンクリートで形を成していたかもしれない)。定住した痕跡はほとんど発見されておらず、おそらくCグループの人々はテント住まいの半遊牧的生活をおくっていたとされている。生活様式は、ほぼAグループと似たようなものであり、手で作られた陶器は、黒色に焼かれ、左右対称の模様が白の塗料で描かれていた。
しかし、後期では粘土づくりの方形の住居が登場し始め、この頃に半遊牧民的生活は終焉を迎え、定住生活に変わったとみられ、その後紀元前1600年頃には城壁に囲まれた要塞都市なども建設されており、第二中間期にはエジプトへの移住も増加したと考えられる。
Cグループ文化圏の南に発展した初期のケルマ文化も、同様のものであったと考えられるが、エジプトからの輸入品などは限られていて、独自の文化を発展させていたと考えられる。今日のエリトリアに、Cグループのものと思われるサイトが発掘されたが、おそらく初期ケルマ文化のものであったかもしれない。いずれにせよ、その後のダモト王国の基礎となった文化とであろう。
ヌビアの宗教
古エジプト王国時代から判明しているヌビアの神はデドウェンという名前で、この神は「富と乳香をもたらすもの」として崇められていた。ピラミッド・テキストにも記述があり、神と同等とみなされているヌビアを支配する王デドゥン(Dedun)が、ヌビアからエジプトの王に対して「宝や人をもってくる」とされている。
新王朝時代になると人間の姿として描かれるようになり、ライオンの頭をもった姿で表されるようなる。エジプト第25王朝を築き、ナイル・デルタまでを支配したヌビア人達は、自らをデドウェンの息子と名乗ったと言われている。その後、メロエ王国の時代になると頭が獅子の神は戦争と豊嬢を司る神アペデマク(Apedemak)として、ヌビア人全体に信仰されるようになる。
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獅子の神のようなオリジナな神に加え、ヌビアでは、ラー、ホルス、アメン、ハトホル、オシリス、アヌビス、セト、マート、トト、プタハ、アトムなどをはじめ、様々なエジプトの神々がもたらされた。一方、鳥の姿をしたヌビアの太陽神マンドリスのように、ヌビア出身でエジプト化した神々もいくつかる。
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雌ライオンの顔をした女神セクメトは、おそらくヌビア出身であったと考えられる。
戦争と狩猟の神オヌリスには、雌獅子の姿をしたメヒト女神が妻で、ヌビアに逃げた彼女をエジプトに連れ戻したという神話が残っている。この逃亡する女神の話はいくつかのバージョンがある。
破壊の女神セクメトがヌビアへ逃げる・・・が、夫で知恵の神トート神が連れ戻す
湿気の女神テフヌトがヌビアへ逃げる・・・が、夫で大気の神シュウが連れ戻す
(参考 → http://www.moonover.jp/bekkan/god/mehit.htm)
これらの話に共通するのは、
妻が獅子の顔をした女神である
両者は夫婦である
妻の出身はおそらくヌビア?(テフヌトについては自信なし)
そして・・・
逃亡先も共通する。
ヌビアだ。
繰り返しになるが・・・
夫婦の神々・・・
妻はヌビア出身のライオンの顔をした女神
ある日、何かが原因で ヌビアへ逃亡
しかし、夫は妻をめでたく連れ戻す
神々を置き換えただけの他愛のない話のようだが・・・
何か歴史的な大イベントが背景にあるような気がする・・・
なんだろうか・・・?
■黒い王妃イアフメス・ネフェルタリの秘密
ヌビア地方の歴史について前回の続きだ。
前回 → http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31049201.html
ケルマ王国(紀元前1700年~紀元前1500年)
さて、紀元前1700年頃になると初期ケルマ文化圏はケルマ王国と呼ばれる国家体系をとるようになってきた。文化的にも政治的にも首都ケルマが当時のヌビア地域の中心となり、エジプトに比べると著しく中央集権的な政治体制をとっていたと考えられる。エジプト側の資料からは、この頃のヌビア地域は人口が多く、豊かな農耕地域があったことが分かっており、そこでは、寺院や集団墓地、そして丘陵古墳などが盛んにつくられ、古墳などからは金属製の武器などの副葬品が発見されている。
また、ケルマ王国は第二中間期(紀元前1782年頃~紀元前1570年頃)において、エジプトに拮抗する勢力となり、何度もエジプトへ軍事遠征を図り、略奪行為をはたらいていた。ヌビア地域で発見される大量の古代エジプトの工芸品は、この時代のものであると推定されている。エル・カブの市長の墓からは、紀元前1575年頃から1550年にかけて、ヌビア人がエジプト深くまで侵入した記録が発見されている。また、当時ナイル下流域を支配していたヒクソス王朝がケルマ王国に宛てに送った書簡に使用した印章がケルマで発見されたことから、ケルマ王国がヒクソスと同盟を結んでいたと考えられている(カーメス王の碑文からもそれが確認されている)。
エジプトの第17王朝と第18王朝は同じ家系に属しているが、中間期から新王国時代へ移行する便宜上分けられて呼ばれている。家系図を表すと下図のようになる
ここで注意を引くのが・・・
イアフメス・ネフェルタリ (紀元前1562年~紀元前1495年)だ。
黒くて美しいイアフメス・ネフェルタリ
第18王朝はヒクソスを倒したイアフメス1世が始めたことになっているが、血統的には第17王朝(テーベ王朝)と連続している。問題のイアフメス・ネフェルタリは、このイアフメス1世の妹にして王妃であると考えられているが、まだ確定的であるとも言えない。彼女が「イアフメス朝」の家系図のラインにあるのは、彼女が「偉大な王妃の娘」という称号をもっているからで、セケエンラー・タア2世とイアフヘテプ王妃の娘(つまりイアフメス1世と兄弟)、もしくはイアフメス1世の兄カーメスとイアフヘテプ王妃2世(あるいはイアフヘテプ王妃)」の娘であると考えられている。
混乱の原因は、彼女の所有する数多くの称号で、上記の「偉大な王妃の娘」の他にも、「王の娘」、「王の妹(姉?)」、「王の母」、「2つの国の支配者」などがある。イアフメス1世の妻となってからは神の妻となることで、夫イアフメス1世が王権の正統性を主張すべく「アメンの神妻」というタイトルが加わる。第26王朝の王妃ニトクリス2世(紀元前570年~紀元前526年のファラオ・アマシスの王妃)まで28人もの王妃が「アメンの神妻」という称号を名乗るが、イアフメス・ネフェルタリはその初代である。
テーベの第17朝であるイアフメス朝は伝統的に月の神を冠する王が続いたが、エジプト再統一をきっかけにアメン神が登場するのは興味深い。このアメン神が最初に全国区で崇拝され始めたのは、エジプト混乱期である第1中間期をおさめ上下エジプト再統一を行った第11王朝のメントゥホテプ1世からである。この時以来、アメン神は太陽神ラーと融合しアメン=ラーとして崇拝されるようになったのだが、同じように第2中間期と言われる混乱期を収拾したイアフメスの妻が「アメンの神妻」を名乗るのは、このメントゥホテプ1世を意識したのだろうか・・・。
問題は、王妃イアフメス・ネフェルタリを描いたと思われる肖像画だが、奇妙なことにそのほとんどが彼女の肌の色を「黒」で描いている。
王家の人間に対してこのような描き方は他には例を見ることができない。TT359に描かれている数多くのイアフメス朝の人々の中でも、イアフメス・ネフェルタリの肌の色だけが黒で描かれている。
彼女の夫の名でもあるイアフメスの意味は『月の神ラー(lah)が生まれた』であり、この月の神ラーというのは、新王国時代になると他の月を司る神トートやコンスなどの存在の陰に隠れ、ほとんど姿をみせなくなる。月の神Lahが古王国時代から崇拝されてきた創造神Aaであるとも言われていたり、北シリアの月の神に結び付ける見方もあるが、まだ明確なことは分かっていない。ひょっとしたらヌビアの神ではないだろうか?
また、ネフェルタリの意味は、ラムセス2世の妻ネフェルタリもそうだが、『美しきもの(美しさ)』である。
私は黒いけれども美しい・・・(雅歌)・・・
シバ女王の大先輩だったのかも・・・。
彼女は死んだ後、アメンヘテプ3世の治世(紀元前1388年~紀元前1351年)に彼女の息子のアメンヘテプ1世とともに神格化されたとされている。一般的に、彼女の肌が黒く描かれるのは、この神格化にあるとされている。多産と豊穣を司る女神としてエジプト全土で崇拝されていたようで、21王朝時代になってからもそれが確認できる。彼女の肌を描く時に黒が使用されるのは、このナイル川の運ぶ肥沃な大地を「黒い大地(ケメト)」として表現されていたと解釈されている。
まぁ、偉大な王妃であったことにはかわりはない。夫のイアフメス1世の死後、まだアメンヘテプ1世が幼かったために摂政を務め、混迷の時代に終止符を打つとともに、第18王朝繁栄時代の基礎を築いたのだ。
しかし、大地の神ゲブを描く時に、たまに「緑」をつかって描かれているが、「黒」ではない。
したがって・・・
『なぜ、彼女の肌は黒いのか?』という問いを説明するのに彼女の神格化を挙げるのは果たして適当なのだろうか?
イアフメス・ネフェルタリ は ヌビア人 でないか?
彼女がヌビア人であるとする見方は、エジプト学者の間でもかなり以前から存在していた。
その議論に関しては、彼女と見られるミイラの解剖結果からも推測されている。
リンク先参照→ http://clegg.tv/tutsblackroots2.htm
イギリスの解剖学者ElliottSmithが調査した結果、彼女の頭の髪の毛は非常に少なく、頭蓋骨の天辺には髪がなかった。20の束ねられた人の髪とみられる紐状のものが彼女の頭に巻きつけてあり、それは現代でも見られるヌビア女性の典型的な髪形と似ていなくもない。また、歴史家WilliamL.Hansberryは「王妃の歯は大きく、健康だった(ラムセス2世は虫歯に悩まされていた)。彼女の鼻は短く平らで、膨らんだ唇に大きな口をしていた。」と彼女のミイラについて報告している。
・・・いずれにしても解剖の結果は、
彼女が明確に「ネグロ」、つまりヌビア出身であったことを示している。
RevealingQueenAhmose-Nefertari(PhotoshopReconstruction)
それに・・・ちょっと気になったのだが、彼女の母親であるイアフヘテプ皇后の墓には、王妃としては珍しく斧などの武器が副葬品として埋葬されている。夫と長男がヒクソスとの戦いで死んだ後も、まだ幼少のイフアメスの摂政としてテーベ王朝を統率し、ついにはヒクソス打倒を達成した武人王妃であったとも言われている。
これは後述するが、ヌビアの土地は著名な「武人王妃」を何人か輩出しているのも確かで、彼女達のためのピラミッドも建設されている。
前回の記事に書いたが、ヌビア出身の雌ライオン顔をした女神セクメトやメヒトが勇猛であるのも、ひょっとしたヌビアの女性に対する伝統的な先入観、「勇猛さ」と「美しさ」をエジプト人がもっていたからにほかならないだろう。
しかし、その後テーベのエジプト王朝が、ヒクソス王朝を解体することに成功し新王国時代を切り開くと、今度は踵を返すようにヌビア方面に拡張政策をとりはじめる。トトメス1世(紀元前1524年~紀元前1518年)がヌビア地方に対して軍事遠征を行い、北部ヌビア地域を支配下におさめる。
これはどうしたことだろうか・・・。
その後、紀元前1450年前後にトトメス3世が、スーダン北部にある高さ98mの小山ゲベル・バルカルをエジプトの南の国境とし、そこに都市ナパタを建設する。これにより、ヌビア地方にエジプト文化が再び流入すると、ケルマ文化はしだいに姿を消すことになる。
ところで、ヌビアの王女を描いたミュージカル『アイーダ』は、エジプト側の将軍にして恋人であるラダメスの名前からも察する通り、ラムセス2世の時代(紀元前1279年~1213年)を想定している。
イメージ8
当時ラムセス2世はナイル川第一爆を超えて、ヌビア遠征を行った。ラムセス2世にはエジプト史上で最高の美女とされるネフェルタリ王妃がいる。ネフェルタリはラムセス2世が24歳にしてセティ1世から王位を継ぐ以前に結婚している。即位してからは、ヒッタイトの王女を含め30人以上の側室をもったとされているが、ネフェルタリに対する彼の愛情は格別のものであったと考えられる。
ソロモンのハーレム
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30522659.html
どこから来たのか? ラムセス2世の愛した美女ネフェルタリ
彼女を一躍有名にしたのは王妃の谷で発掘されたテーベ西にある王妃の谷より発見された彼女壁画だ。
壁画における彼女はたいてい、カツラをかぶり、太陽の円盤がついたアメン冠にエジプトハゲワシの頭巾をかぶっている。ハゲワシといっても、女神ネクベトで上エジプトの守護女神である。このハゲワシ頭巾の被る位置は時代を反映していて、第17王朝末期と第18王朝のはじめは頭の天辺、18王朝中期からは頭の後方だというのだが・・・僕にはあまり違いが分からなかった・・・orz。
古代エジプト第4王朝あたりからハゲワシ頭巾は登場するらしいのだが、やはり前述のイアフメス・ネフェルタリと重なってしまう。
ラムセス2世はネフェルタリとの結婚25周年を記念して、ヌビア地方のアブ・シンベルに建設したアブ・シンベル大神殿と、ネフェルタリに捧げるべきして建てたハトホルの神殿(アブ・シンベル小神殿)を築いた。
素情が知られていない絶世の美女ネフェルタリ王妃だが、ラムセスのヌビア遠征と、それにまつわるアブ・シンベル小神殿の建設などから、出身地はヌビアでなかったのではないかとも言われている。
イメージ10
(彼女の出自に関しては、彼女の墓の位置関係からツタンカーメンを暗殺したとされるファラオ・アイではなかったかと言われ、出身地はテーベから北へ行ったところのアクミームでなかったかとされている。アクミームは知名度こそないが、現代の街の下にはひょっとすると古代エジプト最大の遺跡が眠っているとも言われている)
参考→ http://55096962.at.webry.info/200812/article_19.html
ふむ。
しかし、イアフメス・ネフェルタリがヌビア人だとすると、
第18王朝の血筋は、すくなくともヌビアとの混血からはじまっていることになるのだろうか?
■ブラック・ファラオ
前回は第18王朝時代の話だったが、ここで時代をくだろう。
ナパタ王国(クシュ王国)誕生
紀元前11世紀頃にエジプトが第三中間期といわれる混迷期にさしかかると、ヌビア人達はトトメス3世(BC1486-BC1425)が築いた都市ナパタを本拠地として独立を果たす。第3瀑布と第4瀑布の中間にあるこのナパタには、ゲベル・バルカルと呼ばれる高さ98メートルの岩山があり、トトメス3世はエジプトの南の国境として定めた。
この時エジプトの支配領域は史上最大のものとなったわけで、ラムセス2世(BC1303-BC1213)の治世においても、ナパタまでエジプトが支配力を誇っていたことが知られている。
よく見るとすごい遠いね・・・。
エジプトの第三中間期は紀元前1069年頃から始まったと言われるが、その頃からナパタに対するエジプトの実効支配力が無くなったと考えられ、ヌビア人達の活動拠点となったわけだ。
それから・・・300年の月日が流れる。
この間の出来事はあまり記録されておらず、すでにヌビア地域に「王国」と呼べるような社会形態ができていたのか、あるいはゆるやかな部族連合のようなものが存在していたのかはっきりと分かっていない。ただ、紀元前850年頃にはヌビアで最初のピラミッドがナパタ近くのアルクル(El-Kurru)で建設されているように、王権の存在はあったようにも思える。
エジプトでは新王朝時代からはファラオは王家の谷に葬られるようになったが、ピラミッドは規模こそ小さいが一部の裕福な民間人が墓として建設されていた。つまり、民間レベルで建てられる墓のフォームの一つであって、王権とは結び付かなくなっていた。
さて、
紀元前750年頃、有力なヌビアの族長とみられるアララという人物が、このナパタを中心としたナパタ王国を建国する。この王国は、エジプトのヌビア地域に対する呼び名である『クシュ』をとって「クシュ王国」とも呼ばれるようになった。文化的には、宗教などもふくめて大部分がエジプト化していて、本家のエジプトでは忘れられていたピラミッドなども建設されるようになった。
アララの後継者であるカシュタ(紀元前750年~746年)は、勢力をアスワンまで拡大し、ヌビア人としてはじめて「上下エジプトの王」の称号を名乗った。エジプトの伝統の継承者はリビア人王朝などではなく、ヌビアのクシュ王朝であると・・・。紀元前750年頃にテーベを占拠したことによって、彼の宗主権がエジプト全体に公式的に認められた。この時期、エジプトではいくつかの王朝が乱立する中、カシュタの時代にヌビア王朝の勢力は中部エジプトにまでおよんだと考えられる。ひょっとしたら「クシュ」と言う呼び名はこのカシュタ王に由来しているのかもしれない。
混乱のエジプト
一方エジプトはどうだったかというと、第21王朝の時代(紀元前1069年~紀元前945年)になると軍隊の将軍や政府の高官、そしてファラオまでもリビア系の名前が目立つようになる。以前は第22王朝よりリビア系王朝が開始されたと考えられていたが、最近の研究ではどうもこの頃から古代エジプトからの文化断絶が確認されている。リビア系のファラオや高官は、彼ら独自の文化と風習をエジプトに持ち込み、古来連綿と続いていたエジプト文化を受容しない傾向があった。
第20王朝最後のファラオであるラムセス11世の頃にはエジプトは上下に分裂し、上エジプトをアメン大司祭国家、下エジプトでは首都をペル・ラムセスからタニスに遷都したスメンデス1世が支配していた。この政治的な混乱期に便乗する形で、紀元前945年にシェションク1世(旧約聖書ではシシャク)が王位を獲得する。彼は、第21王朝時代のファラオ、プスセンネス2世に仕えていたリビア人将軍であり、イスラエルの首都エルサレムに攻撃を仕掛けようとしたことでも有名である。
シェションク1世によって第22王朝からはじまる9人の下エジプト・ブバスティス出身ファラオの記録があるためブバスティス朝とも呼ばれている。この王朝は上エジプトのアメン大司祭国家を支配下におき、一時は上下エジプトを統一するが、デルタ地域以外の支配基盤は相変わらず脆弱であった。
ブバティス王朝は200年間存続するが、シェションク2世の治世に分裂が起こり、前王と側室の間に生まれたペドゥバストがナイル川中流に独立した王朝、第23王朝を設立する。エジプトにおける当時の分裂状態はいろいろと研究されているが、非常に分かりにくい。図に表すとおそらく次のようになるだろうか・・・。
イメージ3
イメージ4
当時、第22王朝の支配力は弱体化し、少なくてもレオントポリスに拠点を置く第23王朝、及びヘラクレオポリス(ネンネス)、ヘルモポリス(ウヌー)にそれぞれ地方の支配者がいた。
クシュ王カシュタが上下エジプトの支配者としてファラオを名乗り第25王朝が開始されるが、下エジプトまでは支配力が及ばず混沌として状態が続いていた。
リビア系の諸侯であったテフナクト1世は、サイスを拠点として自らの王朝(第24王朝)を建てた。(24王朝と呼ばれるが時系列的には25王朝の後だ)。その後、テフナクト1世は下エジプト地域の実効支配を強めながら、第22王朝(タニス)のオソルコン4世や第23王朝のイウプト2世、そしてヘラクレオポリスのペフチャウアバステト、そしてヘルモポリスのナムルトらと同盟を結んで、ヌビア人が北へ(下エジプトへ)勢力を拡大するのを防ごうとした。
一方、テーベをはじめとする上エジプト一帯はヌビア王朝(クシュ王国)が支配しており、エジプト中部は北のテフナクトをはじめとする勢力と南のヌビアに対して流動的だった。カシュタの後継者となったピイは、即位してからヌビアを出ることはなく、20年以上ヌビアの奥地で沈黙を保ったままだった。おそらくこうした状況が下エジプトの不穏な動きを助長させていたのかもしれない。このピイは古い資料だと「ピアンキ」と書かれている場合があるが、どうも誤りだったようで、最近では「ピイ」に訂正されている。
さて、北のリビア系王朝が力をつけてくると、中部エジプトの支配者達は南のヌビアか、北のリビア系王朝のどちらにつくか選択しなければなかった。クシュ王朝が北部に遠征することを決意したのは、ヌビアに忠実であった支配者達がテフナクトの攻撃を受けてピイに救援をもとめてきたからだ。
ピイの信仰
ピイが王権を受け継いだ時代、クシュ王国ではエジプトから移入したアメン信仰が盛んであったと考えられている。ゲベル・バルカルには、もともとトトメス3世が基礎を建設し、セト1世、ラムセス2世の時代を経て少しずつ拡張されてきた。ピイはこれを三段階に分けて拡張するが、「ビフォー・アフター」の匠も喜ぶような方法で行う。つまり、トトメス3世時代からの部分を壁と柱で補強する。第二のステップとして50の柱を使って大広間を完成させる。そして、第三ステップとして、大きな中庭をつくり、全長150メートルにもなる神殿コンプレックスを完成させた。このヌビアのアメン大神殿では、神官団がテーベの神官団と同様に強い政治的影響力をもっていたと考えられる。
また、ピイはテーベにおいて女王ハトシェプスト(トトメス2世)以来伝統と成っていたオペト祭を復活させた。オペト祭というのは、アメン神が妻ムトと結ばれるためにナイル川の増水1か月前にカルナック神殿からこのルクソール神殿を訪問するという祭りで、言ってみれば聖婚儀礼だ。日本のお神輿とも似ていて、アメン神とムト神、そして子供のコンス神の像をカルナック神殿から舟で運び、その像を2、3週間ルクソール神殿に安置し、奧の聖堂では王権付与などの儀式が行われるのだ。
ムトが(「9つの弓(すべての外国の敵)」の女主人)であり、セクメトとバステトの融合した女神であることを考えると、この儀式にも「獅子の顔をした女神がヌビア逃亡する」という一連の話にも関係があるようにも思える。
参考→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31049201.html
それはさておき・・・
そんな信仰神の深いピイであるからこそ、エジプトへの軍事遠征の大義名分が
旧宗主国の秩序とアメン神の権威を立て直す
・・・であったというのは、本心からであったと考えられる。
ピイのエジプト遠征
当時の記録(ピイの勝利の碑文)は、ヘルモポリスのナムルトが同盟を裏切ったことへの言及からはじまる。しかし、実際にこのナムルトがヌビアとの同盟関係にあったのか、それとも最初から北部諸王朝と同盟関係にあったのかは議論が分かれるところらしい。それよりもナムルト(Nimlot、Namart: 紀元前754年~紀元前725年)は、Nemrod(ニモロデ)とも表記されるのだが・・・、これは聖書に登場するニムロデと同じだ。
ニムロドは旧約聖書においてはクシュの息子であったことを考えると、関連性を探してみたくもなる。もちろん、この時代のヘルモポリスの支配者ナムルトがそうであったと言う気はない。世の中で最初の権力者となったニムロドの王権は、メソポタミアの諸都市におよんでいたということなのだが、さらに2000年以上もさかのぼった時代の話だ。
そうなると今度はエジプト王朝の創始者であるナルメルとニムロドの関係も興味深い。
ナルメルについてはこちら
→ ナルメルのパレット http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/24830403.html
名前の類似性だけでなく、旧約聖書の創世記10章8節に書かれてある。
「クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。」
まぁ、証明する資料は存在しないので、憶測で話すしかないのだが、
ただ・・・「ニムロド」が“エジプトに存在していた名前”ということは、とても興味深いように思える。
さて、先へ進もう。
ピイの治世20年目に、テフナクトはヘルモポリスのナムルトを寝返らせると、下エジプトの連合軍を率いてヘラクレオポリスを包囲した。
ヘラクレオポリスの支配者ペフチャウアバステトはテフナクトの連合軍から早い時期に離脱しヌビア側についていたのだが、テフナクト1世の軍隊に包囲されると苦境に立たされていた。ペフチャウアバステトと駐屯していたヌビア軍は対抗しながら、テーベに使者を送りピイに助けを求めた。
ピイはこの助けに素早く応じ、軍を編成すると将軍パウェレムと司令官ルメルセケニ指揮下にある上エジプト軍をヘラクレオポリスに派遣した。
テフナクトがいったん下エジプトに戻った後、ナムルトはヘラクレオポリス包囲軍の司令官として駐留した。
オペト祭が行われているテーベを訪れていたピイにとっては、まず祭り事を滞りなく行い、上エジプトの支配者たる地位を確固たるものすることが重要であった。「戦争は人まかせ・・・」ともでもいうようだが、送り込んだクシュ軍は精鋭ぞろいでナムルトの軍勢に十分に対抗するだけの戦力であると思っていたのかもしれない。
ピイが送り込んだクシュ軍はペル・ペガの戦いや2度の小競り合いで勝利を収め、重要な砦を奪取した。ナムルトはヘルモポリスに逃げ帰った。
ヘルモポリスを逃げ帰ったナムルトだが、南からやって来たピイが率いるクシュ軍本隊に包囲された。ナムルトは5ヶ月にわたって篭城したが、結局食料が尽き降伏した。
■クシュvsアッシリア
古代エジプトにおいて有数の宗教センターでもあったヘルモポリスの街は、クシュ軍との5カ月にわたる籠城戦によって惨憺たるものであったに違いない。ヌビアを支配するクシュ王にしてエジプト第25王朝のファラオであるピイは、今や中部エジプトを完全に掌握しつつあった。ヘルモポリスの鉄壁の守りを誇った門が開かれ、ピイとクシュ軍は街の中に入った。ピイは平伏すナムルト王や王族達には全く興味を示さず、馬小屋に入っていくと、長い包囲戦によって痩せこけた馬を見て、ナムルトを叱責したという。
「ラー神の恵みにより私の呼吸に生命が与え続けられる限り、誓って言うが、汝(ニムロト)が自らの欲望の追求のために行ったどんな悪事よりも、馬達が飢えに苦しんでいることの方がずっと嘆かわしい…私はこのことで汝を非難せざるを得ない。」(ウィキ参照)
さて、中部エジプトを手中に収めたピイは、今回の戦争の主犯であるサイス王朝のテフナクトを追いつめるべく、ナイル川をさらに下り、膠着状態にあったヘラクレオポリスに向かった。途中ヘルモポリスへ向かうはずだった第23王朝の軍勢と相対することになったが、これを打ち負かした。ヘラクレオポリスを包囲していたテフナクトの軍勢はメンフィスまで後退した。ヘラクレオポリスの支配者であったペフチャウアバステトは包囲からの解放者としてピイの来訪を大歓迎したと言う。
エジプト伝統の都市メンフィスではテフナクト側につく約8000人の兵士が強固な防衛線をはって抵抗したとされている。そこでピイは、メンフィスの港に会った敵の舟をことごとく奪取し、川から街へ攻め入った。メンフィスの街に入ったピイの軍勢は、“洪水のように攻め”、数多くの兵士を殺し、あるいは捕虜にした・・・とあるが、この“洪水のように”に対してはいろんな解釈がある。ひょっとしたら文字通り「水攻め」を行ったのかもしれない。
さて、メンフィスでの戦いに敗れた下エジプトの諸公達は、ピイに服従したが、テフナクトはサイスまで逃げ、その後ピイに使者を派遣し、命乞いをするともに忠誠を誓った。
テフナクとは言った。
「どうかご慈悲を!屈辱にまみれた私は、尊顔を拝めません」
(ナショナルジオグラフィック)
そして、下エジプトで勝利を収めたピイは黄金や馬などの戦利品を船に積みこむと、踵を返すように故郷ヌビアに戻っていった。その後、彼が再びエジプトに姿を見せたという記録はないと言われている。
紀元前725年頃の出来事であった。
一般にはトトメス3世の時に、エジプトは最大に拡張したと伝えられるが、良く考えると面積的にはヌビア王朝と呼ばれる第25王朝だ。
紀元前715年にピイが死去し、35年に及ぶ統治に幕を閉じると、臣下の者たちは遺志に従って、エジプト式のピラミッドに埋葬し、寵愛していた4頭の馬を遺体のそばに埋めた。エジプトで500年以上も前にすたれたピラミッド埋葬の慣行を、ピイは復活させたかったのだ。
・・・ピイの物語については、クリスチャン・ジャック著の『ブラックファラオ』がお薦めだ。
さて、この先は・・・ちょっと面倒くさいのでウィキから要約しながら抜粋しよう(ピアンキはピイに訂正)。舞台はピイがエジプトへの遠征に勝利をおさめたところから始まる。
勝利が確定するとピイは降伏した王、及び州侯達から莫大な献上品を受け取り、勝ち誇って本拠地ナパタへと帰還した。そしてナパタのゲベル・バルカルの聖域で新たな大規模な建築活動を執り行い、新王国時代にエジプトによって建てられた神殿を改修・拡張してその威光を示した。そして、弟であるシェバカに王位を継承すると、ピイは紀元前716年に没した。
一方、ピイがヌビアに戻ってからというもの、下エジプトではまた不穏な動きが出てきた。そして、第24王朝のテフナクトはヌビア軍が引き上げた後すぐに忠誠の誓いを破棄し反乱を起こした。再び起きたテフナクトの反乱に対して、ピイが何らかのアクションを起こしたという記録はない。おそらく、その必要もなかったのかもしれない。テフナクト1世は、まだピイが存命中の紀元前720年頃死去し、第24王朝の王位は息子のバクエンレネフ(ボッコリス)に受け継がれる。
ひるがえってヌビアでは、弟のシャバカがピイの後を継承した。シャバカは、テフナクトの後継者であるバクエンレネフが拡張的な政策をとりはじめたところ、治世2年目に早くも軍事遠征を行いバクエンレネフと対峙した。マネトによればシャバカ(サバコン)はバクエンレネフ(ボッコリス)を捕らえて生きたまま焼き殺したという。
シェバカは兄ピイのようにヌビア地方に戻らず、古都メンフィスを居城とし、エジプト全土を支配するための基盤を整備した。そして、エジプトの古い伝統の継承するために、第6王朝のペピ2世の名を襲名し、国内に王権の正統性をアピールした。また、散発的に起こった反乱に対しては、殺さず、労働力としてナイル川の氾濫から守るための堤防を築いたと言われる。
ウィキには次のように書いてある。
具体的な経緯を記した記録が無いが、シャバカ王の記念物がエジプト全域から発見されることから、彼は実際にバクエンレネフを殺し、第24王朝を滅ぼしてエジプトを再統一したらしい。彼の治世に関することはあまりわかっていないが、少なくともメンフィス、デンデラ、エスナ、エドフ、そして何よりもテーベで壮大な建築活動を行っており、高い指導力を発揮したと考えられる。シャバカの14年の治世の後、ピイの息子であるシャバタカが王位を継いだ。
まだ、古代オリエント史をよく知らなかった頃、アッシリアの有名な王達と戦ったエジプト王朝は、古代より連綿と続いてきたファラオだと思っていたが、良く考えるとアッシリアの王と戦ったのはクシュ王朝だった。
シャバタカ vsセンナケリブ
シャバタカの治世に入るとサルゴン2世率いるアッシリアの勢力が拡大してきた。サルゴン2世の後継者センナケリブは、バビロニアを再び支配下におき、今やシリア全土の反乱を平定すべく軍をすすめていた。この事態に対しユダ王ヒゼキヤはシャバタカの下へ支援を要請してきたのであった。シャバタカはこの要請に答え、パレスチナへの軍事遠征に踏み切った。遠征軍司令官には王弟タハルカが任命された。
シャバタカの治世第2年(紀元前701年)、エジプト軍はアルタクの救援に向かい、アルタク平野でアッシリア軍と激突した。しかしながら、エジプト軍はこの戦いに敗れてパレスチナから後退することになる。センナケリブは、、
「我が軍が敵を木っ端みじんに打ち砕いた」と言ったらしいが、タハルカは何とか生き残った。
紀元前690年にシャバタカ王が死去するとタハルカが王位を継承した。タハルカの即位当初はアッシリアの脅威が遠のいた。それはアッシリアで紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、王位を巡って内戦が勃発したためである。
この一時的な平和の間にタハルカは熱心に内政に取り組み、大規模な建築を数多く残している。対外的には、紀元前673年にパレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱を支援してこれを成功させた。
しかしタハルカの成功はアッシリアの内政安定とともに失われた。アッシリアの王位継承の内戦を、母ナキアの支援の下で勝利したエサルハドンは、紀元前671年に大軍を率いてエジプトへと向かってきた。
あの奇妙な占いをおこなっていたナキアだ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/25560551.html
タハルカ vsエサルハドン
タハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入した。タハルカは下エジプトで行われた戦いで敗れ、メンフィスはついに陥落した。その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷してテーベへと逃走した。
アッシリア王エサルハドンはこの勝利を高らかに謳った碑文を残している。
更に彼は「上下エジプト、及びエチオピアの王」を称しており、ヌビアに至る全エジプトを征服したと誇っている。しかしこれに関しては明白に誇張であり、テーベに逃走したタハルカはその地でなお支配を維持していたことが、彼が行った儀式などに関する碑文から確認できる。
タハルカはなおアッシリアに対する抗戦を続けており、エサルハドンはこれを鎮定するために紀元前669年に再度エジプトに遠征した。しかしその途中で急死し、アッシリア王位はアッシュールバニパルが継承した。アッシュールバニパルは一旦軍を引き上げさせたため、タハルカはこれに乗じてメンフィスを奪回し、下エジプトでもこれに連動して反アッシリアの反乱が発生した。
タハルカ vsアッシュールバニパル
タハルカの北進と下エジプトの反乱を受けて、アッシュールバニパルは再びエジプトへと侵攻した。紀元前667年、アッシリア軍の攻勢を受けてタハルカは再び敗北し、テーベからも逃走してナパタまで撤退した。当時のテーベの長官メンチュエムハトはアッシリアに降り、全エジプトがアッシリアの支配下に置かれた。
この時、アッシリアに従順であったサイスのネコ1世だけは、「サイスの王」としての地位を保障され、またネコ1世の息子、プサメティコス1世(プサムテク1世)は「アトリビスの王」として、父とともにエジプトの管理をアッシリアから任された。これをきっかけにサイスの王家はエジプトにおける地位を確固たるものとしていき、やがて第26王朝を建てることになる。
一方ナパタまで逃れたタハルカは、従兄弟、もしくは甥であるタヌトアメンを共同統治者、及び後継者であると定め、その翌年(紀元前664年)に没した。
タハルカは、父のピイと同様、ピラミッド埋葬を望んだ。ただし、歴代のクシュの王たちが眠るエル=クッルの王家の墓地ではなく、ナイル川の対岸にあるヌリに埋葬するよう命じた。なぜこの場所を選んだのか。考古学者ティモシー・ケンドールは、死者の再生を信じるエジプトの太陽信仰にもとづき、タハルカは永遠の命を得ようとしたのだと推測する(ナショナルジジオ)。
後継者タヌトアメンは、タハルカの意思を継いでエジプトの支配権回復を目指して活発に活動した。かつてのピイの『勝利の碑文』とともに発見されたタヌトアメンの『夢の碑文』には、タヌトアメンが見たという夢についての記録が残っている。それによれば、彼は二匹の蛇が出てくる夢を見た。この夢は「南の国はあなたのものです。あなたは北の国をも取りなさい。」と言う意味に解され、彼はそれに従ってエジプトの再征服に向けて軍事行動を起こしたという。
彼は快調に進撃し、テーベとメンフィスを奪回したが、アッシュールバニパルが再度自ら軍を率いてエジプトへと進軍するとこれに敗れてメンフィスを失い、テーベへと逃れた。更にアッシリア軍の追撃を受けて、彼はキプキピを経てナパタへと逃げ帰った。アッシュールバニパルはテーベを略奪したが、ヌビアへまでは進軍しなかったため、タヌトアメンはナパタの地で引き続き王位を維持することができた。
タヌトアメンは紀元前656年に死去し、ヌビアの地に葬られた。
タヌトアメンはエジプトを支配した最後のヌビア王であり、彼の死をもって第25王朝の終焉と見なすのが一般的である。ナパタを中心としたヌビア人の王国は存続し、やがてその中心をより南方のメロエへと移し、メロエ王国へと続いていく。
アッシリアも強いが・・・クシュ王国もすごい。
よくこんなアッシリアの勢力図を見るが・・・
■クシュ王国 ピラミッドから海上へ
アッシュールバニパルにテーベを奪取されて、エジプトへの支配力を失ったクシュ王国だが、アッシリア軍がヌビアまで進軍することはなく、タヌトアメンはナパタの地でクシュ王国の支配者として統治を続けた。そして彼の死をもって第25王朝が終焉となるわけだが、それはあくまでエジプト側の視点であって、クシュ王国はその後も連綿と続く。
クシュ王国とアッシリア帝国の戦いもまだ続いた。タハルカがヌビア地方に戻った後、下エジプトではリビア系と見られるサイス朝のネコ1世がアッシリアの傀儡政権となった。しかし、間もなくネコ1世は下エジプトの諸侯と同盟を組み、アッシリアへ反旗をひるがえした。しかし結局敗れ、ネコ1世はニネベに連行され、再度アッシリアへの忠誠を誓わされた。
その後、タハルカの後継者タヌトアメンが下エジプトに攻め込んだ時、サイス朝のネコ1世は、紀元前664年にクシュ軍との戦いの際に殺害されたと伝えられている。ネコ1世の子であるプサメティコス1世はシリアに亡命し再起をはかることにしたが、その後、アッシュールバニパルによってクシュ軍がまたしても追い払われると、プサメティコス1世はエジプトの支配者としての地位を手に入れることになる。
その後、『アフリカ周航』や『ナイル川から紅海までの運河建設』、そして旧約聖書の『メキドの戦い』など、何かと有名なネコ2世が後を継ぎ、その後プサメティク2世と続く。このプサメティク2世は6年という短命政権にもかかわらず、ヘリオポリスには21、79見事な一対のオベリスクが作られたエジプト中にその足跡を残している。
紀元前592年プサメティク2世は、クシュ王国に対して軍事遠征を行う。
遠征の動機は、クシュ王のアスペルタがエジプトに進軍する準備をしていたためであったと考えられるが、定かではない。当時のヌビアへの軍事遠征は第三瀑布まで達したと言われ、その軍隊の大部分は将軍ポタシムト(Potasimto)が指揮するギリシア傭兵であったとされている。エジプト軍は後のファラオになるアマシス(Amasis)が率いた。
このヌビアへの攻撃は第一次攻撃で、ヌビアが二度とエジプトまで攻め入ることがないように国力を弱めることが目的であり、実際その目的はクシュ王国の諸都市を破壊することで成し遂げられた。
ナパタには当時エジプト軍が破壊したと思われるクシュ王の像が保管されている場所があり、そこにある最も新しいクシュ王がアスペルタであったことから、アスペルタの時代にプサメティク2世との戦争があったとされているが、近年では疑問も投げかけられている。プサメティク2世は、破壊行為の際に第25王朝(ヌビア王朝)のファラオの名を碑文から消し、歴史から抹殺しようとした。
その時に破壊されたクシュ王達の銅像は現在復元され、ケルマ美術館に保管されている。
奇妙なのは、プサメティク2世が自分の父親であるネコ2世の名前も消し去ったと言うのだ。したがって、考古学的に確認される当時の破壊行為が、プサメティク2世によるものではなく、クシュ王国内で起きた王朝の争いによって生じたのではとの疑問も投げかけられている。それに、彼がその後エジプトの南の国境として定めた場所が、新王朝時代のようにナパタ(ゲベル・バルカル)ではなく、アスワン近くの第一瀑布であったというのも、彼の軍事遠征が力を誇示するものであるが、ヌビア地域を実効支配するものではなかったということが分かる。
ヌビアのピラミッド
ピイの下ナイルへ向けた軍事遠征で目のあたりにしたエジプトのピラミッドの文化的衝撃は創造を絶するものであったに違いない。上エジプトにおけるピラミッドの存在は、すでに王権とは分離され、貴族の墓としても建てられるようになっていた。ヌビア地方にも紀元前9世紀頃に建設されたピラミッドが確認されているが、ヌビアにおいて再び王権と強く結びつくようになる。
エル=クル遺跡には、カシュタとピイ、シャバカ、シャバタカ、タンウェタマニの陵墓が残されている(タハルカはヌリ遺跡に埋葬された)。ウィキによればエル=クル遺跡にある14基のピラミッドは王妃のもので、そのいくつかは著名な"warriorqueens"(武人王妃)のものである。
武人王妃何て聞くとヒクソスを追い払い第18王朝の基礎を築いたイアフヘテプ皇后を思い出す。彼女の墓にも王妃のものとしては珍しく斧などの武具が一緒に副葬品として埋葬されていた。その斧にはグリフォンのリリーフがついている斧があり、その様式がミノアのグリフォンと酷似していることから、ミノア文明との関係が議論されてきた。
→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/26175605.html
少しファンタジー的なシナリオを考えると・・・、彼女はもともとヌビアの王族であったかもしれない。娘のイアフメス・ネフェルタリの肌の色が黒で描かれているもそのためだ。メロエ王朝の時代になると、ヌビア地方の人々がギリシア植民地と交易を行っていたものを示唆する遺物が見つかるのだが、何か関係があるのだろうか?
→ http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31072685.html
以前のブログ記事でも紹介したが、紀元前5世紀頃から「ヌビアのピラミッド」が数多く建設されるようになる。ナパタ王国からメロエ王国まで数百年の間に建てられた「ヌビアのピラミッド」は220基。120基を有する本家エジプトの倍近い。もちろん、エジプトのピラミッドと比べると”ミニ”であり、傾斜角度約70゜で高さは最大のもので30メートルほど、底辺の幅も8メートルをほとんど越えることがない。(エジプトのピラミッドの場合、基礎の大きさは少なくとも5倍以上、傾斜角は40~50゜)ウィキ。
クシュ王国の王に関して、第25王朝後のアトラネルザからアスペルタまでの4人の王(アトラネルザ、センカマニスケン、アンラマニ、アスペルタ)の存在については、時系列も含めて確実なものをみなされている。
彼らの名前が確認できる記念物も比較的多く見つかっており、彼らが近い親類関係にあったことも判明している。紀元前593年から568年にクシュ王国を統治したアスペルタからの時代に関しては、長い碑文なども見つかっており歴史的な出来事なども確認できる。彼の時代にはおそらくエジプトとの戦争も起こっていたと考えられる。
クシュ王国の王宮ではまだエジプト文化が主流であり、クシュ王もすでに支配力を失っているにもかかわらずエジプトの王であるかのように振る舞った。
ナパタからメロエへの遷都の日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中には、中心地は徐々にメロエに移転し、ナパタは宗教的な意味合いが強かったと考えられる。
他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。
メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。
クシュは鉄の仲介者だったのか?
クシュ王国の活動がメロエに移ったのは、鉄の鉱山の存在を挙げる学者が多くいる。これまでクシュ王国は、交易で象牙、金、そして奴隷などを輸出していたことが知られており、メロエ朝時代からの墳墓からは金が豊富に発見されている。しかしながら、それらの金がいったいどこに由来するものなのかはこれまで分かっていない。
タハルカの治世より「鉄」を使用していた痕跡が発見されている。彼の墓から発見された先が黄金で装飾された槍は、棒の部分が鉄から出来ていた。メロエ朝時代の遺跡からはスラグの山がいくつも発見され、一時期はメロエが古代アフリカの一大鉄産業地帯であったと解釈され、ヌビアがアフリカに鉄器を広めた仲介者であったとも言われた。
しかしながら、大量にスラグが発見される一方で、鉄を使用したオブジェの数はそれほど多く発見されていない。また、1976年ヘルマン・アンボーン(HermannAmborn)のスタディでは、ヌビア地域に精錬所があった形跡が全くないということが結論づけられている。スラグの山は決して精錬プロセスから生じたものではなく、非鉄金属、金、あるいはマジョリカ焼きのような陶器造りの生産プロセスで形成されたものだと言うのだ。メロエ朝時代には、キリンやダチョウなどの野生動物、人や家畜などを描いた陶器が造られていたことが分かっている。
ふむ・・・
さて・・・
プサメティク2世の侵略から70年ほど後、今度は新たな脅威がアジアからやってくる。
アケメネス朝ペルシア だ。
紀元前525年頃、アケメネス朝ペルシアのカンピュセス王の侵攻を受けた。
ここでよくベルリン博物館にあるナパタ碑文が引き合いに出され、「ヌビアの王ナスタセンがケンバスデン(すなわちカンビュセス2世)の軍を打ち破り、その軍船すべてを奪取した」とされているが、ナスタセン王は在位紀元前335年~315年のヌビアの王であるので、カンピュセス2世の時代とは異なる。
結局、ヌビア北部地域が侵略されるも、激しく抵抗した結果、ペルシア軍を追い返すことに成功する。
それにしても、ペルシアはなぜヌビアを攻めたのだろうか?
わざわざ・・・
■クシュ王国 紅海へ
35年間クシュ王国を統治したHarsijotef(およそBC404年~BC369年と推定)が残した碑文には、彼がそれまでの王と同様に王国への侵入を図ろうとする遊牧民族と戦わなければならなかったこと、そして戴冠式からはヌビア中の重要な神殿をまわり、地方の神々に合意を取り付けなければならなかったと記されている。当時の碑文の文字にエジプトのヒエログリフが使用されていたが、時代とともに文字としての仕様が失われていったことが見てとれるという。
紀元前3世紀初頭のものと推定されるアリヤマニ(Aryamani)の碑文はほとんど判読不可能だそうだ。おそらく、ヒエログリフを使っていたヌビア人達は、メロエに遷都してからは独自の文字を発展させたという。
ただし、アリヤマニの碑文の年代特定は困難を極めている。それにこの碑文が見つかったのはケルマ地方に近いカーバ(Kawa)である、ナパタやメロエ地方ではなく、クシュ帝国の原点とも言うべきで発見された。アリヤマニのファラオとしてつけられる称号が、ラムセスを名乗ったファラオ達の時代(BC1292年~BC1070年)を模倣していることから、新王朝時代の末期頃であったとも言われ、更にはアララ(ピイの父)であった可能性も示唆されている。
イメージ6
いずれにせよ、メロエに活動の拠点が移るにつれ、
ヒエログリフの記憶も薄れていった。
それに代わって登場したのがメロエ文字だが・・・
これがどうも・・・
紅海を超えてアラビア半島南部
更には同じ時期にインドで発達したアブギダ(abugida)・アルファベットと似ているそうだ。
クシュ王国の交易相手はもはやエジプトではなかった。
紅海からインド洋にむかっていった
・・・かもしれない。
クシュ王国メロエ王朝について書く前に、前回あっさりとスルーしてしまったアケメネス朝ペルシアのカンピュセス王のクシュ王国侵攻(BC525年頃)について述べておこう。この時代の出来事を伝承する文献としては、その真贋はさておきヘロドトスの『歴史』が重要だ。
カンビュセス、クシュへスパイを送る
エジプト攻略後、カンビュセスは3つの遠征を計画した。目指す相手はカルタゴ人、アンモン人およびリビアの南の海に面する地域に住むエチオピアの「長命族(マクロピオイ)である。計画をめぐらしてやがて決定した方針は、カルタゴには海軍を、アンモンには陸上部隊から選抜した部隊を派遣すること、エチオピアへは先ずスパイをおくり、その王に贈物をするという口実の下に、エチオピアにあると伝えられる「太陽の食膳」なるものが真実あるかどうかを見届けさせ、そのほかにもいろいろと探らせることでああった。
エジプトを攻略したカンビュセス
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『太陽の食膳』とは次のようなものであるという。町はずれに草原があって、ここにあらゆる種類の四足獣の肉を煮たのが一面に置いてある。実は町のその時々の係りの者が、夜の内にこの肉を草原に丹念に並べておくのであるが、昼間は誰でも勝手に行ってそれを平らげる。土地の住民は、大地がいつも自然にこの食物を産み出してくれるのだといっているそうである。いわゆる『太陽の食膳』とはこのようなものだといわれている
カンビュセスはスパイを派遣する決意を固めるとすぐに、エチオピア語を解するイクテュオパゴイ人をエレパンティネの町から呼び寄せることにした。(中略)
このイクテュオパゴイ人は「魚を食う人」という意味で、ヘロドトス、パウサニアス、アッリアノス、プリニウス、ストラボン、そしてプトレマイオス(ローマ天文学者)など古代の歴史家や地理学者などの著書に登場する。彼らが住んでいる地域は、ペルシア湾や紅海沿岸地域など報告する者によって様々であるが、プリニウスによれば端から端まで船で30日やアッリアノスによれば1万スタディオン(1800キロ)であったとされている。おそらく海上交易を生業とした民族であり、基本的にはアラビア語を話したとされている。
イクテュオパゴイ人がエレパンティネに到着すると、カンビュセスはエチオピアで述べるべき口上を彼らにいい含め、紫の衣裳、黄金の頸飾りや腕輪、雪花石膏の香油壺、椰子酒一甕などの贈物をもたせて、エチオピアへ遣わした。
カンヴュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている。その風習は多くの点で他の民族と異なっているが、ことに王制に関して次のような慣習がある。全国民の中で最も背丈が高く、かつその背丈に応じた膂力をもつと判定される者を、王位に就く資格があるとするものである。
さてイクテュパゴイ人の一行はこの国へ着くとその国の王に贈物を献上し次のように述べた。
「ペルシア王カンビュセスは、貴王と親交を結ぶことを念願され、貴王に拝謁いたすようにと我らを遣わされました。これなる王からの献上品は、王自身も殊に愛用しておる品々でございます。」
しかしエチオピア王は彼らがスパイとして来訪したものであることを看抜いて、次のようにいった。
「ペルシア王は何も予と親交を結ぶことを大切と考えて、そなたらに進物を届けさせたのではない。またそなたらは真実を申しておらぬし-そなたらが来た目的はわが国の実情を探るためであるからな-、あの男も正義の人物とはいえぬ。ペルシア王が正義の士であるならば、自国の領土以外に他国領土を望むことはなかったであろうし、何の害も加えてこぬ民族を隷属させるようなことはしなかったであろうからな。
そこでこの弓をあの男に手渡し、次のようにいってやれ。エチオピア王はペルシア王に忠告する。ペルシア人がこれほどの大弓を、このように易々と引けるようになったら、その時こそわれらに優る大軍を率いてこのエチオピア長命族を攻めるがよい。しかしそれまではエチオピアの子らの心に自国領以外の国土を獲得する願望を起さしめ給わぬ神々に感謝するがよい、とな。」
エチオピア王はこういうと弓をゆるめ、これを来訪者たちにわたした。王はそれから紫の衣裳を手にとって、それは何か、またどうして作るのかと訊ねた。イクテュオパゴイ人が紫や染色についてありのままを答えると王は、ペルシア人は人間もいかさまだが、その身につけるものもいかさまだといった。
確かにヌビア人は弓の名手として古来より知られているが、弓を引かせるというストーリーは同じくヘロドトスが紹介してリウスキタイ起源説ヘラクレス編にも登場する。・・・なんか創作臭いな・・・。
紫の染め物については以下を参照ください↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30494692.html
王は次に頸輪と腕輪などの金製品について問うたので、イクテュオパゴイ人がそれらの装飾品について説明すると、王は笑い、それを枷と思っていたので、自分の国にはこんなものより頑丈な枷があるといった。
金より頑丈なものとは何か?金はもともと柔らかい金属なので、それよりも頑丈なものとして青銅や鉄の可能も考えられる。前回の記事ではメロエが、鉄の一大生産地であったことについて否定的な見解を紹介したのだが、やはり鉄の生産地であった可能性も捨てきれない。例えばこんな記述もある
ナパタ時代の後期,紀元前1千年紀中頃には鉄器生産が始まっていた可能性があるが,王宮においてさえ鍛も日常の道具もほとんどは石器であった(Kendall1996)。それに対して,メロエにおける鉄器生産は出土したスラグの量からみて,鉄原料ならば5000トン,鉄製品ならば2500トンにのぼると推定されているのである。これが約500年間の集積であるとしても,年間5トン以上の鉄製品が作られていたことになる(Rehren2001)。これだけの鉄を生産するには,燃料となる木炭が大量に必要となる。
http://www.janestudies.org/drupal-jp/sites/default/files/JANES_NL_J_no17(2008)_7.tsujimura.pdf
3番目に王は香油について質問したが、使者がその製法やそれを体に塗りつけることなどを話すと、王は衣裳についていったのと同じ言葉を繰り返した。
さて、話が酒のことに及びその製法を聞いた王は、大層気に入り、王は何を常食としているのか、またペルシア人は最大限どれほど生き延びるのかと訊ねた。使者は王がパンを常食としている旨を答えて、小麦がどのようなものかを説明し、ペルシアでは80年が最高寿命であるといった。
するとエチオピア王がいうには、糞便を常食していては寿命の短いのも驚くに当たらない。実際ペルシア人はこの飲物で元気をつけることがなかったら、それだけの寿命も保てまい、イクテュオパゴイ人にその酒を指し示しながらいった。さすがのエチオピア人も、酒の点でだけはペルシア人に兜を脱ぐというのである。
今度はイクテュオパゴイ人が王に向かって、エチオピア人の寿命や食事について質問すると、エチオピア人の多くはその寿命が120歳に達し、これを越えるものもあること、肉を煮て常食とし、飲物は乳であると王は答えた。スパイたちが寿命の話に驚いていると、王は一同をある泉に案内したが、この泉で水浴すると、さながら油の泉につかったように、肌が艶やかになった。
この泉は菫のような芳香を発していたという。スパイたちが語った話によれば、この泉の水は実に軽いので、水面にうけ部ことができるものは何一つなく、木も木より軽いものも浮かぶことができず、みな水底に沈むという。実際その話にあるような水がエチオピアに実在するとすれば、この水を常用しているエチオピア人が長命なのは、そこに起因しているかもしれない。
・・・“油の泉につかったように”って、水より軽いんだからやっぱり油か?スーダン地方は石油の産地でもある。いずれにせよ、メロエ王朝はローマから大衆浴場の文化を取り入れたようなことが書かれたあるが、水浴的な習慣はヌビアにすでにあったということなのだろう。
泉を離れると今度は牢獄へ案内されたが、ここでは囚人がみな黄金の枷を掛けられていた。このエチオピア人の国では、青銅が最も珍しく貴重なものなのである。牢獄見学の後、スパイたちはいわゆる「太陽の食膳」も見物した。
「太陽の食膳」を見学した後、最後に彼らが見たのはエチオピア人の棺で、これはヒュアロスという透明な石材を用いて、次のようにして製造されるという。エジプト式あるいはその他の方法で死骸を乾燥させた上、全身に石膏を塗り、その上からできるだけ本人の面影に似せて、その姿を描くのである。それから中をえぐったヒュアロス製の柱の中へ遺体をおさめる(ヒュアロスは細工し易い石材でこの国では多量に採掘される)。
遺体は石柱の中に収まっていても透きとおって見え、何らの悪臭も放たず、その他不快の種となるようなことを示すことも決してない。そしてその遺骸は、五体こごとく加工を施す前のままの姿で現わしている。この石柱は、使者に最も近い縁者が一年間自分の屋敷に置き、さまざまな動物を供え生贄をささげる。一年たつと家から運び出して、町の周囲に立てるのである。
カンビュセス 進撃と「カンビュセスの籤」
以上の視察を終えて、スパイたちは引き返していった。彼らから以上の報告をきいたカンビュセスは、大いに怒ってただちにエチオピアに向って兵を進めたのであるが、あらかじめ糧食の準備を命令することもせず、また自分が地の果てに兵を進めようとしていることを考えてもみなかった。カンビュセスはもともと気違いじみた性格で、冷静さを欠く人物であったので、イクテュオパゴイ人の報告をきくや否や、麾下のギリシア人部隊にはその場所で待機させ、全陸上部隊を率いて遠征の途に上ったのであった。
軍を進めてテバイに着くと、カンビュセスは遠征軍の中から5万を選抜し、アンモン人を征服してゼウスの託宣所を焼き払うことをこの部隊に指令し、自分は残りの部隊を率いてエチオピアへ向った。
しかし彼の軍隊が行程の5分の1も踏破せぬうちに、携帯の食糧はことごとく尽き、糧食についでは軍需品輸送用の動物も食い尽してしまった。この情況を知ったカンビュセスが、もしこの時自分の誤算に気付き、軍を返していたならば、最初の過失はともかくとして、彼は賢明であったといえるであろうが、彼はこの惨状を全く意に介さず、ひたすら先へ先へと進んだのであった。
兵士たちは地上に草の生えている限りは、これを食って生き延びたが、いよいよ砂漠地帯に入ると、彼らの内で戦慄すべき行為に出るものが現われた。すなわち十人一組で籤をひき、籤に当った者を一人ずつ食ったのである。カンビュセスもこのことを知ると、全軍が同胞相食む惨状に陥ることを恐れ、エチオピア遠征を中止して退却したが、テバイに着いたときには麾下の兵士多数を失っていた。
このヘロドトスが語るカンビュセスのクシュ遠征の顛末は、「ドラえもん」の藤子・F・不二夫が書いた異色の短編漫画「カンビュセスの籤(くじ)」にも登場する。藤子・F・不二夫の短編漫画を見ると、あらためて昔のマンガ家は凄いと思う。Wikiにはストーリーが掲載されているが、「食のタブー」もどこ吹く風、絶対読みたくなることうけあいだ。
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ただ、前回の記事でも触れたが、実際の歴史ではペルシア軍とクシュ軍の戦闘はあったようだ。これほど悲惨の結末という訳ではないのだが、ペルシア軍は撤退を余儀なくされた。
■王殺しとメロエの女王
クシュ王国メロエ王朝
メロエ王朝の誕生時期については、いろいろと議論が分かれている。政治的機能はすでにアスペルタの治世(紀元前6世紀初頭)からメロエに遷都されたようだが、宗教的機能は引き続きナイル川下流のナパタに残り、王もナパタに埋葬された。
一般的にメロエ王朝の初代王として知られているのはエルガメネス(Ergamenes:紀元前280年頃)だ。彼については、ギリシア人歴史家ディオドロス(紀元前100年頃)によって言及があるなど、当時他の古典文献に登場する数少ない王の一人である。ディオドロスによればメロエ王朝のエルガメネスはギリシア哲学者によって教育を受け、ヌビアの司祭を拒んだという。更に彼によれば、かつては慣習によって司祭が“王がいつ死ぬべきか”が決定していたが、王はこの命令を拒み、神殿に軍隊を送りこんで司祭を殺したという。
司祭が王の死ぬべき時を決定していたと言う話は興味深い。ジェームズ・フレイザー著の『金枝篇』を想起させ、再生を繰り返すアドニスのような植物信仰が根底にあるような気もする。ウィキの「王殺し」の記事を拝借すると
ヨーロッパでは、古代においては宗教的意味をもって王を殺害する習慣があったとする説がある。これは、王が本来人間の身でありながら、宇宙の秩序を司る存在として君臨していたことに由来し、そのための能力を失った王は殺害して新たな王を擁立して秩序を回復させる必要があると考える。
この逸話の信憑性については定かではないが、彼によって新しいヌビアの時代が幕を開けたのは確かである。メロエはそれ以前にもクシュ王国の首都であったことはあるが、エルガメネスはメロエにピラミッドを築き、そこに自身を埋葬させた最初の支配者であった。それまでは、前回の記事にも書いたが、それまで宗教的な中心地はナパタであり王の戴冠式や埋葬はすべてナパタでされていたのだった。
その後の王については、ほとんど知られておらず、ピラミッドからの碑文から名前を読み解くのが精一杯だ。おそらく紀元前220年頃の王であっただろうアルネハマニ(Arnekhamani)は、大きな神殿をハルツームから北東190kmほどいったal-Musawwaratas-sufraに築いている。それを見る限りは、エジプトの文化の影響は大きく後退したことが見てとれるようで、他方ギリシア文化の影響も受けながら独自のメロエ文化や芸術が花咲いていたことが分かる。そして、ここは新たな宗教センターになっていたことが、巡礼者が残したと思われる碑文などによって考えられる。
カンビュセス率いるペルシア軍の侵攻を防いだヌビアだが、考古学的証拠から、メロエ朝時代のクシュ王国がプトレマイオス朝エジプトに対して軍事侵攻を企て、下ヌビア地域あたりを占領したとも考えられている。アディハラマニ王(BC207–186)とアルカマニ王(BC200頃)にはアスワンの近くに神殿も建設しており、少なくともその周辺は当時ヌビアの占領下にあったことが伺える。また、そこにはアディハラマニ王の碑文も残っているのだが、それがヌビアの王についてヒエログリフで記された最後の文書である。
世界史における時代の中心はギリシアやローマに移行しつつあり、歴史の教科書ではほとんど言及されることはないのだが、エジプト南部においては、エジプトとヌビア勢力の攻防がいたるところで展開していたと考えられる。
記録されているメロエ朝王の記録の中でも、シャナダヘト(Shanakdakheto:BC170-BC125)は最初の女王である。メロエのピラミッド群の中でもひときわ大きなピラミッドが彼女のために建設され、チェペルにある2つの小部屋は芸術性の高いリリーフで装飾されていたと考えられ、南部への軍事遠征によって数多くの牛と奴隷を得たことが描かれている。自らを「ラーの息子」、「2つの国の支配者」という称号を持ち、ナショナル・ジオグラフィックスによれば、史上最も重要な女王50の中に入る要チェックの人物だ。ナカで発見された彼女の名前が書かれた碑文は、現存するものではメロエ文字で書かれた最古のものである。
彼女の治世の後、アマニレナス(Amanirenas:BC40-BC10)やアマニスハヘト(Amanishakheto:BC10-BC1)などメロエ王朝では度々女王が支配者となった(7人ぐらいだろうか?)。聖書の使徒行伝や地理学者ストラボが述べているエチオピアの女王カンダケは、どうもアマニトレ(Amanitore:BC1–AC20)であると考えられている。
メロエの都市と神々
メロエの都市は3つの構成要素があった。王宮や行政などの重要な建物を城壁で囲むようにつくられたロイヤルシティ、アメン神の複合神殿、そして一般市民が住む居住区だ。ロイヤルシティの王宮には所謂“ローマ風呂(公衆浴場)”があり、装飾などから古典ローマの影響がみられるとされる(温泉自体はもっと古くから普及していたと考えられる)。メロエのピラミッドと居住区の中間には太陽神殿がある。
メロエではナパタ時代、あるいはもっと以前から信仰されてきたアメン神がそのまま最高神として信仰されていた。角がある羊の姿で描かれたアメン神はケルマ時代の太陽神として機能をもっていたことが確認できている。野生羊姿のアメン神は、エジプトの軍事遠征によってヌビアを征服した時にエジプトにもたらされたと考えられている。いわばヌビア・オリジナルだ。メロエ語では「アマニ」と呼ばれ、アマニを名前に冠する王も多数出た(Tanwetamani、Senkamanisken、Anlamani、Arkamani、Amanitore、Amanishakheto、そしてNatakamanなど)。
さらに、アメン神は時代と場所によってその姿や添え名は変化したらしい、カワでは「南の獅子」という添え名がつき、かつてライオンの姿の神であったことも示していおり、メロエ朝時代には羊の他にもライオンの姿でも描かれている。またメロエ朝時代にはアメン神が太陽を司るのではなく、稀にだが「月の神」であったことを示す碑文も発見されている。また、第25王朝のピイを見ても分かるようにテーベのアメン神が彼の妻ムートや息子コンスなどと一緒に崇められていたこともある。
メロエ朝時代にはアメン神の他にも次のような神が信仰されていた。
アペデマク(Apedemak) 獅子神
この神も頭がライオンで身体が人間という姿で、弓と矢筒と一緒に描かれている。戦争と豊嬢の神であり破壊と創造の力をもつとされている。ナカにあるライオン神殿の裏の壁には、3つの頭と4つの人間の手をもつアペデマクが描かれており、インドの影響もみられというが・・・どうだろうか。
また彼は頭がライオン、上半身が人間、下半身が大蛇という姿でも描かれているとなると、ゾロアスター教やミトラス教のズルワーン、グノーシス主義のアイオーンと重なる。
アメセミ(Amesemi)女神
獅子神アペデマクの妻だが、人間の姿で描かれている。ライオン神殿の側面にイシス、ムト、ハトホル、サティスとともに描かれている。この4人の女神たちに思いつきで並んでいる訳でも、美人コンテストをしているわけでもない。この女神達にすべて共通して『ラーの目』と関係がある。これらエジプトの4女神に比べてヌビアの女性らしくぽっちゃりと描かれているアメセミも、おそらく太陽神ラーと関係があったに違いない。タブンね・・・。
アレンスヌフィス(Arensnuphis) プトレマイオス朝
彼の名アレンスヌフィスはギリシア語に由来するが、古エジプト語では「良き伴侶」を意味する「Iri-hemes-nefer」である。これは特にプトレマイオス時代の下ヌビアの神殿などでエジプトの神シューの添え名としても見受けられ、雌ライオンの顔をもつテフヌトの兄弟、もしくは夫として、伝説によればヌビアからエジプトに来たと考えられている。アレンスヌフィス自身は人間の姿で描かれているのだが、ごく稀に吠えるライオンとして描かれていることがある。
アスワン近郊にあるフィラエ神殿では、彼には「美しい狩人、プントの主人」という添え名がつけられている。さらに「大風」、「北風とした来た者」、「ヌビアから来た者」、「天の創造者」、「ラーの後継」などがある。ギリシア神話にてこのアレンスヌフィスに対応するのはアルテミスと言われている。
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ふむ。。。
エジプトの伝説にある「ヌビアに逃亡する雌ライオンの顔をした女神」の由来の手掛かりを得ようとしたのだが、今回は残念ながらえられなかった。少し気になるのは、メロエ朝の時代でも上下統一を象徴する王冠があちらこちらで登場する。ひょっとしたら僕たちはこの王冠をとんでもなく間違えて解釈してしまっているのではないだろうか・・・。
ところで、メロエ王朝の時代で注目されるのが彼らの交易についてだ。
海上交易への道
メロエ王国の時代には、発掘される遺物などからもギリシア商人との盛んな交易がされていたと考えられており、それがナイル川を経由するルートではなく、アフリカ東岸の紅海から輸出し、そしてギリシア人植民都市と交易していたと考えられている。更にはアラビア半島南部を経由して、インドとも接触しおり、ヒンドゥー文化もこの時期流入してきている。
前回、前々回とメロエの鉄産業について少し紹介したが、実際メロエが「アフリカのバーミンガム」と呼ばれるほど鉄鋼産業が盛んであったかは今後の調査を待たなければならないだろう。しかし、鉄以外にも金や宝石をはじめ、メロエ産のコットン繊維なども海上交易の商品として広範囲に取引されていたと考えられている。
交易をする際に重要なのは相手側とのコミュニケーションだが、所謂メロエ文字と言われる文字は、フェニキア文字の発展と同様に商業的展開の必要性から生まれたものだろう。
そして・・・、この文字だが、
その交易の特性を示すようにインドからの影響もあるようだ。
■メロエ文字とその他の古代文字
クシュ王国の中心が時代とともにケルマから南方のナガタに移り、そしてナガタからさらに南方のメロエに移るにつれ、文化的にエジプトから独立したクシュ王国は、独自の文化を開花させていった。その変化は、クシュ王国独自のメロエ文字誕生にもみることができるが、それは独立した発展をたどったのではなく、おそらく交易を通じてこれまで関係の薄かった他の文化圏との接触も大きな要因だったのではないだろうか。
前回、マーラーさんから「聖書アラビア起源説」との関連を聞かれたが、僕がヌビア地域にこだわるのは、まさに今日の記事で取り上げる「言語」と「文字」の問題やY染色体の分布図をみるとアラビア半島南西部とアフリカ東岸(ヌビアはもっと奥地だが)にはどうしても何らかの関係あるよう思えるからだ。
そして、インドとも・・・
ヌビア人が話したメロエ語
メロエ語とは、およそ紀元前1000年から紀元前750年の間にヌビア(現在のスーダン)で成立したクシュ人の王国で話されていた言語である。この「メロエ語」という名前はクシュ王国の中心地がメロエに遷都されはじめた紀元前6世紀頃を考えると、誤解を招きやすいのだが、すでに紀元前1000年頃にはヌビアでは日常会話として話されていた言語とされている。つまり、ヌビア語と呼んだ方が適切なのかもしれない。
記録としてはエジプトの文字ヒエログリフで編集され、紀元前800年頃の古代ヌビアの碑文はほぼ全てヒエログリフを用いて書かれているそうだ。しかしながら、ヌビアの人名研究などが進み、メロエ的な特徴をもつ名前や地名、そしてフレーズなどはエジプト新王朝時代から存在していたとも考えられている。
その一方で、「メロエ文字」の発展は遅れて興った。もともとクシュ人の王国の中心地はナパタであったが、紀元前300年頃に、現在のハルツームの北のメロエに中心地が公式に移された。当時エジプトに対する文化的な依存度が低下したが、同じ頃に独自の文字、メロエ文字による表記法が発展し、メロエ語が公的な記録に使用されだしたことからも、そのことが伺える。
奇妙なメロエ文字
メロエ文字は、クシュ王国メロエ王朝において少なくとも紀元前200年頃までメロエ語を書き記すのに使用されていた。またおそらく、後継者である諸ヌビア王国で古ヌビア語を記すのに使用された。メロエ文字は所謂「アブギダ」、「アブジャド」、「アルファベット」という文字体系の中で、セム系の文字である「アブジャド」とインド系(ブラーフミー)文字である「アブギダ」の性質を併せ持つような不思議な文字だ。
ちょっと訳が分からなくなると困るので整理しておこう。
音素文字は原則として1字が1音素(発音の最小単位)を表す文字で、最初に僕らが知っているアルファベットの体系を想像してもらってかまわないだろう。ただし、「a」や「e」のような母音や「h」や「s」のように子音をどのように体系に取り組んでいるかで3つのグループに分けることができる。
「アブジャド」はセム文字系であり、ヒエログリフを簡略化することによってつくりだされた原シナイ文字(紀元前1500年頃)の一派であったと言われている。しかし、原シナイ文字がアルファベット体系の中で最も古い文字かと言えばそうでもない。上エジプトで比較的ヌビアの影響も濃いテーベ周辺で原シナイ文字と近似のワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年頃)も発見されている。
楔形文字(シュメール文字)は紀元前2500年頃には1000文字あったとされるが、その後500年間の内に400文字に簡略された。その後も簡略化の努力は続けられた。こうしたプロセスの中で母音を捨てられ、フェニキア文字の誕生で覚えるべき字形が22までに減った。フェニキア文字は、まさに広く使用されるようになった最初のアブジャドであり、広範囲に海洋貿易を営む民によって生み出された言語といっていいだろう。
このプロセスはギリシア語のアルファベットを誕生させ、また広域で利用されたアブジャドのアラム語は、中東を経てインドまで到達し、そこで今度はブラーフミー文字を発展させた。ブラーフミー文字はアブギダである。このブラーフミー文字は子音の音価と暗黙に続く母音の音価を保持することで音節を表現する。この辺の分け方は正直良く分からないが、アブギダが紀元前6世紀頃インドで誕生したことはチェックしておきたい。
ひるがえって、ヌビア地域ではアブジェドでありながら、アブギダとしての性格をもつメロエ文字が誕生したわけだが、おそらくインドで生まれたアブギダが、インド洋の海洋交易路を経てアフリカ東岸に達し、エジプトとの国交がほぼ断絶していたヌビア地域の文字形成に影響を与えたのかもしれない。
また、同じようにアラビア半島南西部のサバ王国や、後のヒムヤル王国からアブジャドである南アラビア文字がエチオピアの紅海沿岸にもたらされ、ゲエズ文字となった。このゲエズ文字も当初はアブジャドであったにもかかわらず、西暦300年頃になるとインドのブラーフミー文字や隣のメロエ文字などの影響を受けてアブギダに変化し、これまで右から左に書かれた文章も、左から右へと書式を変更している。
ウィキペディアには次のように書いてある。
アブギダとそれ以外の音素文字体系との間の明瞭な線引きは難しい。歴史上中間的な文字はいくつも生まれている。たとえば古代ヌビアのメロエ文字は、随伴するaを示さない(ひとつの記号がmとmaの両方を表すなど)ため、ブラーフミー系文字のアブギダに似ている。しかし、他の母音は完全な字で示し、ダイアクリティカルマークや変形では示さない。したがってこの文字体系は、本質的にはアルファベットに近いがある母音を表記しないものであったと言えよう。
文字の分類はそもそも正しいのか?
世界最古の音素文字をめぐってはヒエログリフから派生したと考えられる「原シナイ文字(紀元前1500年)」であるとか、「ワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年)」であると言われている。それがフェニキア語の祖である原カナン語に発展したとあるのだが、若干の違和感を覚えずにいられない。
カナン人がフェニキア人の祖であったことは、おそらく間違いないと思われるのだが、この原カナン文字は、フェニキア文字と似ているようにはとても思えない。どうだろうか。ヒエログリフが原カナン文字の由来というのはその類似性から容易に想像できるのだが、そこからフェニキア文字への発展段階には、もう何段階かの発展過程がないと説明しにくいような気もする。
フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(母音を表す記号がない)である。つまり、子音を表現する文字のみから構成される文字体系で、実際にどう読んだかは分からない。このフェニキア文字からは最初に分岐したと考えられるのが、古ヘブライ文字で、おそらく「紀元前10世紀頃に話されていたと考えられるヘブライ語」を表現するのに使用されたと言われている。
一般的・・・といっても聖書を史実と受け止める場合、古ヘブライ語はイスラエルの滅亡やバビロンの捕囚などでフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字に取って代わられ、その後、再びアラム文字をベースとして現在のヘブライ語が出来たというのが・・・どうも怪しい。
疑惑の一つ目は; フェニキア文字と古ヘブライ語ってそっくり!
驚くほどに・・・と言うか、ほとんど違いがない・・・
・・・って言うか同じでしょ? これは・・・。
つまり、紀元前10世紀以前、モーセも苦手であったヘブライ語はすでに存在していなければならないわけで、当然十戒の石板もヘブライ文字ではなく、フェニキア文字と同じ「古ヘブライ語」でなければならない。これは聖書に都合の良い箇所は「古ヘブライ文字」であり、それ以外は「フェニキア文字」と呼んでいるような気がしてならない。
疑惑の2つ目は; アラム文字とヘブライ文字ってそっくり!
・・まぁ、イエスもアラム語を話したと言われているが無理もないが、バビロンの捕囚後、密かにヘブライ語を伝承してきたユダヤ人たちが再び「ヘブライ語」を復活させたというストーリーはどうも怪しい。
ウィキペディアには次のように書いてある。
帝国アラム文字の影響
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語・アラム文字(帝国アラム文字)は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残しているが、ヘブライ文字にもその直接の影響を与えている。アッシリアの北イスラエル王国の征服と新バビロニアによるユダ王国の征服、バビロニア捕囚、キュロス王による帰還政策とそれに続くペルシア帝国時代に、帝国治世下のセム系諸民族は軒並み帝国アラム文字の使用に移行したようである。バビロニア捕囚の後もイスラエル王国系の北南の地域では、一部それまでの古ヘブライ文字が使用されていたようだが、この時期からアラム文字によってヘブライ語を筆記するようになり、ヘブライ語自体も徐々に文語化し日常の口語はアラム語へと移行したのではないかと考えられている。
このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字(SquareHebrewscript)または単に「方形文字」と称する。
方形ヘブライ文字の展開
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書では、単語末に形状を変化させるkの(ך)カフ・ソフィート、mの(ם)メム・ソフィート、nの(ן)ヌン・ソフィート、pの(ף)ペー・ソフィート、ṣの(ץ)ツァディ・ソフィートが出現している。しかし、これは同じ時期のパルミラ文字などの他のアラム語資料でもまったく同様の形態変化を起こしているので、方形ヘブライ文字だけではなくこの時期の西部のアラム文字系全体の変化と連動した、同一の現象と考えるべきだろう。
死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が随所で見られる。また後代のラビたちもこれらの文字を「ヘブライ字(ketāb'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。
蛇足ではあるが、北イスラエル王国領であったサマリア地域でも同様に古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。
・・・
古ヘブライ語と近似している・・・と言うのは要するにフェニキア文字と近似している・・・と同義だ。サマリアは聖書にも登場する北イスラエルの首都であったので、無理やり古ヘブライ語としているようだが、フェニキア文字と呼んではいけないのだろうか?
ふむ。。。
だいぶ話がそれてしまったが、言語を中心としてぼんやりとしたエチオピアとインドの関係についてスポットをあてようと試みたのだが・・・・結局ぼんやりとしたままだ。
■再論:サバ王国
2012/11/9(金)午後8:54紅海沿岸の古代史歴史
さて、クシュの歴史を紀元前2世紀ぐらいまで概観してきたが、一旦時間の流れを紀元前8世紀あたりまで逆戻ししよう。まだ、クシュ王国がメロエに遷都する以前、王国の勢力圏からは外になるのか、それとも衛星都市的に発展していたのかは定かではないが、ダモト王国がエチオピア北部、現在のエリトリアに興隆した。
後のアクスム王国の基礎となるべき国なのだが、その歴史についてはあまりにも闇に包まれている。この王国の発展には紅海の対岸にあるサバ王国も少なからず絡んでいるといわれている。
まずは、ここで紅海を越え、アラビア半島の歴史について調べてみることにしよう。
東アフリカとアラビア半島の間に横たわる紅海は長さ2250km、幅最大355km 平均的な水深は538メートルある。一番狭い海峡であるバブ・エル・マンデブ海峡では、2つの陸地の間はわずか27キロであり、琵琶湖の最大幅が23キロであることを考えると、筏で渡ろうと思えば渡れる距離であろう。人類の移動ルートとしては、ナイル渓谷からシナイ半島を通ったという北東ルート説よりも、このバブ・エル・マンデブ海峡を渡ったという南東ルート説の方が有力である。
こちらのサイトより拝借 ↓
http://www.geocities.jp/ikoh12/kennkyuuno_to/012_2Ysennsyokutai_no_bunnpu_to_keiro.html
これはアラブ主著国連邦などで発掘された石器なども、この説を裏付けている。
人類の出アフリカは定説より早かった?
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110128001
(January28,2011)
初期現生人類の出アフリカ時期が定説より2万年早まるかもしれない。アラビア半島の太古の石器を発掘した研究者が発表した。
約13万年前、氷期の地球で温暖化が進行し、海水面が下がった。アラビア半島には航行可能な湖や河川も出現して、人類の水上移動が容易になったという。かつては乾いた砂漠だったアフリカ北部地域に中東への新たな移動ルートが生まれ、約20万年前に出現した初期人類に出アフリカのチャンスが訪れたと見られる。
アラブ首長国連邦の砂漠遺跡で発見された約12万年前の石器類も、新説の有力な証拠となる。
初期人類は約6万年前、ナイル渓谷や現在のエチオピア経由でアフリカを出たと考えられてきた。しかし太古の石器の発見により、現在のソマリアあたり、いわゆる“アフリカの角”から直接半島へ渡った可能性が出てきた。しかも、道具はアフリカ独特のデザインが施されているという。(中略)
気候データについては、洞窟の石筍(せきじゅん)から太古の湖や河川の気候記録を調査し、紅海の水位変動も調べたという。比較的温暖だった約13万年前は、アラビア半島で降水量が増加。人類は、出現した河川を船や筏(いかだ)で下っていた可能性がある。
イギリス、オックスフォード・ブルックス大学の自然地理学者エイドリアン・パーカー氏によると、この時期は紅海南部の水位が落ち込んでいたという。約4キロの航程でアラビア半島にたどり着けるため、人類にとっては海を渡る絶好の機会だったようだ。
ふむ。
かなり早い時期に人類はアラビア半島に定住していたと考えられる。
人類で最初の宗教は多神教だったのだろうか?
それとも・・一神教であたったのだろうか?
古代エジプトやメソポタミアでの信仰においても、なぜ、アフリカ東岸やアラビア半島南部にしか生息しない没薬や乳香が聖なるものとして見られ、オリエント世界の宗教で重宝されたのか
『聖書アラビア起源説』では、はっきりとアラビア半島のアッシール地方が『旧約聖書の舞台である』としているが、それが政治的なプロパガンタにせよ、方法論的な欠陥があるにせよ、このアラビア半島には『一神教の故郷』、あるいは『一神教の伝統』が育まれてきた何かがあると思われる。世界宗教たるイスラム教が辺境の地メッカで起こったのはそれなりの歴史的背景があるに違いないし、聖典であるクルアーン(コーラン)を単なる聖書の焼き直しとするのは明らかに間違えであろう。単純に考えると、現在ヘブライ語にもっとも近い言語はアラビア語であるから、ヘブライ語からアラビア語に翻訳する方が、より忠実に翻訳できると素人には考えられるのだが・・・。
アラビア半島南西部の歴史
アラブ系の伝統ではセム族出身のカターン(Qahtan、旧約聖書ではヨクタン)と、その息子達がアラビア半島南部の人々の祖になったと伝えられている。その内、1つのグループはヒムヤル、他のグループはカーラン(Kahlan)と呼ばれイエメン北部で遊牧を行っていた。
カーランの遊牧グループは、紀元前2500年頃にNajraと呼ばれるイエメンとサウジアラビアの境にある砂漠地帯に土手ダムをつくり、マアリブ地域に灌漑が整備したとされている。このカーラン族が後にサバ王国を建国したと考えられている。
このサバ王国が、旧約聖書に置いてソロモンを訪ねた伝説の王国シバであるとも言われている。
紅海沿岸の古代史を見る時に、おそらくアラビア半島に最初に登場するのはこのサバ王国で、おそらくその2~3百年早く紅海の対岸で興隆していたとされるダモト王国と何らかの関係はあったに違いない。また、サバ王国は、“王国”というよりは当初緩やかな部族連合に近い形で存在していて、旧約聖書で言われるところの「士師」達によって統制されていた社会であったかもしれない。
その後、まさに没薬や乳香の産地にカタバーン王国、アウサーン王国、ハドラマウト王国、そしてマーイン王国が誕生した。これらが紀元前8世紀頃に興隆したと言われている。ギリシアの天文・地理学者エラトステネス(紀元前276年~194年)は、セム族系の古代イエメン4部族としてマーイン人、シバ人、ハドラマウト人、カタバーン人を挙げている。
サバ王国の興隆については、実は以前述べている ↓
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30381907.html
サバ王国についての最古の記録は、ユーフラテス沿岸の町ハディーサで発見されたメモ書きのような碑文で、紀元前8世紀頃にシュフとマリの行政官がアブ・ケルマール付近でサバとタイマーから来たキャラバン隊を襲ったというものだ。
調べている内に以下のページにも同じ記録についてもっと詳細な事を紹介していたので以下に引用する。
http://saudinomad.karuizawa.ne.jp/Najran-2.html
「ユーフラテス川(駐留のスフ(Suhu)およびマリ(Mari)の知事によって駱駝の隊商が捕らえられた」と記述されている。
タイマーと古代シバから来た100名の人達を従えたこの隊商は200頭の駱駝から成り、羊毛、鉄、雪花石膏および青ムラサキ色に染めた羊毛を運んでいた。ところがこの隊商は通行料を支払わなかったので捕らえられた。雪花石膏を除けば、これらはアラビア半島南部の典型的な産物では無かった。
ホネガイの殻で染めた紫の羊毛はフェニキア人が扱う産物である。鉄はアラビア半島南部の輸出品としては知られていない。しかしながら、アナトリアおよびレヴァントに鉄の産地がある事は知られている。
「乳香の道の重要な中継地である古代シバ国およびタイマーの交易業者は彼等の香料をレヴァントでフェニキアの織物、鉄等と交換し、それからアッシリアで産するこれらの品の幾つかと交換する為に、東へ向かって旅をした」と言われている。
ルート的にはこんな感じだろうか?
イメージ4
また、以前の記事では遠隔交易を営む商人達に加え、国家間どうしの取引として、新アッシリアとサバ王国の間に朝貢関係が存在していたと書いた。
古代の記録として2人のシバ王国の王がアッシリア帝国(新アッシリア時代)に貢物をしていたとされるが、サバ王国側の王名表と照合すると、おそらく次の2人の王になる。
紀元前715年頃:
イタマール・ワタール1世(サバ王国側資料)=イタムラ王(アッシリア側資料)
紀元前685年頃:
カリビル・ワタール1世(サバ王国側資料)=カリビル王(アッシリア側)
どんな人物だったのか?
イタマール・ワタール1世
イタマール・ワタール1世については、イエメンのシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqahから発掘された碑文に言及がある。これは彼の後継者であるカリビル・ワタール1世の碑文なのだが、イタマール・ワタール1世の治世に戦争によって様々な土地を獲得したことが書かれている。
彼は、まずカタバーン王国の王ヴァラド・アム(Walad'Amm「月の神アムの息子」)を倒し、その勢いでカタバーン王国南西部地帯から、都市Timna、Radman,Ru'ayn、そしてYahiriなどの地方、そしてアウサーン王国の中心地であったWusrを征服したとある。、更にサバ王国の北方にある都市国家カミナフ(Kaminahu)の支配下にあったナシャン(Naschan)とマンヒヤト(Manhiyat)を開放(?)し、カミナフそのものも支配下においたと記録している。
カリビル・ワタール1世
カリビル・ワタール1世は、古代南アラビア半島史におけるサバ王国で、最も重要な王になる。彼の活動は特に前述のシルワー(Sirwah)にある月の神Almaqah神殿の碑文から読み取ることが出来る。比較的長いこの碑文は2つあり、考古学上の資料としては一方をRES3945、そして他方をRES3946と呼んでいる。RES3945では灌漑施設などの建設と軍事遠征についての報告であり、RES394もやはり建設事業と征服した土地などについての報告で、当時の南アラビア半島における政治情勢について分かる数少ない資料の内の一つである。
一方で、アッシリア側の資料がある。
ティグラト・ピレセル3世(在位:紀元前744年~紀元前727年)
タイマーからの朝貢を受け取ったとの記録がある。
サルゴン2世(紀元前721年から705年)
サルゴン2世が行った軍遠征のうち、紀元前716年にエジプト東部のシナイ半島にある都市アリシュに行軍し、軍事要塞を築いた時に、様々な貢物をシバ王国が贈ったという。つまりは『粉塵の様な形の黄金、宝石、象牙、黒檀の種、全ての種類の芳香物質、馬および駱駝をシバのイタマール・ワタール1世から受け取った』というものだ。
センナケリブ(在位:紀元前705年~紀元前681年)
このセンナケリブと言う呼び名は旧約聖書のヘブライ語記述をさらにギリシア語訳したものに由来する慣用表記で、実際はアッカド語における表記シン・アヘ・エリバ(Sinahheeriba)で、意味は「月の神シンが兄弟の代わりに我を与えた」というものである。
アッシュールに神殿を建てたのを記念した基礎の碑文にセンナケリブは『シバの王カリビルから贈られた宝石と素晴らしい香辛料を神殿の基礎の上にばらまいた』と書き記している。
紀元前5世紀のギリシアの歴史家ヘロドトスによると、エジプトに対して軍事遠征を行ったセンナケリブに対して「アラビアとアッシリアの王」と述べている。
また、バーレーンで発掘された最古の入植跡から、センナケリブがアラビア北東部を攻略し、バーレーンの島々を手中に収めたことを示唆しているそうだ(ウィキ)
アッシリアへの朝貢は円滑な交易を保証する為の交易税又は賄賂であったと考えられるが・・・
当時、アラビア半島西南部の地域は戦国時代・・・。
おそらく軍事同盟を背景としたものであったに違いない。
何があったのか?
オルタナティブを考えるブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31125022.html
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30381907.html
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31160930.html
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31116877.html
https://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/folder/1055170.html
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