2016年10月18日火曜日

エゼキエル書

エゼキエル書37章ー19節
投稿者:Legacy of Ashesの管理人
投稿日:2015年 1月23日(金)22時55分55秒  
http://www.logos-ministries.org/old_b/ezk37.html
エゼキエル書37章を開いてください。
私たちは36章においては、イスラエルの地が回復する預言を読みました。
それが、19世紀半ばから始まった祖国帰還運動、シオニズム運動によって、
ユダヤ人が大量移住したことによって一部、成就したことを読みました。
けれども、土地に人々が集まり、その地が豊かになり、町々が建て上げられることと、国が建てられることは違います。
ユダヤ人が再び来て、そこに住み始めること自体も奇跡ですが、
国を建てることは、帰還してきた人々自身も望んでいませんでした。
というか、信じられなかったのです。
けれども、初めにユダヤ人国家の構想を提示したテオドール・ヘルツルは、1897年9月3日の日記の中で、
既にユダヤ人国家の大本を築いたと書きました。
けれどもこうも記しています。
「こんなことを今、声高に言おうものなら、世間の物笑いになるだけだ。
だがおそらく5年たてば、いや50年たてば必ずだれもが分かってくれるはずだ。」
1897年の50年後、つまり1947年、その11月に国連がパレスチナをユダヤ人とアラブ人に分ける分割決議案を採択し、
国際的にユダヤ人国家が認知されたのです。そして1948年5月14日に独立宣言をしました。
当時の状況をよく表すものとして、1911年に初版で発行されたブリタニカ百科事典には、ヘブル語についてこう書いてあるそうです。
「古代ヘブライ語の正しい発音を取り戻す可能性は、中東にユダヤ人帝国が再び建てられる可能性と同じように、
程遠いものである。
(Possibility we can again recover correct pronunciation of ancient Hebrew is as remote as the possibility that Jewish empire will be ever again be established in the Middle East.)」1911年ですから、もうすでにユダヤ人がパレスチナの郷土に帰還して、ベン・ヤフーダを中心としてヘブル語も日常会話に復活させるべく運動を起こしていた時です。それでも、百科事典でさえもがまるで信じられないという説明を行なっているのです。
既にイスラエル国が存在する今、この国が再び出現することを全く信じられない人々を私たちは簡単に笑うことができます。
けれども状況は、人間的には絶対に不可能なものでした。
キリスト教会は、歴史的にイスラエルの地位を認めない神学を持っていました。
「神が教会を建ててくださった今、イスラエルの役割はなくなったのだ。」という立場を取っていました。
けれども、今から読む37章、あの有名な干からびた骨が肉を付けて、人間になり、霊まで与えられるという幻を、
そのまま受け入れるには、あまりにも非現実的で夢物語のような話だったのです。
だから、今現在、教会が建てられているのだから、実はイスラエルに対する神の約束は教会によって実現しているのだ、と解釈し、
教会神学の整合性を保とうとしたのです。
しかし、主はあえてその不可能なことを可能にされました。
このことを行なわれることによって、「あなたがたは、わたしが主(ヤハウェ)であることを知ろう。(13節)」と再び言われたのです。
全世界に、そしてイスラエル人自身に、ご自分だけが神であり、主であることを、
イスラエルの国を再建されることによって示す、というのがここ37章の内容です。
私たちは、信じることが試されます。
到底起こりようもないこと、目に見えるものは、すべてそれを否定することばかりがあるとき、
それでも神の言葉とその約束を信じきることができるかが、試されます。
私が大好きな映画の一つに「ナルニア国物語」があります。
第二弾の「カスピアン王子の角笛」には、すでに物語の一部になっていてはるか昔に滅んでしまったナルニア国が、
また復興する話が出てきます。
そしてナルニア国の救世主であるアスランという獅子が来ることは、だれも信じられない状況でした。
そこでたった一人、ルーシーのみが一途に信じていましたが、周りが誰も信じないので、彼女自身も何もできない状況でした。
これは、聖書の世界を描いています。
聖書に出てくる神の物語は、すでに終わったものとして見るほうが人間の理性として自然です。
イエス様が死に、よみがえり、天に昇られたけれども、その後、確かに力強い聖霊の働きを初代教会で見たけれども、
後は何も変わっていない。徴候は見られない・・・と考えたほうが自然です。
だから、聖霊の働きではなく、何十日間のプログラムで教会や個人を成長させようとする動きがあったり、
紀元70年のローマによるエルサレム破壊で、イエス・キリストは既に再臨されたという教えが今、流行っているのです。
でも徴候は全くないのではありません。
そしてその徴は少しずつ増えているのです。
これは私たちが信じることができるようにとしてくださっている、主の憐れみであると同時に、警告です。
私たちは、主が言われたことを信じきる必要があります。
キリスト者の仕事と言えば、信仰による義、つまり信じ切ることです。
他のすべてのものが過ぎ去ったとしても、神の言葉はその通りになるのだという確信を堅く心に抱いていることです。
1A 国の復興 1-14
1B 干からびた骨 1-10
1C 幻 1-6
37:1
主の御手が私の上にあり、主の霊によって、私は連れ出され、谷間の真中に置かれた。
そこには骨が満ちていた。37:2 主は私にその上をあちらこちらと行き巡らせた。
なんと、その谷間には非常に多くの骨があり、ひどく干からびていた。
37:3
主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」
私は答えた。「神、主よ。あなたがご存じです。」
37:4
主は私に仰せられた。
「これらの骨に預言して言え。干からびた骨よ。主のことばを聞け。
37:5
神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。37:6 わたしがおまえたちに筋をつけ、肉を生じさせ、皮膚でおおい、おまえたちの中に息を与え、おまえたちが生き返るとき、おまえたちはわたしが主であることを知ろう。」
エゼキエル書は、他の預言者に比べて、
目に見える形の預言が非常に多いです。彼が預言者として召される時、
天使ケルビムの鮮やかな姿を見たし、また彼自身がいろいろな実演をして、
これから起こることを預言したりしました。
今でいうなら大学の講義ではなく、小中学校の視聴覚室での授業と言ったところでしょう。
ここでも、ハリウッドのホーラー映画にも出てきそうな、
干からびた骨がくっつきあって、筋ができて、肉を持ち、そして生き返るという生々しい預言を受けています。
1節に、「主の御霊によって、私は連れ出され」とあります。
彼は、何度となく、神の御霊によって、半ば強引に引っ張り出される経験をしています。
例えば、捕囚の地であるバビロンのケバルにいたのに、髪のふさをつかまれて、エルサレムの神殿の中にまで連れて行かれました。
黙示録の使徒ヨハネもそうですね、御霊によって天にまで引き上げられました。
使徒行伝のピリポも、サマリヤからガザに行く道へ御霊によって瞬間移動しましたし、
時に主はこのような強い促しを与えられます。イエス様が空中にまで戻ってこられて、
教会が引き上げられる携挙も、その「引き上げる」のギリシヤ語では「強引につかんで連れて行く」という意味があります。
そして連れ出されたのが、谷間の真ん中です。
ゼカリヤ書1章で、幻を見せられたゼカリヤは、谷底にあるミルトスの木の間に赤い馬に乗っておられる主を見ています(8節)。
これは、エルサレムが諸外国によって倒れて、圧迫を受けている姿を表していました(12,15節)。
ですから、谷間はバビロン、そしてその後の諸国の狭間にいて倒れているイスラエルの姿を表していたのです。
「多くの骨」があり、そして「ひどく干からびていた」とエゼキエルは強調しています。
大勢のイスラエル人の姿がこうなっている、という意味です。
数多くのユダヤ人が生きる希望を失ってしまって、絶望している状態です。
先ほどお話した、また復興することなど不可能に見える、完全に死んでしまった状態です。
その状態を見せて、主はあえてエゼキエルに、「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」と尋ねられています。
不可能な状況をエゼキエルに意識させたいがゆえの、ご質問です。
もちろん無理です。
ラザロが死んで四日経っただけで、「主よ。もう臭くなっておりましょう。(ヨハネ11:39)」とマルタは言いました。
腐乱が始まっているどころか、ここでは骨だけになって、しかも干からびています。
そしてエゼキエルが、「神、主よ。あなたがご存知です。」と言って、
それから主は、「これらの骨に預言して言え。」と命じられています。
2C 預言 7-10
37:7
私は、命じられたように預言した。
私が預言していると、音がした。なんと、大きなとどろき。
すると、骨と骨とが互いにつながった。
37:8
私が見ていると、なんと、その上に筋がつき、肉が生じ、皮膚がその上をすっかりおおった。
しかし、その中に息はなかった。
37:9
そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。
神である主はこう仰せられる。
息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
37:10
私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中にはいった。
そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。
骨に対して預言をしました。
すると、とんでもないことが起こりました。
そして今度は、「息」に対して預言をしなさい、と言われました。
すると、四方から風が吹いてきて、それがその人々の体の命となりました。
興味深いことに、ヘブル語では「息」「風」そして「霊」は、みな同じ言葉「ルハ」が使われています。
ここに神のご性質とその働きが表れています。
主は、無いものを有るものとして語られることによって創造の働きをし、そしてその創造を神の御霊によって行なわれるのです。
イエス様は、「わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、いのちなのです。(ヨハネ6:63)」と言われました。
神の言葉は書物に書かれている文字ではありません。
字面ではありません。生きている命です。
そして神の霊は、そこら辺にふわふわしている雰囲気ではありません、
このように干からびた骨に肉体を持たせ、そして命まで与えることのできる力を持っておられます。
そしてここで、主は段階的に預言を与えられたことに注目してください。
初め、骨に対しての預言を与えられました。
それから息に対する預言を与えられました。
明確に、肉体だけのイスラエル人と神の御霊をもったイスラエル人とを区別しておられます。
この箇所を読んで、おそらく何人かの方は、創世記2章のアダムの創造を思い出されたのではないかと思います。
主なる神は、まず土の塵で人を形造られました。
肉体だけの人です。けれども、ご自分の息を鼻から吹き込まれました。
それで、初めて生きた人となったのです。
霊を持つ人となりました。
それと同じように、イスラエル国の復興もはっきりとした区別があります。
まず、物理的に国が復興すること。
それから霊的に復興すること。この二段階で実現するのです。
そして興味深いことに、最後に人々が「非常に多くの集団」となっていることです。
先の学び36章で、人々が例祭の時の羊の群れのように増えるという預言がありましたが、
これは単に人数が多いことだけを意味していません。
原語に則するならば「力ある集団」と訳したほうが良いでしょう。英語では”army”つまり「軍隊」と訳されています。
イスラエル人はただ多くなるだけでなく、強くなります。
出エジプト記1章で、エジプトにいたイスラエル人は、「おびただしくふえ、すこぶる強くなり(1:7)」とあります。
だからパロが脅威を覚えたのです。
そして、終わりの日のイスラエルは異邦人を自分たちに従える強い国になることを、イザヤが預言しています。
「まことに、主はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選び、彼らを自分たちの土地にいこわせる。在留異国人も彼らに連なり、
ヤコブの家に加わる。
国々の民は彼らを迎え、彼らの所に導き入れる。
イスラエルの家は主の土地でこの異国人を奴隷、女奴隷として所有し、
自分たちをとりこにした者をとりこにし、自分たちをしいたげた者を支配するようになる。(イザヤ14:1-2)」
イエス様が戻ってこられる直前、大患難の中においてもユダヤ人が力ある軍隊となって戦うことがゼカリヤ書10章で預言されています。
「万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる。この群れからかしら石が、
この群れから鉄のくいが、この群れからいくさ弓が、この群れからすべての指揮者が、ともどもに出て来る。
道ばたの泥を踏みつける勇士のようになって、彼らは戦場で戦う。主が彼らとともにおられるからだ。馬に乗る者どもは恥を見る。(ゼカリヤ10:3-5)」
後で、イスラエル・アラブ紛争史の概略を勉強したいと思いますが、
]独立戦争においてはイスラエル国防軍とアラブ連合軍が1対10ぐらいの比率で、
六日戦争でも同じような圧倒的な差異があったにも関わらず、イスラエルの大勝利で終わりました。
このように強い集団、軍団となると主は約束してくださいました。
2B 霊的覚醒 11-14
37:11 主は私に仰せられた。「人の子よ。
これらの骨はイスラエルの全家である。
ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。
ここにはっきりと、この幻の意味があります。
「これらの骨はイスラエルの全家」であるとあり、
個々人の復活のことではありません。
初代教会の教父から始まり、現代に至るまで多くのキリスト教の教師は、
ここを個人の体の復活の預言であると解釈しました。
けれども、体の復活についてはダニエル書12章2節にあります。
「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、
ある者はそしりと永遠の忌みに。(ダニエル12:2)」
こちらは文字通りの復活であり、イエス様が再臨される時に患難時代に殉教した聖徒たちの復活をもって、復活が完了します。
けれども、ここではイスラエル人たちが自分のことを「私たちの骨は干からびた」と言っているのです。
実際に生きている人々が自分たちに国としての望みが消えうせたことを、骨が干からびたと形容しているのです。
絶望状態に陥っている彼らの言葉を聞いて、主は、干からびた骨でも、多くの強い集団になるという、
とてつもない大きな希望を与えられたのです。
もしかしたら、この中で、自分の骨は干からび、望みは消えうせたという強い絶望感を抱いた方、
また今も抱いている方がおられるかもしれません。
イスラエルの神である主は、同じことをご自分を信じる者にしてくださいます。

ハムレットの水車小屋
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