2019年3月22日金曜日

[年表] 百済王修正年代

[年表] 百済王修正年代
半年一年暦から中国暦へ
日本古代は半年で1年と数える暦を用いていたようである。
朝鮮半島の百済及び新羅も半年一年暦を用いていたと思われる。
明らかに同世代とわかる
日本の神功皇后、
百済の近肖古王、
新羅の奈勿王
から7世代前が百済の始祖温祚、8世代前が新羅の始祖赫居世である。
日本の天皇と照合すると、
温祚が第6代孝安天皇、
赫居世が第5代孝昭天皇
と同世代となる。
三国史記では、温祚はBC18年、赫居世はBC58年即位となっている。
百済、新羅も半年一年暦を用いていたためにこのずれが生じたと考えられる。
新羅・百済の実態
しかし、新羅本紀の伝承に修正すべきところがみつかっている。
うみのさわら氏「邪馬台国と大和朝廷を推理する」より
第一の定点は、8代阿達羅(あたら)尼師今(にしきん)の20年の記事です。
そこには、倭の女王卑弥呼が使者を派遣して来訪させたとあります。
初めこの記事を信用して、年代修正をしました。
すると、16代訖解(きっかい)尼師今の310年から中国暦を採用したことになりました。
この場合、卑弥呼の記事を173年から242年に修正することになりました。
ところがこの修正にはあとで問題が発生しました。
第二の定点は、15代基臨(きりん)尼師今の3年の記事です。
そこには、楽浪・帯方の二国(二郡)が服属してきたとあります。
この記事が、二郡からの難民の流入を示すとすれば、314年以後のことと理解できます。
この記事に着目して年代修正すると、17代奈勿(なもち)尼師今の356年から中国暦を採用したことになりました。
この場合二郡からの難民の移住は328年のことになって、無理がありません。
しかし第一の定点では、難民の移住は305年になって、不自然です。
また、第二の定点による修正では、卑弥呼の記事は265年になります。
この年は魏が滅んで晋に変わった年で、女王台与が晋に朝貢した前年にあたります。
これは一見無理のようですが、卑弥呼を台与の誤りと見れば、問題がなくなります。
したがって二つの定点のうち、第二の定点が正しいと思われます。
 新羅の王家には三つの姓があります。初めは朴氏の王がいましたが、次に昔氏の王が現れました。
そして17代奈勿(なもち)尼師今からは金氏の王が続きます。この昔氏から金氏への変わり目が、
半年暦から中国暦への変わり目にもなっています。この年代修正によれば、新羅の建国は150年後半です。
新羅は地理的には中国から遠いのですが、準王や徐福の例もあるように、昔から中国方面からの移住者が多いところです。
「新羅本紀」の3代儒理尼師今の14年の条によれば、高句麗の3代大武神王が楽浪を滅ぼしたので、
その国人五千人が新羅に投降したと書かれています。紀年を修正すると、この年は197年になります。 

古代史の復元
http://www.geocities.jp/mb1527/N1-02-1nendaisuitei.html
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm










百済王修正年代
百済本紀 修正
即位 退位 在位 即位年 退位年 在位年
1 1 温 祚 -18 28 47 163.5 186.5 23
2 2 多 婁 28 77 50 186.5 211 24.5
3 3 己 婁 77 128 52 211 236.5 25.5
4 4 蓋 婁 128 166 39 236.5 255.5 19
5 5 肖 古 166 214 49 255.5 279.5 24
6 6 仇 首 214 234 21 279.5 289.5 10
7 7 沙 伴 234 234 1 289.5 289.5 0
8 5 古 爾 234 286 53 289.5 315.5 26
9 6 責 稽 286 298 13 315.5 321.5 6
10 7 汾 西 298 304 7 321.5 324.5 3
11 7 比 流 304 344 41 324.5 344.5 20
12 8 344 346 3 345 346 1
13 8 近肖古 346 375 30 346 375 29
14 9 近仇首 375 384 10 375 384 9

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