2016年12月28日水曜日

古代アステカ伝承

古代アステカ伝承
マヤの予言と一口に言っても、実は様々なものがある。
大きな範囲でマヤの予言を取り上げようとすると、マヤ地域、つまり現在のメキシコやグアテマラを中心とした地域に伝わる予言伝承や予言体系全般が関わってくる。厳密なマヤの予言というよりも、包括的な意味でマヤ以外の他の部族の予言も含まれることになる。
中央アメリカ地域全般の予言は、マヤ暦と類似した暦の体系や、それに基づく周期説が常に背後にある。マヤの暦他の部族も使っていたので、厳密にマヤだけを取り上げて境界線を引くことは難しく、またこれらの予言は相互に関連している。
マヤの人々やその他中央アメリカに生きる人々にとっては、少なくともスペイン人がやってくる16世紀までは、彼ら独自の暦と同時に予言もまた文化の一部であり、生活の一部であった。また毎日の生活を司る彼らの暦そのもの、そして多く残されている遺跡やピラミッド群が、暦の体系すなわち予言の体系をもとにして作られてると言っても良い。
この意味では彼らの予言は「預言」となっていたと言えるだろうし、また彼らの建造物は、マヤ文明が滅亡を自ら予言した事実を物語るかのように、今も無言の声で私たちに語りかけている。
彼ら古代のマヤ人やマヤと文化的に交流のあったその他の部族は、毎日を生きることで予言そのものを生きていた。
この事実を踏まえることが、マヤや他の中央アメリカの部族の予言の解釈において、重要な要素の一つであるように思う。
以下、中央アメリカの予言の中で最も代表的なものと思われるものを紹介しよう。
まず、予言の基盤となるものとして、次の伝承が挙げられる。
古代アステカの人々の間で伝承されてきた物語に、「5つの太陽の伝説」と呼ばれる神話がある。この伝説は、人類が創造された場所に関する記述や、過去に4つの太陽が滅び、どのようにして5番目の現在の太陽の時代がやってきたのかについて、述べられている。
メキシコシティの国立人類学博物館の代表的な展示物、アステカのカレンダーストーン(暦石)に記録された4つの太陽と5番目で中央の太陽の姿を思い浮かべられる読者もいるかもしれないが、まさにあの石の彫刻を裏付けるような物語である。
この伝承における太陽とは、単なる物理的な太陽魚さすだけではなく、特定の時代区分をさす。
太陽は地上に光をもたらす存在であり、俺は地上の生き物は、全て光によって物事を認識する。また、物理的な意味で地球は太陽の周りを公転しながら1年という時を刻んでいる。事実、私たち地球に住む者たちの時間は、太陽にもよってもたらされていると言っても良い。つまりすべての物事は太陽にその起源を持つのである。このような考え方は特にこの伝説をもたらしたトルテカ人やアステカ人に強く見られ、彼らは「五つの太陽」と呼んで、各々の時代を太陽に見立て語る。資料によって数値(年表)の表記が、表記の内容に様々なバリエーションがあるが、この伝説の内容の一例を次に見てみることにしよう。
第一の太陽は彼らの暦に基づいて、「4・虎」という名前が与えられている。この時代は676年間(52年×13)続いた。この太陽の人に住む者たちは「1・葦」の年、「4・虎」の日に虎に食われて、その太陽と世界は消滅した。
第二の太陽は「4・風」と呼ばれる。この太陽の下にあるもの全ては「1・火打石」の年、「4・風」の日に吹き飛ばされてしまい、人間は全て猿になってしまった。この太陽の時代は364年間(52年×7)続いた。
第三の太陽は「4・雨」と呼ばれ、312年間(52年×6)続いた。この世界は火の雨が降って滅びる。太陽は燃えあがり、家は焼けてしまった。「1・火打石」の年、「4・雨」の日の事であった。
第四の太陽は「4・水」と呼ばれ、676年間(52年×13)続いた。この世界は「1・家」の年、「4・水」の日に滅亡した。天が崩れ落ちるように水が落ち、52年間地上は水浸しになり、人間は魚になった。
このようにして4つの太陽の時代は過ぎ去った。「4・虎」、「4・風」、「4・雨」、「4・水」と呼ばれる太陽は、それぞれ「土」、「風」、「火」、「水」の太陽とも呼ばれ、自然の4大元素や4方向にも関連づけられている。そして、最後に中央の5番目の太陽の時代、すなわち今の時代がやってきた。
第五の太陽は、「4・動き」と呼ばれている。この太陽は最初は止まったまま動き始めることがなかったが、神々に死がもたらされることで、太陽は動き始める。それは「13・葦」の年、西暦で言うと751年のことだったと「クワティトラン年代記」には書かれている。
また西暦699年にあたる年から、この年までの52年間は、世界は活動やめており、動き出すことはなかったと記録されている。これらの伝説や記録を総合すると、私たちは西暦751年から、新しい「第五の太陽の時代」に入ったことになる。
事実、この 「クワティトラン年代記」によれば、翌年の西暦752年から、トルテカ帝国が始まった。
トルテカ帝国とは、この時期以降に中央アメリカ地域を席巻することになる部族の名前である。
マヤ暦は、2012年思って5000年以上に渡った大きな歴史の1サイクルが終わる。ここで興味深いのは、西暦752年から、この暦の終わりの時点である2012年まで、正確に1260年であることである。つまり、見方によっては、この時期から1260年間という、最後で第五番目の太陽サイクルに私たち人類は生きているのである。
また、そのまま伝説を継承した形でこの時代が滅びるとすれば、「4・動き」の日に、何らかの「動き」で滅びることになる。この「動き」は、アステカ人のサワトル語で「オリン」と呼ばれ、変化や地震、または飢餓を象徴するものである。
これらの伝説を読み解くにあたって、ポイントは二つある。一つはこれだの伝説が全てマヤの暦法の基本となる52年のカレンダーラウンド(還暦)一周として、その倍数によって構成されているということである。中国式の60年1サイクルの還暦というよりも、マヤやアステカの暦はむしろ52年サイクルをひとまとまりとしている。
マヤの予言はこの周期を基本としているが、中央アメリカ地域の予言を語るにあたっては、この52年1サイクルの周期が常に背景にあるのである。
-日本文芸社 予言の全て 1996年刊

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ヴォイニッチ手稿とは
ヴォイニッチ手稿は、一般的な説明を Wikipedia から抜粋しておきますと、次のようになります。
14世紀から16世紀頃に作られたと考えられている古文書。
全230ページからなり、未知の言語で書かれた文章と生物を思わせる様々な彩色された挿絵から構成されている。
文章に使用されている言語は、
単なるデタラメではなく言語学的解析に照らし合わせ、
何らかの言語として成立機能している傍証が得られているため、
一種の暗号であると考えられているが内容は不明。
ページの上部や左右にはかなり緻密な、植物や花の彩色画が描かれている。
植物の絵が多いが、それ以外にも、銀河や星雲に見える絵や、
精子のように見える絵、複雑な給水配管のような絵、
プールや浴槽に浸かった女性の絵などの不可解な挿し絵が多数描かれている
なお、書かれた年代に関しては、アリゾナ大学で行われた放射性炭素年代測定により、
ヴォイニッチ手稿に使用されている羊皮紙が「 1404年から 1438年に作られたと判明」したことが
 2011年2月11日の Discovery News で報じられました。
内容の執筆時期はさらに後年の可能性があるそうですが、
いずれにしても 1400年代のその頃から記述され始めたということは濃厚のようです。
Wikipedia の説明にある「文章に使用されている言語」は下のような表記です。
現在、下のサイトですべてのヴォイニッチ手稿のページが閲覧できます。
・Voynich Manuscript - Photo gallery
ヴォイニッチ手稿に関しては、過去に何時か記事にしたことがあります。
・『ヴォイニッチ手稿を解読した』という人物の登場
 2011年12月06日
・クロップサークルやエジプトの亡霊の話題などの続編と「年代が特定されたヴォイニッチ手稿」のことなど
 2011年02月14日
などです。

In Deep (旧)
http://oka-jp.seesaa.net/article/387784557.html



そして、このヴォイニッチ手稿は、多くの人が解読に挑んできた歴史があります。
The Most Mysterious Manuscript in the World には、これまで世界中の非常に多くの、言語学者、歴史学者、暗号学者、植物学者、
オカルティストたちなどが解読に挑んで、ことごく失敗してきた歴史などが書かれてあり、
そして、現在の科学界では、
「この手稿を解読しようと試みるものは皆、
人生の貴重な時間をまったく成果のない調査に費やすことになるであろう」
という結論への帰結を辿ろうとしているようです。
上記サイトには、中世において、ヴォイニッチ手稿は、
・植物学者たちは植物についてはナンセンスであるとした。
・天文学者たちは天体についてはナンセンスであるとした。
・占星術師たちは占星術的なものはナンセンスであるとした。
・製剤の専門家たちは薬草はナンセンスであるとした。
・暗号作成者たちは暗号はナンセンスであるとした。
・美術史家たちは絵の年代は特定できないとした。
・古書の研究家たちは書の年代は特定できないとした。
・そのスタイル、体裁、出版は知られているものと共通点はない。
とされましたが、
結局、これらは当時の「西洋の視点と知識からの見識」だけのものだったからこのような結論となったということがいえるかもしれません。
そして、植物学的にはかなり的確な指摘だと思われる今回の米国植物協議会の論文は、
ヴォイニッチ手稿が、メキシコのアステカ文明下での知識を示している可能性が高いということに迫るものなのです。
また、ヴォイニッチ手稿で使われている言語(表記ではなく文法)を解くポイントに関しても、
現在は消滅した言語である「古典ナワトル語」というものとの文法の関連性が指摘されていて、
どうやら、ヴォイニッチ手稿はヨーロッパの神秘主義との関連よりも、
メソアメリカ文明の「実生活」との関連を探ったほうが近いという可能性を感じます。
あくまで、非常に個人的な感覚としてのことですが、
ヴォイニッチ手稿は、アステカ文明の薬学か医学の知識が書かれている書物だという感じがします。

In Deep (旧)
http://oka-jp.seesaa.net/article/387784557.html


アステカ文明の歴史は Wikipedia によりますと、
・1428年頃から1521年までメキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家
とあり、また、上に書きましたように、ヴォイニッチ手稿は、放射性炭素年代測定からは、
・ 1404年から 1438年頃から編纂され始めた可能性が強い
となっていて、アステカ文明とのリンクは年代でも適合する部分もあります。

In Deep (旧)
http://oka-jp.seesaa.net/article/387784557.html













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